第130話

 東京都内某所。

 広大な敷地を持つ屋敷に、桐生凪は家族三人で訪れていた。


「いつ見ても広いわね……さすがヤクザ屋さん……」


 隣でそんな風に息を吐いたのは、凪の妻である桐生冴子だ。子供が生まれてからバッサリカットしてしまった黒髪は肩の辺りまで伸びていて、鋭い眦は眼鏡と目元の泣きぼくろで柔らかく見える。

 歳は凪の一つ上。学院時代の先輩。馬鹿みたいに必死なアプローチを何度も続けて、結婚した。

 そして、十六年後の運命を共にすると言ってくれた。この世界のどこを探しても二人といない、最高にいい女だ。


 その腕に抱かれてる息子の織はまだ二歳だ。言葉も少しずつ覚え始めてきた時期の可愛い盛り。


「しかし久しぶりだな、一徹さんのとこ来るのも。亡裏から女の子引き取ったって言ってたし」

「愛美ちゃんだっけ? たしか織と同じ歳よね。仲良くなれるといいけれど」

「なれるなれる、もうめっちゃ仲良くなる。俺と冴子くらいにな」


 それはもう本当にびっくりするくらい。仲良しなんて言葉では片付けられないレベルで。

 以前にそんな話を凪から聞いている冴子は、旦那の親バカっぷりに呆れるばかり。


「おうオメェら。もう来てたか」


 屋敷の門扉が開き、中から厳つい初老の男性が現れた。右目に刀傷が目立つ彼こそ、この屋敷の主、桐原組組長桐原一徹だ。


「久しぶりっす、一徹さん」

「ご無沙汰してます。その子が愛美ちゃんですか?」


 その一徹の右手は、小さな女の子の左手と繋がれている。


「自慢の一人娘だ。可愛いだろ」

「うちの織の次くらいには」


 はははうふふと笑い合う一徹と冴子。

 冴子だって人のことを言えないくらいに親バカだ。

 抱かれていた織を下せば、息子は愛美の方へ歩み寄っていく。にぱーと天使の笑顔で手を差し出した。握手を求めているのだろう。

 我が子ながらできた子だ。これから仲良くしましょうと、挨拶を欠かさないとは。


 対して、握手を求められた愛美の方は。

 一徹が手を離して背中を押してやり、織の前に出る。ジーっと織の手を見つめ、あろうことか、いきなり織へと襲い掛かった!

 渾身の右ストレートが顔に直撃して、息子大号泣。


「うわああああああ!!! パパァァァァ!!」

「あーよしよし、怖かったなー織」

「ちょっと一徹さん? うちの織になんてことしてくれてるのかしら? 教育がなってないんじゃないですか?」

「あ? なんだ、うちの愛美がやったことにケチつけるってか?」


 泣きついてきた織をあやしていると、一徹と冴子が視線だけで火花を散らしていた。このモンペどもめ……。

 一方で殴った本人である愛美はツーンとすました顔でそっぽを向いている。


「まあまあ、子供がやったことだし、親がムキになっても仕方ないだろ。ほら、紫音たちが待ってるからさっさとあっち向かおう」


 こういうのは俺のポジションじゃないんだけどなぁ……これだから親バカは……。


 凪の仲裁で二人とも矛を収めたのか、それぞれ子供の手を引いて屋敷の中、その庭へと向かう。


 塀に沿って屹立している中で、一際大きな木の前に立つ。一徹が短く詠唱すると、周囲の景色が一瞬にして変わった。


 大都会のど真ん中にいたはずが、どこまでも広がる緑の草原へと場所を移している。

 転移魔術ではない。そもそもここは、凪たちが暮らしている世界とも少し違う。


 位相の狭間。異世界同士を繋ぐ緩衝地帯。


 草原をしばらく歩けば、やがて小さな集落が見えて来る。そこが亡裏の里。亡裏の人々はこの狭間で暮らしているのだ。


「あ、きたきた」

「遅いぞ凪ー。どんだけ待たせるんだよ」


 その集落で待っていたのは、一組の夫婦だ。凪たちの仲間であり、同じキリの人間。十六年後へ向けての計画に賛同してくれた同志。

 黒霧紫音と黒霧朱莉。

 二人とも学院時代の同級生でもあるが、普通に学生の間に妊娠して結婚したとんでもない二人だ。

 まあ、魔術師の家系であればおかしな話でもないが。それが恋愛結婚じゃなかった場合は。


「悪い悪い。お前らのとこの子供は?」

「祖父さんに預けてきた」

「織くんも愛美ちゃんも大きくなったわねぇ。二人とも、わたしのこと覚えてる?」

「うちの愛美が可愛いのは分かるが、可愛がるのは後だ。ほれ、さっさといくぞ。亡裏のやつが待ちくたびれてるだろう」


 一徹に急かされ、四人は二人の子供も連れて集落の奥にある家に向かう。


 ここからだ。ここから始まる。

 十六年後、自分たちの子供に託すための、新しい未来を創るための計画が。



 ◆



 蒼がどこかへ行ってしまってから、五日が過ぎていた。

 その間全くの音沙汰なし。アリスは変わらず学院に行き、ルークや龍を始めとした友人との時間を過ごしていたけど。


 五日も連絡がないのだ。

 心配は尽きないし、もしかして帰って来ないのではと不安にもなってしまう。


 今日だって、朝起きてからまず、蒼の部屋へ確認に向かったけど。

 部屋の主はそこにいなくて、アリスの口からは重たいため息が漏れてしまう。


「ねーね、にーには?」


 朝食を食べ終えた後、食休みついでに栞の面倒を見ていると、そんなことまで言われる始末。

 ちょっと前までは姉と呼ばれる度にくすぐったさを感じていたのに、今ではそれ以上の罪悪感が込み上げる。


「蒼さんは、もう少ししたら帰ってきますから。絶対、絶対に……」


 自分に言い聞かせるように、絶対、と何度も口にする。


 こんなことなら、無理矢理にでもついて行けばよかった。本人がダメだと言おうが、ルークたちに止められようが。

 そしたら、少しでも力になれたかもしれないのに。


「信じて待つことも大切よ」


 頭上から声を掛けたのは、洗い物を終えた凛子だ。腰に手を当てていた母親代わりの彼女は、柔らかい笑顔でアリスの頭を撫でる。

 その撫で方が、蒼とよく似ていた。

 ゆっくり優しく、慈しむように。大切な宝物に触れるように。


 なぜか鼻の奥がツンとして、涙が滲みそうになる。滴を落とさないために首を上げ、凛子の顔を見つめ返した。


「凛子さんは、心配じゃないんですか?」

「そりゃ心配よ。あの子は強いし、親のわたしたちなんかよりも余程人生経験は豊富なんだろうけど、わたしたちの子供なんだもの。でもね、それでもわたしは、信じて待ち続けるの」

「それは、どうして……?」

「信じてくれる人がいる、待ってくれる人がいるっていうのは、その人にとって大きな力になるからよ」


 アリスにとってのその話は、眼から鱗だった。

 だって、わたしはいつも、違ったから。

 戦って、勝って、国に帰る。それが当たり前。誰かが待ってくれてるわけでも、信じてくれてるわけでもない。

 国王である父親からかけられるのは、いつも表面上だけの褒美の言葉のみ。謁見が終われば、陰口を叩かれる廊下を歩いて自室に帰る。


 もしかしたら、父も母も、心の中ではアリスのことを信じてくれているのかもしれないけれど。

 そんなの、言ってくれなきゃ分からない。

 きっとそうだとこちらが信じて、裏切られたらと思うと怖い。


「でもね。それはわたしが、あの子の親だから。待ってる人間の出来ることって、ただ待つだけ以外にもあると思うの」

「それ以外にも……」

「そう。アリスちゃんは多分、そっちの方が性に合ってるんじゃないかな」


 わたしは、どうしたい?


 このまま、ただ蒼さんを待つだけでいいのか? あの人がいつか帰って来ることを信じて、ここでジッとしてるだけで満足か?


 そんなわけがない。

 三人の転生者から、それぞれの過去を聞いた。

 全てが焼けて失った者。

 何者にもなれず、色んな自分になりたいと願った者。

 守りたかったはずのものを、何一つとして守れなかった者。


 蒼の話を聞いて、後悔の先にある未来を見てほしいと思った。過去に縛られてばかりじゃなくて、いつか暗い過去を払拭した先、そこにある未来のことを、もっと考えてほしいと。


 ルークと龍の話を聞いて、二人の関係性に憧れた。何度転生しても巡り会って結ばれる。いつも、どんな時でも互いが隣にいる。言葉では表せられない強固な繋がりが、素敵だと思った。


 だったら、わたしは。わたしが今、どうしたいかは。


 あの人の隣にいたい。

 身分も、住む世界も、何もかもが違うけど。

 いつかあの人が、未来へ辿り着いた時。わたしがあの人の隣に立っていたい。


「凛子さん、わたし、行ってきます」

「ええ、行ってらっしゃい」


 立ち上がって、玄関まで走る。靴を履いてから杖を取り出し、学院まで転移した。

 白い髪を靡かせながら、蒼たちのクラスの教室まで走る。勢いよく入った教室の中には、目的の人物が既に登校していた。


「アダムさん!」


 息を切らせたアリスに、教室内のクラスメイトが何事かとざわめく。怪訝な目で注目されるけれど、周りから視線を集めるなんて慣れっこだ。気にはならない。


「アリス? なんだ、どうかしたか?」

「わたしを、蒼さんのところに連れて行ってください!」


 黒い少年に詰め寄れば、眉間にシワが寄った。その反応が言葉以上に彼の気持ちを表している。

 だけどなりふり構っていられない。なんとしても、蒼の元に行きたいのだ。


「あの人がどこかで戦ってるなら、わたしはそれを支えたいんです! あの人の隣で、わたしが! だから連れて行ってください、あなたなら出来ますよね⁉︎」

「ダメだ」

「どうして!」

「あの馬鹿が望んでいない」

「それでも……! それでもわたしはっ!」

「どうどう、落ち着けよーアリス」


 脱力しきった声。聡美に背後から肩を叩かれ、アリスは自分がかなりヒートアップしていたことを自覚した。

 でも、だからってその熱を抑えられる気がしない。抑えるつもりもない。


 そうしたいと決めたのだ。自分の気持ちを知ったのだ。ならあとは、そこへ向けて一直線に突き進まないと。


「アダムの立場も理解してやれよー。こいつ、こんなでもあれの親友だからな。あっちの望みを優先するに決まってる」

「エルドラドがいつ攻めて来るか分からない状況なんだ。アリスは貴重な戦力、抜けられると困る」

「でも、蒼さんは五日も帰ってこないんですよ⁉︎」

「まだ短い方だな。信じて待て」

「出来ません!」


 大きな声に、アダムは目を丸くする。

 アリス・ニライカナイという少女は、彼が思っているような人間じゃない。ただ待っているだけのお姫様なんかじゃない。


 欲しいものは、自分で手に入れる。この足でそこに向かい、この手で掴み取るんだ。


「だったら、ボクに任せてくれよ」


 教室の入り口から声が聞こえ、振り返ればルークと龍がそこにいた。

 今登校してきたところなのだろう。カバンを肩に担いで、龍はこんな状況でもあくびを漏らしている。


「アリスの面倒はボクに任されてる。だったら、ボクがアリスをどこへ連れて行こうと、ボクの勝手だよね?」

「……好きにしろ」


 折れてくれたのか、あるいはアダムも蒼が心配だからか。ともあれ彼の親友からも許可が出たところで、アリスはルークと二人で学院の外に向かった。


「とりあえず、蒼がどこに向かったのかは説明しておこうか」

「危険な場所なんですか?」

「いや、普段はそうでもない。ただ状況によっては、この上なく危険だ」


 その危険な状況とやらに、蒼は陥っている。だから五日も帰ってこない。


「蒼が今いるのは、ミーミルの泉っていう場所だ。あいつはそこで、泉の水を飲もうとしてる」


 聞き覚えのある言葉。

 以前蒼に読ませてもらった、北欧の主神オーディンに関する文献で見た。


「オーディンが知恵を授かった泉……」

「知ってたか。なら話は早いね」

「オーディンとしてではなく、小鳥遊蒼として、泉から力を貰うってことですか」

「そういうこと。ただ、オーディンとしてだろうが蒼としてだろうが、二度目に変わりはない。あの泉は劇薬でね。たしかにとてつもない力を得ることができるけど、量を誤ればまずいことになる」

「その上で、一口でも飲めば代償を求められる……」


 かつてのオーディンは一口飲んだだけで、自らの片目を代償とした。

 なら今回、二度目は果たしてなにを差し出さなければならないのか。


 学院の外、富士の樹海に出た。ルークが西洋剣を手元に取り出す。


「ミーミルの泉は、こことは別の次元に存在している。この世界の歴史に淘汰されたものが、最後に行き着く終着点。概念的空間。許されたものしか出入りできない。つまり、一度中に入ればアリス一人では出てこれない。それでも、行くかい?」

「今更です」


 本当に、今更だ。

 そこがどのような場所だろうが関係ない。

 蒼さんがいるのなら、その隣がわたしの行きたい場所だから。


 ルークが、虚空へ向けて剣を振るった。

 空間断裂。その異能により、孔が開く。ここを通った先に、蒼がいる。


「いってらっしゃい、アリス。必ず蒼を連れて戻ってきたなよ」

「はい、行ってきます」


 強い想いを胸に抱き、孔の中へと足を踏み入れた。



 ◆



「行ったか」

「とんだお転婆お姫様だな。こりゃ蒼も大変だ」


 自分の開いた孔が閉じ、龍とアダムの二人が背後から声をかけてきた。

 振り返り、右手の剣を一閃。


 学院を囲むように、見えない壁のようなものが聳え立つ。

 ルークの異能によって、学院内の空間を隔離した。それを解かない限りは何人たりと中に侵入できない。


「聡美は?」

「中にいる。念のためな」

「じゃああとは、凪さんと魔女の二人だね」


 樹海の方へ向き直る。なにもないところを見つめていると、ひとりの少年が現れた。

 隠されていた膨大な魔力が解放されて、三人の肌にまでピリピリと伝わってくる。


 なるほど、こいつは強敵だ。


「旨そうな匂いがしよるから来てみれば、既に飯が並んでるじゃないか」


 浅黒い肌にボロボロのマント。蒼たちが遭遇した少年と特徴が一致する。

 すなわち、この少年こそ黒龍エルドラド。


「龍の巫女の匂いもしたはずだが、どこへやった?」

「残念、アリスはもうここにいないよ」


 思っていたよりも早かったが、好都合だ。あちらから姿を見せてくれた。

 なら、ここで殺す。


 白い炎を揺らめかせ、ルークは不敵に言ってのけた。


「ボクの友達には手を出させないぜ。異世界の龍神だかなんだか知らないけど、遊んでやるからかかって来なよ」



 ◆



 何日経った?


 術式を構成する片隅で、蒼はふとそんなことを思った。

 みんなには出来る限り早く帰ると言ったし、実際悠長にしている暇はない。でも、自分は一体、何日の間ここで戦い続けている?


「乱れてきていますね」

「くっ……」


 魔力の槍が飛来して、思考を強制的にシャットダウンした。

 視界がクリアになる。迫り来る槍を魔力弾で迎撃して、術者であるミーミルの背後に転移した。


 手に持つ主神の槍を振るう。防護壁に阻まれるが、その状態から左右に魔法陣を展開。鎖を射出した。

 ゼロ距離から放たれた魔術はしかし、ミーミルに届く前に光の粒子へと霧散する。


 術式がほどかれた。先程からこの繰り返しだ。蒼の魔術はその悉くが分解され、ただの一つも届かない。


 不可視の衝撃に弾かれ後方へ吹き飛ぶ蒼に、魔力剣が襲い掛かる。咄嗟に防護壁を展開しようとしたが、間に合わない。


「かふっ」


 口から息とともに血が吐き出された。剣は深く腹に刺さり、地面に膝をついてしまう。


「五日です。あなたがここに来られてから、五日が経過しました。もういいでしょう。立ち去りなさい」

「断る……」


 泉の水。そこから得られる力は必要だ。

 自分の力が足りないとは思わない。仲間たちを信用していないわけではない。

 それでも、エルドラドを相手にするなら、より大きな力がいる。


 腹に刺さった剣を乱暴に抜けば、そこから夥しい量の血が漏れた。傷口には蒼炎が揺れ、すぐに塞がる。

 転生者に与えられた再生能力だが、これも無限に続くわけじゃない。さっさとそこの老人をどかして、水を飲まないと。


 蒼炎を使えればいいが、そうしてしまうとミーミルを殺すことになる。

 蒼の目的はそこじゃない。ここまでボロボロにされたが、彼は恩人だ。かつての伯父でもある。殺すわけにはいかない。


 だから、頼れるのは己の魔術だけ。

 グングニルの穂先にルーンを描いて槍を構え直し、再び地を駆けようとした、その時。


「蒼さんっ!」


 聞こえるはずのない声が、背中にかけられた。ついに幻聴でも聞こえるようになったのかと思ったが、違う。


 振り返った先には、アリスがいる。

 空間には亀裂のような孔が。あれはルークの異能によるものだろう。

 内心で舌打ちをひとつ。頼む相手を間違えたか。


「なんで来ちゃったんだよ……」

「迎えにきたんです!」

「すぐに帰るって言っただろう」

「どこがすぐですか! 五日ですよ⁉︎ 心配するに決まってるじゃないですか!」

「ははっ、嬉しいことを言ってくれるね」


 肩の力が抜けた。戦闘で加熱していた頭が一気に冷えて、気を抜けば戦意すら消えてしまいそう。

 アリスが来てくれただけなのに。


 けれど巻き込むわけにはいかない。これは蒼の戦いで、アリスは関係ないのだから。

 下がってるように言おうとして、しかし。少女の様子がおかしいことに気づいた。


「アリス?」


 聞いても返事はなく、無言で蒼の前に出る。右手には長杖を持ち、彼女の魔力は今までの比じゃないほどに昂っていた。


「これはまた、可愛らしいお嬢さんだ。今の奥方ですかな?」

「まさか、そんなんじゃないよ」

「ふむ。ではお嬢さん、あなたはなにをしにここへ?」

「この人の、小鳥遊蒼の隣に立つために。そのためだけに、ここへ来ました」


 魔力が蠢き、風となって吹き荒れる。

 その発言にも驚いたけど、それよりも。

 アリスの髪が、変色する。

 雪のような白から、透き通るような水色へ。


 冷気が撒き散らされる。周囲の気温はアリスを中心として瞬く間に下がっていき、彼女が立っている辺りの地面は凍りついていた。


「信じて待つだなんて、わたしには出来ない。だからわたしは、この人の隣に立って支えたい。この人の力になりたい。いつか蒼さんが、未来を見れるように!」


 魔力が杖先に収束する。

 吐く息が白くなる氷点下の中で、少女は高らかに言葉を紡いだ。


「ドラゴニック・オーバーロード!」


 視界が光に包まれる。

 思わず目を瞑って、次に瞼を開いた時には、目の前に巨大なドラゴンが立っていた。


 しなやかな四肢を地につけ大きな翼を広げる、冷気を纏った白く美しいドラゴン。

 誰になにを言われなくとも、理解できる。

 眠っていたはずの龍神の力が、解き放たれたのだ。


「これはまた、凄い力ですな……」


 ミーミルの漏らした感嘆の声も耳に入ってこない。全ての音が消えて、ただ、白い龍へ視線を注ぐことしかできなかった。


 目の前に立つ美しいドラゴンに、蒼は目を奪われていた。


 次の瞬間にはドラゴンが甲高い声を上げ、蒼はハッと我に帰る。

 この姿が龍神ニライカナイのものだとしたら。水を、流れるものを司ると彼女は言っていた。


「アリス! 泉の水を!」

「させませんよ!」


 アリスがなにかをする前に、ミーミルが魔力砲撃を放つ。今日一番の魔力、つまり彼の全力だ。蒼を相手にしても温存していたということだろう。


 だがそんな砲撃も、ドラゴンが一瞥しただけで凍りつく。

 砲撃の光も、魔法陣も、術式も、全てが。


 あまりにも絶対的な力を前に、ミーミルはおろか蒼ですら絶句してしまった。

 いや、呆気に取られている場合じゃない。ここが最大のチャンスだ。


流星一迅ミーティア !」

「しまった!」


 後悔の声が発せられた時には遅く、蒼は泉へと勢いよく飛び込んだ。


 それは自殺行為に等しい。

 水を飲んだ時の代償は、泉の底へ沈める。

 オーディンの時は片目だけだった。でも今は、全身を泉の底へ沈めている。


 音がなにひとつない水の世界。

 泳いでいる魚は一匹もおらず、光すら届かないその世界で。

 蒼の体に異変が起きた。


「ゴボッ……!」


 つい息を吐き出して水を飲み込んでしまう。このままでは溺れ死ぬだろうけど、それよりも。体の中で、魔力が暴れ狂っている。

 泉の魔力が体内に循環して、拒絶反応が起きているのだ。


 踠き苦しむ中、青一色の世界に赤色が差し込んだ。何事かと理解するよりも前に、左目が弾け飛ぶ。

 痛みはない。魔力の拒絶反応による苦しみが勝ったから。

 だが、このままでは全身が左目と同じ末路を辿るのも、時間の問題だろう。


 この際だ、体はくれてやる。でも、死ぬわけにはいかない。力が必要だ。もはや人の身なんぞに拘泥しない。

 どんな姿だろうと、それでも。

 戻らないといけないんだ。

 あの子が、隣に立つと言ってくれたから。後悔を果たした先にある未来を、あの子と見てみたいから。


 だからっ! この泉の力、全部寄越せ!



 ◆



 人の姿へと戻ったアリスは、泉の近くまで急いで駆け寄った。


 今まで使えなかった龍神の力が使えた。この身に宿した龍神は、たしかに眠りから覚めた。

 そこは今どうでもいい。


 そんなことより、泉に飛び込んだ蒼が心配だ。

 だってこの泉は、一口飲んだだけで片目を代償に差し出さなければならないのだから。

 飛び込んで全身を沈めた蒼が、ただで済むわけがない。


「蒼さん……!」

「おやめなさい」


 自らも飛び込もうとしたアリスを、泉の番人にして所持者たる男が制した。


「お嬢さん、あなたは異世界からやってきましたな?」

「そんなこと今はどうでもいいです! 蒼さんを連れ戻さないと!」

「いや、どうでもいいなんてことはありませぬ。彼が戻ってこれるかは、あなたに懸かっているのですから」

「それは……」

「魔力を流しなさい」


 男の一言で、アリスは全てを察した。

 ニライカナイは水を司る龍神だ。転じて、流れるもの全てを操ることができる。アリス自身の特性が影響して、オーバーロードでは氷の龍へと変化しているが、その力が使えないわけではないのだ。


 それはミーミルの泉とて例外ではない。

 この泉が水という概念を持つ限り、アリスの力は十分に発揮される。


 だから、こちらから制御してやればいい。蒼の体に流れ込む膨大な魔力の奔流を、彼がその身に収められるように。


「……わかりました、やってみます!」


 泉に手を浸からせ、魔力を流す。

 変化は、目に見えて訪れた。


 制御しようと思っていた泉の魔力が、中心で渦を巻く。アリスの魔力は受け付けているが、それでもこちらで制御できない。

 まるで水が魔力ごとどこかへ吸い寄せられているような。


 確証はなにもないのに、大丈夫だと思えた。

 だからアリスは、魔力を送り続ける。

 渦は大きく広がり、泉の水位は見る見るうちに下がっていく。


 やがて呆気なく、泉は完全に消えてしまった。地面には大きなくぼみができ、世界樹の根が顕になっている。


 その中心で。

 ひとりの男が、立っていた。


「蒼さんっ!」

「おっと」


 迷わず転移し、勢いそのままに抱きついた。眦から落ちる涙は我慢できず、その存在を確かめるように、ギュッと強く抱きしめる。


「バカっ! どれだけ心配させるんですか!」

「いや悪い悪い。つい体が動いちゃってさ」

「ついじゃないですよバカ! もしもわたしがいなかったらどうするつもりだったんですか! そのまま死んでたかもしれないんですよ⁉︎」

「でも、君は僕の隣にいてくれた」


 その言葉に顔を上げて、気付く。

 左目は閉じられていて、完全に失われていた。それだけじゃない。蒼の体が、おかしい。目に見えてというわけではない。この人はたしかにここにいる。ちゃんと触れることができる。


 でも、なにかが違う。決定的に。


「泉の水を取り込んだせいかな。体が概念的なものに昇華されたんだ。ただの人間、ってわけにはいかなくなったけど」


 魔術という概念。

 それそのものに、蒼の存在は昇華された。

 泉の水によるものだけではない。アリスの魔力も同時に取り込んだ蒼は、位相にも似た力を帯びることとなってしまった。


 それは、自分のせいだ。わたしの魔力を取り込んでしまったから。だからこの人は、もう人間でいられなくなってしまった。


 そう思うと余計に涙は溢れてきて、蒼の顔もちゃんと見れないほど視界が滲む。


「それでも、こうして生きてる。君が来てくれたお陰で。君が、僕の隣に立ってくれていたお陰で」


 その言葉ひとつで、湧き上がっていた罪悪感は全部消えた。

 この人が生きていることが、この人の力になれたことが嬉しくて。

 目の前で微笑むその顔が、どうしようもなく愛おしくて。


「蒼さんの、ばか」


 滲む視界のまま感情に身を任せ、彼の唇に自分のそれを重ねた。

 生きている証を、その熱を感じたいから、強く強く押し付ける。


 何秒そうしていたのかも分からなくて、やがて顔を離してみれば、蒼の頬は真っ赤に染まっていた。


「いきなりは反則だろ……」

「知りませんっ、全部あなたのせいです」


 唇を尖らせて言えば、仕返しとばかりに額に小さくキスを落とされた。

 くすぐったいほどに小さな触れ合いは、逆に羞恥心を煽られる。頬の色を戻した蒼は、そんなアリスを見て余裕そうな笑みをひとつ。さっきまで真っ赤だったくせに。


 なにか文句を言ってやろうかと考えていると、アリスを抱き寄せた蒼が急に転移した。泉のあったくぼみの上、ミーミルが待っていた元の場所へ戻る。

 詠唱も、魔法陣の展開もない。プロセスを全て無視した魔術行使は、それだけで蒼が違うのだと実感させられた。


「迷惑かけたね、ミーミル」

「全くです。まさかそのようなお姿になるとは思いもしませんでしたが……」

「怪我の功名ってやつさ。これなら、エルドラド相手にも十分戦える」

「しかし、左目を失ったのは痛いですな。その死角は十分な弱点になりますぞ」

「問題ないさ」


 視界が半分失われたのだ。実力者同士の戦いにおいては、ただそれだけでも大きすぎるハンデとなる。


 けれど蒼は、そんなもの構わないと言ってのける。ミーミルが視線で真意を問えば、優しい笑みがアリスに向けられた。


「だって、この子が隣にいてくれるからね」


 言葉に込められた愛情が、剥き出しのままぶつけられる。カーッと顔が熱くなって、蒼の方を見れない。


 いや、ていうか。冷静になってみるとさっきはとんでもないことをしてしまった気が……どうしてあんな、感情のままに動いてしまったのか……初めてだったのに……。


 と、いつまでも内心で悶えてるわけにはいかない。

 きっと向こうでは、みんなが二人のことを心配してるだろうから。


「蒼さん、そろそろ」

「ん、そうだね。じゃあミーミル、気が向いたらまた来る」

「面倒ごとは持ち込まないようお願いします」


 泉を失った番人の苦笑を受け、二人は学院へと帰った。

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