第109話

「この子たち、どうしましょうか」

「さすがに数が多すぎるな……学院本部に掛け合うしかないか」


 朱音と緋桜の立つ地下施設には、五体のゴーレムが無残にも斬り裂かれ、原型を留めずに転がっていた。

 全て朱音の仕業だ。銀炎で赤子たちを守りながら、銃弾の雨を掻い潜り、瞬く間に壊滅させてしまった。


 さすがは愛美の娘。今まで何度も殺人姫と共闘してきたが、まさしくその影を彷彿とさせる戦いっぷりだ。緋桜はまるで出る幕がなかった。


 さて、残る問題はこの赤子たちと、今は地上で戦ってる妹に、灰色の少女。

 葵のことはなにも心配いらない。蓮とカゲロウもついているし、なによりあの子は強いから。


 ならば緋桜が注視すべきは、やはりこの赤子たちだ。学院本部に掛け合うとは言ったものの、いまいち信用ならないところがある。

 その前に、人類最強の男に相談した方がいいだろうか。


「その子たちを連れて行くのは、よしてもらいたいな」


 声が、響いた。

 真っ白なタイルに覆われた空間で反響し、耳にスルリと入り込んでくる不思議な声。緋桜が、一度だけ聞いたことのある声だ。

 まさかと思い振り向いた先。この場にいるはずのない人間が、立っていた。


「やあ。久しぶりだね、黒霧緋桜」

「ミハイル・ノーレッジ……!」

「あいつが、ネザーの代表ですか」


 いっそ不気味なほどに穏やかな微笑を携えた、ブラウンの髪と碧眼、両耳に見覚えのあるイヤリングをした男性。

 異能研究機関代表、ミハイル・ノーレッジ。


 緋桜はこれで二度目の邂逅だ。グレイですら、まだこいつには太刀打ちできないと言ってしまう相手。

 その底知れなさを朱音も感じ取ったのか、短剣を構えてジッとミハイルを睨め付けている。


「君がルーサー、桐生朱音だね。ようやく会えて光栄だよ」

「それはこちらのセリフですが。あなたには聞きたいことがありましたので」

「ああ、なんでも答えてあげよう。私は、全てを知っているからね」


 両手を大きく広げたミハイルの、その笑顔が突然曇った。

 相手は全くの未知。その一挙手一投足に注目する二人は、警戒を強める。しかし、ネザーの代表たる男から漏れたのは、思いもよらぬ言葉で。


「と、本来なら言いたいところなのだけど。なにぶん君の存在は、この時代においてイレギュラーだ。私の異能を持ってしても、君に纏わる知識は得られない」

「なにを言って──」

「全知。それが私の異能だよ。この世に起こったこと、今起きていること、今後起こること、全てを知っているんだ」


 驚愕に目を見開く二人にもくれず、ミハイルは言葉を続ける。ただ説明するだけ。理解を得ようと思っていない、自己を顕示するためだけに。


「ルーサー。私は、君がいた時代のことも知っている。けれど、君がこの時代に来たことによって、未来がより不確定なものになってしまってね。今から六年後より先の知識が、得られなくなったんだ」


 六年後と言えば、丁度朱音が生まれるはずのタイミングだ。それより先の未来が、見えなくなった。

 つまり、朱音が今まで繰り返して来た未来とは、確実に変わっているということだ。

 確定してしまっていたはずの未来が、揺らぎを見せている。


「なるほど、それはいいことですね。この時代に遡って来た甲斐がありましたが。しかし、ここで更にあなたを倒せば、より確実なものになるのでは?」

「それは無理だよ。言っただろう? 私は全てを知っている。君たちが、私を殺せないことも含めて、だ」

「やってみないと分かりませんが」


 勢いよく地を蹴り、朱音は瞬く間にミハイルへ肉薄する。先手を取った。彼女の使う体術ならば、ただそれだけが必殺の条件になる。

 朱音が短剣を振りかぶったその時、なぜか、華奢な体が勢いよく弾き飛ばされた。


 なにかしらの攻撃を受けたのか。緋色の桜を展開して朱音の体を受け止め、緋桜はミハイルを観察する。


「大丈夫か?」

「ええ、この程度なら。攻撃を受けたというより、体が勝手にあいつから遠ざかったような、そんな感じでした」

「まあ、十中八九あのイヤリングだろうな」


 異能を封じ込めた、異能研究機関の魔導具。これまで何度か目撃してきたが、ミハイルの持つものは特別、ということなのか。


「……磁力、いや斥力か?」

「もう一度試せば早いですが」


 ふう、と。隣の少女が息を一つ吐いた。

 着ている学院の制服の裾が、銀の炎で燃えている。いや、服だけじゃない。指先や眦にまで、銀炎は及んでいた。


時界制御アクセルトリガー銀閃永火バックドラフト


 橙色の瞳で敵を睨む朱音が、ホルスターから抜いた銃に銀の炎を纏わせる。躊躇わず二回、引き金を引いた。

 しかし銃弾は出ない。ふむ、と呑気にも顎に手を当てるミハイルの、背後。

 緋桜には全く視認出来ないうちに、銀炎を揺らめかせた少女がそこにいた。


「時間に干渉できるのが、自分だけとは思わない方がいい」

「なっ……⁉︎」


 右手を背後から迫った朱音へ、左手を虚空へ伸ばすミハイル。朱音の動きは止まり、短剣はやつへ触れることなく、その直前で停止している。そしてやつの左手の中には、二発の銃弾が握られていた。


 先程朱音が発砲したものだ。銃弾が見えなかったのではない。数秒先の未来を撃ったのだ。しかしそれも、もう一つのイヤリングに封入された異能によって防がれてしまった。


 ニヤリと、敗北者の少女は口元を歪める。


「望み通りの未来ですよ」


 勝ちを確信したような呟きを漏らしたと同時。ミハイルの全身に、剣閃が迸る。


 容赦なく八つ裂き。

 四肢が、臓物が、頭蓋が、鮮血を撒き散らしながらバラバラに切断された。

 返り血を浴びる朱音は、しかし納得のいかない表情をしている。


「殺した、のか……?」

「いえ、逃げられました」


 苦い表情で答えるのを見るに、先程の技はかなり自信があったようだ。

 落ち着いて考えてみれば、緋桜にも理解できる範疇の技。概念強化を未来視と切断能力、そして銀炎に施していた。自分の持つ異能という概念に作用させていたのだ。


 未来視によって引き寄せた未来に、切断能力による斬撃を置いた。

 一連の攻防は全て朱音が視た通りの未来であり、後は斬撃を放った未来へと誘導するだけ。その結末から逃れようとしても、先に撃った銃弾と、目の前の朱音に対処しなければならない。

 相手の持つ時間をギリギリまで追い詰めて、逃げ場をなくす。


「時界、速度の異なる時間流とか、止まった時の中とか、この炎で干渉できる全部を含めて私はそう呼んでるのですが。あいつの時界の殆ど全てを斬ったので、恐らくは別の時間軸に移動したんだと思います」

「並行世界、ってことか。厄介なとこに逃げ込んだな」

「そうでもありませんが。人間の魂で移動できるとなると、近い時間軸のはずですので。どうせその内、ここと合流することになりますから。またすぐ現れますよ」


 あるいは、この結末すらも。ミハイル・ノーレッジはいたのだろうか。

 だとすれば本当に厄介だ。この世界の知識全てを、あの頭の中に叩き込んでいる。こちらの情報も全て筒抜けじゃないか。

 いや、そこは今更か。今までだって、日本支部の動きを察知しているとしか思えない動きを、ネザーは見せていたのだから。


「それと、緋桜さん。一つお願いがあるのですが」

「なんだ?」


 ペタリと、急にへたり込んだ朱音は、にへらと力無い笑顔を浮かべた。


「アクセルトリガーって反動が大きいんですよね。ですので、地上まで運んでもらっていいですか?」

「お前、本当に愛美の娘って感じだな……」


 後先考えてない辺りが特に。

 結局大勢の赤子たちもそのままだし、そっちもどうするか考えないといけない緋桜だった。



 ◆



 紅く輝いた瞳が、葵たち三人を睨む。

 以前ネザー日本支部で、葵が落としてしまった朱音の血液。それを中に入れた注射器を使った翠は、尋常ならざる魔力を纏っていた。


 三人がかりでも、勝てるかどうか。


 いつかのように、葵が蓮から血を貰う猶予なんて、今の翠は与えてくれないだろう。故に、位相の力は使えない。その上今は昼だ。葵もカゲロウも本調子ではない。

 翠も同じだと思いたいが、それは楽観的すぎるというもの。


「来るぞ、二人とも」


 カゲロウの言葉に、葵と蓮はそれぞれ得物を構え直す。

 こちらの数的有利は変わらない。ならどこから攻めて来る? 後ろを取るか、はたまた上下を活かすか。


 しかしその予想は、容易く裏切られることになった。


「はやっ……⁉︎」

「カゲロウ!」

「まず一人」


 真正面だ。


 最前にいたカゲロウに、真正面から突っ込んだ。ただし、誰にも視認できないスピードで。

 防御の暇すら与えられず、ハルバードの刺突を横っ腹に受けるカゲロウ。斧槍が引き抜かれると、腹から血を流した半吸血鬼の少年は、力なく地へ堕ちた。

 だが、そちらを心配することすら許されない。再び翠の姿が消え──


「カハッ……」

「これで二人目です」


 状況をまともに把握できない。気がつけば、蓮まで血を流し墜落している。残されたのは葵一人だ。


 真紅の瞳に、もう迷いは見られない。こちらを殲滅するまで、彼女は止まらないだろう。

 だからこそ、ここで退くわけにはいかなかった。例え一人でも、止めないといけない。


 翠が、誰かの道具であるために戦うというのなら。

 今この場で止められるのは、ただ一人。葵だけだ。


「雷纒!」

「遅い」

「くッ……!」


 ハルバードによる刺突。雷纒によって底上げされた反射速度でもって、咄嗟に反応することができた。しかし刀は弾かれてしまい、思考の余地もなく次の攻撃が襲い来る。

 頭上から振り下ろされるハルバードから、翼で体を守る。咄嗟の行動とは言え、それは悪手だった。


「しまった……!」


 葵の力の象徴である、黒い翼が。

 いとも容易く、音を立てて割れた。


 攻撃の勢いを殺しきることも出来ず、一直線に地面へ。飛ぶための手段も失ってしまい、体勢を整えることも出来ない。

 せめて落下の衝撃は最大限避けるため、防護壁を展開しようとしたその時。


 緋色の桜が宙空に咲き、葵の全身を優しく受け止めた。


「朱音!」

「人使いが荒いですね……」


 銀の炎が、上空の翠へ殺到する。

 炎の中から現れるのは、レコードレスを顕現させた朱音だ。しかし、いつもと様子が違う。体の節々で、銀炎が燃えているのだ。

 コートが、あるいは仮面が、はたまた手に持つ得物が。銀色に燃えている。


時界制御アクセルトリガー銀閃瞬火フラッシュオーバー


 縦に振るわれた短剣は、しかし時を操ってもなお、更にその先を行く速度に躱される。

 だが、空振ったわけではない。葵の目には、その情報がしっかりと映し出されていた。


「たしかに速いですが。それでも、過去には追いつかれる」


 鮮血が上がった。

 肩口からバッサリと。翠の右腕が切断され、持っていたハルバードごと地上へ真っ逆さまに落ちていく。


 過去を斬ったのだ。

 翠が短剣を躱した時。銀炎を纏った短剣は、過去そこにいた翠を斬った。


 時界制御。

 過去や未来への干渉、異なる時間流の操作、果ては時止めやタイムスリップなどなど。朱音自身が総じて時界と呼んでいるそれを、自在に操り、制御する。

 それが、桐生朱音が転生者として持つ力。銀色の炎に与えられた、彼女の後悔。


 ただし、反動も大きいはず。

 頭を抑えながらも振り返る朱音は、もう一人の介入者を呼んだ。


「さすがに再生されますね。どうしますか、緋桜さん」

「決まってるだろ。お仕置きの時間だ」


 声が聞こえたその後に。もう二つ、桜の花が宙に浮く。近くに来たそれらには、カゲロウと蓮が倒れていた。

 葵の頭に大きな手が置かれる。乱暴にも思えるほど雑に撫でられ、けれどどうしようもなく伝わってくる親愛の情に、葵は胸を衝くものを感じた。


「俺の妹に、妹の大事なやつらに手を出したんだ。今日は、タダじゃ帰さないぞ」



 ◆



「黒霧緋桜……あなたを殺して、わたしは……!」

「おいおい、殆ど理性が残ってないじゃないか。せっかく可愛いのに、それじゃ台無しだぞ?」


 朱音の血が馴染みすぎているのか。翠の紅い瞳からは、理性の光が消えかけている。

 今の彼女を突き動かしているのは、彼女の奥底に眠る、本当の心。誰かに与えられた道具としての役割ではなく、盲目的に信奉するネザー代表のためでもなく。


「わたしはッ……あなたを、許さないッ!」


 唯一残った、緋桜への怒りだけで。

 灰色の少女は、戦意を燃やす。


「お前の血、どうなってるんだよ」

「私に聞かれても困りますが。後は任せましたよ。葵さんたちの治療が優先ですので」

「はいよ」


 片手をひらひらと振る緋桜。あまりにも隙だらけな姿に、翠が全く衰えないスピードで肉薄する。最早武器も持たず、素手のまま。飢えた獣のように野生的な動きだ。


「お兄ちゃん!」


 思わず叫ぶ葵だが、驚くべき光景が広がった。

 翠の蹴りを、緋桜が片腕で受け止めていたのだ。得意の桜すら展開せず、生身のままで。


 速度とは、それすなわち一撃の重さに繋がる。そんな物理法則を容易く無視して、それでも涼しい顔した葵の兄は、いつも通りの軽口を放った。


「積極的なアプローチだな。案外肉食系女子だったりするのか?」

「うるさい!」

「おっと」


 叫びに呼応して撒き散らされる魔力の波。大きく後退した緋桜へ、再び翠が襲い掛かる。何度も打ち込まれる拳や脚は、どれもが簡単にいなされ、それが翠の怒りを加速させていく。


 葵は目で追うのがやっとだ。だというのに、どうして緋桜は、あんな簡単に対応できているのだろう。


「この前、亡裏の里で説明された通りですよ」

「朱音ちゃん……」

「ジッとしててくださいね」


 銀の炎が、葵の体を包み込む。途端、一気に消耗していた魔力が、全て元に戻った。

 続けて朱音は蓮とカゲロウの元へ行き、同じように治療する。


「朱音……と、緋桜さん?」

「いつつ……なにが起こったんだよ……」

「蓮くん! 大丈夫⁉︎」


 目を覚ました蓮の元へ真っ先に飛び移る葵。朱音の銀炎による治療は完璧だ。服は切れてしまっているが、外傷は一つもない。

 意外と筋肉質な体が視界にチラついて、場違いにもちょっとだけドキドキしたり。


「大丈夫だよ。葵の方こそ、無事でよかった」

「うん。お兄ちゃんと朱音ちゃんが、助けてくれたから」


 いつもの優しい笑顔を向けられて、ホッと一息吐いた。

 そして意識を、再び上空の二人へ戻す。


 緋桜は未だ攻勢に出ようとせず、翠の乱打を適当にいなすだけだ。蓮とカゲロウもギリギリ目で追えているのか、二人とも絶句していた。


「なんであのスピードについていけるんだよ……緋桜って実はヤバイやつだったのか?」

「もしかして、この前葵たちが聞いたっていう、キリの力?」

「そうみたい」


 黒霧の宿すキリの力は、心。

 その者の強い心が、想いが、そのまま力となる。


 ならば一体、自分の兄は。

 その胸の内に、どれだけのものを秘めているのか。


「十年は妹やってたはずなんだけどなぁ……お兄ちゃんのこと、全然わかってなかったや」


 ほんの少し、寂しげな色を帯びた呟きは、上空で響いた轟音にかき消される。


 戦況が動いた。

 翠が全魔力を動員させて、砲撃を放ったのだ。なんの魔術を使わずともあの強さ、あの魔力。ならば放たれた一撃は当然、無傷で防ぎきれる程ヤワなものではなく。


「ふぅ……今のは結構効いたな。やれば出来るじゃないか。頭でも撫でてやろうか?」


 体を守っていた桜の花びらが焼け落ち、しかしそこから現れた緋桜は、ケロっとした顔でやっぱり無傷だった。

 これには葵たち三人のみならず、翠も、朱音ですら絶句してしまう。


「どうして……どうしてッ! わたしは、あなたより優れているはずなのに! 魔力も、異能も、戦闘技術も、全てわたしの方が上なのに! 心なんて曖昧なもの一つで……!」

「曖昧なんかじゃないさ」


 懐から、何かを取り出した。

 半透明の結晶この場の誰よりも、賢者の石を宿した朱音や、その朱音の血を摂取した翠よりも。更に巨大な魔力が、その結晶から感じ取れる。


 葵と朱音は、それを以前に一度見ていた。大きさは違うし、ここにあるはずがないものだけど。それでも、間違えようがない。


 あれは、亡裏の里にあったものだ。かつて賢者の石と呼ばれ、現在そう呼ばれているものの元になった結晶。そのカケラだ。


「大切な妹、その妹が大事にしてるやつら、バカだけど優しくて強い後輩たちに、俺らのために頑張ってくれる先輩たち」


 ゆっくり、大切にしまっていた宝物を取り出すように、柔らかく言葉を紡いでいる。

 その声が、言葉が。兄の秘めたる想いを、形にしてくれる。


「なにより、俺が唯一、本気で惚れたあいつ。そのみんなへの想いが、俺の力だ。お前になくて、俺にあるものだよ」


 今、なにか、聞き捨てならない言葉が聞こえたような……?


「あ、あああ朱音ちゃん⁉︎ お兄ちゃんが惚れたって誰のこと⁉︎」

「葵さん、空気読んでください」


 にべもなく切って捨てられたが、妹としてそういうわけにもいかない。

 あのちゃらんぽらんな兄が、本気で誰かに惚れていたとか。そんなの聞いてないし。今の口ぶりから察するに、割と身近な人っぽいし! 誰なの⁉︎


「チビってやっぱりブラコンだよな」

「ちょっと拗らせたブラコンだね」

「そんなんじゃないから!」


 葵たちのやり取りが聞こえていたのか、緋桜がこちらを一瞥して、小さく笑む。

 なんだか照れ臭くなって、葵はすぐに目をそらした。別にブラコンじゃないし。


「さて、ご理解頂けたかな? これが前の答えだよ」

「納得できません……やはりあなたは許せない……! そんな理由で、わたしよりも強いあなたが!」

「そうか。ならまあ、こいつはくれてやる」


 緋桜の手元にあった結晶が、ひとりでに浮いた。翠の方を指差せば、そちらへ勝手に移動していく。


 そして。

 とても自然に。


 結晶のカケラが、出灰翠の体内に宿された。


 緋桜が起こした予想外の行動に、誰もが言葉を失う中。最初に困惑の声をあげたのは、灰色の少女本人。


「なん、で……わたしは……こんな、ことを……?」


 真紅の瞳が、理性の光を取り戻していく。

 その顔に浮かぶ表情は、恐怖。先程まで、自分が抱いていた感情に対するものだ。


 魔力が乱れて、周囲に暴風が吹き荒ぶ。取り込んだばかりの、結晶のカケラによる影響だけじゃない。

 それよりも、翠の感情に依るところが大きいだろう。


「あれが、お前の望んだことだろ」

「ち、違います……! あんなわたしは、知らない……あの方からは、なにも聞いていません……!」

「でも、お前は俺に怒りを抱いていた。それを思いっきりぶちまけたかった。そうだろ?」

「でも、それは、あの方から指示されていない! あの方から……ミハイル様から、わたしはなにも……!」

「そのミハイル・ノーレッジだけどな。しばらくは、お前の前にも出てこないぞ。一応、肉体は死んでることになってるしな」

「……え?」


 それが、トドメとなった。

 瞳からは感情が抜け落ちて、風が吹き止む。尋常ならざる魔力の反応が全て消えて、それでも異能は発動できたのか、翠はどこかへと去ってしまった。


 ため息を吐いた緋桜は、やれやれと頭をかきながら、葵たちの元へと戻ってくる。


「悪い、俺はあいつを追う。朱音、蒼さんに研究所のこと、連絡頼む」

「分かりましたが……」


 ドレスを消し、素顔に戻った朱音の視線が、なにか聞きたそうに葵へと向けられる。


 朱音ちゃんなら、私が言いたいことくらい、分かってると思うけど。


 強く兄を見つめていれば、向こうから先に提案された。


「はぁ……葵もついてくるか?」

「うん。蓮くん、カゲロウ。先に戻っててね。翠ちゃんも連れて、必ず帰るから」

「待ってる」

「期待して、な」


 蓮から優しい笑みを、カゲロウからはニヤリと信頼が感じられる笑みを向けられて、葵も笑顔を返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る