第110話
プロジェクトカゲロウによって生み出された、三人目。
本来の目的とは外れ、最強の戦士を作るための計画。吸血鬼グレイと人間の遺伝子を用いられ、グレイの遺伝子を特に多く持たされた少女。
それが、出灰翠という存在だ。
翠が産まれたのは、ネザーのため。ならば生きる理由も、ネザーに帰結する。
凍結されていた計画を、再び動かしたミハイルのために。彼女は、そのためだけに生きてきた。
そのためだけに、生きてきたのに。
未来なんて、どうでもいいはずなのに。
桐原愛美との出会いが、亡裏の里で聞いた話が、黒霧兄妹の存在が、翠の心にさざ波を立たせる。
本当にそれで、今のままでいいのか。ミハイルに全てを委ねて、確固たる自分を持たないままで。
疑問すら湧かなかった自身の在り方が、揺らいでいる。
「わたしは、どうすれば……」
呟いた力のない言葉に、返す声はどこにもない。自分を導いてくれていたミハイルも、敵として相対していた葵もいない。
翠自身が一人になれる場所を選んだのだ。周辺には誰もいなくて当たり前。
それでも、あるいは。あの方なら。この場所を見つけてくれるかもしれないと、淡い期待を抱いていて。
「見つけた」
背後からの声に、まさかと思って振り返る。
自分が求めていた人物ではないと、すぐに分かったけど。それでも、何故か。その声が聞こえたことに、安堵に似たものを覚えて。
「さ、翠ちゃん。私達と一緒に、帰ろ?」
ツインテールの少女が、その兄と共に立っていて。
優しい笑顔で、手を差し伸べてきた。
◆
蓮、カゲロウ、朱音の三人には先に帰ってもらい、翠の捜索を行うことにした黒霧兄妹。
しかしそれにしても、手掛かりが少なかった。
「魔術での転移なら、魔力の痕跡を追えるんだけどな」
「そんなことできるの?」
「できる、けど……異能での転移となると、それもできない」
困ったように眉根を寄せる緋桜。葵もなんとか手はないのかと考えてみるが、そう簡単に出てくるわけもない。
葵の異能が使えればいいのだが、情報操作はあくまで、今そこにあるものにしか作用しない。もっと言えば、葵が視認できるものでないといけないのだ。
当然ながら、今この場にいない翠の情報は、視界に映されることがない。
「一つだけ、手がないことはないんだ」
「本当⁉︎」
「ああ。愛美の持つキリの力は、葵も覚えてるよな?」
繋がる力。
もしも。もしも愛美と翠の間で、繋がりと呼べるものが出来ているのなら。
「愛美さんなら、翠ちゃんの居場所が分かるかもしれない……」
「そういうことだ。あいつら、今は事務所にいるだろ?」
「うん。この時間だと、多分」
時刻はそろそろ夕方に差し掛かっている。あの二人は、事務所で朱音の帰りを待っているだろう。
なりふり構ってる暇なんてない。
迷わずに異能で、棗市の桐生探偵事務所まで転移した。勢いよく開いた事務所の扉。その先には、白い狼と取っ組み合いの喧嘩をしてる織と、紅茶を飲みながら呑気に観戦してる愛美が。
「愛美さん!」
「あら」
やって来た二人に、珍しいものを見る目を向ける愛美。たしかに、兄とこうして二人だけで行動してるのは、ちょっと珍しい気がするけど。
そんなことは後。喧嘩を辞めて不思議そうに見つめてくる一人と一匹もスルーして、葵は大股に愛美の方へ歩み寄る。
「お願いがあるんですけど」
「……緊急事態、って感じかしら?」
「出灰翠の居場所、お前ならわからないか?」
「ちょっと待ってなさい」
葵と緋桜の様子から、ただならぬものを感じたのだろう。何を聞くわけでもなく、愛美は先日から使うようになった愛刀を、鞘から抜いた。
空色に輝く刀身。瞑目していた愛美が目を開き、眉間に皺を作る。
「ネザー関東支部、今は日本支部だったかしら? その跡地にいるみたいだけど……」
「お兄ちゃん」
「ああ、急ごう」
「あ、ちょっと!」
愛美から静止の声がかかるが、それに耳を貸さず、葵と緋桜は再び転移する。
なるべく忙ないといけない。ミハイルが再び現れるより、早く。
視界に映る景色が一瞬で変わる。
以前、校外学習という名目で訪れた、ネザーの関東支部。建物はそのままで残っていても、人の気配はカケラもない。
公式の上では、ここは支部長の暴走により閉鎖、ネザーは日本から撤退した、と発表されているから。
「ほんの僅かだが、魔力の反応があるな。葵、どうだ?」
「地下五階。そこにいるみたいだけど……」
建物の情報を視た葵は、苦しげに表情を歪める。地下五階に一人だけ、反応がある。でもそれだけじゃない。
やがて葵の視認した情報をたしかなものとするように、二人の眼前に広がる地面が、二つに割れた。
地割れ、ではない。もっと機械的なものだ。地面の下にあったカタパルトのようなものが開き、地下からエレベーターで多くの反応が上がってくる。
そこからは、魔力の反応も。ゆえに緋桜も気がついたらしい。
「防衛装置が働いたか」
「それか、翠ちゃんが動かしたのか……」
そして姿を見せたのは、かつてのハウンド小隊に配備されていたゴーレムだ。
白い体には幾何学模様の赤いラインがいくつも走り、両腕は武装してある。ただしかつて見たゴーレムとは武装が違う。右腕の重機関銃は同じだが、左腕はマニピュレータとなっている。
数は百を越しているだろうか。
そして当然、そこに埋め込まれていた異能も、こいつらは備えている。
「邪魔しないで!」
それがどうした。
どんな異能が埋め込まれていようと、どれだけ数が多かろうと。
今の葵は、止まるわけにはいかない。
「雷纒!」
「
緋桜の放った矢が、空中で巨大な魔法陣へと変わる。そこから雨のように放たれたのは、無数の矢。降り注ぐ緋色の雨を掻い潜りながら、葵は雷よりも尚速いスピードで、矢が撃ち漏らしたゴーレムを一刀両断していく。
「葵、まだまだ出てくるぞ!」
「うん! 大丈夫!」
一体どこに格納されているのか、ゴーレムたちは次から次へとエレベーターで地上に出現する。
全滅させる必要はない。葵たちの目的は翠だから。
しかし、放っておいたら邪魔なことも事実。ゆえに無視することはできない。
緋色の桜と紫電が、何度もゴーレムたちを蹂躙する。
情報遮断の異能が込められているとは言え、葵には同じ力が、緋桜にはキリの力がある。二人にとってはあってないようなものだ。
「これで最後!
上空に現れた巨人の腕。それが地上のゴーレムを叩き潰したのを最後に、出現は止まった。葵の目にも、この支部に残されたゴーレムはゼロと映されている。
これでようやく、翠のもとに行ける。話をすることができる。
「ふむ。やはり、君たち二人が先にたどり着いていたのか」
背後から声。聞いたことない、しかし足を止めざるを得ない、不思議な声。
振り返り、刀を構える。
誰に何を言われずとも、わざわざ異能を経由しなくとも、その正体が分かる。
同時に湧き上がる怒り。翠の人生を縛り付け、あまつさえあんな数の赤子を、ただの道具として作り上げたことへの。
「初めまして、シラヌイ。私のことは知っているかな? 異能研究機関ネザー代表、ミハイル・ノーレッジだ」
「あなたが、翠ちゃんを苦しめた元凶……!」
朱音から、先程までいた研究施設での一部始終を聞いていた。
彼女の言う通りであれば、ミハイルは別の時間軸に逃げ込んだと言う。そして、近いうちに今この時間軸と合流、収束して、また現れるだろうと。
あまりにも早すぎる。そして、最悪の状況だ。ここでこいつに邪魔されるなんて。
もしかしたら、この状況すら。ミハイルは既に知っていたのかもしれない。
「なにしに来やがった」
「もちろん、翠を迎えに来たんだよ。彼女は私にとって、娘のような存在だからね」
「嘘を吐くなら、もう少しマシなのを選べよ、クソ野郎」
「嘘などではないさ。あの子は私の手となり足となり、存分に働いてくれるんだ。そんな子に愛情を注ぐのは、当然のことだろう?」
「ふざけたこと言ってんじゃねえ!」
怒号が響き、緋桜はその手に桜の花びらを収束させる。
緋色に輝いた刀を構え、叫んだ。
「お前はあの子を、道具としか思ってないだろう! なにが娘だ、なにが愛情だ! 本当に家族として思ってるんなら、どうしてあの子の人生を縛るんだよ!」
「さて、縛り付けた覚えなどないけれどね。それは翠が選択したことだろう」
「選択肢を奪ったのはお前だ!」
大地を強く蹴り、緋桜が駆ける。雷の翼をはためかせた葵も、その後に続いた。
二人の刀が同時に振るわれるが、ミハイルに届く寸前で動きが止まる。これも朱音の報告からあったもの、斥力のバリアだ。
「こんなの……!」
しかし、葵の異能を前にすれば、容易く無力化できる。
バリアを搔き消し、刀がそのままミハイルの左右から襲いかかる。が、二人とも空振りに終わってしまった。
先程まで立っていた場所にやつはおらず、いつの間にか二人から数歩離れた背後に立っていた。
「分からないね。君たちは、どうしてそこまで翠に執着するのかな? あの子は君たちにとって敵でしかないはずだ」
ある意味、当然の疑問。
葵はともかく、緋桜は翠と深い関わりがあるわけではない。一度関西支部の跡地で相対し、むしろ翠の方が緋桜へやけに執着を見せていた。
敵でしかないのだ。言い方を選ばなければ、灰色の吸血鬼と立場は同じ。お互いに目指すべきところは全く違い、その信念がぶつかり合うのなら、戦うしかない。
それが、翠本人のものであるなら、だが。
「それが分からないから、あの子はお前から離れようとしてるんだよ」
「私たちは、そんなあなたに負けない。絶対に」
「心、繋がり、というやつだね。そんな曖昧なものが力の源とは、私でも理解できないよ、キリの人間というやつは」
「お前には一生理解できねぇよ!」
緋桜の刀が弓へ変化する。矢と雷撃が同時に放たれるが、やはり容易く躱されてしまった。いつの間にか、一歩横へ移動していたのだ。
あれも、朱音から聞いている力だ。
時間操作。朱音の炎と同等のもの。
斥力のバリアもそうだが、どちらも異能によるものだ。そしてその異能は、やつが両耳にしているイヤリングに込められたもの。
「しかし、位相の力は興味深い。私の知的好奇心を、これでもかと刺激してくれる。聞けば、翠もその力を使える資格があると言うじゃないか」
「だから、あなたの好奇心を満たすためだけに、翠ちゃんを手元に置いておくつもり⁉︎」
「そう言わなかったかな? あの子は、私の手足となって動いてくれる。そのために生み出したのだと」
「そんなの……そんなの、私は許さない!」
「君の許しは必要ない」
ミハイルへ肉薄し刀を振るう葵だが、その悉くが躱されてしまう。緋桜が後方から放つ矢も同じだ。時間を止めることが出来るミハイルには、こちらの攻撃が届かない。
「あの子は道具なんかじゃない! 私も、カゲロウも! あなたたちネザーの所有物なんかじゃないんだ!」
「それは間違いだよ、シラヌイ。君たちは、誰のおかげで生まれたと思っている? その身に刻まれた遺伝子は? ヒトではない以上、我々の所有物に変わりはないんだよ」
「違うッ! 私は黒霧葵! プロジェクトで生まれたのだとしても、今ここで生きているのは私自身だ! カゲロウだって、翠ちゃんだって! 今を生きてる! 心が、想いがある!」
「それは本来、不要なものだよ。私たちの言うことだけを聞いて生きていればよかったんだ。それがあの子にとって、一番幸せだろう」
「人の人生を、勝手に決めるな!」
「……っ、ふむ」
刀の切っ先が、ミハイルの頬を掠めた。僅かに切り傷ができ、血が流れる。
ミハイルの時間操作を、葵が微かに上回ったのだ。驚愕の色をその瞳に映したミハイルの元へ、緋色の矢が殺到する。
それも、躱せない。
魔力による防護壁を展開されたが、緋桜の放った矢は容易く壁を破り、ミハイルの肩に、足に突き刺さる。
復元魔術による治療、だろうか。魔力によって形作られた矢は霧散して消え、残された傷は、しかし即座に癒えていく。
これまで異能だけを使っていたが、当然ミハイルだって魔術は使えるのだ。
隠していた魔力が解放される。
葵と緋桜の経験上、そこまで強力なものではない。ともすれば、緋桜自身の方が余程強力な魔力を持っている。
しかし、魔力自体がイコールで実力に繋がらないことも、二人は知っていた。
なにせミハイルには異能があるのだ。その上で魔術まで使われれば、更に厄介なことになってしまう。
「素晴らしい、素晴らしいよ! これがキリの力、位相を扱う始まりの人間! やはり私が目指すべきは、その向こう側だと今一度理解できた!」
狂ったように歓喜の笑みを上げる男から、信じられない情報を視た。
ミハイル本人が口にした、位相の力。
それが何故か、目の前の男の魔力に混じっているのだ。
「どう言うこと……?」
「朱音の血を解析したってことか」
以前棗市に現れた黒龍。あれはネザーの仕業だったという。
位相の狭間、この世界と異世界との狭間で燻っていた、向こう側の力。その残滓。
あれを出現させることができたのだ。ならばこの場で、同じことができてもおかしくはない。
孔が、開く。
その向こうに虚無が広がる、異世界へと繋がる孔が。
溢れ出てくるのは、言葉にできないほど濃密な魔力。しかし、葵たちが知っている魔力とは違う。この世界の魔術師が使うそれではなく、彼方有澄が扱う魔力と似たもの。
正真正銘、異世界から流れ込んできた魔力が、一つの巨体を形作る。
八つの首を持った蛇。
以前の黒龍よりはいくらか劣るだろうけど、それでも、葵と緋桜の二人だけでは、到底太刀打ち出来ない相手。
「あの時とは多少規模が小さくなってしまったけれど、それで十分だろう。さあ、私に見せてくれ。君たちの持つキリの力を!」
葵は今、蓮の血を分けてもらっていない。だから位相の力を使うことが出来ない。そんな状態で、この蛇を相手にしなければならないというのか。
緋桜が持つキリの力は強力とは言え、それだけで倒せるほど弱くないだろう。事実兄の表情も、険しいものになっている。
「見たいっていうなら、いくらでも見せてあげるわよ」
そんな二人の元に、聞き慣れた声が届いた。後ろから歩み寄ってきたのは、先輩の二人だ。桐生織と、桐原愛美。
「なんか最近、こんな登場の仕方ばかりな気がするのよね」
「文句言うなよ、助けに行くって言ったの、愛美だろ」
「お前ら、どうしてここに……」
「色々聞きたいのはこっちですよ、緋桜さん。うちに来たと思ったらなんも説明せずにどっか行ったし」
「いざ来てみたら、なんかヤバいのが開いてるしね。織、あれ閉じれる?」
「余裕」
織の瞳が、オレンジに輝いた。
ミハイルの開いた孔が、閉じる。
幻想魔眼。
不可能を可能に変える力。そして、今ある世界を、新たな世界で塗り替える力だ。
その魔眼を持ってすれば、文字通り、不可能なことなど存在しない。
「
「
黒いテールコートの探偵と、振袖姿の殺人姫か、葵たちの前に立つ。
その二人を見て、ネザー代表は狂喜の笑顔を深くした。
「探偵賢者に殺人姫。君たちが来るのを待っていたよ!」
「こっちとしても、一度はお目にかかりたかったのよ」
「学院本部を使って俺たちを嵌めたんだ。その借りは、きっちり返さねえとな」
「二人とも、あの子を探してるんでしょ。ここは任せて、さっさと行きなさい」
「……はい、ありがとうございます!」
「礼は後で、必ずする」
演算を開始する。向かう先は、地下五階。
翠が隠れている場所であり、同時に。
プロジェクトカゲロウが始まり、葵が生まれた場所だ。
◆
優しい笑顔で手を差し伸べて来る、ツインテールの少女。
その服に付いている汚れは、比較的新しいものだ。そもそも、翠と戦闘を行ったのは上空だったから、土の汚れなんてつくわけがない。
つまり、ここに来る途中で、何者かの妨害にあっていた。
異能を使わずともわかる。その相手が誰なのか。であれば、翠の答えは決まっている。
「わたしは、あなたたちと一緒には行きません……あの方が、ミハイル様が戻ってこられたのなら。わたしが帰る場所は、そこにしかない」
「そんなことないよ」
しかし、黒霧葵は翠の言葉を強く、それでいて優しく否定する。
どうしてだ。どうしてこの少女は、こんなにもわたしに干渉してくるんだ。所詮は敵同士。同じプロジェクトで生まれた姉妹のようなものだとしても、結局は戦い、殺し合う相手でしかないのに。
分からない。二人の考えが、気持ちが、分からない。
その時点で、出灰翠は変わったのだと。翠本人ですら気づいていない。
以前の、葵をただ詰り責めるだけの翠なら、そこまで思考を巡らせなかった。そもそも葵に投げていた言葉さえ、ミハイルからの指示でしかなかったのだから。
「じゃあさ、翠ちゃん。あなたは、どうしてあの人のところに戻りたいの?」
「どうして、なんて……そんなの、決まってるじゃないですか。わたしには、それしかないから。あの方のために、あの方の道具として生きる。それ以外に、わたしにはなにも……!」
「それも、違うだろ」
今度は、少女の兄から。やはりその声は優しい。いつかのように、こちらを揶揄うような色も見えない。
真剣に、出灰翠というひとりの人間と向き合ってくれている。
「お前に埋め込んだ、あの結晶。キリの資格を持つやつじゃなかったら、内側から魔力に食い破られて、今頃死んでる。でも、そうならなかった。それはお前にその資格が、お前が未来を求めてるって証拠なんだよ」
「そんなはずない! わたしは、ネザーのために、ミハイル様のために……! 未来なんて、どうでもいいのに……!」
半ば自分に言い聞かすようにして、叫ぶ。
じゃないと、今日この日まで生きてきたことが、全て無駄になる。ネザーに、ミハイルに寄生して辛うじて保っていた自分を、完全に見失ってしまう。
それは、嫌だ。
今までそのようにして生きてきたのだ。自分一人だけで立つ方法なんて、翠は知らない。どんな未来を求めているのかなんて、自分でも分からない。
分からないことには蓋をして、あの方に委ねた方が、ずっと楽だ。
──本当に、そうなのだろうか?
必要のない思考が邪魔をする。追いやろうとしても、心のどこかに、頭の片隅に、今まで聞いて感じたものが、たしかに存在している。
桐原愛美との出会いが、亡裏の里で聞いた話が、黒霧兄妹との関わりが。
翠の在り方そのものにさざ波を立たせて、徐々にそれは大きくなっていく。
「分からない……なにも、分からないんです……」
絞り出した声は、自分で思っていた以上に掠れていた。
緋桜に対して怒りが湧いた。でも、あんなに強い怒りは初めてだった。だからどうしたらいいのかわからなくて、ルーサーの血を摂取した途端、感情のままに動いてしまって。
そんなことも、初めてだったから。
あれが本当の自分なのかと、認めたくないのに、起きた出来事はなによりも雄弁だ。
「どうして……あなた達は、わたしを追ってきたんですか……? わたしは敵で、何度も殺そうとして、なのに、どうして……」
どうして、わたしに手を差し伸べるのか。
問われた葵は、困ったように笑顔を浮かべていて。
「なんで、って聞かれると、ちょっと困っちゃうんだけどね」
「まあ俺の場合、可愛い子は放っておけないからな」
「お兄ちゃんはちょっと黙ってて」
なにも答えになっていない。困惑するばかりだ。理由もはっきりしていない葵と、ふざけたことを答える緋桜。
あまりにも非効率的だ。割りに合わない。その程度で命を賭けるなんて、どうかしている。
「私はさ、みんながいる今が好きなんだ」
しゃがみ込んで、翠と視線を合わせる葵の表情は、柔らかく、敵意など微塵もない笑顔。
「蓮くんがいて、カゲロウがいて、朱音ちゃんがいて。織さんや愛美さん、学院長たちもいて、ついでにお兄ちゃんもいる、今が好き。その今を守るために、大好きなみんなとずっと一緒にいるために、戦ってる」
それは、以前にも聞いた。
翠の心に、僅かな疑問と違和感が生じた頃。葵とカゲロウに、わざわざ聞きに行った。
しかしそれは、翠の問いに対する答えになっていない。
寧ろ逆だ。敵である翠は、やはり倒すべき敵でしかないのだから。
「でもさ」
でも。なぜか、分かってしまう。
彼女が口にしようとする言葉が。
「でも、私はそこに、翠ちゃんもいたらいいな、って。そう思うんだ」
ああ、ほらやっぱり。
黒霧葵とは、そういう少女なのだと。何度もぶつかった中で、理解していたから。
「理由はやっぱり分からない。同じプロジェクトで生まれたからかも知れないし、だったら翠ちゃんは私の妹でしょ? それに翠ちゃんも知ってる通り、私には、もう消えちゃった妹が二人いるから……だから、今度は後悔したくなかったからかもしれない」
「それは、あなたの自己満足です……」
「そうかもね。でも、それでも私は、あなたにこの手を差し伸べたいと思った。いつか私が、色んな人からそうしてくれたように」
再び。
手が、差し伸べられる。
「翠ちゃんは、これからどうしたい? ネザーとか、代表とか、そんなの関係なく。翠ちゃん自身は、なにをしたい?」
「わたし、は……」
分からない。
やっぱり、なにも分からない。
自分がどうしたいのかなんて、考えたこともなかったから。
こんな感情は、初めてだから。
だから、わたしは。
「わたしは、探したい……なにも分からないから。自分だけの意思でなにかを決めたことなんて、なかったから……だから、わたしがなにをしたいのか、それを探したい」
手を、取る。
自分と然程変わらない大きさの、けれど大事なものを掴み取り、今は自分の手を掴んでくれている、小さな手。
なにも分からないなら、これから知ればいい。知りたいと、分かりたいと、そう願う心がすなわち、未来を求めるということなのだと、それだけは分かった。
そう理解してしまえば、もう、ネザーにはいられないけれど。
あの方の道具として、今までのように生きることはできないけれど。
心残りがないと言えば、嘘になる。
だって、ネザーとミハイルは紛れもなく、翠にとっては親も同然なのだから。
けれど、翠はもう、この手を取ってしまった。後戻りはできない。
「うん。それでもいいよ」
「これから、探せばいい。いくらでも時間はあるんだ。俺も葵も、その手助けなら好きなだけしてやる」
二人の笑顔を前に、翠は理解した。
葵は、彼女自身がみんなからしてくれたことを、翠にもしてあげたいと言った。
そうやって、想いや意志が受け継がれていく。繋がりが生まれる。
それこそが、キリの人間にとって、最も大切なことなのだと。
◆
葵が翠と緋桜の二人を引き連れて地上に戻ると、先輩たち二人は未だに八つ首の蛇と戦っていた。
少し離れた場所では、呑気に観戦しているネザーの代表が。
そのミハイルの視線が、葵たちへと向けられた。
「どうやら、そちらについたようだね、翠」
「ミハイル様……」
「いいんだよ。君がそうしたいというなら、そうすればいい。道具として重宝してはいたけれど、代わりはいくらでも用意できる」
不気味なほど穏やかな笑顔で紡がれる言葉には、しかし愛情なんてものは感じられない。
切り捨てる時が来たから、そうするだけ。
全知の異能を持つミハイルにとって、この展開すらも予定通りなのだろう。
翠の表情は、複雑なものだ。
他の誰でもない、自分自身の意思で、ネザーを離れると決めた。しかしこうして、これまで崇拝していた相手から目の前で切り捨てられれば、思うところもあるのだろう。
きっと心残りも、ないわけじゃない。
「さて、私はそろそろ失礼させてもらおう。見たいものも見れたことだしね」
誰も止めることは出来ず、ミハイルは姿を消す。残されたのは葵たち五人と、ミハイルの置き土産である蛇だけだ。
「葵、緋桜! ちょっと手伝いなさい!」
「さすがに二人じゃキツイ!」
蛇の攻撃をいなし、愛美が首を斬り落として織が魔術を撃ち込んでも、殺しきれない。
さすがは、位相の向こう側からの魔力で作られただけある。二人のドレスも、完全に通用しているわけじゃないようだ。
この前の黒龍と同じ。
殺しきるには、もっと力を削ぎ落とさなければならない。
「わたしも、戦います」
真紅の瞳には、力強い光が。
その光を見ただけで、わざわざ問う必要はなくなった。
「うん、お願い」
「今の翠には、結晶のカケラもあるしな。使い方は分かるか?」
「なんとなくですが……」
「それでいい。そこに記録された意思が、お前を導いてくれるさ」
翠が頷いたのを見て、三人で二人と合流する。なにはともあれ作戦会議だ。無策で勝てるほど、甘い相手ではない。
とは言え、そんな時間を容易く与えてくれるはずもなく。
八つの首の内三つから、超高熱の炎が放たれる。愛美が一刀の元に斬りふせるが、他の首からも噛みつきやブレスなどが間断なく襲いかかるのだ。
「織、動き止めるわよ!」
「分かってる! 術式解放、其は万象を拒絶せし巨人の檻!」
天から巨大な檻が降り注ぎ、蛇の巨体を閉じ込める。動きは止められたが、長くは持たないだろう。
「織、愛美、どこまで試した?」
「試せるものはなんでも。魔眼の効果はちょっとしか通らないし、愛美が斬っても復活する。魔導収束でだいぶ削ってるから、もうちょいだとは思うんすけどね」
「あれ、多分八岐大蛇がベースでしょ。八つ全部いっぺんに斬ったら、なんとかなると思うわよ」
「決まりだな。愛美、同時に何本いける?」
「三本なんとか。それで結構ギリギリかしら。それ以上は狙いが付けづらいわ」
「十分だ。俺が二本行く。三人は一本ずつ頼むぞ」
簡単に話が決まった。
しかし、一本だけとは言え、今の葵に務まるのだろうか。血を飲んでいないから十全に力を使えない。いくら今が夜でも、出せる力は全力に程遠い。
いや、出来るかどうかじゃない。
やるんだ。自分には、その力があると信じて。やるしかないんだ。
「合図は織に任せた。未来視でタイミングを見計らってくれ」
「了解」
檻が解かれる。蛇の咆哮が鳴り響き、長い首をしならせた叩きつけや、炎のブレスによる攻撃が再開された。
今こそ、証明する時だ。
私の、黒霧葵の力を。
◆
それぞれが担当する首の近くを飛ぶように散り、迫り来る攻撃を防ぎ、躱す。
シラヌイ、黒霧葵が自分の力に悩んでいたのは、ほんの一瞬その表情を見た翠にも分かっていた。
しかし、彼女はやれるだろう。
問題は自分だ。
他の四人は、それぞれがそれぞれを信頼し合っている。だからきっと、この蛇も容易く打ち負かすことができるだろう。
でもそこに、異分子である自分が混ざれば。四人の連携を崩してしまわないかと、不安が過ぎる。
そもそも、緋桜から託された結晶のカケラ、その使い方もまだちゃんと分かっていないのだ。そして、その力がなければ首を切り落とせないのも、今の翠には分かっていて。
そんな思考のせいだろうか。
迫る炎のブレスに対して、一瞬反応が遅れた。
「翠ちゃん!」
「大丈夫です……!」
異能を使い、難なく防ぐ。
元より翠は、数ある情報操作の中でも、情報の遮断を得意としているのだ。並みの攻撃ではその防御を打ち破れない。
他の四人が、心配そうにこちらを見ている。
ただの心配だけじゃない。四人ともが、たしかな信頼をその視線に宿していた。
葵と緋桜は言わずもがな。たった一度言葉を交わしただけの愛美も、ろくな交流がない織も。
信じて、任されている。
それは、ミハイルから受けていたものとは違う、対等な立場にいるからこそのもの。
あの頃は、彼から向けられた歪んだ感情を、信頼や愛情なのだと勘違いしていた。その言葉に一喜一憂していた。
今は違う。
四人から向けられる信頼が嬉しいのも、その信頼に応えたいと思うのも同じだけど。
彼らは、わたしを見てくれる。
わたしを、わたしとして信頼してくれている。
だから、応えたい。
そのために、力が必要だ。
『大丈夫。あなたなら出来るよ』
どこからか、声が聞こえた。ハッと周囲を見渡すも、この場には自分たち五人と、八つ首の蛇だけ。
『使い方は簡単。だって、織くんと愛美ちゃんにだって出来てるんだもん』
茶化すようなその声は、自分の内側から聞こえるものだ。黒霧緋桜によって、自分の体に埋め込まれた結晶から。
誰の声かは、分からない。視界に情報が映されることもない。
『さあ、使ってみせて。わたしの力を、わたしたちの力を』
何故だろう。さっきまでは曖昧な理解だったのに。今となっては、まるで自分の手足のように、使い方が分かる。
並行世界を記録する結晶。そのカケラ。
ここに込められた力を、受け継がれてきた想いと意思を。
全力で解き放てばいい!
「
翠の全身が光に包まれ、力が風の渦となって吹き荒れた。
光が晴れて現れるのは、この場の全員が見覚えのある服装に、身を包んだ灰色の少女。
くるぶしまで裾を伸ばした、アウターネックの黒いドレスと
「
あり得ないはずの、あり得てはいけないはずのその姿を見て、誰もが驚愕に目を見開く。
翠本人だけが知らない。この力は、このドレスは、果たして誰のものだったのかを。
ただ一人、桐生織だけが、不敵に口角を上げていた。
「望み通りの未来だ」
その言葉の真意を全員が理解して、五人同時に力を解放する。
八つの首は、想像よりも容易く同時に切り落とされ、巨大な蛇は消滅した。
◆
「翠ちゃん、そのドレスどうしたの⁉︎ なんで⁉︎」
「いえ、それが、わたしにもよく分からなくて……」
ネザーを裏切った灰色の少女に、興味津々と詰め寄るツインテールの後輩。
いや、裏切った、というのは少し違うのか。織は今回、詳しい事情を知らないままに首を突っ込んだ。
恐らくここの地下で葵と緋桜の二人と対話し、その結果として、翠は心変わりしたのだろう。
その辺りは、まあ、後で詳しく聞いておこう。
今はそれより、翠が纏っているドレスについてだ。葵だけでなく、この場の全員が聞きたいことでもある。
織は未来視で事前に知っていたとは言え、その原理まで把握しているわけではない。
出灰翠が纏ったドレスは、今は亡き友人のものだ。
織と愛美、朱音を見て分かる通り、例え同じ賢者の石を宿したとしても、使えるレコードレスは個々人によって変化する。
しかし翠は、魔女と全く同じドレス、全く同じ力を使った。
「頭の中で、声がしたんです。聞き覚えのない、誰の声かも分からないものでしたけど……多分、わたしに宿った結晶から」
「緋桜、あんたなにか細工したの?」
「まさか。出来るわけないだろ、そんなこと」
数多ある並行世界、その全てを記録している結晶。そのカケラ。
あるいは、その記録から抽出されただけの、幻影に過ぎないのかもしれないが。
そうではないと、証拠もないのに確信があった。
「あなた方は、このドレスについて、なにか知ってるのですか?」
「まあな。そのドレスを使ってたやつについてなら」
「ええ、よく知ってるわ」
愛美と顔を見合わせ、クスリと笑い合う。
自分達には姿を見せず、この少女にだけ語りかける辺りが、なんともあいつらしい。
「そのドレス、今後も翠が使うといいさ」
「うん、他の誰でもない翠ちゃんが、あの人から託されたんだし。きっとその方がいいよ」
黒霧兄妹から言われ、おずおずと頷く翠。きっと、その異能で織達全員から情報を視たのだろう。
このドレスを自分に託したのが、果たして誰なのかを。
「よし、じゃあ翠ちゃん。今度こそ、一緒に帰ろ? 蓮くんとかカゲロウとか、朱音ちゃんも、学院で待ってるから!」
「……はいっ」
葵の差し出した手を、翠は寸分の躊躇いもなく取った。
取り敢えず一件落着、ということらしい。
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