第93話

 棗市のほぼ中央に位置している棗駅。そこを基準に南北で分けることにより、棗市の景観はガラッと変わる。

 駅から南に出れば、オフィスビルやマンションがいくつか立ち並び、更に南下するとショッピングモールを始めとした商業施設が多くある港町まで出る。

 一方で北側。駅を出て直ぐに商店街の入り口が見え、中には雰囲気のいいカフェやレストランなども。少しずつ勾配も上がってくるため、街の最北端である住宅街はそれなりに標高が高くなっている。とはいえ、桐生探偵事務所のある辺りまではそこまで高くもない。住宅街に入った辺りから、急な坂道があるため一気に上がるのだが。


 糸井蓮と黒霧葵の、記念すべき初デート。

 その待ち合わせ場所に選ばれたのは、棗駅北側にあるバスターミナルの近くだった。


 そろそろ待ち合わせ時間の十三時だ。やたらと落ち着きのない様子で葵を待つ蓮は、なんと四十分前からここにいる。

 織とカゲロウと別れてすぐにここへ来たのだから、そりゃそんなに待つに決まってる。


「服、これでいいのかな……」


 着の身着のまま来てしまったので、蓮は特に気合の入れたコーディネートというわけでもない。適当なジーンズに適当なシャツ。その上から適当なパーカーを着ているだけ。

 とは言え、特別おかしな服装というわけでもない。現代っ子らしく、適当な服であってもちゃんとした店で買ったちゃんとした服だ。おかしな着こなし方をしているわけでもない。問題はないのだが、それでも本当にこれでいいのかと懊悩してしまうのは思春期ゆえに仕方ないこと。


「蓮くん、お待たせっ」


 耳に馴染んだ声がかけられた。

 振り向いた先には、待ち人である黒霧葵が。

 柔らかな印象を与える青いマキシ丈のワンピースに身を包み、はにかむように微笑んでいた。猫耳は異能で見えないようにしているのだろう。尻尾はワンピースの中にしまっているか。


「ああ、いや……別に、そんな待ってないよ」

「そう?」


 思わず挙動不審になってしまっている。キョトンとして小首を傾げる葵。その拍子に、いつものツインテールがふわりと揺れた。


 やばい。想像以上に予想外だ。思わず見惚れてしまった。

 まさか葵が、こんなに可愛く見えてしまうなんて。いや、葵が可愛いのは今に始まったことじゃないけど。それにしたって今日はなぜか、可愛い中にもいつもは感じない色気のようなものが僅かに感じられる。

 よく見れば、薄くではあるが顔に化粧が施されていた。きっとそれが原因だ。


「化粧、してるんだ……」

「え? あぁ、うん……いつもはしないから、ちょっと手間取っちゃったけどね」


 えへへ、と笑いながら頬を掻く葵。

 むしろ、いつもは化粧なしであんなに可愛いという事実に、蓮は驚嘆する他ない。

 いや、そこじゃないか。自分とのデートに、いつもはしないという化粧をわざわざして来てくれた。服だって、見るからに気合の入ったものだ。

 見た目云々よりも、その事実や健気さこそ、彼女の真に可愛いところなのだ。


「そっか……うん、いつもより可愛いし、綺麗だよ。見惚れちゃった」

「かっ……」

「じゃあ行こっか。取り敢えずお昼ご飯かな、店の目処は立ってるんだ」


 顔を真っ赤に染め上げた葵に手を差し出す。俯いて湯気が出そうになってる葵は、それでもちゃんと手を取ってくれた。

 クスリと笑みが漏れる。蓮も余裕があるわけじゃないし、照れ臭さとか諸々は感じているけど。

 ここまで来たら、頭ひねるよりも腹をくくるしかないのだ。



 ◆



「おお、手繋いだぞ! なんだよ蓮のやつやるじゃんかよ!」

「まあな。あいつはやれば出来るやつなんだよ」

「どうしてあなたが得意げなんですか……」

「そんなことより、あの二人もう行くわよ。ついてかなきゃ」


 物陰から、蓮と葵を見守る影が四つ。

 後輩の、あるいは友人の、はたまたお兄さまお姉さま方の恋路を心配して尾行することにした四人。

 織とカゲロウ、愛美と朱音でその経緯は違えど、ここでバッタリ合流したのだから、協力して二人のデートを見守る他あるまい。


 商店街の方へ向かった二人を追って、四人は認識阻害の魔術で姿を消しながら歩く。

 やがて二人が入っていったのは、商店街の中にある洋食屋だ。店内の雰囲気も料理の味もよく、街の人たちからはかなりの人気を博している。


「お昼ご飯かしら?」

「まあ、丁度昼時だしな。俺とカゲロウは食って来たけど、お前らは?」

「食べて来たよ。お腹空いて目を離した隙に逃げられたら嫌だしね」

「んじゃ、しばらくここで待機か?」


 出てくるまで待つしかないのはたしかだが、しかし出来ることがないわけでもない。


「いや、待ってるだけってのもあれだからな。街の結界をちょっと強化しよう」

「ほーん、お前そんなこともできんのか」

「いや、俺は出来ないぞ?」

「は?」


 そう、織にそんな高度な技術を期待されても困る。なにせ賢者の石を宿してるとは言っても、織自身の技術が跳ね上がったりしたわけではないのだから。


「父さんは小手先の技術なら目を見張るものがあるのですが、だからと言って高度で難しい魔術を使えるわけじゃないんですよ」

「魔術の才能自体は凡人だものね」

「揃って酷いなお前ら……」


 しかし事実だから仕方ない。

 と言うわけでお願いします、とばかりに愛美と朱音の方を見れば、揃ってため息を吐かれた。さすが親子、よく似てる。


「まあ仕方ないわね」

「うん、仕方ない仕方ない」


 織としてはなんだか釈然としない言い方をされているが、この辺りは織本人も諦めているところだ。この二人には逆立ちしたって敵わないのだから。

 確実を期すために、朱音が未来視を発動させる。望んだ未来を引き寄せるその異能を併用すれば、今日一日は棗市に魔物や魔術師が入り込んでくることはないだろう。


 朱音が構成して行く術式に愛美が魔力的なサポートをして、棗市を堅牢な結界が包んだ。


「これで一先ず、今日一日は大丈夫ね」

「今日に限らず、毎日こいつ張ってたらいいんじゃねぇのか?」

「持続時間が長くなると、それだけ術式も複雑なものになりますので。あなただって、その異能で半永久的に敵を寄せ付けない結界を作れと言われたら、演算が面倒になるでしょう?」

「そんなもんか」


 納得したのかしてないのか、それきり興味なさげに話を切るカゲロウ。

 朱音の言う通り術式の複雑さもあるだろうが、そう簡単な話でもないだろうと織は考えている。


 葵やカゲロウの異能ならともかく、この結界はあくまでも魔術の範疇に収まるものだ。仮に今日からずっとこの結界を維持出来ていたとしても、ここまで大規模な結界はいずれ攻略してしまうやつが出てくる。

 なにせ、敵の魔術師も賢者の石を持っている場合が殆どだ。その上でその魔術師本人の知識や技術も合わされば、ただの結界程度容易く破られるだろう。


 忘れてはならない。魔術とは絶対の力じゃないのだ。奇跡にも等しい神秘の業だとしても、そこには確固とした理論や法則が存在している。


「しかし、あいつらのデートのためだけにここまでやるかね」

「当然ですが。私たちは師匠と葵さんに、幸せになってもらいたいので」

「可愛い後輩のためだものね」

「俺は冷やかしついでだけどな」


 ともあれ、二人のデートは始まったばかりだ。ちゃんと楽しめるよう、最終的にちゃんとくっ付くよう、陰ながらサポートさせてもらおう。四人は改めて決意した。



 ◆



「あれ?」


 昼食のために入った洋食屋から出て、葵は街を覆う結界の異変に気付いた。

 なにか悪いことが起きているわけではない。ただ、結界の強度が上がってるというか、むしろこれは強固な結界を更に張り直したと言った方が正しい。


 異能をオンにして空を見上げる。映し出された情報を視て、思わず苦笑が漏れた。


「葵、どうかした?」

「ああ、うん。街の結界がね」

「……たしかに、なんか変わってるな」


 同じく空を見上げた蓮は、結界の魔力で察したのだろう。そして葵のように情報を視なくても、なんとなく結界を張った本人たちの意図も理解しているらしい。ため息混じりの苦笑を浮かべている。


「お節介な先輩たちだよね」

「うん。でも、いい人たちだ。先輩たちも、カゲロウと朱音も」


 恵まれてると思う。葵の周りにはとてもいい人たちばかりで、彼ら彼女らはみんな、葵と蓮のことを気遣い、思いやってくれるのだから。

 少しくすぐったく感じるけれど、胸の内はポカポカと暖かくなる。


「よし、じゃあ行こうか」


 柔らかな笑顔の蓮が、手を差し出してくる。まだほんの少しの照れを残しながら、葵はその手を取った。


「どこ行くの?」

「特に決めてないんだよね」

「あれ、そうなんだ。蓮くんからデートって言い出したから、てっきり決めてるのかと思ったけど」

「うっ……それはまあ、ごめん……」

「ふふっ、謝らなくてもいいよ」


 小悪魔じみた笑みでちょっと詰め寄れば、蓮はショボンと俯いてしまった。そんなところが可愛くて、また笑みが漏れる。


「葵はどこか行きたい場所とかある?」

「うーん、どこでもいいよ」

「それが一番困るんだけどな」

「蓮くんとなら、どこにでも行けるからさ」


 意識したわけではないが、しみじみとした声音になってしまった。そして紛れもなく、葵の本心からの言葉だ。


 蓮とだったら、どこにだって行ける。どこまでも行ける気がする。好きだから、というのもあるけど。それだけじゃない。

 きっとこれは、言葉に出来ない類いの気持ちだ。ただの恋慕ではないことだけがたしか。感情のベクトルが違うのだろう。

 恐らく、好意や愛にも勝る極上の信頼。


 だから、蓮とだったらどこに行っても楽しいと思う。蓮とだったら、まだ見えないどこかの未来へ行ける気がする。


 隣から声がかからないことにハッとなって気づき、葵は苦笑しながら慌てて取り繕う。意図せずして、妙にシリアスな雰囲気を出してしまった。重くて面倒くさい女だと思われかねない。


「ご、ごめんね? なんか変なこと言ってるよね、私」

「そんなことないよ」


 けれど蓮から返ってきたのは、柔らかい笑顔だ。全霊の愛おしさが込められた、葵の大好きな優しい笑顔。


「俺も、同じだから。葵となら、どこにだって行ける。まあでも、デートコースくらいはちゃんと考えとかないとだよな」


 肩を竦めておどけてみせる蓮に、葵も思わず吹き出してしまう。


「じゃあさ、ゲーセン行こうよ。それでプリクラ撮ろう!」

「いいね、決まりだ」


 二人で笑い合い、手を繋いだまま歩き出した。



 ◆



「次どこ行くんだ?」

「この道で遊ぶような場所といえば、ゲーセンがあるくらいだな」


 引き続き尾行している四人。蓮がデートコースなんぞ決める暇もなく待ち合わせ場所に向かったことは、織とカゲロウも知っていた。だからどうするのかと不安になったのだが、この感じだと大丈夫らしい。

 まあ、結界の方には気づかれたっぽいが。


「ゲーセン! プリクラとか撮る場所だ!」

「今度、私たちも行ってみましょうか」

「うん! 私一回行ってみたい!」


 朱音が現代に来てこの街に住むようになってからそれなりの時間が経ったとは言え、ゲームセンターなんて娯楽施設には行ったことがないらしい。

 もしかしたら、織と愛美のいない間にそういうところで遊んだりしてたのかと思ったが。葵や朱音の身の回りに起きたことを考えれば、そんな暇もなかったのか。


 二人の後を追う形で歩き、予想通りゲームセンターに辿り着いた。棗市街地にあるここには、市立高校の生徒なども学校帰りに寄っている。

 日曜ではあるが、制服姿の高校生たちが何人か見受けられた。部活帰りなのだろう。


「どうする。オレらも入るか?」

「全員で入ったらさすがにバレそうだしな……」

「じゃあ、織とカゲロウで行って来なさい」

「別にいいけど、お前らは?」

「お客さんよ」


 険しい目つきで空を見つめる愛美。遅れて朱音も気づいたのか、愛美の顔を見上げた。


「母さん、これは……」

「なんだよ、なんかあったのか?」

「街の外から、結界に攻撃が加えられてます。魔術的なものですが、この魔力は覚えがありますので」

「……んだよ、オレんとこの末っ子か」


 朱音がいう覚えのある魔力とやらを、カゲロウも察したらしい。

 全くタイミングが悪い。結界は破られてないらしいが、二人の様子からするにそれも時間の問題なのだろう。


 せっかく葵と蓮が一歩前進しようとしているのだ。その邪魔をさせるわけにはいかない。


「私と朱音で見てくるわ。二人はここにいて」

「全員で行った方がよくないか?」

「多分、葵さんたちには私達の尾行バレてますので。いきなり全員いなくなったら、逆に怪しまれますが」

「バレてんのかよ」


 そりゃバレてるだろう。葵は愛美や朱音の性格をよく知っている。二人が尾けてくることは容易に想像できるだろうし、故に異能で視てしまえば直ぐバレてしまう。

 蓮の方は気づいてるか分からないが、彼にしても愛美と朱音が張った結界自体には気づいているはずだ。そこになにか異変があれば、すぐに勘付いてデートを切り上げるだろう。

 それだけは避けなければならない。できるなら、こちらだけで事を収めたい。


「それじゃあ頼んだ。二人は俺とカゲロウで見とく」

「ええ。速攻で終わらせてくるわ」


 それだけ言い残し、愛美は朱音を連れて街の外へと転移した。


「心配じゃねえのか?」


 随分あっさりと見送った織に対して、カゲロウが問いかける。

 恐らくやって来たであろう出灰翠。彼女がいかに強いのかを知っているからか、その声音には、愛美と朱音に対する気遣いのようなものが、僅かに感じ取れた。


 なるほど、と。織は少し納得する。

 葵や朱音がこの半吸血鬼を信頼している理由が、よく分かった。


「全く心配してないってわけじゃないけどな。それでも、あいつらならなにがあっても大丈夫だよ。特に朱音の強さは、カゲロウだって知ってるだろ?」

「まあ、そうだけどよ」


 カゲロウ自身や葵、蓮よりも、父親である織よりも、ひょっとすれば愛美よりも強い。

 幼い体に見合わない圧倒的な強さを、織の自慢の娘は持っている。今日は愛美も一緒なのだ。


「家族のいるところに、絶対帰ってくる。桐原愛美ってのは、そういうやつなんだよ」


 言葉に込められたのは、全幅の信頼と最大の愛情。

 それを感じ取ったからか、カゲロウもそれ以上はなにも言わなかった。



 ◆



 街を北に上がり、棗市と隣街の境目あたり。そこはすでに完全な山の中だ。建物は一つも見えず、緩やかな傾斜の上に木々が生い茂っている。身を隠すには十分な立地だ。


 そんな山の中に転移してきた愛美と朱音は、そこに降り立つと同時、半吸血鬼の少女から襲撃を受けていた。


「まあ、予想通りよね」

「母さん、気を抜かないで。この人、結構強いよ」


 灰色の翼を広げ、ハルバードを手に突撃してくるのは、プロジェクトカゲロウによって生み出された最後の一人。出灰翠だ。


 その異能によって愛美の切断能力すら無効化する彼女は、無機質は瞳で愛美の顔を覗き込んでいた。


「あなたが殺人姫ですね」

「私のことをご存知なのね。なら自己紹介はいらないかしら」

「ええ。あなたは有名すぎるくらいですから。それに、今日の目的はあなた方です」


 斧槍と短剣の鍔迫り合いから、翠が一歩下がる。翼から灰色の魔力弾を放たれるものの、愛美はその全てを斬り落とした。

 別方向から朱音の銃弾が襲い来るが、翠は防御すらせず、銃弾は弾かれてしまう。


「あのゴーレムには通用したはずなんだけど、さすがに本物相手じゃ厳しいか……」

「リアルタイムで演算してるからね。ただ異能による結果だけを与えられたゴーレムとはそりゃ違うよ」


 手元で短剣を弄びながら、愛美は翠の瞳を見つめる。

 せっかく生きた相手と殺し合えると思ったのに、なんだか拍子抜けした気分だ。


「聞かなくても殆ど分かってるんだけど、一応聞いておくわね。私たちが目的ってのは、どういう意味かしら」

「位相の力。あなた方の持つレコードレスを見せてもらいに来ました」

「あら、あなたの兄と姉はもういいの? ネザーは二人の身柄を狙ってるって聞いたけど」

「そこまで答える義理はありません」


 どこまでも無感情に、淡々と、翠は答える。そこに彼女自身の意思は感じられない。

 そういうところが、愛美にとっては気に食わなかった。拍子抜けした理由だ。


「お望みとあれば見せてあげたいところなんだけどね」


 小さくため息。それを余裕から来る隙と見たのか、翠は瞬きの間に愛美へ肉薄していた。

 だが、翠は勘違いしている。愛美の使う体術に、隙なんてものは存在しないのだ。


「今のあなたには、見せる価値もないわ」


 翠の右腕が、持っていた得物ごと宙を舞う。身体から離れて地に落ちる。

 夥しい量の血を断面から出しながらも、灰色の少女はその顔に驚愕のみを浮かべていた。演算はおかしくなかったはず、異能は正常に発動されていた。


 それでも桐原愛美の力は、そんなもの関係なくあらゆるものを切断する。


「甘く見られたものね」


 腹に蹴りを受けた翠が、近くの木に背中から激突する。口から血を吐いて、そうしている間にも右腕の再生は始まっていた。

 さすが吸血鬼といったところか。完全に切断して尚、再生できてしまうとは。


「ドレスも使っていないのに、なぜ……」

「それが私の力だから。この世界に存在しているものなら、たとえ神だって斬り殺してみせるわよ」


 情報操作。リアルタイムの演算。

 それがどうした。概念にすら作用する愛美の異能は、なんでも斬ってみせる。その言葉通り、神であっても。


「出直してきなさい。今のあなたには、殺す価値すらないわ」


 葵が気にかける理由をよく理解した。

 そして彼女は、愛美の求める殺し合いをできる相手ではない。


 互いの信念を燃やし、その果てに命を尽くす戦い。それこそ、桐原愛美が求めてやまない殺し合いというものだ。

 同時に彼女は、一方的な殺戮や自分の意思というものがない相手とのそれを嫌う。


 だからある意味、愛美にとって灰色の吸血鬼は好ましい相手でもあるのだ。

 絶対の信念と目的を持った相手。その上で、自分よりも強い。親友の仇という関係さえなければ、なんのしがらみもなく存分に殺し合いたいところではある。


 それが、この少女にはない。

 信念も意思も、あるいは自分が何者であるのかさえ、この少女の中にはない。


「でしたら、予定を変更するまでです」

「させると思う?」


 愛美がなにもない宙を斬る。ただそれだけで、翠は苦しげに表情を歪めた。

 結界を異能で破壊しようとしたのだろうが、それすら無意味に終わった。

 あまりにも強い。圧倒的すぎる。


「悪いんだけど、あの子達の邪魔をさせるわけにはいかないのよ。せっかく一歩踏み出したところなんだから」

「……分かりませんね」


 苦しげな表情のまま、翠は呻くように呟いた。その表情通り、本当に苦しんでいるように。


「黒霧緋桜も、あなたも、どうしてそんなに強くあれるのですか?」


 だから、放っておけなかった。

 元来愛美は、面倒見のいい性格だ。それでいてストイック。ゆえに、敵や味方といった境界すら関係なく他人と接する。一部の例外は除くが、昨日まで味方だった相手と殺し合うことすら躊躇わないほど。


「朱音、先に帰ってなさい」

「いいの?」

「どうせ戦いにはならないわよ」


 正確には、戦いにもならない。軽く刃を交えて、愛美も、あるいは翠も同じく理解していた。今の二人では、戦闘と呼ぶべきものにすら至らないだろうと。

 そこにあるのは、一方的な蹂躙だ。


 朱音が転移で帰ったのを見て、愛美は翠に歩み寄る。異能ごと切断してしまったため、右腕は吸血鬼の再生力頼りとなっている。

 そこに治癒のための復元魔術をかけてやれば、右腕はあっという間に元に戻った。

 しかし、治療してもらった側の翠は不思議そうに愛美を見上げている。


「どういうつもりですか?」

「少し、話をしましょうか。私が、あるいは黒霧緋桜が、どう言った人間なのか」


 短剣を鞘に収め、パーカーのポケットに手を突っ込んだ愛美。戦意を完全に消している。とはいえ、翠が隙を突いて攻撃したり、逃げたりと言ったことはできなさそうだ。

 そもそも質問したのは翠の方なのだから、彼女にも逃げる気はないだろうけど。


「正しさを求めて強さを欲する。私があいつから、緋桜から教えられたことよ。正しいと思うことをしたかった。家族を守りたかった。それしかない私が、道を踏み外さないで済んだのは、あいつがそれを教えてくれたから。あなたはどう? あなたの中の正しいこと、言い換えれば正義みたいなものはある?」

「わたしにとっては、ネザーが全てです。あの方の道具となり、あの方の願いを叶える。それがわたしの全て」

「その考えは否定しないけどね。ならそれは一体、どこから来た願いかしら。誰かに与えられただけのものか、自分が考えて、考え抜いた自分だけのものか」


 少なくとも後者であれば、自分のことを道具などと言えないはずだ。

 出灰翠には、それしかない。

 向けられた愛情も、己の中にあるものも、全ては自分ではなくネザーを中心としている。あらゆる人間のあらゆる願いが、自己を中心としたものであるのに。


 例えば、見知らぬ誰かを救うヒーローになりたいと願う少年も。

 もしくは、未来の世界を救いたいと願う少女も。

 あるいは、家族を守ると誓った自分も。


 結局のところ、その全てが自分勝手で我儘な願いに過ぎないのだ。どれほどの綺麗事であろうが変わらない。

 いや、そうでなければ薄っぺらなものになってしまうと、愛美は考えている。


 この少女には、それがない。

 そして葵や緋桜たちとの邂逅を通して、そんな自分自身に疑問を持ち、苦しんでいる。


 ならば手を差し伸べなければならない。

 敵であろうが関係ない。そう出来るからこそ、桐原愛美はどこまでも正しく、優しく在れるのだ。


「そうね、一つ分かりやすい、自分勝手の極致みたいなものがあるけど」

「なんですか?」

「恋よ。好きな男の一人でも作ったら、あなたも変わるんじゃない?」


 眉間に皺を寄せた翠は、信じられないものを見る目をしている。失礼な、こっちは割と普通に大真面目だというのに。


「命短し、なんて言うけどね。あなたはどうせ普通の人間より長生きでしょ? それでも、私の腕の一振りで消えてしまうほどに儚い命。なら生きてる間に、恋の一つでもしてみるものよ」

「バカにしているのですか」

「まさか。魔女じゃあるまいし、こういうネタでバカにしたりはしないわよ」


 本当に、愛美は真面目に言っているのだ。

 ただ、恋というのは少し極端な話かもしれないけど。


「要は、自分勝手な我儘のひとつくらい言ってみなさいってこと」

「我儘、ですか……」

「そう。ネザーのために戦うのは別にいいけど、例えばそれとは別に殺したいやつとかいない? あなたの感情、あなたの気持ちを基にした戦い。そういうのはないのかしら?」

「あの男を……黒霧緋桜を、一度叩きのめしたいですね」


 無機質な瞳に僅か怒りの色が見て取れ、愛美は内心嘆息した。あのバカはまたなにかしでかしたのか。

 だがまあ、それがいい方向に働いているのだろう。自分の時と同様に。


「いいじゃない、応援するわよ。私もあのバカは、一度殺したいと思ってたのよ」

「……妙なことを言うのですね。彼は、あなたの仲間ではないのですか?」

「仲間、だけどね」


 ふふっ、と。微かに見せた笑みには、どうしようもないほどの狂気が孕んでいて。


「誰であろうと。織だろうが朱音だろうが。この手で殺してみたい、なんて一度は思っちゃうのが、殺人姫ってやつなのよ」


 だから愛美は、正しさを求める。この殺人欲求を抑えるために。こんな自分が、みんなと一緒にいていい免罪符を。

 そのために、強くあらねばならない。


「さて、話はこれくらいでいいかしら。帰るんでしょう?」

「……納得したわけではありませんが、帰るしかないでしょう。任務は失敗、あなたとは戦うことすら出来ませんでしたから」

「そう。次に会う時は、もっとマシになってるよう祈っておくわ」


 手をひらひら振りながら翠に背を向ける愛美。自分も帰るために転移の術式を組もうとして。

 直前で、術式構成を止めた。

 街の遥か南。海の上から、ただならぬ魔力の反応を捉えたから。


「そう言えば、ネザーはグレイとも敵対してたわよね」

「手伝え、と?」


 翠も気づいたのだろう。愛美の意図を察して聞き返してくる。それに頷きを一つ返した愛美の表情は、先程までの余裕が嘘のように固いものだ。


「利害の一致よ。これを放っておいたら、あなたたちもマズいと思うけど」

「グレイの勢力との戦闘は、命令にはありません」


 半ば予想通りの答えではある。今の翠が、自分から進んで命令以外の戦闘を行うとは思えない。

 本人の言った通り、彼女はネザーの道具として動いているのだ。ならばその思惑から外れる可能性のある行動は慎むだろう。


 しかし。


「しかし、このイレギュラーは任務の範囲内と捉えます。お手伝いしましょう、殺人姫」

「助かるわ」


 愛美との会話で、あるいはこれまで葵たちと関わる中で、緑の中でもなにか変化があったのかもしれない。本人に自覚があるかはさて置くとして。


「結界が割れるのも時間の問題ね……仕方ない、中に出るやつらは、他の連中に任せましょうか。飛ぶわよ」

「はい」


 術式を構成しなおして、愛美は翠とともに海上へと転移した。

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