命儚い恋せよ少女
第92話
糸井蓮は悩んでいた。
非常に悩んでいた。
彼が悩むことといえばそんなもの一つしかなく、まあ当然黒霧葵とのことなのだが。
進展がない。
全くもってこれっぽっちも。今の葵が帰ってきてから、少しは距離も縮まったのに。そこからずっと足踏みしている状態だ。
このままではダメだと分かっている。どうにか一歩踏み出したい。
男である自分から、というのは少し前時代的な考え方だろうか。けれど、いつもは妹の一人からしっかり悪いところを受け継いだ葵に、からかわれたりリードされたりしてばかなのだ。
と、そこまで考えるのはいいものの、だからと言ってどうすればいいのかなんて分からない。蓮はこう見えて、恋愛初心者なのだ。
ただ救いは、先輩方のように偏差値クソザコというわけではないところである。
「いや、オレから見れば十分酷いもんだぞ」
「そうかな……?」
「そうなんだよ。いつまでうだうだやってやがるって話だ」
本日は日曜。学院も休みだが、蓮とカゲロウは棗市のファミレスに集まっていた。
別に二人はこの街に住んでいるというわけではない。ただ、事務所があったりハウンド小隊の拠点があったりするので、特に意味もなくここで集まってるのだ。
蓮の家は東京、カゲロウなんてサーニャと同じ廃墟に住んでる。
「チビのことが好きなら、さっさと告白でもなんでもしてくっ付いちまえよ。つーか、向こうもお前の気持ちは知ってるし、お前もあいつの気持ちは知ってんだろ?」
「知ってるけど、知ってるからこそって言うかさ……」
うまく言語化できないが、葵の自分に対する好意を自覚しているからこそ、逆に身動きが取れなくなってしまっているというか、まあそんな感じだ。
完全にタイミングを逃した、とも言う。
本当ならあの日。再び目の前に現れた二人が、本当に消えてしまった日に。全部、言えればよかったのだが。
「どうすればいいんだろうな……」
「オレに聞くな」
同時に吐き出されたため息は、しかし全く別の意味を持ったもの。
カゲロウに相談しても仕方ないのは分かってるのだ。結局これは、蓮自身の問題で。なら答えは自分の中にしかない。
「おっ、なにやってんだお前ら?」
沈鬱とも言える雰囲気の中で声がかかった。顔を上げれば、そこには風紀委員会の先輩たるシルクハットの少年、桐生織が。
珍しいことに、愛美も朱音もいない。どうやら一人らしい。
「どうも、桐生先輩」
「おう、お前こそ一人かよ」
「愛美と朱音はちょっとな……俺は仕事終わり。事務所の近くで依頼終わらしてきたところだ」
嫁も娘もいないから、一人でファミレスに来たらしい。店員に相席の断りを入れた織が、ドリンクバーも一緒に頼んでジュースを取りに行き、カゲロウの隣に腰を下ろした。
「んで、お前らは? てかなんで棗市にいるんだよ」
「この街だとなにかと都合がいいですから。先輩たちもいるし、街自体も色々店あるから便利だし」
「で、今日は蓮の愚痴を聞かされてるってわけだ」
別に愚痴を吐いてるつもりはないのだが……いやある意味では、情けない自分に対する愚痴と言えなくもないか。
「あー、葵とのことか?」
「よくわかりましたね……」
「蓮が分かりやすいだけだぞ」
カゲロウからの鋭い指摘。織も苦笑しているということは、まあそういうことなのだろう。それも自覚がないわけじゃない。
恐らくは蓮個人というよりも、蓮と葵の間にある微妙な雰囲気に周りが勘付いているだけなのだろうが。
「織、お前からもなんか言ってやれよ。こいつらもうずっとこんなんだからな」
「いや、でもなぁ、俺も蓮の気持ちは分からないでもないしなぁ……」
「分かってくれますか!」
「まあ、俺と愛美も似たようなもんだった、らしいし」
そういえば、葵から聞いたことがある。織と愛美は恋愛偏差値クソ雑魚ナメクジで割と前から互いに好き合ってたのに、どっちもうだうだしたままで結局付き合うようになったのは外的要因が絡んだからだ、と。
しかし、蓮にとっては先輩だ。学院のという意味もあるが、恋愛の先輩だ。あの殺人姫のハートを射止めたのだから、そりゃもう大先輩だ。
「面倒な女の扱い方、お前なら教えられるんじゃねえの?」
「言い方に気をつけろよ。愛美が聞いてたら殺されるぞお前。ついでに葵にも」
面倒な女、というところは否定しないらしい。せいかくには否定できる要素がない、と言ったところか。そればかりは蓮も首を縦に振らざるを得ないが。
客観的事実として、桐原愛美も黒霧葵も、色々とめんどくさすぎる。抱えている事情とか、本人の性格とか、その他諸々が。
本当に否定できる要素がかけらも存在しないのだ。
ただ、恋は盲目とでもいうのか。蓮にとっては葵のそんなところも好きなわけで。
「うちの場合、飯食わせてたらなんとかなるしなぁ……」
「食費、大丈夫ですか?」
「だいじょばないなぁ……」
織の顔から血の気が引いていった。どうやら割とやばいらしい。
とはいえこの一家なら、報酬が高額な依頼も難なく片付けるだろうし、いざとなればどうとでも出来る。最悪愛美の実家に頼る手もあるだろう。
「愛美は今まで稼いでた分があるから結構金持ってるらしいんだけど、全部そこに頼るわけにもいかねえだろ? でもだからって事務所に来る街の人から高額むしり取るわけにもいかないし、最近は学院の依頼に行く暇もないしさ。結構カツカツなんだよ」
「飯用意できなくなったら、あいつら暴れそうだもんな」
「それな〜〜〜」
なんとも主婦じみた悩みだ。朱音の大食漢ぶりを思い出してるのか、カゲロウはくつくつと喉を鳴らしている。
「ああ悪い、今はうちの家計事情より、蓮の話だったな」
「いえいえ」
そんなそんな、なんならそのままその話は流れてくれても良かったんですよ。
「そういや蓮。葵の猫耳どうだ?」
「めちゃくちゃ可愛いと思いますけど」
即答した。だって可愛いのだから。
葵本人はあまりよく思っていないみたいだが、あれは恐らく新手の殺人兵器だ。
ただ頭に三角がついただけと思うなかれ。感情に合わせて揺れる猫耳は、ただそれだけでこちらの庇護欲を掻き立てる。ただでさえ可愛い葵が更に愛くるしくなってしまった。
可愛いは正義であり、蓮は正義のヒーローを目指すので、あの猫耳はどうしても死守しなければならない。
実は蓮も、慣れるまでに相当な時間を有した。最近彼女と別行動が多かったのも、その辺りが起因している。
「そうかそうか。喜んでもらえたようでなによりだ。ちなみに耳も尻尾も、ちゃんと神経通ってるからな」
「マジですか⁉︎」
「マジマジ。この前愛美で試してみたし」
さらっと惚気ないで欲しい。
しかし、そうか……あれどっちも神経通ってるのか……今度、いつもからかわれてるお返しにどうにか触ってみようかな……いやでも普通にセクハラになるのか……?
「おい蓮、尻尾はやめとけよ。普通にセクハラだぞ。ぶん殴られても知らねえからな」
「……分かってる」
「なんだよ今の間は」
多分、カゲロウに忠告されてなかったら普通に触りにいってたと思う。そしてぶん殴られてた。
でも猫って尻尾の付け根とか撫でると喜ぶし、葵はどうなのだろうか。
それに答えてくれたのは、頼れる先輩桐生織。
「たしか猫の尻尾って、色んな神経と繋がってるんだよ。んで、付け根撫でると喜ぶ猫いるだろ? あそこ、フェロモンの分泌腺もあるんだってさ」
「つまり……?」
「あの辺めっちゃ敏感だから、マジでやめとけよ。俺は面白がって触ってたら愛美に引っ叩かれた」
「あ、はい」
なにやってるんだこの先輩は。触りすぎたら猫だってストレスを感じるだろう。いや、猫じゃなくて桐原先輩だけど。
尻尾を触るのは諦めて耳にしておこう。
蓮は決意を固めた。
「つーか猫耳云々よりもよ、お前、チビとデートの一つでもしてきたらどうなんだ?」
「誘えたらカゲロウなんかとこんなところにいないよ」
「おう喧嘩売ってんのかお前」
切実な悩みだった。せめて、告白はできなくてもせめて、デートに誘えるくらいは簡単にできたら。
ただ、思春期特有の自意識が邪魔をして、それすらできない。カゲロウや朱音も交えてとか、依頼で二人きりにとか、そういう建前や口実があればどうとも思わないのだが。
まだあの二人がいた頃なんて、想いを伝えようとも考えていなかった。
葵にその余裕がなく、敢えて蓮の気持ちに気づかないようにしているのは、蓮にも分かっていたから。
その後のゴタゴタでは、そもそも蓮自身の気持ちがどこへ向いているのかすら宙ぶらりんだった。
それに比べると、今はよく頑張ってる方だと思う。葵の吸血にしてもそうだし、出来る限り好意を言葉の端々に滲ませてはいるし、先日、葵に猫耳が生えたその日なんて、後一歩というところまでいったのだから。
そういえば、あれは織に邪魔されたのだったか。本人に悪気があったわけじゃないと分かっていても、ちょっとムカッ腹が立ってきた。
「ん、どうした蓮」
「いえ、そういえばこの前は、桐生先輩に邪魔されたな、と」
「その節はマジで申し訳ありませんでした」
織が机に頭をぶつけ、ゴンッ! と結構痛そうな音がする。織としても、あの時のことは本当に悪かったと思っているらしい。まあ葵にめちゃくちゃ怒られたっぽいし。
「んなことより、蓮はさっさとチビをデートに誘え。今この場で」
「え、今? それはちょっといきなりすぎないか? もっとさ、ほら、それらしい話を葵に振ってから誘うとか」
「そんなんだからいつまで経っても進まねぇんだろうが」
仰る通りである。
ポケットからスマートフォンを取り出し、チャットアプリを開く。葵とのトークルームは、他愛のない雑談から事務的な連絡まで様々だ。
因みに前の葵は結構絵文字を使ってたけど、今の葵は絵文字どころかビックリマークとかも使わない。
ので、トークルームを見せた二人からは、こんな反応が。
「なんか、随分淡々とした返事だな」
「え、怖、全く感情読み取れないじゃん。女子のラインってこんななのかよ」
前者がカゲロウ。後者が織。
そう、怖いのである。全く感情が読み取れないのである。蓮のメッセージに対して葵がどう思っているのか、カケラも分からないのである。
シンプルに葵が緊張しているだけだと知る由もない男どもは、思い思いの言葉を口にする。
「いやもうマジで怖いんですよこれ。なんて送ればいいのかめっちゃ悩むし、送ったら送ったでいつもこんな感じの返信だし……なにが正解なんですか桐生先輩」
「いや、俺も愛美以外とラインとかしたことないから分からねえよ。そもそも俺、学院来るまでは女子とライン交換するまで仲良くなった覚えねえからな」
「え、クラスメイトなら交換くらいしません?」
「え?」
「え?」
「はい、やめやめ、これ以上は織が惨めになるだけだ。やめてやれよ蓮」
「おい惨めってなんだよ! んなことちょっとくらいしか思ってねえよ!」
「ちょっと思ってるんじゃねぇか」
思わぬところで先輩の悲しい過去を知ってしまった。聞かなかったことにしておこう。
「つーか、普段からラインしてるんなら簡単だろ。とりあえず誘うだけ誘ってみればいいんだよ。チビが断ると思うか?」
「思わない、けどさ……」
多分だが、葵は二つ返事で頷いてくれるだろう。しかしそれが分かっていたところで、じゃあ簡単に誘えるのかと聞かれればノーと答える。
単純にへたれてるだけだ。
取り敢えず、無難な話から振った方がいいか。そう思い文字を打ち込んでいくと、カゲロウと織から待ったがかかった。
「回りくどいんだよ!」
「なんだよお前、この、『魔術のことで相談があるんだけど』って! デート誘うような雰囲気にならないだろ! 俺でももうちょいマシだぞ⁉︎」
「いやでも」
「でもじゃねえ貸してみろ!」
スマホを奪ったカゲロウは、意外にもスムーズに文字を打ち込んでいく。この友人がスマホを使ってるところなんて見たことなかったが、案外使えるものなのか。
「ほら、これでいいだろ」
容赦なく押される送信ボタン。トークルームに表示されているのは、蓮からの『今からデートしよう』というメッセージ。
「ちょっ、カゲロウ⁉︎ なんで送信しちゃったんだ!」
「うるせえお前の許可待ってたら一生送れねえだろうが! こういうのは直球でいいんだよ直球で!」
「物事には順序ってのが」
「この段階まで来てるんだよお前らは! それに気づけバカ!」
なんて言い合いをしてるうちに。
「おっ、既読ついたぞ」
織がちょっと楽しそうに言った。
カゲロウと揃ってスマホの画面に視線を映す。しかし中々返事は来ない。まあ、予定を確認したりとかあるだろうし、すぐに返事をできるわけじゃないか。
だがそのまま五分が過ぎ。
「さすがに遅くないか?」
「ちょっと手が離せなくて既読だけつけたとか?」
十分が過ぎ。
「……やっぱり遅いな」
「緋桜さんにバレたりしてな」
「それ、俺もなんか言われそうで怖いんですけど……」
十五分が過ぎ。
「遅すぎるだろ! 既読スルーじゃねえか!」
「……」
「お、おい蓮! しっかりしろ! まだだ、まだ諦めるな!」
そして、永遠にも思える二十分が過ぎた頃。ようやく葵から返事が来た。
『ごめん、お兄ちゃんに捕まってた。私はいいよ。どこで待ち合わせようか』
「おい蓮! 生き返れ! チビから返事来たぞ!」
「緋桜さんに、ねえ……愛美に報告だな」
「ほら、お前も早く返事送れ! どこでデートすんだよ!」
どこでとか聞かれても、カゲロウが勝手に送ったからそんなのまだ決めてないのだ。
場所はまあ、棗市のどこかでいいとして。待ち合わせはどうしよう。駅前とかでいいかな。あそこならオシャレなカフェとかありそうだし。
「今何時だっけ……」
「十一時だな。今からなら昼飯も一緒に食えるじゃん」
「じゃあ十二時、は早いかな……一時、いや二時くらいに……」
「何時でもいいだろそんなん!」
結局十二時に駅前で待ち合わせということにして、その旨を葵へ送信した。今度は然程時間もかからず了解とだけ返ってくる。
事務連絡じゃないのに。
「よし、んじゃ行ってこい蓮。頑張れよ」
「うん。ありがとうカゲロウ。頑張ってくる」
勝手にメッセージを送られた時はどうなることかと思ったが、今から葵とデートできることになったのもそのおかげだ。
付き合ってくれた織にも礼を言い、自分の会計だけテーブルに置いて店を出た。
いつまでもへたれてるいるわけにはいかない。相談に乗ってくれた二人に報いるため、なにより自分のため。
今日で決着をつけなければ。
「よし、んじゃ尾けるか」
「お、探偵の尾行テクニックの見せ所だな?」
◆
男子連中がファミレスで馬鹿みたいに騒いでいた一方その頃。
「むむむ……」
「なにしてるんですか、これ?」
「ドレスのアレンジですって」
魔術学院の校庭に、三人の猫耳娘が。
なぜか唸っている朱音と、それを見守る愛美。そんな二人を見つけて近寄って来た葵だ。
愛美のいうドレスとは、レコードレスのことだろう。
位相の力を自在に操る、キリの人間にのみ許された特別な
賢者の石に記録されていたことと言い、石を宿したキリの人間がオリジナルを使えるようになることと言い、未だ謎が多い存在だ。
そのドレスを、朱音はアレンジしようとしている、というが。
「今朝テレビでね、特撮ヒーローを見てたのよ」
「あ、なんとなく分かりました」
つまりそれに影響されて、ということか。未来からやって来た朱音は、当然現代の知識に疎い。その上で、この時代にあるもののなにもかもが新鮮に映っているだろう。本人の好奇心が子供らしく旺盛なこともあって、割と色んなものに影響を受けやすい。
例えば少女漫画とか。
さしづめ、朝のヒーロー番組を見てたら、自分も仮面被ってるしレコードレスは変身みたいなものだし、似たようなものじゃないかと思ったのだろう。
それからシンプルにカッコ良かったから真似してみたい、とか。
「よし、こんな感じかな。見ててね母さん!」
満面の笑顔で振り返る朱音。葵に気づいたのか、手をブンブン振ってくる。苦笑気味に手を振り返してやれば、朱音の腰に変なベルトが現れた。
あ、そこから再現するんだ。
「
あの子今、思いっきり変身って言っちゃったよ。
呆れながらも、魔力の渦と光に包まれたそこを見守る。やがて現れたのは、いつもの黒いロングコートと朱色のスキニーという姿ではなく。赤と黒を基調とし、所々に銀色のラインが入ったメタリックなドレス。というか、装甲。腰には特徴的な変なベルト。顔を覆う仮面も少し変わっていて、赤い大きな複眼がついていた。
あれでは
「どう? かっこいいでしょ!」
「ええ、かっこいいわよ」
「やった! 葵さんはどうですか⁉︎」
「うーん、まあ、いいんじゃない?」
「ですよね!」
個人的には前のコートの方が良かったけど、朱音が楽しそうだし良しとする。
なによりこのアーマー、割とボディラインが強調されてるのだ。強調されるような山も谷もないが、それでも女子としてどうなのかと思う。
「ていうか、レコードレスって見た目変えれたんですね」
「出来るみたいね。私も知らなかったわ」
「私も知りませんでしたよ。でもなんか出来ちゃいました」
「適当だなぁ」
そのドレス、結構重要なものなのに、そんな適当でいいんだろうか。
ひとしきり満足したのか、朱音はドレスを元の形状に戻す。いつものロングコートとスキニーパンツ。腰には変なベルトがついてないし、いつもの仮面に戻っている。
「戻しちゃうんだ」
「はい。やっぱりこっちの方が動きやすいので」
「私はどっちの朱音もかっこいいと思うわよ」
出たな親バカ。柔らかく微笑んでいる愛美は、織に隠れているが彼に負けず劣らず、相当な親バカだ。元々家族というものに特別な思いを抱いているのだから、ある意味では当然かもしれないけれど。
「そう言えば、葵はどうしたの? 今日、日曜だけど。貴重な休日なんだから、蓮とデートにでも行って来なさいよ」
「蓮くんとはそんなんじゃないですよ……」
「あー、無駄だよ母さん。葵さんは奥手のヘタレだから、いざってところで日和って師匠のことからかっちゃうもん。母さんと同じだよ」
「今は違うじゃない」
ムスッと頬を膨らませる愛美は、本当に朱音とソックリだ。いつもよりちょっと幼く見えて、やっぱりこの人、美人だけど可愛いなあ、なんて思ってしまう。
猫耳のおかげで余計に。
「私、今日はお兄ちゃんにお弁当届けに来ただけですよ」
「お弁当? 葵が作ってるの?」
「はい。作ってくれって言うから、仕方なくですけどね。その癖作り終わる前に家出て、昼前に持って来てくれとか言うんですよ。私は貴重なお休みだって言うのに」
全く勘弁してもらいたい。なにが悲しくて貴重な休日に、兄への手作り弁当を作らねばならないのか。その上持ってこいとは何事か。
まあ、緋桜はネザーにいた頃も学院に戻って来た今も頑張っているから、労いの意味も込めて作ってあげるけど。
「葵さん、割とブラコンですよね」
「ブラコンじゃないから!」
「兄が兄なら妹も妹ってことでしょ」
「失礼なこと言わないでくださいよ!」
私は断じてあんな変態クソ野郎とは違うのだ。可愛い子なら誰にでもちょっかいをかけ、敵の少女のスカートを覗くような変態とは。
そのまま特になにか決めるでもなく、三人は揃って校舎内へと足を向ける。
休日にも関わらず、学院内にはそれなりの生徒がいた。さっき校庭にいた時も、猫耳が三人集まってるからか、位相の力を見ていたのか、遠巻きから視線を感じたし。
勤勉なのはいいことだ。たしか今日は、久井が錬金術の講義をしている日だったか。あのぐうたら教師は、あれで世界最高峰の錬金術師というのだから、不思議な話である。
「ていうか、緋桜ってどこにいるのよ。職員室? それとも地下で拘束されてるとか?」
「人の兄をなんだと思ってるんですか……」
お前が言うなと誰かに言われそうだが、さすがに地下で拘束とかはないはず。
ていうかこの学院、地下とかあるの?
「ふつうに職員室いますよ。多分」
なにせ、緋桜が現在学院内において、どういった立場なのかあまり分からない。ネザーから追放され、葵と共にふつうに黒霧家で過ごし、毎日学院に顔を出しているけれど。どこでなにをしているのか、そういえば聞いていなかった。
たどり着いた職員室の扉を開くと、しかし予想と違って緋桜の姿が見当たらない。
代わりに朱音が、別の人物の元へと駆けていく。
「サーニャさん!」
「む、どうした貴様ら。今日は日曜だぞ」
駆け寄り抱きついて来た朱音を引っぺがしてその辺に放り捨て、サーニャは葵と愛美へ視線を寄越す。
ぞんざいな扱いをされた朱音は、それでも笑顔だ。親バカな愛美も口を出すことなく、呆れたようにため息を吐いている。
「お兄ちゃん見ませんでした? お弁当持って来てくれって言われてるんですけど」
「緋桜か。今日は見ていないな」
ふむ、と顎に手を当てる銀髪の吸血鬼は、他の教師にも訊ねるが誰も緋桜の居場所を知らない様子だった。
兄の居所なんかより、まさしく今目の前の光景の方が葵にとっては重要だ。
サーニャが、人間に友好的だったとはいえ、吸血鬼であるサーニャが、周りの教師たちにちゃんと受け入れられている。
言葉は冷たいし基本ツンデレでコミュニケーション能力が高いわけでもないサーニャが、だ。思わず感動を覚えてしまった。涙がちょちょぎれる。
「葵、なんだその目は」
「いえ、サーニャさん、よかったですね……」
全く意味がわからんとばかりに首を傾げ困惑しているサーニャに、朱音が補足してくれた。
「サーニャさんはツンデレコミュ障ですので、葵さんは職場で円満な人間関係を築けてるか心配だったんですよイタタタタタ!! 待ってサーニャさんアイアンクローはやめて痛いですが!」
「だったら今の発言を取り消すのだな」
相変わらず仲がよろしいことで。
さすがに話が脱線しすぎた。見兼ねた愛美が、パンパンと手を打つ。
「サーニャ、あまりうちの娘を虐めないで頂戴。仲が良さそうで羨ましいけどね」
「ならちゃんと躾けておくのだな」
どうやら愛美も怒ってはいないらしい。この人が本気で怒れば、もっと殺気ダダ漏れだし、言葉より先に短剣が出てる。
「それより、そういうことならひとつアテがあるわ」
「お兄ちゃんの?」
「ええ。地下じゃないかしら」
「え」
やっぱり拘束されてるの? 未成年に手を出したとかで?
そう思ったが、どうやら違うらしく。
「多分、あの子の部屋にいると思うわ」
一瞬だけ寂しげな目をした愛美を見て、葵もその意味を悟った。
学院の地下。あの子の部屋。それらのワードで思い当たる場所なんて、一つしかない。
職員室を出た三人は、交わす言葉も少なく風紀委員会室へと向かう。
その扉の前にやって来ても、部屋へは入らない。風紀委員会室の隣に設置された、地下へと繋がる扉に、愛美が手をかけた。
開けば、石造りの壁と階段が下へと続いている。葵がこの道を通るのは初めてのことだ。かつてのあの子たちが、何度も訪れては昼過ぎまで寝てるあの人を起こしていた記憶はあるけれど。
ずっと下へ降りていくと、木製の扉に行き当たる。それを開いて中に入れば、記憶にあるよりも小綺麗な部屋が。
左手側には魔導書が何冊か置いてある机が、右手側には数々の魔導具が陳列された棚と、バスルームへと続く扉。中央の奥にはシングルベッド。
そして、そこに腰掛けているのは、この部屋の主ではない。
分厚い魔導書を器用に片手で読み、口にはタバコを咥えている男。
彼女の数少ない友人であり、恩人でもある、葵の兄だ。
「やっぱり、ここにいた」
「おう、お前らか」
手元の本から顔を上げ、タバコの火を消す緋桜。兄がタバコを嗜んでいたなんて知らなかった。
薄明かりのせいだろうか。その顔には僅かながら影が差している。
「らしくもなく感傷に浸ってた?」
「まあ、それもあるな。あいつの声を思い出してた」
「声、ね」
「出会った頃のな」
人が誰かを忘れるとき、まずその声から忘れるという。
忘れたくないと思っても、人間はそんなに優秀な生き物ではない。時の流れには勝てることなく、脳は、記憶は劣化していく。
どれだけ綺麗な思い出も、醜い執念も、平等に。
「今思い出してみると、なんだか笑えて来てな。覚えてるだろ? お前に興味ないって言った時のあいつ」
「忘れるわけないでしょ。まだほんの二年前よ」
「そのくせして、数ヶ月後には大親友だ」
「それはあんたもでしょ」
葵にも、朱音にも分からない話。この二人だけが共有している、胸の奥に秘めているであろう宝物。
それを壊さないように、割らないように、そっと取り出して、思い出す。
葵も朱音も。織やサーニャ、学院長に有澄だって。彼女との思い出は存在する。
でも、魔女と恐れられた桃瀬桃が、もう一度人間として生きることが出来たのは、その時その場にいて、思い出として語れるのは。
桐原愛美と黒霧緋桜。
この二人だけなのだ。
「あんたまさか、学院にいる時はずっとここにいるんじゃないでしょうね」
「まあな。あいつが遺した魔導書を解析してた」
持ち上げてみせたのは、先程まで緋桜が読んでいた魔導書だ。まさかそれがそんなに大切なものだったなんて。
「桃の魔術が全部ここに記録されてる。賢者の石とは別口で残しておきたかったんだろうな。空の元素についても記述されてるが、俺にはサッパリだ」
薄ら笑いで肩を竦める緋桜。そう言う表情、動きをする時の兄は、嘘をついてるのか本当のことを言ってるのか分からない。
普段は分かりやすい癖に、隠すのは人一倍うまいのだ。
「で、三人揃ってどうしたよ」
「あ、そうだった。ていうか、お兄ちゃんが言ったんでしょ、お弁当持ってきてくれって」
「ああそうだった。悪い悪い」
全く悪びれもせず、葵が手渡した弁当を受け取る。その顔はいつも通り。ふざけた変態クソ野郎のものだ。
「いやぁ、仕事で疲れた昼休憩に、愛しの妹が手作りしてくれて、挙句こうして職場に持ってきてくれた弁当! 最高だな!」
「キモ……」
「殺そうかしら」
「ドン引きですね……」
「さすがに泣くぞ?」
特に葵の「キモ……」が効いたらしい。言った瞬間苦しむように胸を押さえてた。ここで喜ぶような兄じゃないだけ救いか。
「お前らも料理くらいできるようになっとけよ。特に愛美。そう言うところじゃない限り、お前に母性ってもんは宿らねえぞ」
「今どこ見て発言した言ってみろ」
短剣を抜こうとした愛美の手首を、すかさず緋色の桜が遮った。こんなしょうもないやり取りひとつ取っても、なぜか無駄に洗練されてる感じがする。
あの人がいた時から、ずっとこんな風にやりあってたのだろう。
いつかどこかの過去。葵の知らない楽しげな光景を想像していると、ポケットの中のスマホが震えた。
未だに言い合ってる愛美と緋桜を横目に確認してみれば、蓮からメッセージが届いている。
そこに書かれているのは、衝撃の内容で。
「えっ……」
「おお! 葵さん、今から師匠とデートですか!」
「あ、ちょっ、朱音ちゃん⁉︎」
気配を消してにじり寄って来ていた朱音に、蓮からのメッセージを見られた。挙句大声で叫ばれた。
当然、シスコン馬鹿が反応しないわけがなく。
「なに? 葵がデート?」
「あんたは大人しくしてなさいっ!」
「そんなわけに行くか! くそ蓮のやつ葵に手を出すなって釘を刺しておいたのに……!」
「なに余計なことしてんのよあんたは!」
「葵さん、取り敢えず部屋出ましょう。緋桜さんが邪魔ですので」
「あ、うん。そうだね、邪魔だね」
「邪魔ッ……っ……行かせるか!」
扉の前を、緋色の花びらが遮った。
なぜか泣きそうな緋桜の仕業だ。邪魔なのは事実だからしょうがないじゃん。
「葵がデートなんて、お兄ちゃんは許しませんよ!」
「いや別にお兄ちゃんの許しとかいらないし」
「あ、こら待て!」
まあ所詮はただの魔術なので、葵が異能で無理矢理こじ開けたのだが。
馬鹿な兄の慟哭を背に受けながら、三人は隣の風紀委員会室に移動した。愛美は頭痛を抑えるように、コメカミに手を当てている。
「あの馬鹿委員長にも困ったものだわ……」
「今の委員長は母さんでしょ」
「……そうだったわね」
どうやら素で間違えたらしく、ちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめている。可愛い。
さて、可愛い先輩を愛でている場合ではない。蓮からラインが届いた。しかも、いつもみたいな業務連絡とか、雑談とかではなく。
『今からデートしよう』
誰がどう見ても、間違いなく、デートのお誘いである。
デートのお誘いであるッ!!!
「えっと、ど、どうしよう朱音ちゃん、なんて返せばいいかな?」
兄がいなくなって一度落ち着いたら、遅れて謎の羞恥心とか焦燥感とかが襲ってきた。なんだこれ、なんでデートのお誘いだけでこんなに照れ臭いんだ。
いや、もちろんこのお誘いは受けるけど。デートとか全然行くけど。でも返事はどうしたらいいの……?
「ふつうに行きましょうって返すだけじゃダメなんですか?」
「いやだって、それだけじゃなんか味気なくない⁉︎ いやでも、そもそも今から? 私、制服だよ……?」
「いいじゃない制服デート。なんか青春って感じするわよ」
「愛美さんは黙っててください!」
「どうして……」
シュンと猫耳と尻尾を垂らす愛美は、割とガチ目に凹んでるらしい。
しかし、愛美の恋愛偏差値はアテにならない。朱音も似たり寄ったりではあるけど、愛美のそれよりマシなはずだ。有澄さんかサーニャさん、この際カゲロウでもいいからいてくれれば良かったのに……!
「せ、せっかくの初デートだよ? 向こうは多分私服だろうし……私だけ制服って、なんか違うくない?」
「じゃあ家に帰って着替えたらいいのでは? 異能でちゃちゃっと着替えるのもありだと思いますが」
「あー、でも、でもぉ……」
「結局葵さんはどうしたいんですか。師匠とデートしたいんですよね?」
ため息混じりの問いかけに、頷きを返す。
蓮とのことは、ここ最近の悩みでもあったのだ。いつかの時よりも距離が縮まったのは間違いない。でも、それ以上先に進めない。
だからキッカケが欲しかった。建前や口実がなければ、一緒にいることすらなかった。
そんなものがなくても、ずっと一緒にいたいくらいなのに。
「はぁ……貸してください」
素直にスマホを渡せば、朱音は慣れない手つきで、しかし危なげなく文字を打ち込んで行く。そういえば朱音がスマホを操作しているところなんて見たことがない。自分のは持っていないみたいだし、それでもそれなりに適応して扱えるのはさすが。
いや、文字を打つくらいなら誰にでも出来るか。
「はい、これでいいと思いますが」
「……って、もう返事しちゃってるじゃん! せめて私の確認取ろうよ!」
「そんなことしてたら、一生返事できないじゃないですか」
そんなことはない、と思う……多分。
既読してから随分経っていたから気を遣ったのか、朱音は兄との一部始終も軽く説明してくれている。それでいて、会話がちゃんと終わらないように待ち合わせについても聞いてるのだ。
この子、存外に出来る……!
逆だ。葵と愛美が出来ないだけである。
その後のやり取りはさすがに葵が代わり、一時間後の十二時に棗市の駅前集合と相成った。
ここまで決まってしまえば、腹をくくるしかない。今から家に帰って服を着替えて、最高におめかしして向かわなくちゃ。
「じゃあ、行ってくるね」
「はい。頑張ってきてくださいね」
「うんっ!」
今日で、決着をつける。兄がどれだけ五月蝿かろうと、寸前でヘタレそうになってしまおうと。
ちゃんと好きだって、ずっと一緒にいたいって、伝えるんだ。
「さて、尾けるわよ」
「なんか探偵っぽいね」
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