第88話

「あーダメだ……何もわからん……」


 朝から登校したクラスの教室。午前の授業全てを終えた織は、自分の机に突っ伏した。

 久しぶりに授業を受けたが、マジでなにも分からない。特に数学。意味わからん。なんで数学の授業に英語が出てきてんだよふざけんな。


「情けないのぉ、そんなんで石の器が務まるんかいな」

「うるせぇ、そういう晴樹はさっきの授業理解してんのかよ」

「全くわからん」

「人のこと言えねえじゃねえか!」


 織と晴樹は、一般教養の成績があまりよろしくない。魔術関係であれば二人とも優秀なのだが、どうにもふつうの勉強は苦手なのだ。


「てか桐生、お前分からんねやったらその目使えや」

「できたらやってるっての」


 現在絶賛暴走中の幻想魔眼。常時無差別発動状態ではあるが、なぜか数学の問題には適用されなかった。

 異能ですら俺の成績を見捨てるのかと絶望したが、そんなわけがない。


 幻想魔眼は、不可能を可能にする異能だ。

 つまり、ふつうに勉強すれば数学の問題程度解けるようになるので、魔眼の適用外。織の怠慢、勉強不足である。


 まあ、四ヶ月も授業に出ていなかったのだから、今からいきなり追いつけと言われても無理な話だ。

 そのはずなのに、どうして同じだけ授業を受けていなかった愛美は、ふつうに問題が解けてしまうのだろう。

 これが地力の差か。


「お前ら今からどうすんの?」

「今日は戦闘訓練や。お前も来るんやぞ」

「え、聞いてない。てかこの後先生に呼ばれてるんだぞ」

「それ終わった後来たらええやろ」


 それもそうか。

 いやしかし、今の織と愛美が訓練に混ざってもいいものなのか。無駄とは言わないが、どちらかと言うと教わる側ではなく教える側の実力だと思うのだが。


 傲慢な考えだとは分かっていても、実際にそれだけの実力差がある。

 特に愛美。石を手に入れる前ですら他を寄せ付けぬ強さを誇っていたのに、今となっては手の施しようがない。

 シンプルに、戦い方の選択肢が増えたのだ。近距離でナイフを振り回すだけだったのが、石に記録された術式のお陰で遠距離にも対応できるようになった。

 基本的に織と組んで戦うため、互いに遠近で別れてサポートし合っているから、織でさえその本領を見たことはないが。果たして、石の力を全力で振るった際の愛美は、どれだけ強いのか。


 晴樹たちと別れて愛美を伴い教室を出る。

 学院長室まで辿り着けば、蒼と有澄が待っていた。


「やあ二人とも。待ってたよ」

「今日も織の魔眼についてかしら?」

「その通り。有澄、出してあげて」

「はい」


 有澄からソファを勧められた二人はそこに腰を下ろし、目の前のテーブルに魔法陣が広がる。その上に現れたのは、様々なデザインのメガネだ。一貫しているのは、昨日有澄が事務所に持ってきたものと、似た魔力を感じる点か。


「昨日、有澄がメガネを持ってきただろう? それらはそのお仲間だ。こっちの世界で言うところの魔導具。向こうでは龍具って呼ばれててね。龍神の力が込められた特別製の魔導具だと思ってもらえればいい」

「異世界の魔導具、ってことですよね? そんなぽんぽん持ってきていいものなんですか?」

「別に問題ないよ。魔導具どころか、人間がこっちの世界に永住してるんだし」


 有澄のことを言っているのだろう。

 以前軽く説明されたことがある。彼方有澄は、位相の向こう側にある世界、異世界の出身者だと。


「でも、昨日有澄さんが持ってきたやつって、一番強い力を宿してたんでしょ? 他の魔導具でどうにかなるものなの?」

「幻想魔眼の力を考えると、強すぎたからダメだった、って可能性もあるからね。試せるものはなんでも試しておかないとだ。それから、暴走の原因についてだけど。ひとつだけ、予想は立てられた」


 ピンと人差し指を立てた蒼が、織のオレンジの瞳を見つめる。


「織。魔女が残した空の魔術を、君は何回使ったことがある?」

「一昨日グレイに撃ったあれだけですけど……なんか関係あるんですか?」

「大有りだよ。魔女が術式を作ってるところ、僕も見たことあるんだけどね。それで思い出したんだ」


 はあ、とため息を吐く蒼は、ここにいない彼女を非難しているようだ。それが人類最強と魔女の日常だったけど。いつも返ってきていた皮肉の言葉は、届いてこない。


「魔女が新しく作り出した元素、空。僕ですら再現は不可能なわけだけど、それはなぜか分かるかい?」

「位相の力が使われてるからでしょ」

「愛美の言う通り。本来ならキリの人間にしか使えない、例外的かつ限定的に魔女も使えていた位相の力。それが術式自体に込められている。空の魔術はね、異世界の魔術なんだよ」

「はぁ……」


 そう言われても、織にはイマイチピンとこない。そもそも、レコードレスによって操る魔力自体が、異世界から無理矢理引っ張り出してきたものだ。

 本来ならこの世界に、魔術や異能などといっと超常の力は存在しなかった。位相とは、そんなこの世界にそれらの力を適応させるため、フィルターの役割も担っている。

 そのフィルターを通さずに魔力を行使できるのが、織たちの使うレコードレス。


 故に、空の魔術はドレスを纏っている時でなければ使用できない。


「幻想魔眼は、位相と関わりが深い。恐らくだけど、空の魔術を使ったことが引き金となって、呼応するように幻想魔眼の力が増した。結果織の手に負えなくなり暴走、といったところかな」

「あの魔術を使っただけで?」

「使っただけで、だよ」


 幻想魔眼については、織本人ですら分からないことが多い。

 四ヶ月前に旧桐生探偵事務所で、父である凪の遺した音声から、キリの人間については聞いた。しかし、この魔眼についての必要最低限の情報しかなかった。


 代々キリの人間に発現した、不可能を可能に変える異能。キリの人間に与えられた使命に必要不可欠なもの。


 そして。

 賢者の石とともに、この世界に初めて齎された力であること。


「僕としては、そもそも幻想魔眼の真価が不可能を可能に変えるってだけとも思えないんだけどね。これはまた別の話として、とにかく織は、あの魔術を今後使わないように」

「私はいいわよね?」

「いいけど、愛美も使えるのか?」

「いくつか開発途中の術式はあるわよ」


 太陽の光を使うあの魔術が、石に記録されている唯一の術式だ。どういう理屈か、織と愛美の石は記録された術式を共有している。

 愛美にもあの魔術は使えるし、逆にその術式を基礎として、別の魔術を作ることだって出来るのだ。


 とはいえ、誰にでも出来る芸当ではない。そもそも新たな術式を作ること自体、相当な腕が必要になる。

 概念強化といい、愛美は術式を作ることが得意なのだ。


「仮に暴走の原因が空の魔術にあるとして、じゃあどうやって抑えるんすか?」

「そこでこの龍具たちの出番というわけです」


 腕を広げて自慢げにメガネを見せてくる有澄。どうやら、昨日と同じく相当自信があるらしい。

 黒縁に赤縁、ハーフフレームにメタルフレームやチタンフレーム、縁に花やキャラクターの柄をあしらったものまで。

 後なぜかヒゲメガネとかも置いてある。


「改めて見ると、種類が多いわね」

「効果も色々ありますよ! ただ力任せに封じるだけだと、昨日の二の舞になりますからね。わたしの方でも手を加えてあるのばかりです」

「ヒゲメガネだけは勘弁だな……」


 興味深そうに猫耳をピコピコ動かしながら、愛美はメガネを一つ手に取る。なんの変哲もなさそうな赤縁メガネ。

 それを掛けた瞬間だった。


「愛美ちゃんそれ外して!」

「え?」


 有澄の叫び声と同時に、愛美を中心として目に見えない斬撃が吹き荒ぶ。

 ソファが、壁が、床が、蛍光灯が、ここにあるあらゆるものが切断され、すぐ隣に座っていた織も例外ではなかった。

 全方位に防護壁を展開するも、それすら無残に切り裂かれ、不可視の刃に体が両断されそうになった時。


「ソウルチェンジ・オーディン」


 刃の風が、吹きやんだ。

 立ち上がった蒼が愛美へ槍を向けており、愛美はピクリとも動かない。その隙に有澄がメガネを回収した。


「ご、ごめんなさい……迂闊だったわ……」

「いや、説明が遅れたこっちも悪いよ」

「すみません愛美ちゃん。これ、異能を意図的に暴走させる力が込められてるんです」


 つまり今のは、愛美の切断能力が暴走した結果、というわけだ。

 愛美の異能はあらゆるものを切断できるが、それは刃物で直接斬った時のみに発動される。以前小石でも使えていたことから、刃物に限らないのだろうが。それでも、対象に直接触れなければならなかったはずだ。

 もしも何かの拍子に暴走すれば。

 幻想魔眼よりも更に手の付けようがないものになるのでは。


 恐ろしい可能性に思い至って身震いするが、猫耳と尻尾をシュンと垂らした愛美が可愛いので許す。びっくりするくらい可愛い。


「つか、なんでそんなもん持ってきてるんすか。魔眼は既に暴走してるんだし、意味なくないっすか?」

「君にはもう一つ、異能があるだろう?」


 もう一つ、と言ってもいいものか。

 異能が魂に宿るというのであれば、未来視も幻想魔眼の力の一端と考えるべきだとは思うが。


「未来視の方を暴走させるってわけですか」

「そう。その龍具、ある程度は力の指向を操作できるからね。僕たち転生者みたいな、異能を複数持ってるやつが試した時は、それで上手くいった」


 つまり、未来視を意図的に暴走させることで、幻想魔眼と相殺させようという算段なわけだ。

 そう上手くいくものかと思っていると、有澄がまた別のメガネを手に取った。昨日持ってきていたものと似たデザイン、ていうか殆ど同じ黒縁メガネだ。


「わたしのオススメはやっぱりこれですね。昨日のやつを修復して、ついでにわたしの方で手も加えましたから、更に強力になってますよ」

「強力になったら余計ダメなんじゃないの?」

「やってみないと分からないですよ!」


 愛美の疑問を力強い声で跳ね除け、有澄がメガネを手渡してくる。

 織としても、多分ダメだろうなーという予感があるのでなんとも言えないのだが。まあ、取り敢えずやってみるだけやってみるか。


「どうだ?」

「ここまでは昨日と同じね」


 メガネをかける。愛美の言葉を聞く限り、目の色は元に戻ってると考えていいだろう。

 さて、問題はここからなわけだが。


「で、どうする? 今日は誰に耳と尻尾を生やしてもらう?」

「あ、それで決まりなのか」

「当然じゃない。ここまで来たら、いけるところまで被害者を増やすわよ」


 とてもいい笑顔で言ってみせる愛美は、昨日の夜に朱音の耳を存分に堪能していた。めっちゃモフモフしてた。羨ましい。俺も愛美をモフりたいのに。

 母娘の和やかなやり取りを思い出して癒される織だが、しかしこの状態で魔眼の力を試すと言うのなら、ふつうは逆だろう。


「それ、消さなくていいのか?」

「逆に聞くけど、消していいの?」

「………………………………」

「そんなに悩むくらいなら最初から聞かなきゃいいじゃない」


 いや、だって。消すとか無理だろこれは。

 可愛いのももちろんあるのだが、織はまだこの可愛い愛美とイチャイチャしてないのだ。ここだけは譲れない。


「そういうことなら、有澄にすれば?」

「え、わたしですか⁉︎」


 突然な蒼の提案に、有澄が半ば悲鳴じみた声を上げる。そんなに嫌なのか。嫌なんだろうなぁ。


「いいんすか?」

「だって、そのメガネを用意したのは有澄なんだし、随分と自信もあるようだからさ。メガネが正常に機能してれば、そもそも魔眼も発動しないだろう?」


 和かに言う蒼。有澄の意思はガン無視らしい。すごい嫌がってるのだが、旦那としてそれでいいのだろうか。

 ただまあ、こんなことでグダグダ悩んでいても仕方ないので。お言葉に甘えて魔眼を発動させた。


 有澄の頭から猫耳が生えてくる様子はない。力が発動する時の、独特の感覚もなかった。ということは、抑え込むことに成功したのでは?


 思った矢先、メガネからミシッ、と音が鳴った。昨日と同じく、レンズにヒビが入っていたのだ。

 完全に割れたわけではないから、昨日のように目を傷つけることはなかった。


「完全にダメってわけじゃなさそうだけど、龍具の方が耐えられなかったか……」

「よかったぁぁぁぁぁぁ……」


 ふむ、と顎に手を当てる蒼と、大きく息を吐き出す有澄。猫耳嫌がりすぎでは?


「有澄さん、そんなに私たちとお揃いが嫌なのね」

「蒼さんやルークさんが弄られるのが見えてるから嫌なんですよ!」

「つーかもう、メガネに頼らなくてもよくないですか? 多分これ、魔眼の効果のせいでとかじゃなくて、シンプルにそういうものなんだと思いますけど」


 ひび割れたメガネを外しながら、織は自分の考えをまとめる意味も込めて、言葉を並べる。

 不可能を可能にするというその特性上、メガネの力が強ければ強いほど、抑え込むことができなくなるのではないか。蒼はそう予想を立てていたが、織の考えは別だ。


 特性とか効果とか関係なく、幻想魔眼は封印することができない。

 あるいは、なにか別のもので操ることなどできない。


 思えばこれは、位相と深く関わりのあるものだ。そう簡単にコントロールできるはずがない。できるとすればそれは、魔眼自体を使わなければならないだろう。

 つまり、だ。


「現状暴走してる幻想魔眼。他のなににも制御は不可能。、制御が可能になるんじゃないですか?」

「それは……どうだろう。そもそも魔眼が、どこを基準として可能か不可能かを判断してるのかによると思う」

「ま、やってみないと分からないし、とりあえず試してみたらいいんじゃない?」

「だな」


 メガネを外したことで、織の目は再びオレンジに染まっていた。

 暴走しているとは言っても、自分の意思で発動できないわけではない。ただ、その意思に反するものにまで対象とされるだけだ。


 いつもの感覚で力を発動させる。

 不可能なはずの事象を、現実に映し出す。


「戻ったわね」

「お、マジ?」

「うん、戻ってるね」


 マジらしい。

 振り回された割には、随分あっさりと、である。こんなことなら、思いついた時点で実行していればよかった。


 しかし、問題がないわけでもないのだ。


「でもそれだと、しばらく魔眼は使えませんよね?」

「あー、まあ、そうっすね」


 魔眼を魔眼自体で封じる。そんな荒技を行った以上、暴走自体をどうにかしない限りは幻想魔眼の恩恵を受けれないだろう。

 魔眼の力は、封じることに使ってしまっているのだから。


 それにしても。その理屈なら、目の色は戻らないはずなのだが。現象として表出したのが『魔眼の効果を封じる』ことだから、目の色も戻ったのだろうか。


「これまでみたいに、無理な戦い方は出来ないってわけだ。魔術の方は石に術式が記録されてるだろうけど、体の動かし方には注意しなよ」

「分かってますよ」


 織はこれまで、戦闘において幻想魔眼の恩恵を多大に受けてきた。本来なら使えるはずもない魔術の数々に加え、戦闘時における体の動かし方まで。

 端的に言えば、愛美や朱音の使う亡裏の魔術を、部分的に再現していたのだ。


 考えてみれば当然のことで、今年の四月までの織は戦いとは無縁の生活を送っていた。愛美や桃と出会い学院に入ってから、まだ一年も経っていない。

 そんな中、石持ちの魔術師との戦いに放り込まれた。

 そうでもしないと、まだちゃんとした戦い方を修めたとは言えない織は生き残れなかった。


 とは言え、本当に部分的。体の動かし方程度だ。足運びや立ち回りを参考にしていただけ。その本領であるところまでは使っていない。

 シンプルに、織の肉体スペックでは追いつかないから。魔眼の力で再現出来たとしても、その後どうなるのかはわかったもんじゃない。部分的とはいえ実際に使ってみて、それでも織は思い知ったのだ。


 こんな体術を何食わぬ顔で使う亡裏の連中は、文字通り頭がおかしいと。


「ねえ、ちょっと待って。魔眼が使えなくなったのに、どうしてこの耳はこのままなの?」


 とりあえず一件落着の雰囲気を見せ始めた学院長室に、愛美のそんな疑問の声が響く。

 ふつうに考えれば、魔眼の効果が切れたということは、愛美の耳も戻らなければおかしいだろう。だが実際にはそうなっていない。それはどういうことか、早く戻さないと殺すぞ、という意味だろう。多分。


「俺に聞かれてもな……戻すのにも力使わないとダメなんじゃねえの?」

「ていうことは、まだしばらくこのまま?」

「嫌だったか?」

「私は別にいいし、朱音も何も言わないと思うけど、葵は怒ると思うわよ」

「あー……」


 強かに成長した後輩から説教を受ける。そんな自分の姿が容易に想像出来てしまい、織は諦めたようにため息を漏らした。



 ◆



 猫耳と尻尾はしばらくそのままだと葵に説明すれば、めちゃくちゃ怒られた。


 まあ、当然だろうなと思う織。甘んじて説教を受け入れた後、ツインテールの後輩は半吸血鬼の少年を連れて依頼に向かってしまったが。

 織と愛美も朱音と合流して、事務所に帰った。晴樹から訓練に来るように言われていた気もしたが、葵から説教を受けていたのでそんなものとうの昔に終わっている。

 明日は晴樹に怒られるんだろうなぁ、と考えれば、今から憂鬱な気分だ。思わず漏れてしまったため息を、愛美が聞き咎めた。


「なに辛気臭い顔してるのよ」

「明日が憂鬱なんだよ……葵の次は晴樹から説教されるの、目に見えてるしな……」

「父さんが悪いんだし、仕方ないんじゃない?」


 ぐうの音も出ない朱音の正論だが、織だって魔眼の暴走に振り回されている被害者の一人だ。猫耳自体は織が悪いのに違いないが。


「私はこのままでもいいけどねー。父さんと母さんに可愛がってもらえるし」


 えへへー、と可愛らしい笑顔の朱音が甘えるようにして織の背中にしなだれかかってきた。娘に甘えられて悪い気になるわけもなく、猫耳の生えた豊かな黒髪を撫でてやる。気持ちよさそうに目を細める朱音を見ていれば、織も自然と頬が緩んだ。


「でも現実的な話として、いつまでもこのままってわけにはいかないわよね」

「まあ、そりゃな。周りの目はいくらでも誤魔化せるけど、本来ならあり得ない事象なわけだし。どこで世界に影響を与えたりするか分かんねえからな」


 認識阻害を掛けていれば、一般人の目はいくらでも欺ける。だが問題は、そもそも猫耳が生えてしまったという事実自体だ。

 人間に猫耳が生えてるなんてあり得ない。世界広しと言えど、どこを見てもそんな人間はいない。

 だからこそ、あり得てしまった。


 あくまで魔術的な知見から言えば、幻想魔眼のせいで猫耳の生えた人間が存在するという因果が発生してしまったのだ。

 その因果が、世界にどう影響を及ぼすのか。

 もしかしたら、今後生まれてくる子供の頭に、愛美や朱音の頭に生えているものと同じものがついているかもしれない。


 考えすぎとは思うが、その可能性がある以上は比較的早急にどうにかしなければならない問題である。


「まあまあ。そんなことよりも、もう少し目先のことを考えてみようよ」

「そんなことってな……」


 織の背中から離れ、ソファに座る愛美へと擦り寄った朱音。この問題をそんなこと扱いしてしまうほどのことが、なにか他にあるのだろうか。


「ネザーが組織したっていう部隊のことね?」

「ああ、そういやいたな、そんなの」

「父さん、忘れてたの?」

「いや、忘れてたわけじゃない」


 本当に忘れてたわけではない。魔眼がどうのこうので頭の中から消えてただけである。人はそれを忘れてたと言うのだが。


 ともあれ、朱音の言う通りではあるか。

 織たち日本支部の当面の敵は、グレイよりもネザーだ。

 吸血鬼には致命傷を与えることが出来たものの、ネザーに関しては殆ど手を打てていない。常に後手に回り、いいように弄ばれている感じが拭えないのだ。


 織と愛美の場合、イギリスでの一部始終。

 葵やカゲロウの場合、プロジェクトに関するあれやこれや。


 異能研究機関は、着実に。世界全土へと魔の手を伸ばしている。


「でもよ、ネザーの部隊がこの街に来るって言っても、つまりはこの街に拠点を置くってことだろ? それらしい建物とかあるのか?」


 現実的な話、である。

 いくら魔術が神秘の産物であり、異能が奇跡の塊であっても。現代社会の中心にあるわけではない。

 部隊を置くのなら基地のようなものは必要だし、そのためには土地が必要。土地を確保するためには、街のお偉方と話をしなければならない。


 世界はご都合主義で進むわけじゃないのだから、急にそれらしい建物が現れました、なんてことにはならないのだ。


「街の南側には、再開発途中の土地がいくつかあるでしょ? 多分その辺りを使うんだと思うけど、実際に基地とか拠点みたいなのがあるわけじゃないんだ」


 棗市の南側は、主に商業施設で栄えている。港には運送船が泊まるし、その製品を保管して置くための埠頭も存在している。それでも、未だ再開発途中の土地はいくつかあった。街の端っこの方ではあるが、候補地としてはその辺りしかないだろう。


 理想としては、その部隊と協力体制を築くことだ。手を取り合って街を守る。だが相手はネザーだ。そんなに上手くいくわけがない。まさしく理想。

 しかし一方で、この事務所の存在、あるいはルーサーの存在を隠し通すこともできない。むしろ今の段階で、すでに織たちのことは勘付かれていると考えた方が妥当だ。


 実際にその部隊と邂逅しないことには、こちらからは手の打ちようもない。ネザーのトップとは違い、末端の兵士に過ぎない部隊の人間はなにも知らない、本当に魔物から人々を守るためだけに、と言うこともある。


「出たとこ勝負になりそうだな」

「いつも通りね」


 本当、いつも通りすぎる。

 思えば、織が魔術の世界に足を踏み入れた四月から、ずっと。計画通り、作戦通りに行くことなんて殆どなくて、予想外や想定外はいつもつきまとう。

 いい加減勘弁願いたいものだが、どこか慣れてしまっている自分が悲しい。


 ため息を吐き出していると、朱音の猫耳がなにかに反応したかのようにピクリと震えた。その目は外に向けられ、橙色の光を帯びている。

 そして端的に、街に起きた異変を知らせた。


「魔物が出た」

「行くわよ」

「よし」


 全員、スイッチが切り替わったように目つきが真剣なものに変わる。

 ため息を吐いたり、嘆いたりしてる場合ではない。まだ対魔物、対魔術師の部隊は配備されていないのだ。この街を守れるのは、織たちしかいない。


 アーサーに留守番を任せ、三人は街中へ転移した。

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