第87話

 織と愛美と朱音が風紀委員会室を出て行き、カゲロウも講義へと向かえば、部屋に残されたのは葵と蓮の二人だけとなった。


「今日の葵、いつもより楽しそうだったな」

「え、そうかな?」

「うん。先輩たちが帰ってきたの、嬉しかった?」

「そう、かも……二人とまた会えたから、ちょっと浮かれちゃってたかな」


 えへへ、とはにかんだ笑みには、隠しきれない喜色が滲んでいる。

 幻想魔眼がどうやらで朝から振り回されたものの、尊敬する先輩たちが帰ってきたのだ。そりゃ嬉しくもなる。

 織の言う通り、この場に魔女がいないことだけが悔やまれるけど。

 それでも、あの人たちは生きて帰ってきてくれた。今はそれだけで十分。


「まあ、その分大変なことも増えるけどね。さっきみたいに、愛美さんにやられた人たち治療したりしないとだし、織さんの魔眼の暴走止めれるのは私だけだし」

「でも、それだって楽しいんじゃないか?」

「まあね」


 いつかのように。あの子達が過ごしていたように。無茶なことをする先輩たちに振り回されて、その背中を追いかけて。

 これからは、そんな日常が帰ってくる。楽しくないわけがない。


 と、まあ。それはいいのだけど、葵としてはまた別の問題が二つほどあって。


 まず一つは、蓮とのこと。

 ずっと曖昧なままにして逃げていたが、さすがにそろそろ答えを出さねばなるまい。いや、答え自体は出ているのだけれど。果たしてそれを、素直に蓮へ伝えることができるのかと言う話だ。

 まあ無理である。

 ていうか、出来たらこんな状況になっていない。


 そちら一先ず置いておくにしても、問題は二つ目だ。


 喉が、渇いた。


「葵?」

「……へ?」

「なんかつらそうに見えたけど、もしかして体調悪い?」

「いやいや、全然大丈夫だよ! めっちゃ元気だから!」


 蓮から心配そうな目を向けられて、咄嗟に取り繕う。


 朝から無理に異能を使っているからか、やけに喉が渇く。すぐ隣に座る少年の血を、本能が欲している。

 だけど我慢だ。吸血衝動はこの際仕方ないものだと目を瞑るとしても、その本能に負けるわけにはいかない。はしたない女だと思われたくないから。


 しかしそうは思っていても、身体の方は中々言うことを聞いてくれない。

 沸き起こる飢餓感。蓮の血を吸えと頭の中で誰かが囁く。理性で必死に抑え付けているけれど、果たしていつまで保つことか。


「なあ、葵」

「なに?」


 話しかけてきた蓮は、しかし続く言葉を発さず。短い魔力の糸を出現させて、指先を刺した。そこから僅かに、赤い液体が漏れる。

 口に出すのは恥ずかしかったのか、無言でその指を差し出してきた。


 吸血衝動を察せられていたことに羞恥心を抱きつつも、血を実際に見てしまえばもはや我慢はできなくて。

 はむっ、と。蓮の指先を咥える。


 漏れ出ていた血を舌で掬い、喉を潤す。

 ああ、美味しい。身体が痺れるような感覚すら伴う味は、下手すれば病みつきになってしまうほど。

 たったそれだけでは物足りなくて、咥えた指に牙を突き立てた。蓮が僅かに顔をしかめる。ほんの少し罪悪感が湧くけれど、気にする余裕もない。

 ひとしきり満足してから指を解放する。なんだか頭がボーっとして、潤んだ紅い瞳はまだ指先を見つめていた。


 けれど、そこに自分の唾液が付着しているのを見て、葵は我に帰る。同時、物凄い勢いで顔が熱を帯びた。


「ご、ごめんね蓮くん! 汚いよね!」

「いや、いいよ」


 慌ててなにか拭くものを探す葵。手近なところにはなにもなかったので立ち上がろうとすれば、腕を掴まれた。

 そのまま引き寄せられて、蓮の胸に抱きとめられる。


「俺も男だからさ。あんな顔されたら、我慢できなくなる」

「ぁ……」


 羞恥に顔を赤くしながらも、真剣な色を帯びた蓮の瞳。そこへ吸い寄せられそうに錯覚する。常よりも色気を感じる表情は、葵を魅了させるのに十分で。


 自然と互いの顔が近づいていった。

 次の瞬間。


「……ッ!」

「あ、葵?」


 突然襲いかかってきた頭痛。弾かれたように蓮から逸らされる自分の顔。

 今日一日だけで何度も覚えのあるそれは、織がどこかで幻想魔眼を発動させたものだ。


 あの人は、なんてタイミングで邪魔をしてくれるんだッ……!


「ご、ごめん、ちょっと急すぎた、よな」

「え、あ、違う! 違うよ蓮くん! 今のは違うの!」


 どこかショボンとしてしまった蓮に事情を説明して慰めるのに、この後数分を要してしまった。お陰でいい雰囲気は全部台無し。

 明日織に会ったら、一発くらい殴ろう。

 心に決めた葵だった。



 ◆



 学院でやることもほとんどなくなったので、織と愛美、朱音の三人は事務所に帰ってきていた。

 その際、一応葵には愛美から一報入れておいたのだが、何故か織にめちゃくちゃキレてたらしい。なんとなく察しがつくが、怖いので知らないふりしておこう。


 ということで、今日から織たちも事務所の仕事に復帰するわけだが。


「あんま仕事ないな」

「書類関係は朱音が纏めてくれてるものね。いつも通り、依頼を待つだけよ」


 所長用のデスクに腰かけた織と、ティーテーブルの椅子に座り紅茶を飲んでいる愛美。朱音は帰ってくるなり、早々に出かけてしまった。

 公園に行ってくると言っていたから、恐らくは世話をしている猫に会いに行ったのだろう。別に友人の少年に会いに行ったわけじゃないはずだ。父親としてそこは認めたくない。


「それであなた、その眼は結局どうするのよ」

「あー、これな。一応手がないことはないんだよ」


 未だオレンジに染まっている織の瞳。

 幻想魔眼の暴走は治らず、対処療法的に葵の異能を頼っていたが、このままというわけにもいかない。

 原因は全く不明。昨日までと今日の違いなんて心当たりもないし、今後の暴走を完全に抑えることは、今の段階では不可能だ。


 しかし、葵の異能に頼らなくてもいい方法なら、一つだけある。

 それを語って聞かせてやろうと思った矢先、事務所の扉が開いた。やって来たのは、水色の髪の女性と銀髪の女性。街中を歩いて入れば確実に目を惹くだろうが、それは髪の色よりも本人たちの美貌が理由だろう。


 人類最強のパートナーである彼方有澄と、銀髪の吸血鬼サーニャの二人だ。


「こんにちは、さっきぶりですね」

「邪魔するぞ」


 意外な組み合わせに驚くものの、織は二人にソファを進め、愛美が二人の紅茶を淹れて持ってきてくれる。

 有澄とサーニャ。共通点といえば、氷の力を使うくらいだが、この二人が同時に事務所を訪れるとは。なにかあったのだろうか。


「珍しいわね、二人で事務所に来るなんて」

「なんかあったのか?」

「いや、我は朱音の様子を見にきただけなのだが……」


 サーニャの怪訝な視線が、愛美の頭頂部に向けられている。ピコピコ不規則に揺れている猫耳は、消えることなくそこにあるのだ。

 もちろん、朱音にも。


「朱音なら、帰ってきてすぐに出てったぞ。公園行くって」

「貴様ら、まさか朱音のその耳をそのままにしているわけではあるまいな?」

「見えないようにしとけとは言ってるから大丈夫だ」

「普通の人が見ても、コスプレ程度にしか思われないと思うけどね」


 織としては、コスプレに思われるかどうかよりも、あの猫耳装備の完璧な可愛さを誇る娘に変な虫が寄ってこないかが心配なのだが、それをこの場で言ったところで、恐らく理解は得られないだろう。


「それで、有澄さんはどうして?」

「織くんの魔眼についてです。もしかしたら、なんとか抑え込めるかもしれませんよ」


 おぉ! と思わず声を上げてしまう。さすがは人類最強のパートナー。幻想魔眼が相手だろうと対策をちゃんと講じてくれるとは。

 有澄が懐から取り出したのは、なんの変哲もないメガネだ。どこにでもある黒縁メガネ。ただ、ほんの少しだけ魔力のようなものを感じ取れるが、それを魔力と言うには違和感を覚える。


「これは?」

「この世界で言うところの魔導具ですね。私の生まれた世界にある封印系の魔導具の中でも、一番力が強いものです。それをメガネに加工してきました。かけてみてください」


 言われるがままにメガネをかけてみる。特別なにかが変わったようには思えないが、効果は出てるのだろうか。


「あなた、意外とメガネ似合うわね」

「お、マジで?」


 愛美に褒められて嬉しいのは嬉しいが、それはそれとして効果の方は?


「一応、目の色は戻っているな」

「じゃあ織くん。一度魔眼使ってみてください」

「大丈夫なんすか?」


 有澄を疑うわけではないが、もしもこのメガネで封じ込めれなかったとしたら。また葵に負担が言ってしまうし、今度は事務所に殴り込みしてきそうだ。

 そんな心配とは裏腹に、有澄は豊かな胸を張って自信満々に言ってのける。


「大丈夫ですよ! わざわざお父様から宝物庫を開ける許可までもらってきたんです! このわたしが直接目利きして選んだ龍具ですから、安心してください!」

「まあ、そういうことなら……」


 宝物庫やら龍具やら、聞き慣れない単語が聞こえてきたが、ここは有澄を信じるとしよう。

 さてでは問題は、魔眼をどんなことに使うか、ということになってしまう。そこまで大きな被害もなく、葵にかかる負担も少ないであろうものはなにか。


 まあ、今日一日の流れを考えれば、ひとつしかないよな。


 もしもの時は、素直に葵から怒られるとしよう。そう決めて、織は魔眼を発動させた。

 オレンジの光が、再び瞳に宿る。少し遅れて、ピシッ、とひび割れるような音が聞こえた。いや、実際にメガネがひび割れたのだ。破片が右目に入り、織は咄嗟にメガネを外す。


「いってぇ……」

「ちょっと、大丈夫?」

「大丈夫、だけど……」


 右目は適当に治療したが、残念なことにメガネは使い物にならなくなっていた。

 どうやら、異世界の魔導具ですら織の幻想魔眼を抑えられなかったらしい。


「すいません有澄さん、ダメっぽいです」

「せ、せっかくお父様に頭下げて貰ってきたのに……!」


 愕然とする有澄を見ていると、めちゃくちゃ申し訳なくなってくる。割れてしまったメガネを返せば、わなわなと震えた手で受け取られた。


「こうなれば意地ですよ。もっと凄いやつ探してくるので、待っててください!」

「いや、もう大丈夫っすよ? 俺も一応、止める手立ては考えてるんで」

「いいえダメです! わたしがなんとかしてあげますから!」


 ソファから立ち上がった有澄は、杖を出現させて徐にそれを振るう。


 なにもない空間に、孔が開いた。


 先の見通せない暗闇。そこにはなにもない。ただの無が広がっているだけ。

 あろうことか、有澄はそこへ飛び込んだのだ。しばらくもしない内に孔は閉じてしまい、有澄もどこかへ姿を消してしまった。


「なによ今の……」

「魔術的事象の地平線、とでも言うべきものだな」


 愛美が思わず漏らした疑問に、サーニャが答えた。

 事象の地平線。

 情報伝達などが光により行われるこの世界において、光速でもなお辿り着けぬ領域。そこから先を知ることが叶わない境界を指し、事象の地平線、あるいは事象の地平面などと呼ばれている。

 あの孔は、現代科学はおろか、魔術や異能であっても決して辿り着けぬ境界らしい。


 端的に言えば、位相の向こう側。異世界へと繋がる扉だ。


「普通の人間であれば、あの孔を通るだけでも膨大な情報量に魂が耐えられずに圧死する。元々あちら側の住人である彼方有澄か、転生者ほどの強い魂の持ち主でないと通ることは不可能だ」

「詳しいんだな」

「我は元々、ネザーの研究者だぞ。これくらいは知っておる。そも、貴様らのレコードレスは、あの孔と同じ力を使っておるのだ。他人事ではないぞ」


 たしかに、あの孔が位相そのものであるというのなら、織たちにとって関係の深いものではあるけど。

 しかしあまり実感が湧かないのも事実。見せられた光景があまりにも常識の外にありすぎて、理解しきれていないというのもある。


 有澄は帰ってしまったし、魔眼はどうしようかと改めて思案していると、事務所の扉が大きな音を立てて開いた。

 今日は来客が多いな、なんて思いながら視線を向けた先には、あきらかに激怒しているツインテールの後輩が。


「いい加減にしてくださいよ織さん!」

「お、おう、どうした葵?」


 現れた黒霧葵は、頭のてっぺんに黒い三角を生やし、お尻からは同じ色の尻尾を伸ばしていた。

 どうやらしっかり、魔眼の効果が出ていたらしい。


 目は紅く光っていて、背中には鋭利な形の黒い翼を展開している。おまけに尻尾はピンと逆立っていた。

 どうやらガチギレしてるらしい。


「さっきからいいところで邪魔して……! 一度ならず二度までも! さすがの私も怒りますよ!」

「いや、もう怒ってるじゃん……」

「言い訳しないでください!」


 ズカズカと大股に詰め寄られ、織は思わず後ずさる。しかし退路は愛美に塞がれてしまった。味方してくれないらしい。


「落ち着け葵。なにがあった」

「聞いてくださいよサーニャさん!」


 ため息を吐きながら諌めるサーニャに、黒翼を消した葵が泣きつく。


「さっきから蓮くんといい感じの雰囲気になる度に、織さんが魔眼使って私の邪魔するんですよ! これ絶対嫌がらせですよね⁉︎」

「織が悪いわね」

「貴様が悪いな」

「いや仰る通りですね……」


 だが言い訳くらい許してほしい。

 恐らく一度目の時は、朱音の講義を見に行く道中だろう。あの時は緋桜が邪魔しに行こうとしていたのを止めたのだ。結果的に織が邪魔をすることになってしまったので、まあこちらは怒られても仕方ない。

 二度目はつい先ほど、有澄に言われて使った時だろう。あれは織自身の意思ではなく有澄を信じた結果なのだが、葵の猫耳は間違いなく織の意思なので、結局こちらも織が悪い。


 あれ、言い訳の余地なく完全ギルティでは?


「まあいいじゃない。これで葵も、私たちとお揃いよ? ツインテールのお陰で私たちよりもあざとく見えるけど」

「……愛美さん、根に持ってます?」

「別に?」


 嘘である。愛美はこう見えて割と根に持つタイプである。その証拠に、してやったりとばかりに尻尾が揺れてるし。


「それに、蓮には好評だったんじゃない?」

「うっ……それは、まあ……可愛いって言ってくれましたけど……」


 それに関してはどうやら満更でもないようで、葵の尻尾もふりふり揺れ始めた。耳もピコピコしてる。なんだよ可愛いじゃん。愛美と朱音には及ばないけど。


「でも、それとこれとは別です! そもそもこの猫耳の時のやつなんなんですか⁉︎ 変なノイズが入って異能がちゃんと使えなかったんですけど!」

「あー、それは有澄さんのせいだな。うん。俺のせいじゃないぞ」

「有澄さんの……まあ、ならいいかな」

「おい、なんでだよ」


 俺と対応違いすぎね?


「ともかく、完全に織が悪いってわけじゃないし、こればっかりは織本人にもどうしようもないんだから、許してあげられないかしら」

「愛美さんが言うなら……」


 だから。なんでそんなに俺と対応が違うの? もしかして嫌われてる?

 賢者の石を取り込もうが絶大な力を誇る異能を持とうが、桐生織は健全な思春期の男子高校生。後輩女子に嫌われるというのは、中々に精神的なダメージがでかいものである。


 渋々と言った様子ではあるが引いてくれた葵は、そのまま帰っていった。


「さて、朱音がおらぬのなら、我も帰るとするか」

「ああ、ちょっと待ってくれサーニャ」


 腰を上げかけたサーニャを呼び止める。

 織も愛美も、ちょうどこの吸血鬼に言いたいことがあったのだ。


「どうした、なにかあるのか?」

「いや、礼を言っとこうと思ってな」

「朱音のこと、見ててくれてありがとう。本当なら私たち親が、ちゃんと一緒にいてあげないとダメなのに」


 朱音がサーニャのことを特別慕っているのは、親である二人にもわかっていた。この時代に来た時から、ずっと。未来で親代わりだったと言う銀髪の吸血鬼に、敗北者の少女は唯一甘えを見せていた。


 きっとそれは、血の繋がった親子である織たちには見せてくれないのだろう。血が繋がっているからこそ、あの子は自分たちに弱さを見せない。甘えを許さない。

 それでも、サーニャの前なら。

 それが果たして、どれだけあの子の助けになっていたことか。


「きっと俺たちじゃ、朱音が折れそうな時になにもできなかったと思う。それどころか、余計に追い詰めちまってたかもしれない。でも、あんたが側にいてくれたから、朱音は寸前で踏みとどまれたんだ」

「それは買い被りすぎだ。我でなくとも、朱音はまた立ち上がっていたさ。それこそ、貴様らがいてくれた方が良かったかも知れぬ」

「それでも、よ。あの子が一番苦しい時、側にいてくれたのはあなたでしょう。葵たちも助けてくれたかも知れないけど。あなたが一番近くにいてくれたから、朱音は今、笑っていられるのよ」


 悔しいとは思う。

 ある意味、親である自分たちよりも頼りにされているのだ。本来なら娘を支えてやるのは自分たちのはずで、それが親の役割だったはずなのに。


 たしかに朱音は、織と愛美にも甘えてくれる。絶対の信頼と愛情を持って、二人の側にいてくれる。

 けれど朱音にとっての二人は、守るべき存在なのだ。いざと言う時、頼り、甘える存在ではない。


 それが少し悔しいけれど。

 でも。


「本当にありがとう。よかったら、また朱音のことを見てやっててくれないか?」


 朱音には、サーニャの存在が必要だ。

 一人の少女として、娘として親である自分たちに甘えてくれるのなら。敗北者の仮面を被った戦士として、頼れる相手も必要になる。それは自分たちじゃない。

 未来で親代わりだった、銀髪の吸血鬼だ。


 頭を下げた織の頭上から、呆れたようなため息が聞こえてくる。

 当然の反応だろう。親の役目を放棄していると取られてもおかしくはない。


「顔を上げよ、桐生織」


 言われて顔を上げた先。予想外にも、サーニャは穏やかな笑みを浮かべていて。

 それだけで、確信する。彼女が果たして、どれだけ朱音のことを大切に想ってくれているのかを。この吸血鬼になら、朱音を任せられると。


「わざわざ言われずとも、朱音の方から我に絡んでくるだろう。ならば我はいつも通り、適当にあしらってやるだけだ」


 たしかな親愛の篭った、優しい声音。常から纏う鋭利な雰囲気からは想像できないほどに。

 愛美と顔を見合わせて、破顔した。この吸血鬼、意外にもツンデレ属性持ちらしい。


「ねえサーニャ。今日は夕飯、うちで食べていかない? 朱音も喜ぶと思うから」

「だな。ついでに飯作るの手伝ってくれよ。朱音から聞いてるぞ、料理上手だってな」

「はぁ……仕方ないな」


 あるいはこれも、家族としての一つの形なのかもしれない。

 多少歪だとしても。そこにはたしかに、想いが宿っているのだから。



 ◆



 帰宅早々事務所を出た朱音は、スキップしそうな程に上機嫌で公園へと向かっていた。

 認識阻害で周囲の人間には見えていないが、お尻から伸びた尻尾はふりふりと揺れている。


 これから向かう先にいるであろう友人、大和丈瑠の反応が今から楽しみだ。

 それから、猫たちの反応も。彼がいれば、朱音を見た猫たちがなんと言っているのか分かるのだし。ぜひ聞いてみたい。


 いつもの公園にたどり着けば、いつものベンチに丈瑠は座っていた。周りには猫たちもいて、もはや見慣れた光景だ。

 それが随分と久し振りに感じるのは、昨日までに色々とあったからだろう。

 ほんの数日ぶりのはずなのに。朱音にとっては、何ヶ月も前のことに思えてしまう。


 そんな日常の一つへと、朱音は足を踏み入れた。


「丈瑠さん」

「やあ桐生。昨日ぶり」


 魔術師でもなんでもない、異能を持っているだけの一般人。それでも、朱音のことを受け入れてくれた、大切な友人の元へ歩み寄る。

 彼の足元に集まっていた猫たちも、朱音を歓迎してくれているらしい。特に黒猫は、助けてくれたことを覚えているのか。甘えるように擦り寄ってきた。


「昨日はすみませんでした。変な騒ぎに巻き込んじゃって」

「それ、昨日も同じこと言ってた。僕はもう気にしてないよ。お陰で桐生たちが、僕たちと変わらない同じ人間なんだって、ちゃんと分かったしさ」


 笑顔でキジトラの猫を撫でている丈瑠は、本当にもう気にしていなさそうだ。

 朱音の知らないところで、彼なりに折り合いがついたのだろう。


 それでも、と。そう言って視線を合わせてきた丈瑠は、これ以上ない真剣な光をそこに宿らせていて。


「できれば、桐生には危険なことをして欲しくない。ましてや、誰かを殺すとか、殺されるとか、そんなところには行って欲しくない」

「丈瑠さん……」

「多分、僕がこう言ったところで、桐生は聞かないんだろうけどさ」


 諦めたような笑みを見て、罪悪感が募る。

 だって、まさしく丈瑠の言う通りなのだから。仮に両親やサーニャに言われたところで、今の朱音はもう、戦うことをやめないだろう。


 挫折を経験した。この手で奪うことの恐怖を知った。

 それはまだ、朱音の心のどこかに巣食っている。もしかしたらまた、守るべき人たちをこの手にかけるかもしれない。それが丈瑠である可能性だってある。

 それでも、桐生朱音は止まるわけにはいかないから。


「そう思ってくれる人がいるから、私は戦うんですよ。私に優しくしてくれたあなたを、この街の人たちを守りたいから」

「そっか……」


 細められた丈瑠の目には、憧れと尊敬、それからやはり、心配や不安の色も見て取れる。

 それらを吹き飛ばすように、朱音は元気よく言葉を発した。


「安心してください! 昨日は色んな人がいたと思いますが、私はあの中でも一番強いので!」

「桐生が?」

「はいっ! 私にかかれば、どんな相手でも返り討ちです!」


 多少、いやかなり話を盛っているけど、あながち嘘といえわけでもないから別にいいか。

 間違いなく蒼には勝てないし、織と愛美はドレスがあるから微妙なところだが、他のメンツには余裕で勝てるから。


「それより丈瑠さん、これ見てくださいよ」


 笑顔で言いながら、自身にかけていた認識阻害を解く。

 丈瑠からすれば、いきなり朱音の頭に猫耳が、お尻から尻尾が生えたように映っただろう。その証拠に、丈瑠はおろか猫たちですら朱音の頭頂部に注目していた。


「え、なにそれ? カチューシャ?」

「それが本当に生えてるんですよね。触ってみます?」


 頭を差し出せば、躊躇いがちに猫耳を触られる。ちょっと擽ったい。

 目だけで丈瑠の顔を見上げると、なぜかその頬は赤く染まっていた。はて、なにか赤面するような要素でもあっただろうか。


「本当にカチューシャじゃないんだ……」

「色々と事情がありまして。あ、尻尾は触らないでくださいね。耳と違って、さすがに恥ずかしいので」

「言われなくても触らないよ」


 ならいいのだけど。織や緋桜あたりは、なにも言わなかったら躊躇なく触ってきそうな感じがするから、一応釘を刺しておかねばなるまい。

 まあ、それで両親がイチャつく口実になるのなら、朱音としてはなにも言わないが。


「それで、どうです? 似合いますか?」

「そりゃまあ、似合ってると思うけど」

「ありがとうございます」


 その返答に気を良くして、朱音はしゃがみ込み猫たちとじゃれ合い始める。どうやら猫たちも、朱音の耳や尻尾に興味があるらしい。

 特に尻尾は、ふりふり左右に振ってみれば、まるで猫じゃらしのように追いかけてくる。


 そんな朱音は気づかない。果たして丈瑠が、今現在どんな心境なのかを。


「これはさすがに反則だ……」

「なにか言いました?」

「いや、なにも」


 無邪気に笑う桐生朱音。十四歳。

 どれだけ少女漫画を読んで、周りで巻き起こる青春イベントが大好物だとしても。自分が当事者になると、途端にポンコツ化してしまうのだった。

 蛙の子は蛙、というやつである。

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