第75話
数日が経っても葵が元に戻る様子はなく、それでも学院の日常は変わらずに流れる。
一日の休みを挟んだ後、その次の日から二年生は通常通り授業を受けていた。ネザーでの事件はたしかに異常事態ではあったものの、そこはさすがの魔術師。多少不安に思うものはおれど、特別騒ぎ立てるようなものもいない。
だから今日も、普通の一日。他の生徒たちに葵の身に起きた異変など知る由もなく、魔術の研鑽や脅威の排除を行う一日。
それは葵自身も変わらなかった。
「なんか、久しぶりだと楽しく感じるね」
「普通の授業だろ。面白みなんかないと思うぞ」
「普通の授業だからですよ。記憶と経験は違いますから」
葵に敬語で話されることにまだ慣れないのか、カゲロウはどことなくむず痒そうな表情をしている。
黒霧葵が今の状態になってから、もう三日が過ぎた。蓮の方は初日で色々吹っ切れたから気にしていないものの、今度は逆に、カゲロウが接しにくそうにしている。
「俺とカゲロウは今から剣崎さんのとこ行くけど、黒霧はどうする?」
「私も行っていいの?」
「邪魔するわけじゃねぇし、別にいいだろ」
「じゃあ行こっかな」
そう言うわけで、三人揃って教室を出た。
しかし、今の葵はなんというか、以前までとかなり違って見える。
肩の力が抜けたというか、背負っていたものを下ろしたような。蓮が葵と出会ってからあの別れの時まで、この女の子は色々といっぱいいっぱいだった。他人のことを考える余裕なんてなく、自分のことで、あるいは周囲のごく僅かな人間関係だけで精一杯。
それ以外から向けられる感情は見て見ぬ振りを決め込んで、努めて元気に振る舞う。友人に、先輩に、心配をかけないようにと。
それは蓮だけでなく、きっと二人の先輩も気づいていたけど。
今の葵はその時に比べて、いい意味で色々と気にしなくなっている。そういう難しいのは全部かなぐり捨てたというか、うまく言語化出来ないが、いい変化であるのはたしかだろう。
「そういやお前、兄貴とは話したのか?」
「はい、一応ですけどね」
「一応って……唯一の家族なんだろ? 積もる話ってのもあるんじゃねぇかよ」
今の葵と緋桜は、簡単に説明できるような関係ではない。
普通の兄妹であったのは、もうずっと前のこと。その一部始終を聞かされているから、蓮は心配げな視線を葵に投げてしまう。
「まあ、お兄ちゃんとは色々ありましたから。カゲロウさんは聞いてないんですか?」
「なんかあった、ってのは聞いてるけどな」
ネザーに行く前日のことだ。緋桜が蓮に誤っていたのは。その場にカゲロウもいたから、ある程度察してはいるのだろう。けれどこの半吸血鬼は、そこに踏み込んでこない。
今の葵の状況に関しても同じだ。蓮にはあれこれと口出ししていたが、葵に対しては特になにか言っている様子はなかった。
気を遣っている、のだろう。
あるいは、気を遣うまでもなく。自分が深く関わるべきことではないと、そう判断しているのか。
「泣きながら抱き着かれて、すっごい謝られちゃいました。あの子も気にするなって言ってたし、お兄ちゃんはなにも悪くないのに」
その時のことを思い出したのか、苦笑気味に言う葵は本当に気にしてなさそうだ。
黒霧葵を取り巻く事情は、言うまでもなくかなりややこしい。だから誰が悪いとか、そう言うのは論ずるべきじゃない。
あの学院祭の時、前学院長の南雲が動かなければ二人は消えなかったかもしれないけど、本当の葵はずっと眠ったままだった。
なにもされずとも、いつか時間の経過と共に呪いが薄れて、別れる日が来るかもしれなかった。
もっと遡れば、ネザーやグレイなんかも関わって来る。おまけにその全容は未だ不明。
言ってしまえば、気にするだけ無駄、というやつだ。
「ほーん。お前の兄貴が泣いて抱きつくってのも、中々想像できねぇけどな」
「たしかに。緋桜さん、結構クールな感じあるし」
「クール……? お兄ちゃんが……? ただの変態ナンパ野郎だよ?」
不思議そうに小首を傾げる葵。
兄に対して随分な言いようだ。シスコンの緋桜本人が聞いてたら泣いてたかもしれない。
蓮自身、緋桜と親交が深いわけでもないから、その評価の真偽は分からないけど。悲しいかな、彼を知っている者なら満場一致で同じ評価になってしまうのだ。
それからしばらく他愛ない雑談をしながら歩いていると、廊下の向こうから校庭で待ち合わせているはずの龍が現れた。
「ようお前ら。今日は黒霧も一緒か」
「はい、見学しようと思って」
「あー、悪いんだが、そいつは無理そうだ」
不思議そうに顔を見合わせる三人。龍の方からやって来たこともあるし、なにかあったのだろうか。鍛冶屋の仕事が入ったとか。
「ちょいと野暮用が出来てな」
「なんだよ、仕事か?」
「そんなとこだ。どこぞの山奥のカルト教団を潰してこいだとよ。集落の住人に、神の力だとか言って魔術を広めてるらしい」
「ほーん、悪趣味なやつらがいるもんだな」
どうやらあまり興味はないらしく、カゲロウは適当に相槌を打つのみ。
しかし、一般人に魔術を広めるなんて、そのカルト集団はなにを考えているのか。そいつらの扱う魔術にもよるが、信仰心を集めるとか、あるいは単純な戦力が欲しいとか、考えられるのはその辺りだろうか。
それにしたって、山奥にあるような限界集落を狙わなくてもいいだろうに。
カゲロウと反して少し興味が湧く蓮。怖いもの見たさ、と言った方が正しいか。
「なんなら、お前らも付いて来るか? たった数日だけだったが、修行の成果ってのを試すには丁度いいだろうしな。なんせ実戦が一番の修行になる」
「いいんですか?」
「蓮が行くならオレも行くぞ」
「私も!」
「決まりだな」
毎日カゲロウと剣を打ち合ってるだけでは、自分がどれくらい成長しているのかも分からない。
なにより、命のやり取りという極限状態なら、普段以上に成長へと繋がるはずだ。事実、今の蓮はそのようにして力をつけて来た。
「こいつは渡しとくぞ」
どこからともなく、いつも貸してくれている剣を取り出す龍。鞘に収まったそれを渡され、礼を言って腰に差した。
「ていうか、もうお前にやる。毎度貸すってのも面倒だし、手に馴染んだ剣の方がいいからな」
「さすがにそれは……」
「もうお前用に調整してんだよ、そいつ。剣に魔力通したら面白いことになるぞ?」
「いいじゃねぇか、貰えるなら貰っとけよ。タダより高いものはねぇしな」
渋る蓮だが、カゲロウに言われた上に龍も引き下がる気配がないので、素直に貰うことにした。面白いことになる、というのも気になるし。
今後もし魔導具が必要になったら、龍の店を贔屓にさせてもらうとしよう。
「カゲロウ、朱音の血はまだ残ってたな?」
「おう。予備で貰ったのがまだあるぜ」
「それ、貰ったのもう結構前だけど、固まったりしてないか?」
「全然大丈夫だな」
懐から取り出した注射器を軽く振ってみせるカゲロウ。中に入っている血は、まだ液体の形を保っている。
恐らくは注射器に、朱音の炎が利用されているのだろう。
それを見て頷いた龍は、蓮と葵の顔を見比べてから、端的に一言。
「黒霧はお前が守れよ」
「もちろんです」
言われなくても。今の蓮は、そのために力を欲したのだから。
◆
それぞれ軽く準備を済ませてから再集合し、龍の転移によってやって来たのは人里離れた山の奥。鬱蒼とした森の中に、四人は降り立った。
「こんなとこに集落なんかあんのか?」
「もう少し進んだ先だ」
先導する龍に続き、三人は道にもなっていない森の中を歩く。草木を掻き分け、顔の近くに飛ぶ虫を手で払い、方角すら曖昧なままに。
蓮は特別潔癖症というわけでもないが、普段が都会や比較的綺麗な樹海内の学院にいるから、こんな場所はさすがに気が滅入る。
それは葵も同じなのか、うへぇ、と苦い声が聞こえた。
「なんか変な虫踏み潰しちゃった……足の裏の感触気持ち悪い……」
「うわ、本当だ。幼虫かな」
葵の足元を見てみると、潰れてひしゃげたなにかの幼虫が。生理的嫌悪感が湧き上がって鳥肌が立つ。カブトムシとかクワガタとかの幼虫に似てる気がするけど、それにしては少し大きいような気もする。
首を傾げながらも龍に続いて森の中を進んでいると、突然先頭が足を止めた。どうしたのかと尋ねるよりも前に、龍が手振りで姿勢を低くしろと指示して来る。
しゃがんで少しずつ前に進んでいれば、叫び声や悲鳴のようなものが聞こえて来た。それから、魔力の反応。
まさかと思っていれば、やがて人の姿が見えてくる。
あまりにも未熟かつ杜撰極まりない術式で魔術を行使する十数人と、それに相対するイノシシの姿をした五匹の魔物。
放たれた魔術はイノシシに当たるも、ひるむ様子すらなく突進する。いわゆる魔猪と呼ばれるやつらは、知能こそ低いもののそれなりに頑丈な体を持っている。その体で突進されれば、ただの人間なんてひとたまりもない。
事前に聞いていた話もあったから、一目見ただけで状況は明らかだった。
「カゲロウ!」
「オーケー、そうこなくちゃな!」
腕に注射器を刺したカゲロウが、白い翼をはためかせて茂みから飛び出した。同時に、蓮も魔力の糸を射出する。
まさしく人々に襲いかかろうとしていた一匹がカゲロウに蹴り飛ばされ、残りの四匹は蓮の糸に絡み取られた。そのまま近くの木や地面に叩きつけ、警戒を解くことなく腰の剣を抜く。
「待て蓮。あいつら、なんかおかしいぞ」
「おかしい?」
その言葉の真意を問おうとカゲロウに振り返った時。視界の端に、見えた。
さっきまで自分のいた場所。つまり、葵の立っている背後に、三メートルは超える巨大な熊が現れたのを。
「葵!」
咄嗟に名前を呼んで、糸を放つ。しかし雄叫びを上げた熊は腕を薙いで、鋼鉄よりもなお硬い蓮の糸を容易く弾いた。
まずい。嫌な汗が背中に吹き出しながらも駆け出すが。
「氷纒」
腕を振りかぶった熊が、氷の結晶に覆われた。ツインテールを白く染め、氷翼を伸ばした葵の手には黒い大鎌が。
魔力の刃を纏わせたそれを一振りすれば、氷の結晶は熊の体ごと両断された。
「残念でした。戦えないわけじゃないのよ」
口調、声色、そして目つき。その全てが先程と打って変わり、鋭く大人びたものになっている。
黒霧碧。
かつてあの少女の体に存在した、もう一人の人格だ。碧もいることは聞いていたが、こうして顔を出すのは初めてだ。
「ごめん、碧。黒霧のこと守ってくれて助かったよ」
「全くよ。ちゃんと仕事しなさいな、ナイト様?」
「そんなんじゃないよ」
急いで駆け寄って礼をすれば、揶揄うような笑みを向けられた。
ナイトなんて、蓮はそんな大層な存在じゃない。そもそもなりたいとも思わない。姫に仕える従順な騎士ではなくて、姫の手を取る王子様になりたいのだから。
「まあでも、守ろうとしてくれたのはたしかだし、あの子の代わりにお礼は言っとくわね。ありがと」
「どういたしまして。何も出来なかったけど」
と、呑気に会話してる場合ではない。
気を取り直して周囲を見回す。どうやら熊の魔物はもう一体いたようで、すぐそこで龍が一刀の元に斬り伏していた。イノシシの方はその間に逃げていたらしく、既に姿はない。
知能の低い魔猪が、逃げの手を選択する。そこはかとなく違和感を覚えるが、今は別が優先だ。
魔物と交戦していた人たちへと振り向けば、彼らの視線は一箇所に集まっていた。その先を目で追うと、未だ翼を広げたままのカゲロウがいる。
「神だ……」
誰かが、呟いた。
「神がご降臨なされた!」
「我らが神だ!」
「ついに俺たちに救いの手を伸ばしてくれたのだ!」
「は? あ、ちょっ、おいなにしやがる! 待て待て! うおぉ⁉︎」
あっという間の出来事だった。
カゲロウがもみくちゃにされたと思ったら、そのままどこかへ連れ去られてしまった。
残されたのは、状況が全く理解できずにポカンと突っ立ったままの蓮と碧。忍び笑いを漏らしてる龍の三人だけ。
「なんだったのよ、あれ」
「さ、さぁ?」
「ある意味好都合かもな。俺たちも行くぞ」
歩き出した龍に慌ててついて行き、おそらくカゲロウが連れ去られた集落へと向かった。
◆
それから暫く歩いていると、やがて森の出口が見えてくる。徐々に道も出来始めて、獣道沿いに歩き続ければ、開けた場所に出た。
山と森に囲まれたそこは、木造の建物がいくつか並ぶくらいの集落だ。村というほどの規模でもなく、おそらく地図にも載っていないだろう。畑や田んぼも見受けられるが、それだって生活に必要な最低限の広さに見える。
堂々と集落の中へ入る龍に続けば、丁度住人を一人見つけた。こんな限界集落には似つかわしくない、三十代そこらの男性だ。
「失礼、尋ねたいことがあるんだが、少しよろしいか?」
「ん? なんだあんたら?」
「ここに灰色の髪の男が連れてこられなかったか? 俺たちはそいつのツレなんだが」
「灰色の髪……ああ、我らが神のことか! 話は聞いてるよ、君たちが来たら連れてこいと言われてるんだ!」
何かよく分からないが、とにかく付いて来い、ということらしい。
男の案内で集落の奥へと進むと、大きな神社のような建物が現れた。一目見て、理解する。それが魔術的な神殿であることを。
蓮も碧も警戒するが、龍はそんな素振りを全く見せず男の後ろについて行く。
神殿の中に入り、更にその奥へ進む。やがて案内された大広間にカゲロウはいたのだが。
「お、お前らようやく来たか!」
「ということは、あちらがカゲロウ様の?」
「おう。丁重に持て成せよ」
「かしこまりました」
なんかやけに豪華な座椅子に踏ん反り返って、豪勢な料理と若い女の人たちに持て成されてた。
ますます意味が分からない。
あのカゲロウが神とか呼ばれてるのもそうだが、本人がなんの疑いも持たず、素直に歓待を受けてるのも謎だ。
蓮と碧が揃って首を傾げていると、カゲロウと話していた男が歩み寄って来た。魔力の反応がある。魔術師だ。
恐らく、向こうも蓮たちが魔術師であることには、気づいているだろう。
「初めまして。ここの教主を務めております、北村と申すものです」
「剣崎龍だ。フリーの魔術師なんだが、どういうことか説明してもらって構わないか? カゲロウは俺たちの仲間なんだ」
「もちろんですとも!」
北村と名乗った男の説明は、至極簡単なものだった。教団の祀っている神、その力を宿したカゲロウが現れた。証拠として、カゲロウは先ほどの戦闘で神氣を纏っていた。だからこの場へ連れてきたのだと。
龍から事前に聞いていた限りだと、この北村という男こそが、この集落に魔術を広めている元凶で違いないだろう。
しかしこの様子だと、こいつを始末すれば一件落着、というわけにも行かなそうだ。
「皆様にはお部屋をご用意しております。ゆっくりとお休みになられてください」
一通り説明された後にそう言われたが、要はさっさとここから立ち去れ、ということだろう。ここまで案内してくれた男性に促され、三人は神殿を出た。
カゲロウにはカゲロウなりの考えがあるはずだ。彼はあれでかなり思慮深い性格だから、内側から色々と探ってくれることだろう。
問題は、この集落の住人だ。
「いやぁ、あんたらには感謝しないといけないな!」
集落の中を歩いていると、先導する男性がそう声に出した。
やはり彼は教団の人間などではなく、この集落の住人らしい。
「それはどうしてだ?」
「もちろん、我らが神を連れてきてくれたからさ! 元々この集落は、色々と限界が来ていてね。作物は実らないし、周りの森には魔物なんてやつらが出てくるしで参ってたんだ。でも北村さんが来て、神の力だって言う魔術のやらを教えてもらってからはご覧の通り。またここで、普通の生活を送れるようになってね」
自慢げな声で、男性は集落を見渡す。田畑に出ている住人たちは平均年齢こそ高いものの、皆元気に体を動かしていた。木造家屋の縁側には、腰を下ろしてのんびりとお茶を飲んでる老婆も見える。
あの北村とか言う男の思惑がどうあれ、この集落が彼に助けられたのは、紛れもない事実なのだろう。
「そしてついに、我らが神が来てくれたんだ! この集落も、しばらくは安泰だろうさ」
果たして、この集落からカルト教団を取り除くことは、正しいのだろうか。
そんな疑念が頭によぎる。仮に北村たちが悪事を企んでいたとして、けれどそのお陰でこの集落は豊かになった。もしやつらを倒しても、ここが平和になることはないのではないか。もしかしたら、今よりも酷い状況になるのではないか。
意味のない思考だ。蓮は学院に所属する魔術師で、裏の魔術師は敵なのだから。
敵であれば、倒さないといけない。
「さあ、着いたぞ。この家を好きに使ってくれ」
案内されたのはどこぞの家の一部屋なんかじゃなく、一軒の家。そのことを不思議に思っていれば、男性が補足してくれた。
「ああ、気にしないでくれ。この集落にはいくつか、使われてない家があるんだよ」
「住んでたやつはどうしたんだ?」
「いや、最初から誰も住んでなかったさ」
住んでなかった? 最初から?
それはもはや、家としての前提が崩れている気がするのだが。
いよいよホラーじみて来た。同時に、北村への疑念も高まる。
案内してくれた男性はどこかへ去ってしまったので、取り敢えず家の中へ入ることに。
さして広くもない、普通の木造家屋。机や箪笥、キッチン周りにも道具は揃っていて、普通に暮らすだけなら問題なさそうだ。
いや、問題がなさすぎる、と言うべきか。
「変ね、この家。まるでつい最近まで、誰かが住んでたみたいよ」
「みたい、じゃなくて、住んでたんだろうな。見てみろ」
龍が箪笥を開くと、その中には女性用の衣服が詰められていた。先のあの男性の言葉と噛み合わない。最初から誰も住んでいなかったと言うなら、こんなものがあるわけもないのだから。
「他にもこんな家があるって言うことは、この集落から人が消えてる、それも他の人たちには気付かれないように、ってことですよね?」
「だろうな。十中八九、あの北村って男の仕業だ」
とはいえ、言われた通りこの家にお邪魔するしかないのも事実だ。今日一日で終わるのならともかく、どうにも長丁場になりそうだから。
少し気味は悪いが、こればかりは仕方ない。
「俺は少し、この集落のことを調べてくる。お前らは休んどけ」
「俺たちも手伝います」
「そうね、あたしがいた方がいいと思うけど」
「いや、全員で動いたら変に目立つからな。俺だけで十分だ」
それ以上は反論も聞かず、龍は家を出て行ってしまった。
となれば、残されたのは蓮と碧の二人だけだ。慣れない森の中を歩いたせいで疲れているのも事実だから、素直に休ませてもらうことにした。
一応心の中で謝りつつ、冷蔵庫の中を見てみる。やはり予想通り、牛乳やお茶などの飲み物があった。お酒もあったが未成年なのでそちらには手を出さず、コップに二人分のお茶を入れる。
「そういえば、あなたとこうしてゆっくり話すのは初めてかしら?」
「たしかに、碧はあんまり俺の前では出てこなかったな」
お茶を渡して居間の畳に座る。小さな丸机を挟んで向かいに座った碧は、本当にあの子たちとはまるで違う顔つきだ。
比較的大人びた目と声。彼女たち三人が別人なのだとよくわかる。
それでも、蓮の心はどこか落ち着かなかった。いわゆるお年頃。魔術師だろうが思春期であることに変わりはなく。
であれば、好きな女の子と二人きり、と言う状況に思うところがないわけでもない。
「それで、どうなの?」
「どうって?」
「あの子達のことよ。好きなんでしょ?」
まさかその話を今持ち出してくるとは思わなくて、思わず言葉に詰まる。
視覚は共有されてると聞いているし、これ、もしかしなくてもあの二人も聞いているのでは?
「桐生先輩もそうだったけど、好きなら好きって言っちゃえばいいのに。男って面倒な生き物よね」
「言えたら苦労してないよ。先輩はどうだったのか知らないけど、男の意地ってやつがあるんだ」
そう、これは意地だ。
弱い自分が嫌だから。大切な女の子を守れるだけ、強くなりたいから。
素直になれないとか、そう言う話ではない。なにせ蓮の好意は、彼女らの異能によってすでにバレているのだし。
それでも言わないのは、男の意地に他ならない。
ああでも、碧の言葉は、ひとつだけ訂正しておかなければ。
「あの子達だけじゃない。碧もそこに含まれてるっていうのは、ちゃんと理解しててくれ」
「……バカじゃないの? あたしにそんなこと言うくらいなら、ちゃんとあの子に言いなさいって話よ」
「ははっ、その通りだな」
ほんの少し頬を赤らめた碧を見て、この子も存外可愛いところがあるんだな、なんて思ってみたり。
いや、この子も黒霧葵の一部であることを考えれば、可愛くないわけがないのだけれど。
「なによ、あたしが顔赤くしても似合わないって?」
「そんなこと言ってないだろ。ちゃんと可愛いよ」
「あなたね……」
はあ、と呆れたようなため息がひとつ。だって可愛いのだから仕方ない。
むしろ普段大人びてる分、あの二人よりもギャップで相乗効果が働いている。
そうやってしばらく碧を愛でていたのだが、突然、集落全体に響き渡るほどの警報が鳴った。
サイレンなどの電子音声ではなく、鐘のようなものを鳴らしている音だ。
「これは……」
「魔物が出た、らしいわね」
異能をオンにしているのだろう。そして碧の言葉を裏付けるように、外が俄かに騒がしくなり始めた。
もしもさっきと同じ魔物だとしたら、この集落の人たちでは敵わない。それは先ほども見ている。
「助けに行こう」
「言うと思ったわ。今度はちゃんと、あたしたちを守ってよ?」
からかい混じりなその言葉に無言で頷きを返し、蓮と碧は家を出た。
◆
集落の外に直接転移すると、森の中では先ほどと同じイノシシの魔物五匹が、熊の魔物と争っていた。熊の方もさっきと同種の魔物だろう。
しかし解せない。たしかにそれぞれで違う種の魔物とは言え、なぜ人間の集落のほど近くで争っているのか。
「あのイノシシ……」
「碧?」
「……あっちは攻撃しないで。熊だけ倒しなさい」
「分かった」
「理由くらい聞きなさいよ……」
呆れた様子の碧だが、彼女がそう言うのだ。なにか視えたのだろう。思えば先ほどカゲロウも、イノシシを見てなにかしらの異変を感じ取ったようだったし。
腰の剣を抜いて、魔力を流す。
それだけである程度の構造は把握できた。なるほど、これはたしかに使いやすそうだ。
魔力を練り上げ術式を構成する。なにも持っていない左手の指先から糸を放ち、熊の右腕を絡め取った。
ギロリと、殺気に満ちた双眸がこちらを向く。イノシシから蓮に標的を移し、魔物が雄叫びをあげた。
「来るわよ。イノシシの方は任せなさい」
「ああ」
四つの足で素早く突進してくる熊の魔物。イノシシの前には氷纒を発動させた碧が氷の壁を作り、完全に分断させていた。
「試し斬りには丁度いい相手だ」
巨体に似合わぬ俊敏さで肉薄してきた熊が、蓮の目の前で立ち上がり腕を振り上げる。
だがさすがに隙だらけだ。落ち着いて振るった糸が、魔物の脇腹を打ち据える。鋼鉄よりもなお硬い糸だ。苦悶と怒りに再び雄叫びを上げるが、蓮が容赦する意味もない。
より一層魔力を込めた糸を振るえば、直撃した熊が後方に吹き飛ぶ。
そして追撃に、右手の剣を振り上げた。熊の体はすでに剣の届かない位置にいる。それがただの剣であれば、だ。
振り下ろした剣が、その刀身を伸ばした。
内部には蓮の魔力で出来た糸がワイヤーになり、分裂した刃をどこまでも伸ばす。
魔物がなんとか体勢を立て直していたが、もう遅い。射程外から放たれた刀身は、その体を容易く袈裟に両断した。
「お疲れ様。結構やるじゃない」
「龍さんのお陰だよ」
いわゆる蛇腹剣、連結刃などと呼ばれる武器だ。内部のワイヤーを蓮の糸で作れるように、龍が調整した。
もともと糸を鞭のように使っていたこともあって、蓮の手にはよく馴染む。
謙遜しながらも、元の長さに戻した剣を鞘に収める。
こんないい剣、本当にタダでもらってよかったのだろうか。
しかしどうやら、蓮が謙遜したことに碧は納得のいってない様子で。
少しムッとしたような表情を浮かべていた。
「その剣は貰い物かもしれないけど、魔物を倒したのはあなたの実力でしょ。謙遜しすぎるのはよくないわよ」
「そうかな……」
「そうなの。ちゃんと誇りなさい」
「……うん、分かった」
自分の悪い癖だと自覚はあった。いかんせん周りが強い人たちばかりだからだろうか。蓮は自分の実力を、やけに過小評価しがちだ。
龍も言っていたが、蓮は魔術師としてかなり優秀だ。自分の長所、自分の実力を正確に把握する。言葉以上に難しいそれを、まだしっかりと出来ていないのだろう。
どうやらイノシシの方はどこかへ逃げてしまったようで、魔物はもう残っていない。一応周辺を警戒していると、遅れて集落の人たちがやって来た。
魔力の強弱を探ってみるに、二人ほどカルト教団の魔術師、北村の仲間が混じっている。
魔物はもう倒したということを伝えてみれば、集落の人たちがやけに騒ぎ始めた。
「さすがは我らが神の遣い!」
「やはり私たちよりも、神の力を多く譲り受けているのですね!」
「羨ましいなぁ……俺もいつかは……!」
「バカ! 俺たちみたいなのが、そんな力授かれるわけないだろ!」
どうやら、蓮たちはカゲロウの遣いという扱いになってるらしい。
部下みたいな扱いをされていて、どうにも納得のいかない蓮だった。
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