幕間 探偵と殺人姫と最後の一線

第57話

 目を覚ませば、未だ見慣れない天井が視界に広がる。天蓋付きの豪華なベッドは、織の意識を現実から覚ましてくれることなく、夢の中ではないのかと錯覚してしまう。

 けれど、隣で眠る愛おしい体温を感じて、紛れもない現実なのだと思い知る。


 級友の実家である屋敷で世話になってからの一ヶ月、目が覚めた時は毎日同じだ。

 事務所の二階よりも余程広い部屋に、ふかふかのベッド。頼めばなんでも用意してくれる、クリフォード家の使用人達。

 なに不自由ない暮らしではあるけど、それが逆に窮屈に感じる。

 なんてのは、贅沢な悩みだろうか。


 まだ夢の中にいる恋人の髪を優しく撫でながら、ここにいない家族へと思いを馳せる。

 朱音は、元気にしてるだろうか。ちゃんとご飯は食べてるだろうか。サーニャや葵たちに迷惑はかけていないだろうか。

 心配しすぎだと朱音に怒られそうで、思わず苦笑してしまう。ついでに、人の心配じゃなくて自分の心配して、とか言われそうだ。


「んぅ……」


 傍から声が漏れ、お姫様が目を覚ました。姫は姫でも、結構物騒な姫なのだが。ここでこうして眠っている分には、本当にただのお姫様のようだ。


「おはよう、愛美」

「ん……おはよ……」


 くしくしと目を擦る愛美。まだ完全に意識が覚醒していないらしい。今にも二度寝してしまいそうだ。

 織も出来れば、いつまでもこうして愛美と二人、緩やかで穏やかな空気に身を浸していたいけど。


 そういうわけにはいかない。二人には、今日も過酷な戦いが待っているのだから。



 ◆



「おはよう、二人とも」

「おはようございます、クリフォード卿」


 欠伸を噛み締めてる愛美を伴ってやって来たのは、クリフォード邸の広いダイニングルーム。出迎えてくれたのは、この屋敷の主人であり、クラスメイトの父親。そして魔術学院を統べる首席議会の一員でもある、ロイ・クリフォードだ。

 その妻のローラ・クリフォードも、穏やかな笑みを携えてロイの隣に座っていた。


 二人がイギリスへとやって来てから、およそ一ヶ月。蒼の言う通りにまずクリフォード邸を訪ねた織と愛美を、ロイは快く迎えてくれた。それどころか、屋敷の一室を貸し出してくれ、二人のことを全面的に支援してくれている。

 こうして食事まで用意してくれているのだ。クリフォード夫妻には頭が上がらない。


「今日も、戦いに行くのかい? 少しくらいは休息も必要だと思うが」

「お気遣いありがとうございます。でも、こうして衣食住を提供してくれてるだけで、十分助かってますから」


 特に寝る場所と食事は、本当に助かっている。愛美は大量の食事が必要だし、ふかふかのベッドで毎日寝れるだけで、十分な休息も取れているのだ。

 それに、休んでいる暇なんてありはしない。今こうして朝食を摂っている間にも、賢者の石を悪用しようとする輩は動き出しているかもしれないのだか。


 いただきます、と手を合わせて食事の挨拶をする愛美の前には、大量のパンやミートパイ、ローストビーフに付け合わせのプディングなどなど。

 よくもまあ、客人とはいえこんなに作ってくれるものだ。ロイから聞いた話によれば、使用人たちは結構喜んで作ってくれているとのこと。

 作った料理を美味しそうに食べてくれれば嬉しいのは、万国共通なのだろう。愛美が美人で可愛いのも相まって、余計かもしれない。


「しかし、本当に無理はしないでくれたまえ。君たちに何かあったとあれば、蒼やアイクに合わせる顔がなくなってしまう」

「大丈夫ですよ。今日も、ちゃんと夕飯までには帰ってきますから」


 負けるつもりも、死ぬつもりもさらさらない。こうして心配してくれる人がいて、二人にはキリの人間としての使命がある。

 そしてなにより、日本には帰りを待つ家族がいるのだから。



 ◆



 朝食を終えて準備も済ませれば、二人は標的のいる場所付近へと転移する。

 今日はスコットランドの首都であるエディンバラへとやって来ていた。


「イギリス国内はこれで最後だったわよね?」

「確認できてる限りでは、な」


 エディンバラ城の城下にある、旧エディンバラ市街。そこで蒼から受け取った地図を確認する二人。

 街の人々は日本人の二人を物珍しそうに眺めているが、観光客だとでも思っているのだろう。時たま話しかけてくる人もいるが、それらを一切無視して、エディンバラ城へと一直線に向かう。


 この一ヶ月、毎日のように戦いに明け暮れていた二人は、この場所を除いてイギリス国内に存在する石持ちの魔術師を全て倒していた。

 時には一日に何度も移動を繰り返し、連続で複数人を相手取ったこともある。お陰で、このエディンバラ以外の賢者の石は全て排除した。今日ここが終われば、次はまた別の国だ。それでも、クリフォード邸にはまだまだお世話になるだろうが。


 エディンバラ城の目の前まで辿り着いた二人は、しかし入場口へは向かわない。

 そもそもこの城には、未だに軍隊が駐留しているのだ。入場口は本物の衛兵がおり、一般には観光の名所として扱われている。

 魔術的にも価値のある場所なので、中には軍隊だけではなく、学院の魔術師も詰めていることだろう。実際、城の周囲は結界に覆われていた。今の織と愛美は、ただの魔術師が張った結界など完全スルー出来てしまうのだが。

 だから標的の魔術師が陣取っているのは、城の中ではなくその地下。中にいる魔術師は、恐らく既に敵の手に落ちている。洗脳されているのか、元々味方で手引きされたのか。

 どちらかは分からないが、当てにできないことだけはたしかだ。


 認識阻害をかけて、浮遊魔術で飛びながら険しい崖沿いを行く。

 エディンバラ城は、岩山の上に立っている。露出した岩肌をじっくり観察しながら飛んでいると、一箇所だけ魔力の歪んだ場所を見つけた。


「愛美」

「任せなさい」


 懐から取り出した短剣で、岩肌を斬る。隠し扉となっていたその先には、明らかに人の手が加えられている空洞が現れた。

 愛美が斬り捨てた岩は、そのまま下に落ちたら危険なので適当に消しておく。


「さて、どんなやつが出てくるかね。今までよりも強いのは確定だろうが」

「上等よ。その方がヤル気も出るわ」


 空洞に降り立ち、歩みを進める二人。

 ここをイギリス国内の最後に攻略することは、こちらに来た頃から決めていたことだ。

 理由はシンプル。エディンバラ城の反応だけ、明らかに強力だったから。恐らくは石を五つ以上取り込んでいる。

 賢者の石の扱いに慣れないうちは、避けることにしていたのだ。


 そして中に潜む魔術師の実力を示すように、奥へ進むに連れて空気中の魔力も濃くなってきていた。

 それだけではない。魔力の中に、別の力も混じっているのを、織は感じていた。

 身体に熱が集まり、言いようのない高揚が襲う。


「織? どうかした?」


 心配そうに顔を覗き込んでくる愛美の表情が、いつも以上に艶めかしく見えてしまう。

 華奢な体を抱きしめ、白磁のような肌に自らの証をつけたい。そんな欲求に駆られ、ようやく正体を理解した。


魅了パフュームか、これ……」

「え、私はなんともないけど」

「魔術じゃなくて異能だな、俺にだけ効果があるってことは、相手は女なんだろ」

「へぇ。私の男に手を出すとか、命知らずにも程があるわね」


 軽い調子で吐いた言葉に、織は背中がゾッとする。

 抑えるつもりのない殺意が、洞窟内に撒き散らされる。

 以前愛美から聞いた、亡裏という一族としての殺人衝動。それを彼女は、日常の中でいつも抑圧している。敵と相対した時にようやく、その片鱗を覗かせるのだ。

 だが今の愛美は、その衝動を剥き出しにしている。片鱗なんてものじゃない。パフュームによって増幅された織の邪念が、一瞬恐怖で吹き飛んでしまうほどの殺意。


 桐原愛美は、怒っているのだ。


「ま、待て、愛美。俺は平気だから。これくらいなら我慢できるから」

「敵の心配するの? なるほど、パフュームのせいね。安心しなさい、その女は私が殺すから」

「なんかヤンデレみたいな発言になってて危ないんだけどッ!」


 元からその素質を持っていた愛美だが、実際にヤンデレちっくなことを言うと破壊力がやばい。なにがやばいってマジやばい。だって本当に殺しちゃうからね。


 しかし、これは本当に厄介だ。今の織は正直、まともに戦えるような状態ではない。術式構成はガタガタになるだろうし、異能の持ち主を前にして戦意喪失、なんて可能性も考えられる。

 だが愛美一人に任せられるほど、敵も弱くはないはずだ。


 湧き上がる欲望を必死に抑えながら、更に奥へと進んでいく。だが織の症状は悪くなる一方だ。仮に魔術なら幾らでも対処できたのだろうが、異能となれば話が違う。

 幻想魔眼なりレコードレスなりを使えば、容易にパフュームを無効化ことが出来るだろう。だが、発動するための集中力が練れない。どうしても意識が隣を歩く愛美に向いてしまう。

 いくら強力な力を持っていても、それを使えなければ意味がないのだ。


「……そんなにヤバイなら、ここでする?」

「一応聞くけど、なにを?」

「性欲発散」

「んなことだろうと思ったよやるわけないだろ!」

「あら残念」


 クスクスと小悪魔な笑みを浮かべる愛美だが、マジでシャレにならないのでそういうの今はやめて欲しい。

 愛美はいつもの揶揄いの延長でしかないのだろうが、織にとってはいつも以上に煽られる要因となってしまっている。


 そして事実として、この洞窟内に満ちているパフュームは、常人なら既に意識を失っていてもおかしくはない程の濃度となっているのだ。

 本能を直接刺激する色香は、男を快楽の坩堝に溺れさせるもの。そうして尽きるまで精を搾り取り、己が力とする。

 パフュームを扱う裏の魔術師というのは、基本的にそういった類の相手が多い。

 だが今回のこれは、魔術ではなく異能だ。いや、相手が魔術師であることに変わりないだろうけど、このパフュームが敵の全てだとは思わない方がいい。

 こんなにも強力な魅了の力の他に、まだ賢者の石まで持ってるというのだ。おまけに織はこんな状態。かなりキツイ戦いになるのは、目に見えている。


 と、そう考えるのはどうやら織だけのようで。隣を歩く愛美は、嗜虐的な笑みを浮かべて苦しそうな織を眺めている。


「でも、こんな織を見れるのも珍しいわよね。最近は特に」

「お、おい、愛美……?」

「幻想魔眼なりレコードレスなりを使えるようになってから、あなたが弱ってる姿とか見れなかったし」


 足を止め、タタッ、と軽快に距離を詰めてくる。咄嗟のことで反応できずにいると、


「ふぅー」

「ひょぇっ」


 耳に息を吹きかけられた。なんか変な声が出た。背中にゾクゾクと快感じみたものが走り、思わずその場で蹲ってしまう。

 下手人は楽しそうに笑っているのみ。


「頼むから……マジでやめてくれ……いい加減抑えれなくなる……」

「仕方ないわね」


 唇を尖らせる愛美。こっちは理性を保つのに必死なのだから勘弁してほしい。

 今のだって相当危なかった。気を抜けば、今すぐにでも愛美に襲いかかってしまいそうだ。


 愛美にはなるべく視界に入らないよう後ろを歩いてもらい、更に奥へと進む。

 やがて辿り着いた突き当たりには、木製の扉が。いかにもこの先に待ち構えてますよ、と言わんばかりの。

 この時点で、織の意識はかなり朦朧としていた。いっそ我慢せず、湧き上がる欲望に身を任せたら楽なのかもしれないが。


「さて。さすがこの先は、冗談じゃ済まなそうね」

「愛美……?」


 前に出て、織と向き合う愛美。こんな状態では足手まといだから、とでも言われるのだろうか。たしかにそれは否定出来ないが、だからと言ってこの先に愛美を一人で向かわせるわけにもいかない。

 パフュームと同じく、洞窟内に満ちる魔力だって、そこにあるだけで人を殺せるほどの濃度になっているのだ。

 それを放っているのは、この扉の先にいる魔術師。いくら愛美と言えど、一人で挑んで無事に帰ってこれる保証はない。


 思えば、この一ヶ月の戦いでは何度もあったのだ。生きている方が不思議なほどに苦しい戦いが。

 それでもこうしてここに立っていられるのは、二人が力を合わせて乗り越えたからに他ならない。


 だから、今回も同じ。愛美になんと言われようが、共に戦う。


 そう決意した織だったのだが。


「えいっ」

「──ッッッ⁉︎⁉︎⁉︎」


 彼を襲ったのは、股間への鋭い痛み。

 起きたことだけを端的に説明すれば、可愛い掛け声で愛美が織の股間を蹴り上げた。しかも概念強化付きで。


 声にならない悲鳴をあげて、地面をのたうち回る織。パフュームによって増幅された性欲とか、あっという間にどこかへ消えた。


 いやこれ本当にマジで洒落ならないめっちゃ痛いんですけど!!


「これで元に戻るでしょ。ほら、さっさと立ちなさい」

「ま、まって、おねがいまって……」


 が、幸運なことに、痛みには慣れている。

 織の瞳が、オレンジの輝きを帯びた。次の瞬間にはなにごともなかったかのように立ち上がり、胡乱な目で愛美を見つめる。


「お前な……荒療治にも程があるだろ」

「結果オーライよ」


 幻想魔眼。

 不可能を可能にする、この世の異能全ての頂点に立つ力。

 あのパフュームは、男であれば誰であれ、抗うことは不可能だ。織は持ち前の精神力でなんとか耐えていたが、あのままではそれも時間の問題だっただろう。

 しかし、この魔眼を一度発動してしまえば関係ない。

 抗うことが不可能なほどに強力な力。だからこそ、魔眼を発動した織には通用しなくなる。


「ほら、行くわよ。さっさと殺してさっさと帰りましょう」

「そう簡単に行けばいいんだけどな」


 お行儀よく扉を開くなんて真似はせず、愛美が短剣で斬り捨てる。まるで八つ当たりしてるかのように。

 先程の怒りがぶり返してきたのだろう。再び撒き散らされる、抑えるつもりなど毛頭ない鋭い殺意。


 それが向けられるのは、扉の向こう、部屋の奥で玉座に腰掛けていた若い女の魔術師だ。ウェーブがかったダークブラウンの髪と、肉感的な肢体を強調する服装。己の美に絶対的な自信を持つ、強者の笑み。

 なにより、そんな彼女の周囲には、何人もの男が倒れていた。息をしている様子はない。どれも死体だ。


「ようやく来てくれたわねぇ、探偵賢者に殺人姫。待ちわびたわぁ」


 その声が、息遣いが、彼女を構成するあらゆる全てが、男を拐かす力として成り立っている。魔眼がなければ、今頃どうなっていたことか。想像するだけで恐ろしい。


「その呼び名、恥ずかしいからやめて欲しいんだけどな」

「いいじゃない、探偵賢者。もっとも、さっきまでの織は賢者なんてものから程遠かったけど」


 軽く言葉を交わして、女を見据える。取り込んだ賢者の石は、予想していたよりも多い。七つほどだろうか。これまで相手にして来たやつらでも、多くて三つだった。

 そこまでの数になると、身体が耐えられないのだ。しかし、この女魔術師はそれを可能とするだけのスペックを有していた。


「一応、最初に聞いておくことにしてるんだけどな。賢者の石で、なにを企んでいる?」

「魔の探求。それ以外に答えがあると思ってるのかしらぁ?」

「いや、思わねぇな」


 毎度同じ答えが返ってくる。我ながら意味のない質問をしているものだと、内心で苦笑する。

 もしかしたら。石の力を、いい方向に使おうとしているやつも、いるかもしれない。

 そんな希望に縋っているのは、弱さの証か。


 それでもいいと決めているのだ。

 弱さを抱えたまま前に進む。それが、桐生織の生き方なのだから。


「生まれ出でよ我が子らよ」


 女魔術師の詠唱が、岩に覆われた部屋の中で響く。彼女の背後に、巨大な魔物が二匹出現した。四本の鎌を持ったカマキリと、触手を蠢かすスライム状の魔物。

 そのどちらもが、未知の魔物だ。つまりこの魔術師は、この世に存在しない新たな魔物を、この場で生み出している。


「さぁ、行きなさい、私の可愛い子供達」

「来るぞ!」

「援護任せたわよ!」


 魔力を練り上げ術式を構成する。殺人姫が凄惨な笑みを浮かべて地を蹴り、迫る魔物へと駆け出した。


 これより始まるのは、人でありながら人外の力を手にした者たちの戦いだ。



 ◆



 賢者の石とは、そもそもどう言ったものなのか。それはついぞ、魔女ですら真相に辿り着けなかった。

 莫大な魔力を宿し、所持者の扱う術式を記録する石。

 そして、位相の力を振るう鍵となる石だ。


 灰色の吸血鬼は自身の異能によって、賢者の石のコピーを大量に作り出した。それが全世界に存在する裏の魔術師へと手渡され、オリジナル所持者の織と愛美は、そいつらを排除するために日本を離れたのだ。


 コピーが持つ力は、オリジナルと遜色ない。宿した魔力の量も質も。いくつも取り込めるというその一点においては、オリジナルよりも優れているだろう。

 唯一の違いは、記録された術式。

 魔女が使っていた数多くの魔術に、位相の力を操るレコードレス。それらの記録されていた術式は、取り込んだコピーの数など覆すほどの力を持っていた。


「術式解放、其は天を穿つ神のいかづち!」


 ロウソクの火だけで照らされた、あまり明るいとは言えない部屋の中。そこに、新たな光源が現れる。

 強烈な光を放つのは、雷の槍だ。織の詠唱に応えて現れたそれは、五つの稲妻に分かたれてカマキリの体を穿つ。

 致命傷には至らなかったが、一瞬だけ動きを止めることは出来た。

 その一瞬があれば十分だ。カマキリの懐に潜り込んでいる殺人姫。接近に気づいて凶悪な鎌が振り下ろされるも、遅い。

 短剣が鎌を斬り落とし、紫の血が吹き出す。それを浴びることを何ら厭わずに追撃しようとする愛美へ向けて、別の方向から触手が襲いかかった。


「遅い」


 本来ならばその弾力で、切断など無効にするはずの触手。それが、いとも容易く斬り裂かれる。

 半端に与えられていた知性が仇となったのだろう。スライムのような魔物は驚愕したのか、動きを停止させた。


「まずは一匹目だ。貫き穿て氷樹の螺旋ドリルライナー!」


 魔物に向けた銃口。そこに現出するのは、氷のドリルだ。高速で回転しながら突き進む螺旋は、スライムの体を抉り、削る。

 飛沫となって散るスライム。だが、終わっていない。地面に散ったカケラが蠢き、一箇所に集まって体を構成した。

 見れば、愛美が相手をしているカマキリの鎌も再生している。


「治癒能力持ちみたいね」

「厄介だな」


 一度織の隣へ下がってきた愛美は、忌々しげに魔物の奥で踏ん反り返ってる女を睨め付けていた。どうやら、相当お怒りの様子で。

 その理由に嫌でも心当たりがあるから、場違いにもちょっと嬉しくなってしまう。


「もう終わりかしらぁ? まだまだ数は揃えてるのだけれどぉ?」


 新たに生み出される魔物たち。やはりどれもが見覚えのない種だ。


「ふふっ、探偵さん、早くあなたを私のものにしたいわぁ……私のパフュームに耐えるのだもの……きっとこれまでのどのオスよりも、美味しいのでしょうねぇ……」


 うっとりと恍惚の表情を浮かべる女に、織は悪寒を感じて後退りしてしまう。

 きっとこの部屋に転がっていた男たちも、この女に命ごと精を搾り取られて死んでいったのだろう。極上の快楽を与え、思考を奪い、その魂までも喰らい尽くす。そうして力を得たのが、この魔術師だ。


 本能的に恐怖を感じる織は、隣に立つパートナーの異変に気付いた。

 そして察する。これ以上、自分の出る幕はないことを。


位相接続コネクト


 短く吐いたのは、詠唱と似て非なる言霊。

 この世界に存在してはいけないほどに濃密な魔力が渦を巻き、愛美の体が光に包まれる。

 魔術ではない。ましてや、異能でもない。


 やがて現れたのは、白い生地に紫のキリの花があしらわれた振袖姿の殺人姫。結い上げた長い黒髪には、半透明の石が埋め込まれた簪が挿してある。持っていた短剣は刀へと変化していた。


死を告げ血を纏う殺人姫レコードレス・リーパー


 キリの人間にのみ許された、位相を操る最強の力が顕現した。

 いかに賢者の石を取り込んだ魔術師といえど、理解不能の力。明らかに異質だと、ただそれだけが分かってしまう。

 故に、女魔術師は恐怖に支配される。


「私の子供達、あのメスを殺しなさい!」


 感情のままに叫んだ指示を聞き、魔物たちが動き出した。同時に、愛美の姿が消える。

 いや、姿を消したわけではない。ただ、その速さを目で捉えられないだけだ。


 次の瞬間には全ての魔物が血飛沫を上げて崩れ落ち、殺人姫は女魔術師の懐へと潜り込んでいた。


「なん、で……」


 斬り飛ばされる右腕。我が子と呼んだ魔物達は再生せず、死体となって横たわっている。

 なにもかもが理解出来ない。魔物だけではない。自分の右腕だって、賢者の石の魔力があれば、すぐに復元できるはずなのに。


 理解出来なくて当然だ。それこそ、愛美のドレスが持つ力なのだから。

 魔術と異能。あらゆる超常の力を、この世界から抹消する。愛美が斬り伏せたものは、ひとつの例外もなく超常の力を失うのだ。


 位相の奥から力を引き出すでもなく、敵の力さえ奪い支配するでもなく。

 ただ、殺すための力。

 なるほどそれは、殺人姫に相応しい。


 刀の切っ先を突きつけられた女魔術師は、元の色香は消え失せ、蠱惑的な表情は見る影もなく恐怖に歪んでいる。


「いたぶるのは趣味じゃないんだけどね。でも、あんたはただじゃ殺さない。誰の前で、誰の男に手を出したのか、思い知らせてあげるわ」

「ひっ……」

「術式解放、其は昏き底から這い寄りし混沌」


 愛美の足元を中心に、泥のようなナニカが広がる。それを見て、織は宙に飛び上がった。

 瞬く間に部屋を満たす泥は、生理的嫌悪感を抱く名状しがたきナニカ。魔物の死体を呑み込み、女魔術師の体も徐々に沈んでいく。


「あぁ……やめて、どうしてッ……! 私は、私はただッ……!」


 踠き苦しむ女の体を、泥の底から這い寄る触腕が貫いた。


 沈み行く女魔術師を見て、織は哀れに思えてしまう。

 魔術師である以上、常に死とは隣り合わせだ。それが裏に潜っているやつらであれば、殊更に実感しているだろう。こうして命の奪い合いを繰り広げることだって、覚悟していたはずだ。

 けれど、せめて殺人姫の逆鱗に触れなければ、少しはマシな死に方が出来たのに。


 いや、この思考はダメだ。この一ヶ月で麻痺してきている。

 俺たちは、他人の命を奪った。死に方がどうとか、そんなのは関係ない。

 人をひとり殺した事実は、なにがあっても覆せないのだから。織自身が直接手を下したわけではないけど、それでも。


 地に伏していた悉くを呑み込み、泥は消える。残されたのは織と愛美の二人だけ。

 ドレスを解除し、元の制服姿に戻った愛美は、苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。


「普通に愛されたかった、なんて。傲慢にも程があるわよ。誰かを愛せないやつが、誰かから愛されるわけないでしょ」



 ◆



 日が沈むよりも前にクリフォード邸へ戻ってきた二人。帰ってからまず、織は愛美に風呂に入れと言われた。あの女の匂いを全部落とせと、そういうことらしい。


 部屋の中に備え付けられた浴室で、織は今日対峙したあの女魔術師のことを考える。

 きっと彼女は、ただ自分の異能をどうにかしたかった。それだけだったのだろう。そのために力を求めて、自分を愛してくれる相手を探して。そのうちに、本来の目的を見失ってしまった。


 最後に愛美の呟いた言葉は、きっと彼女に理解されない。それは持つもの故の言葉だから。家族に囲まれて育ち、惜しみない愛情を与えられた愛美だから言えるのだ。

 それは織だって同じ。今は亡き父と母から愛されて育った。

 彼女には織と愛美のことを理解できないだろうし、二人も彼女のことを理解してやることはできない。


 全く、終わってみれば後味の悪い結末だ。

 この一ヶ月間の戦いは、どれもそうだ。最後に手を下すのは、いつも愛美だった。けれど、どんなに邪悪な相手でも、織自身が手を下したわけではなくても。命を奪ったことに変わりはない。

 その事実が、いつも織を苛ませる。

 今日の相手は、今までの中でもトップクラスに後味が悪かった。


「割り切らないと、って分かってんだけどな……」


 湯船に浸かり、重いため息を吐き出した。


 桐生織は、正義の味方なんかじゃない。

 自分の手が届く範囲にいる人たちを守るため、家族を守るために戦っている。見知らぬ誰かの幸せを願い、悪に立ち向かう正義の味方なんかじゃないんだ。


 だから、障害になる相手は全て排除する。たとえ殺すことになっても、その屍を乗り越えなければならない。


 分かっていても、重くのしかかる。命を奪うことの意味。その責任。

 キリの人間としての使命よりもよっぽど身近なそれは、織の精神を着実に磨耗させている。

 それでもこうして踏み止まれているのは、すぐ隣に大切な女の子がいるからで。


「失礼するわね」

「……は?」


 その女の子が、裸にタオル一枚だけ巻いた姿で浴室に現れ、織は数瞬自失した。


「いやいやいやいや」

「なに?」

「なにじゃねぇよ! なんで素知らぬ顔して風呂入って来てんだよ!」


 ムッとした顔になる愛美は、本当にただの布一枚しか身につけていない。いつぞやの安倍家での時のように、中に下着は着てるとか、そんなことはないのだ。

 一体なんのつもりなのか。この屋敷で生活するようになってからも、日本にいた頃も、こんなことはなかったと言うのに。


「そろそろ、あなたが変なことうじうじと考え始めてる頃かと思ったから。心配して見に来たのよ」

「だからってお前……俺が風呂上がってからでもよかっただろ」

「だって織と一緒にお風呂入りたかったし」

「……」


 そんな可愛いことを言われてしまえば、男としてはなにも言えなくなってしまう。

 沈黙を是と受け取ったのか、愛美は椅子に腰を下ろして体を洗い始めた。そうなれば当然、身に纏っていたタオルを外すわけで。


 さて。一応説明しておくが、織の体内には今現在、パフュームの効果がほんの僅かながら残っている。

 幻想魔眼で無効化していたとは言え、その発動を解いてしまえば、元から吸ってしまっていたパフュームは再び効果を発揮してしまう。時間も経過しているからある程度薄れているとは言え、こんなことになってしまえば薄れているとか関係ない。


 ムクムクと膨れ上がる劣情。ダメだとは分かっていても、視線が吸い寄せられる。

 意外にも筋肉質で、傷ひとつない綺麗な背中。水に濡れた髪は常よりも艶やかに見える。首筋に走る水滴が照明に反射していた。

 今すぐにその背を抱き寄せたい。首筋に口付けを落として、欲望のままにかき抱きたい。


 前に桐原の屋敷でお約束のようなハプニングがあった時は、速攻で蹴られて気絶させられたというのに。むしろ今回もそうしてくれないだろうか。その方が色々と楽なんだが。


「視線」

「悪い……」

「やっぱり。まだ残ってるんじゃない」


 気づかれていたのか。いや、それはそれで問題だろ。なんで気づいてて一緒に風呂入ってくるかな。


 織が必死に理性を保っている間に、体を洗い終えたのだろう。タオルで体の前を隠した愛美が、湯船に入る。織の目の前、背中を向ける形で腰を下ろそうとするが、さすがにそれは止めた。


「待て、あんまり近寄るな。もうちょい離れてくれ」

「なんで?」

「男の子には色々と事情があるんだよ」

「……知ってるけど」


 だから! なんで知ってるのにわざわざ近づいてくるんだよこいつは!

 内心で叫ぶ織だが、それが愛美に届く筈もなく。完全にくっ付いているわけではないが、それでも超至近距離、織の股座に腰を下ろした。

 うなじの辺りが赤くなっているのは、お湯の温度が高いからか。もしくは、別の理由があるのか。


「明日は、休息日にしましょうか」

「随分急だな」


 なんとか平静を保ちつつ言葉を返す。欲望に負けないよう、顔は上を向け視線は天井に固定。シミの数でも数えていよう。


「だってこの一ヶ月、一日も休まずにずっと動いてたでしょう? さすがの私も、ちょっと疲れちゃった」


 それが愛美の気遣いなのだと、すぐに理解できた。

 さっきも言っていたではないか。そろそろうじうじと考え始めてる頃だから、と。きっと愛美には、織の考えていることなんて全部お見通しなのだろう。


 だからこそ、愛美はその手を血で汚す。

 手を下せない織の代わりに。


 全ては自分が負うべきだと。織が負うはずのものを全て、この小さな肩に背負おうとしている。

 苛烈なまでの優しさは、まるで甘美な毒だ。

 一度味を覚えてしまえば、溺れてしまいそうになる。パフュームなんかよりも厄介な毒。


 その優しさに、甘えたくはない。愛美一人に背負わせるなんて、絶対にさせない。


 でも、疲れ切った織の心には、愛美の優しさが嫌という程染み渡ってしまう。

 それは膨れ上がる欲望の付け入る隙となってしまって、ダメだと分かっているのに、後ろから愛美の体を抱きしめてしまった。


「織……?」

「ごめん、愛美」


 意味のない謝罪の言葉を吐き出した口を、そっと首筋に触れさせる。舌を這わせて強く吸えば、小さな嬌声が聞こえた。

 ハッと我に返って顔を離すが、もう遅い。口付けた首筋には赤い痕が残っている。小さな肩は僅かに震えていて、顔だけで振り返ってこちらを見つめる瞳は、情欲の炎に揺れていた。


 ゆっくり。ゆっくりと、その細い体までこちらに向けようとする。

 完全に体が向けられる、その直前で。しかし織は愛美の肩を掴み、グッと腕を伸ばして体を離した。


「……先に上がる」


 反論する隙も与えず、羞恥心もかなぐり捨てて、ヘタレ大王桐生織は立ち上がって湯船から上がり、浴室を出たのだった。

 でもやっぱり、思春期少年的思考とか愛美の気持ちとかを考えた末、脱衣所から浴室の中に向けて、織は声をかけた。


「飯食って、もうちょい遅くなってからな」

「……うん」


 あまりにも可愛すぎる返事の声にどうにかなりそうになった。

 この後食事の席で、友人の両親やら使用人の皆さんに色々と察せられるのは、また別の話。態度に出す二人が悪い。

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