第58話
カーテンの外はまだ薄暗く、日も完全に昇ってはいない時間。部屋の外では使用人の人たちが動いている気配もするけど、時計を見れば朝の五時。普段なら確実に夢の中であろう時間に、愛美は幸せな倦怠感に包まれながら目を覚ました。
隣では生まれたままの姿で眠る恋人が。その寝顔はいつもより幼くて、可愛く見える。昨日の夜は、もっとカッコよく見えていたはずなのに。
不意に情事の最中が脳によぎって、愛美は頬を赤らめた。
昨日の熱は、身体の中にまだ残っている。
下腹部の違和感は、私が織に愛された、なによりの証。
それだけじゃなくて、身体の何箇所かに刻まれた赤い痕も。
とても痛かったし、ちょっと怖かったけど。でもそれ以上に、彼は優しくて。だからめいいっぱい甘えちゃって。
これ以上は思い出さないでおこう。朝から考えるようなことでもない。
とは思っても、記憶は中々脳から剥がれ落ちない。気を紛らわすために服を着ようかとも思ったけど、起き上がるのはまだちょっとしんどい。
布団の中に潜って、ピタリと織にくっつく。起きたら離れろとか言われそうだけど、まだ寝てるうちは好き勝手し放題だ。
「……よく見ると、織にだけ痕が残ってないのよね」
なんだかそれが気に食わなくて、ベッドに両手をついて織に覆いかぶさる。
昨日、織に風呂場で付けられたのと同じ場所。首筋に舌を這わせて、口づけを落とし強く吸う。上手くできるかは分からなかったけど、顔を離せばそこには赤い痕が。
「なにやってんの、お前……」
気分良く微笑んでいた愛美の眼下から、声がかけられる。寝起きだからか、もしくは愛美の行動を見たからか、目を覚ました織は胡乱な視線を愛美に向けていた。
「おはよう、織」
「おはよう。で、朝からなにやっての?」
「……昨日の続き?」
「お前な……」
疑問形で適当に返したら呆れられた。それすらもなんだか面白くて、クスクスと笑みが漏れてしまう。
もう一度織の隣で横になって、その腕をギュッと胸に抱いた。あたたかな体温がこの上なく愛おしい。戦いとか使命とか、そういうのを全部忘れてしまいそうなくらい、幸せに満たされてしまう。
「身体、大丈夫なのか?」
「ちょっと気だるい感じがするけど、それだけよ。ご所望とあらば、本当に昨日の続きをしてあげましょうか?」
煽るような言葉を投げれば、抱いていた腕がスルリと離れてしまう。かと思えば、今度は織が愛美に覆いかぶさった。
あれ、と思った頃には織の顔が近づいていて、浅いキスを交わす。
「後悔しても知らないからな」
「しないわよ。あなたとなら」
まさか本当に寝起きからとは、今までの織のヘタレっぷりからすると考えられなかったのだけど。まあ、煽ったのは愛美だ。嫌なわけがないし、むしろウエルカム。
でも、羽目を外さないようにはしないと。
それだけ考えて、襲い来る快楽の波に思考を放棄した。
◆
なんだか微妙に寝不足のまま、着替えた二人は朝食の席へと向かう。
昨日の夕飯の時みたいに、色々と察せられてるんだろうなぁ。ていうか、ベッドメイキングしてる使用人の方々に申し訳ない。色々ぐちゃぐちゃになっちゃってるし。
なんて考えながら、織は後ろを振り返る。
そこには、なんか珍しくへっぴり腰で歩いている、覇気のない愛美が。
「ま、待って、歩くの早いわよ……」
「だから言っただろ。後悔しても知らないぞ、って」
「ここまで酷いとは思わなかったのよ!」
腰が痛いらしい。
いや腰だけじゃなくてなんか色々痛いらしいのだが、ちょっと生々しい感じの説明だったので、織は聞かないフリをしていた。
その理由は言わずもがな。
愛美の大切なものを奪ったのだ。他の誰でもない、自分が。
そのことに対する躊躇があったのは昨夜まで。いや、それこそ、織が今まで最後の一線を超えなかった防波堤だったのだが。今となってはそれもない。
改めて思い知らされた気分だ。一体どれだけ、愛美から愛されていたのか。愛美のことを愛していたのか。
分かったつもりでいたけど、認識を改める必要がある。
多分、そうやって自分を見つめ直したそれよりも、彼女への想いは大きいのだろうけど。
自分自身でも計り知れないこの想いを、彼女は受け取ってくれる。それはとても幸せなことで、だからこそ自覚しなければならない。
彼女が向けてくれる愛情の、その大きさを。
重いな、と思う。自分も、愛美も。でも、それくらいが丁度いい。
愛情だけで共に生きていけるほど、この世界は優しくなんてないけれど。だからこそ、溢れんばかりの愛情を、惜しみなく捧げたい。
「魔術使えよ。それくらいすぐ治せるだろ」
「……あ、そっか」
「いやそこは忘れんなよ」
魔女から石を受け継いだ人間として、魔術のことを忘れるのはどうなんだ。桃が草葉の陰で泣いてるぞ。
いや、あいつがこの状況を見ると、違った意味で泣きそうだな……んでその後にめちゃくちゃウザ絡みしてくる。間違いない。
不意に過ぎった亡き友人の姿に、胸がキュッと締め付けられる。
それをおくびにも出さず、ちゃんと歩けるようになった愛美を伴い、ダイニングルームへと入った。
まあもちろん、そこにはやけにニコニコしたロイがいたのだが。
「おはよう、二人とも。いい朝だね」
「そうですね……」
流暢な日本語で話しかけてくるロイの隣では、その妻のローラも柔らかく微笑んでいる。
うーん、やっぱり色々と察してますよね。まあ諦めてたからいいんだけど。
割り切った織とは違い、隣の愛美は顔を真っ赤に染めている。可愛い。
どうやら、他人から指摘されるのは恥ずかしいみたいだ。可愛い。
「日本の習慣に倣って、お赤飯とやらを用意しようとも思ったんだがね。生憎、うちの使用人には準備できる者がいなかった」
「い、いえ、お気遣いなく……」
さすがに乾いた笑いが出てしまう。赤飯とか、作れる人間がいても材料が揃わないだろう。ていうかマジで出されたら羞恥心のあまり憤死しかねなかった。
それからは他愛ない話へと切り替わり、ロイと雑談を交わすうちに朝食が運ばれてきた。愛美も羞恥心は収まったようで、いつものように大量の料理を美味しそうに食べている。
「今日は一日、休息に当てるのだったね?」
交わす雑談の中で、突然真剣な目をしたロイが尋ねてきた。自然と身を正してしまいながらも、首肯を返す。
「そうか。丁度いい機会だから、言っておこう。これからは週に一度、必ず休みを取りなさい」
「しかし、それは……」
「分かっている。君たちがこの国に来た理由も、戦いを続ける意味も。その上で言わせてもらっているんだ」
今日を休みにしたのは、イギリス国内がひとまず落ち着いたからだ。その上愛美からも提案されたから。それがなければ、今日も変わらずに戦いへと赴いていただろう。
こうして休んでいる間にも、裏の魔術師たちは石の力を悪用している。ものによっては、世界全体に大きな影響を及ぼすこともあるだろう。
そう言った奴らを、いち早く駆逐しなければならない。世界の平和なんかの為じゃない。一日でも早く、家族の元に帰るため。
「なにも君たちが心配だから、というだけで言っているんじゃない。もし十分な休息を取れていなかったのが理由で、不覚をとってしまえばどうする? 考えたくもないが、君たちが死んでしまったら。灰色の吸血鬼を始めとした裏に潜むやつらへの抑止力は?」
ロイ・クリフォードは、織よりも更に広く遠くを見据えている。魔術学院を統べる者の一人として、世界のことを考えているのだ。
そこまで考えの及んでいなかった織は、返す言葉を持たない。
「クリフォード卿のいう通りにしましょう」
「愛美……」
ナフキンで口元を拭った愛美は、ロイに賛成の意を示した。
「織、彼の言うことは正しいわ。私たちは、私たち意外の運命も背負っている。それはあなたも分かっているでしょう?」
「分かってるけど……」
「だったらクリフォード卿の提案に賛成するしかないってことも分かるわよね? あなたが焦るのも理解できる。私だって、早く家に帰りたいもの。でも、私たちの我儘をいつまでも通すわけにはいかない」
諭すように言う愛美の視線には、やはり織への気遣いの色が見て取れる。
愛美にそうやって心配されてしまうほど、今の織は疲弊しているのだ。肉体ではなく、精神が。毎日続ける戦いの中で、少しずつ。けれど着実に。
その自覚は織にもあった。昨日の女魔術師との戦い。彼女の最期。それを見て、自分はなにを思ったのか。
いや、自分の疲労なんかどうでもいい。このまま毎日戦い続けたとして、織の身になにかあったとして。
それで悲しむのは誰だ。
「……分かりました。これからは週に一度、必ず休みを取ります」
結局、決め手はそこだった。
失うことの悲しみを知っているから。愛美には、もう二度とあんな思いをして欲しくないから。
他人本位なその考えが危ういことに、織は気づかない。
「分かってくれるなら良かった。とりあえず今日は、しっかりと休むといいよ。桐原さんの体調に問題がなければ、街に出てみるのもありかもしれないね」
「か、考えておきます……」
最後の最後に爆弾を落とされて、織はやっぱり乾いた笑いしか出てこなかった。
◆
ロンドン郊外に建てられたクリフォード邸は、由緒正しい歴史ある家だ。遡ること五百年ほど前。魔女が生まれるよりも更に昔から存在しており、現在でも国内でかなりの力を有している。
それは魔術世界のみならず、表社会にも。
桐原家や安倍家よりも更に広い屋敷。そこで織と愛美の二人があてがわれた部屋は、最高級ホテルに劣らないほど豪華なものだ。
完全に慣れたとは言えずとも、一ヶ月もお世話になっていれば驚くようなことはない。
桐生探偵事務所の何倍も広いその部屋で、織と愛美はなにをするでもなくのんびりと寛いでいた。
寝台に腰かけた織の股座に、愛美が座っている。後ろから腹に手を回して華奢な体を抱きしめ、肩に顎を乗せていた。不意に視線をやった愛美の首筋には、自身が刻んだ赤い痕が。
思い起こされる昨夜の情事を振り払うつもりで、織はため息と共に言葉を吐いた。
「やることねーなー……」
「なんだかんだで、日本にいた頃も仕事三昧だったものね」
もちろん仕事を休みにした日もあったが、それでもやることはあったのだ。洗濯や料理と言った家事をこなしていると、一日なんてあっという間に終わってしまう。
だがこの屋敷では、そう言ったものは全て使用人の人たちがやってくれる。もちろんベッドメイクも。朝食から戻った頃には綺麗なベッドに戻っていたから、織はめちゃくちゃ申し訳ない気持ちになってしまったものだ。
そんなわけで、二人は本当にやることがない。街の観光もいいとは思ったのだが、愛美の体調も考えて断念。来週に回すことに。
痛みは魔術でどうとでもなるが、人間の生理的な働きなどには、あまり手を出さない方がいい。なんて言いつつ、昨日はちゃっかり魔術で避妊してたのだが、それはさておき、
「まさか鍛錬も禁止されるとは思わなかった」
「それじゃあ休みの意味がないでしょ」
「いや、そうなんだけどさぁ」
もちろんクリフォード邸になにもない、と言うことではない。
庭に行けば立派な庭園が広がり、綺麗な花が咲いているし、部屋にはテレビも備え付けられてる。
だが織に花を愛でるような高尚な趣味はないし、テレビをつけても興味を引く番組はやっていない。翻訳術式で英語は問題ないのだが、イマイチ見る気にもならない。
「今のうちに、来週どこに行くか決めておく?」
「んー、とりあえずベイカー街だな」
「言うと思った」
かの有名な作品、シャーロック・ホームズの聖地だ。自分が探偵業を営んでいるから、と言うわけでもないが、一度は足を運んでおきたい。
「ホームズ、好きなの?」
「いや、特別好きってわけじゃないぞ。小説もちゃんと読んだことないし」
「意外ね」
「映画は観たけどな。なんつーか、ホームズに限らずフィクションの探偵ってさ、俺が思い描いてる探偵とズレてるんだよな」
巨悪が巻き起こす大きな事件をズバッと解決! なんてのは、現実の探偵ではあり得ない。探偵業とはもっと地味なものなのだ。
実際にそんな仕事をしていた織にとって、フィクションの探偵は余計に現実味のない話として映っていた。
「それは私も分かるけど。むしろフィクションだからこそ、じゃないの? ほら、探偵と怪盗とか、よくある組み合わせじゃない」
「怪盗ねぇ」
それだっておかしな話だ。どこぞの宝が盗まれそうだという事件に、探偵が現れてどうすると言うのか。フィクションの探偵は基本的に、事件が終わった後に現れるものだ。殺人事件とかなら兎も角、盗まれた後に現れても仕方ないだろう。
怪盗といえば、あの二人組。あの戦いの時にも居合わせたというアルカディアの二人は、その後どうしているのだろう。またどこぞで盗みを繰り返しているのだろうか。
愛美が攫われた時のことを思い出してしまい、抱きしめる力が自然と増してしまう。
「どうしたの?」
「嫌な奴の顔思い出した」
それで察してくれたのだろう。肩に乗せている頭に、愛美がコツンと自分の頭を触れ合わせた。
「大丈夫。どこにも行かないわよ」
「ん……」
安心させるような優しい声が、鼓膜を震わせ全身に浸透する。腹に回していた手に、一回り小さな手が重ねられた。
甘えるように預けてくる体重が、どうしようもなく愛おしい。
「それにしても、フィクションがどうとかって話、織には言う権利ないと思うけど」
「まーなー」
なにせこっちに来てからは、探偵賢者なんて呼ばれてるのだ。
賢者の石関連の事件を、力づくでその日のうちに解決させる。探偵も賢者もない、ただの脳筋である。
「魔術や異能自体、本来ならフィクションじゃないといけないものだし」
「その力を使ってる時点で、よね」
そしてそのフィクションを書き換える、ある種メタ的な力がレコードレス。この世界を一つの作品だとすると、織と愛美は作者に等しい力を持っている。
位相を操る力とは、そう言うものなのだ。
閑話休題。
「で、なんの話だっけ」
「来週どこに行くかよ」
「あー、そーだったな」
どこに行くか。ベイカー街の他に、ロンドンはなにがあったっけか。知識としては知っていたはずなのだが、どうにも出てこない。
上手く思考が回らないでいると、聞き心地のいい鈴のような音が耳に届く。
「眠たいの?」
「んー……多分……?」
「やっぱり、疲れが溜まってたのよ。休みにして正解だったわね」
指摘されて自覚すれば、睡魔が一気に襲って来た。多分、柔らかい身体の抱き心地が良かったり、優しい声が子守唄のような響きを持っているから、余計に眠くなっている。
つまり愛美は安眠のために絶対必要なのだ。
これまでだって何度も抱き枕にしたりされたりして来たけれど、そういう時はやはり深く眠れていた。と、思う。眠気のせいで、それすらも判然としない。
「ほら、ちゃんとベッドで横になりなさい。やることもないのだし、お昼寝にましょう」
「ん……」
促されてベッドに乗り上げると、その隣で愛美も横になる。遠慮なく体を抱き寄せれば、優しい手つきで頭を撫でられた。
愛美にとっては、とても珍しい姿だ。
織がこんなに眠たそうにしていることも、甘えてくることも。いつもは私が先に眠ってしまう。私ばかりが甘えてしまう。弱いところを見せられる、唯一の人。
織にとっても、愛美がそんな存在である自覚がある。自負もある。
微睡む意識の中で、小さく口付けてくる目の前の男が、狂おしいほどに愛おしい。
「好きよ、織。あなたのこと、心の底から愛してる。どうしようもないくらいに」
「俺も、愛してる……絶対離さないからな……」
その言葉を最後に、瞼は完全に落ちて口からは寝息が漏れ始めた。
明日からはまた、戦いの日々が続くけど。でも、今は。こうして休みの日くらいは。この腕の中で、幸せを享受していよう。
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