第40話
魔女と灰色の吸血鬼が、ついに激突した。
黒いドレスと
本来、この世には純度100%の魔力などあり得ない。それほどに濃い魔力は、世界にとっても人間にとっても毒でしかないからだ。
その毒を取り除くフィルターの役割を果たしているのが、今の桃が扱っている力。
どうして魔力や異能といった、超常の力がこの世界に存在しているのか。その源はどこにあるのか。あらゆる魔術師や異能持ちが、一度は疑問に思うことだろう。
その答えこそが位相と呼ばれるもの。桃がレコードレスによって操る力。
「その位相を操れるなど、それこそあり得ないはずなのだがな」
二人の戦いが始まってすぐにそこから距離を取ったサーニャは、未だに信じがたい思いだった。
しかし、これで辻褄のあう部分も出てくる。なぜ桐生の二人が自分を呼び寄せたのか、賢者の石とはどうして存在しているのか。葵たちのことに関しても、これで幾らか説明のつくところはあるだろう。
「さて、貴様らはどうする? このまま我と戦うというのであれば、喜んで相手をするが」
視線を目の前の三人へと向ける。桃とグレイの戦いが始まった際に緋桜と、ついでに怪盗の二人もこの場に回収していたのだ。緋桜には死なれては困る。いや、死んで欲しくない。亡き友の忘れ形見なのだから。
怪盗はそのついで。気まぐれだ。
今のサーニャは、全力以上の力を発揮できる。この空の恩恵を受けるのは、なにもグレイだけではなく、同じ吸血鬼であるサーニャにも。
やつの力によるものなど、本来ならば唾棄すべきものではあるのだが。
「僕たちはパスだな。元々、目的は探偵に借りを返すためだし」
「やられたらやり返す、ってつもりだったんですけどねぇ。どうも、それどころじゃなさそうですし。それに、そろそろ潮時じゃないですか、マスター?」
「だな。グレイが勝つにせよ、魔女が勝つにせよ、ここが分岐点だ。見切りをつける頃合いではある」
怪盗の二人に戦意はない。それどころか、グレイに見切りをつけるという。
しかし、緋桜の意思は固かった。
「俺のやることは変わらない。葵の元に向かうだけだ」
「改めて聞くぞ。貴様、葵になにをするつもりだ? 異能を消すと言っていたが、それこそ魔女のあの力でもないと無理だろうよ」
「いや、出来るさ。ネザーはその方法を確立している。でもまずは、グレイが掛けた二重人格の呪いを解かないといけない。だからそこをどいてくれ、サーニャさん。南雲に預けたままだと、人格どころじゃない」
「魂ごと異能を摘出される、というわけか」
たしかにそれはマズイ。だが、だからと言って緋桜にも任せられない。
最悪のパターンは、南雲が葵の異能を摘出し、やつがその力を手に入れること。葵の命が奪われないのは最低限。しかし今の二人の人格も損なわず、となれば難しくなる。
あの呪いが解けかけているのは、桃からの報告でサーニャも把握している。南雲はそれを待っていたのだろうし、だからこそ緋桜も、今日こうして実行に移そうとしていたのだろう。
だが。しかし。異能とは、魂と密接に結びついているという。
ならば、サーニャの予想が正しければ。
十秒にも満たない間があった。サーニャが思考を巡らせるには十分であり、緋桜が動くには足りないだけの。
その沈黙の末に、新たな闖入者が現れる。
「これは……!」
「魔法陣……グレイめ、やつを召喚するつもりか!」
サーニャたちのすぐ近くに展開された魔法陣から、巨大な鷲のような魔物が現れる。
黄金の体に、赤い翼。神話の時代より存在している聖獣、ガルーダ。
「■■■■■ーーーー!!!」
咆哮が響き、熱風が押し寄せる。咄嗟に緋桜を庇う形で防護壁を展開したが、熱気が僅かに貫通してくる。衝撃に吹き飛ばされなかっただけマシか。
だがマズイ、状況がさらに悪くなった。
「わわっ!」
「ルミ、大丈夫か?」
「なんとか!」
どうやら、怪盗の二人も無事らしい。となれば、やることは一つ。
「緋桜、そこの二人も、やつの相手を手伝え。我一人では勝てん」
「そんなこと言ってる場合じゃ……!」
緋桜が声を上げるのと同時に、ガルーダの凶悪な鉤爪が四人を襲う。咄嗟に散開して難を逃れたが、どうもこの場からは逃してくれなさそうだ。
「僕たちは別に構わないけど、あんたでも勝てないってどういうことだよ」
「相性が悪い。この通りな」
異能を発動させ氷の刃を射出。しかしそれはガルーダの体に触れた途端、蒸発して消えた。当然傷をつけることなど出来ない。
サーニャが持つ力は異能だけではない。魔術だって使えるし、吸血鬼としての力も備わっている。グレイの作り上げたこの夜があれば、普段以上に力を出せるのも事実。
それでも足りないのだ。
「まあ、仕方ないですね。どうせ私たちごと始末しようって腹づもりでしょうし」
「だろうな。それで、緋桜さんはどうするんですか?」
舌打ちを一つ。そしてガルーダを忌々しげに見つめる緋桜。
彼にとって、このガルーダも決して無視できない存在のはずだ。なにせあの日、己の両親の死に関わった魔物なのだから。
「分かったよ、やればいいんだろ」
それでいい。葵を想う心に嘘はないのだろうが、少しは妹を信じてやれ。
◆
校舎の二階を呑み込んだ爆発は、しかしただの一人も死傷者を出していなかった。
運悪く近くを歩いていた者も、対峙していた織も、接近していた愛美すら。南雲を除くその場にいた全員が、校庭のど真ん中に転移させられていたから。
「愛美! 大丈夫か⁉︎」
「ええ、先生のおかげでね」
二人の背後には、状況を理解できずに困惑している生徒や学院祭の参加者たちが。あの場にいた者だけではない。学院内にいた全員が、ここに転移されている。当然校庭にそれだけのキャパはないのだが、蒼は転移と同時に空間拡張も行ったのだろう。
そして眼前には、人類最強の男と未来から来た自分たちの娘。
「やっぱり、派手に仕掛けて来たな。おまけに僕に気づかれないように黒霧葵を拉致するとは、随分と腕を上げたようだ」
「魔力の動きはありませんでした。となれば、異能を使ったと考えられますが」
「南雲は異能なんて持ってないよ。だけどまあ、心当たりがないこともない」
「異能研究機関、ですね」
「その通り。幻想魔眼の研究をしてたんだろう? そしてそれを手中に収めようともしてた。となれば、異能を摘出する方法だって確立されていてもおかしくはない」
「精神操作の異能ですか。厄介ですね」
「そうでもないさ。織と愛美に掛けなかった辺り、使い捨てみたいだしね」
二人の会話が終わったのは、瓦礫の山と化した校舎の中から、やつが現れたからだ。
しかしその姿は老人のものではなく。およそ魔術師とは思えぬほど鍛え上げられた肉体に、魔女や娘よりも巨大な魔力を宿した、端正な顔の青年。
だが、織も愛美も、理解していた。あの青年こそが、魔術学院日本支部の学院長、南雲仁であると。
「小鳥遊君のいう通りだ。異能を摘出して魔導具に収めたのはいいが、一度使えばまた新しく摘出するところから始めなくてはいけなくてね。使い勝手はすこぶる悪い」
言いながら手で触れている右耳には、ピアスがつけられていた。あれがその魔導具とやらなのだろう。
だが、今はそんなことどうでもいい。まずは状況の確認だ。
「おい先生! なにがどうなってるんだよ⁉︎」
「見たまんまの状況、よりは悪いかな。端的に説明すれば、グレイの一派が攻めて来てる。外には緋桜と怪盗、それから魔物もいるね。今は魔女たちが食い止めてるところだ」
「なっ……!」
なんだそれは。どういうことだ。桃は蒼の頼みごとがあると言っていた。クライアントが秘密主義だから、詳しくは話せないとも。
その頼みごとの正体が、これだと?
「あのバカッ……」
桃の思惑に気づいた愛美が、小さく毒づく。
どうせ、せっかくの学院祭だから、織や愛美たちには楽しんでもらいたい。面倒なことは自分たちが片付けるから。なんて理由で黙っていたのだろう。
そのくらい、織にだって分かる。
「行くわよ織」
「ああ」
怒りがこみ上げる。自分たちにはなにも言わずに戦場へ向かった桃にも、なにも知らずのうのうと学院祭を楽しもうとしていた愚かな自分にも。
だから、今すぐ桃のところへ向かわなければ。そして言ってやるのだ、あのバカな魔女に。
俺たちは守られてばかりの荷物なんかじゃないと。
「待った。外に向かうのはダメだ」
「なんで!」
「ちょっと、僕でも予想できないことが起きそうだから」
蒼がそう言った瞬間だった。
青く広がっていた空が、夜の闇より深い黒に染まる。燦々と輝いていた太陽は真紅の月へと変わり。あっという間に、世界は夜に覆われた。
「なんだよ、これ……」
「ふむ、グレイの仕業だね。彼も来たらしい」
驚愕する織に返したのは南雲だ。やつは微塵も驚く素ぶりも見せず、黒く染まった空を見上げている。
空間ごと隔離しているはずの学院内にまで影響を及ぼす、強大という言葉では表しきれない程の力。
「そういうことだ。今君達が外に出ても、足手まといになるだけ。それに魔女だけじゃない。サーニャも彼女についてるし、有澄たちもいる」
だとしても、だ。
こんな、魔術の域を逸脱しているような力を使う吸血鬼相手に、本当に桃は勝てるのか?
心配しても仕方ないのは分かっている。織では足手まといにしかならないことも。
それでも。それでも、両親の仇がそこにいる。なぜ殺したのか、その真実を知るチャンスなのだ。
「父さん、ここは我慢して。お願いだから」
「……分かったよ。なら、俺たちはどうすればいい」
爪が食い込むほどに拳を強く握り、桃のもとに駆けつけたい気持ちを呑み込む。
冷静になれ、桐生織。状況はお前が考えているよりも切迫してると思え。自分にできることを、この弱い存在でも可能なことを為せ。
「葵を探してくれ。南雲はあの子の異能も狙ってる。異能を摘出された人間がどうなるのか、君たちなら察しがつくと思うけど」
異能とは、魂に宿るものだ。そして、魔術によって人間の魂を魔力へ変える方法は確立されている。恐らく、異能の摘出はその応用だろう。
魂を吸い取られ魔力に変換された人間はどうなるか。そんなもの考えるまでもない。
「朱音も付いて行ってくれ」
「後ろの人たちを守る役が必要だと思いますが」
「問題ない」
蒼が指を鳴らすと同時に、織と愛美より後ろに結界が張り巡らされた。その中に閉じ込められた魔術師は、誰一人として状況を正確には理解できていないだろう。しかし、すぐそこに立っている学院長だった男が敵だと言うのは、殆どの人間が理解しているのか。自分も戦うだのと喚いている魔術師が何名か見受けられる。
それら背後の声を一顧だにせず、蒼は余裕の笑みを持って言い放った。
「いくつ賢者の石を食ったのかは知らないけど、所詮は老害の処理に過ぎない。僕一人で十分だよ」
なんとも頼もしい言葉を受け、朱音の転移で校舎の崩れていない場所へと移動した途端、先程いた場所から大きな爆発音が響いた。
悔しいが、今の織たちにできることは葵を探すことだけだ。南雲は蒼に任せるしかない。
「多分、葵さんはここにいるよ」
転移した先は、学院長室の前。ここに目処をつけていたのだろう。なるほどたしかに、南雲の私室であるここならば可能性は高い。
先頭に立った愛美が、部屋の扉を開く。そしてその中にいたのは。
「あなた、たちは……たしか、あの子たちの先輩の……」
葵でも、碧でもない。
本当の黒霧葵だった。
◆
幻術の中に閉じ込められた葵たちは、次々と湧いてくる影を斬り倒しながら出口を探していた。
どこかに、この幻術の世界を形作っている核が存在しているはずだ。それを壊せば現実に帰還できるはず。そう信じて。
「どこにもないじゃない、そんなの!」
『私に言っても仕方ないでしょ!』
幸いなのは、影に戦闘能力が殆ど備わっていないことか。動きは酷く緩慢で、たったの一撃だけで斬り伏せることかできる。纒いを使う必要すらない。
ただ、ここに来てからというもの、異能が上手く作用していないことも気になる。いつも視界に映る情報が、なにも映し出されないのだ。それが幻術の中だからなのか、それとも他に理由があるのか。
現実ではどれだけの時間が経過したかも、ここに来る前に感じ取った異変はどうなったのかも、織や愛美たちは無事なのかも。なにも分からない。
『そうだ碧! 現実で私たちの体がある場所にあるんじゃないかな!』
「……学院長室あたりが怪しいわね」
『ほかに手がかりもないし、取り敢えずそこに行こう!』
それにしたって影が多すぎる。ので、雷纒を発動して強行突破。一筋の稲妻と化した碧は、あっという間に学院長室の前へと辿り着いた。
校舎の構造が現実と同じで良かった。違っていたら、またこの部屋を探すところから始めなければならなかったから。
何があるのか分からないから、念のため雷纒は発動させたままにして、扉を開く。
しかしてその先にいた人物を見て、二人は驚愕した。
「ようやく来たね」
学院長室の中心に立つ一人の少女。学院の制服を着て、黒い髪をツインテールに結ったその姿は、まさしく自分と瓜二つで。
「あなた、まさか……」
「えっ、あれ……?」
いつもは脳内に響く声が隣に聞こえたと思えば、葵はいつの間にか身体を持っていて。
困惑のままに見渡せば、自分と同じ、けれど些細な違いのある顔をした二人がいた。
「どうなってるの……? 碧が主導権持ってたはずなのに……」
「ここが、私たちの精神世界だからだよ」
答えたのは、目の前に立つもう一人の自分、と思しき誰か。
その存在自体は葵も疑っていたけれど、まさかこうして顔を突き合わせることになるなんて、思いもしなかった。
「幻術の中じゃないの?」
「いや、幻術の一種なんでしょうね。学院長の使った魔術が、あたしたちをあたしたち自身の精神世界に閉じ込めるものだった、ってだけで」
「魔術じゃなくて、異能なんだけどね」
はたと思い出す。学院長を視た時に映し出された情報。その時視界の隅に、たしかにそんな記述があったような。
いや、そんなこと今はどうでもいい。分からないことだらけではあるけど、今この状況をどうにかしなければ。
「それで、どうしてあなたがここにいるのかしら? まさか現実に帰してくれるってわけでもないでしょうに」
碧が直截に尋ねれば、もう一人の自分は困ったように、申し訳なさそうに、力なく俯いた。
つまり、そういうことなのだろう。彼女でもここから帰還する術を持っていない。
「ごめんね。ここからは出られない。もっと言えば、このままだとあなたたちは消えちゃうかもしれない」
「なっ……! 消えるって、どういうっ……!」
途端、頭が痛み出した。ここは精神世界で、ならば現実のような痛みなどあり得ないはずなのに。
頭痛とともに過ぎるのは、知らない光景。
満月の夜
漂う黒い霧
輝いた鉤爪
赤く染まる視界
目の前に立つのは、灰色の男
違う、知らないわけがない。
交通事故なんかじゃなかった。
そうだ。この時だ。私が、生まれたのは。
咄嗟に頭を抱えて蹲る葵に、碧が心配そうに寄り添う。
「大丈夫?」
「うん……ちょっと頭痛がしただけ……」
変な感じだ。いつもは自分の内にいるはずの碧が、自分に向かって手を差し伸べているだなんて。
その手を取って立ち上がり、目の前の少女を見据える。
「思い出したよ……私でも、碧でもなかったんだね……」
全部思い出した。むしろ、なぜ今まで忘れていたのか。こんな大事な記憶。自分が生まれた日のことも、生まれた理由も。
「碧は、知ってたの?」
「……ええ」
「そっか……」
苦い表情を浮かべる碧は、なにも悪くない。だって、私を守るために黙っていてくれたんだから。
「あの事故の、ううん、グレイに襲われた日の夜に生まれたのは、碧だけじゃなかった。私も、あの日に生まれたんだよね」
両親が死んだのは、今まで交通事故だとばかり思っていた。でも違う。本当は、葵を狙いにきたグレイと戦って死んだんだ。
それでも、葵と緋桜は何故か見逃して、葵には二重人格の呪いをかけ、それによって異能の大半を封じた。
グレイの目的がなんだったのかは分からない。どうして葵を狙ったのか。そのくせ葵と緋桜を見逃したのか。二重人格の呪いで、異能を封じたのか。
でもハッキリしているのは、葵と碧が、あの日生まれて。
そして、本当の黒霧葵が過ごすはずだった人生を、奪ったこと。
「ごめんなさい」
「どうして、あなたが謝るの……? これから消えちゃうかもしれないのに……怖くないの……?」
そう、自分はこれから消える。碧も同じだろう。もしかしたら、とか、かもしれない、じゃなくて。なぜか確信がある。
けれど恐怖よりも強く、罪悪感が湧いてくるのだ。
「そりゃ怖いよ。消えるって、死んじゃうってことでしょ? 怖くないわけないよ」
「でも、あたしたちがあなたの人生を、あなたが過ごすはずだった時間を奪ったのは、変わらない事実だもの」
「それに、ただ消えてなくなるだけじゃない。私たちは元に戻るだけで、あなたがいるもん」
黒霧葵として、本来のあるべき姿に戻る。
いつかは覚悟していたことなのだ。二重人格なんてものがある以上、少なくとも葵と碧のどちらかが、いつかは消えてしまう。主人格だと思われていた葵ですら、その可能性はあると考えていた。通常の乖離性同一性障害でも、そのような例はあるという。
そのいつかが、今訪れたというだけ。
「でも……私は、こんなこと望んでなかったのに……! いつもあなたたちのことは見てた! 葵は人懐っこくて、元気で、可愛くて、好意を寄せてくれる男の子もいたじゃん! 碧はクールで、かっこよくて、いつも先輩たちをからかって、怒られるのに楽しそうだったじゃん! だから、そんな二人を失いたくないから、ちょっと無理してでも外に出て、戦ったのに!!」
安倍家での時も、桃と依頼に向かった時も、ガルーダの時も。外に出てきたのは一貫して同じ理由だったのだろう。
二人の生活を守るため。死なせないため。
けれど結局、彼女が体の主導権を握ることで、二重人格の呪いは更に薄れてしまった。二人が消えるのを早めただけだった。
涙を流しながら語る自分自身の想いが、痛いほど胸に響く。
そんな彼女だからこそ。誰かのためになにかを為そうとし、涙を流してみせる彼女だからこそ。
「泣かないの。あたしたちはあなたよりも後に生まれた。だったら、あなたがお姉ちゃんで、あたしたちが妹でしょ? 姉が妹の前でみっともない姿を見せるものじゃないわよ」
優しく微笑みかける碧は、まるで尊敬する先輩のようだ。碧も、少しは意識して言葉を発したのかもしれない。
ああ、でも、そうか。先輩たちには、もう会えないのか。
それはちょっと、いや、とても。悲しいな。
「本当に、いいの……?」
乱暴に涙を拭った彼女が、赤く腫れた目を向けてきた。そこには真摯な想いが宿っている。先ほどまでの、迷い子のようなものとは大違い。
「いいの。未練も、後悔もあるけど。それは全部、あなたに託す」
「あたしたちの代わりに、先輩たちを助けてあげて。桐原先輩はポンコツだし、桐生先輩は弱っちいから」
「うん……うん……!」
強く、強く何度も頷く。
やがてその姿が薄らいでいき、消えてしまうまで、何度も。
きっと、無事に現実へと戻れたのだろう。残されたのは偽物の二人だけ。
「……行ったね」
「ええ」
「私たち、本当に消えるんだ」
「なに、今更後悔?」
「さっき言ったでしょ。未練も後悔も、山ほどあるよ。織さんと愛美さんのこと、もっと見てたかったし。朱音ちゃんは歳が近いから、一緒に遊んでみたかったし。糸井くんには、なにも言えてないし」
「まあ、そうねぇ……特にあの子、朱音で遊ぶのは楽しそうだったものね」
「朱音ちゃんと! で、じゃない!」
「冗談よ」
「もう……碧が言うと、冗談に聞こえないんだからね……まあでも、一つだけ。満足してることはあるかな」
「奇遇ね。あたしも一つだけあるわ」
「最期に、碧と会えた」
「最期に、葵と会えた」
幻で出来た部屋に、二粒の雫が落ちた。
◆
「黒霧……?」
校庭に張り巡らされた結界の中で、糸井蓮はなにかを感じた。
言葉にできるわけではなく、ともすれば気のせいだと片付けてしまうような、僅かなもの。でも、蓮はそれを見逃せなかった。
無意識に呟いた少女の名前。もしや、ここにいない彼女の身になにかあったのか。駆けつけたい。助けになりたい。仮に葵が求めていなくても、足手まといになると分かっていても。
けれど今の蓮は、彼女のもとに向かうことはおろか、この結界から出ることすら叶わない。すぐそこで繰り広げられているのは、次元が違う戦いだ。巻き込まれれば、死ぬ。
だから、祈るしかなかった。
想いを寄せる少女の無事を。
◆
殺す。今殺す。ここで殺す。持ちうる限り全ての手段を使って、絶対に殺す。
湧き上がる憎悪を魔力へと変え、黒いドレスを翻す魔女が闇の空を舞う。展開させたいくつもの魔法陣から放たれるのは、魔力砲撃の雨。
それを地上で迎え撃つ灰色の吸血鬼は、大量に取り込んだ賢者の石による圧倒的な魔力を用いて防護壁を展開。しかし魔女の砲撃は、その壁ごと吸血鬼の身体を呑み込んだ。
「やはり凄まじいな、位相の力による魔術行使は!」
「チッ……」
余波による煙の中から、槍を持った吸血鬼が突撃してくる。即席で作り上げた魔力の剣で鍔迫り合えば、グレイはその顔に歓喜の笑みを浮かべていた。
「俄然その力を頂きたくなった。それさえあれば、俺の目的も達せられる!」
「渡すわけ、ないでしょっ!」
宙空に凝縮した濃密な魔力が、いくつもの槍となってグレイの身体を貫いた。しかし、不死身の吸血鬼はそれに怯まない。穿たれた槍をそのままに、手に持つ得物へ魔力を乗せる。
「くっ……!」
「やはり、その力を完全に使いこなしているわけではないか!」
グレイの槍が振り抜かれ、勢いに負けた桃が地面に墜落した。煙の舞うそこへ続け様に放たれるのは、赤黒く染まった多数の魔力弾。掠っただけでも容易く命を刈り取るそれらが、しかし着弾するよりも前に動きを止めた。
「ほう?」
興味深そうに呟いた瞬間、赤黒い魔力の塊は本来の持ち主目掛けて襲い掛かる。それにはさしものグレイも驚きを隠せず、迫る魔力弾を槍で打ち払う。
小鳥遊蒼やルーサーが使う、魔導収束に似た現象。しかし、違う。魔力を吸収されたわけではない。奪われたという感覚はなかった。
これがあのドレスの、位相の力。
この世に存在する超常の力、その全てを支配する恐るべき力。
それだけではない。先程から桃が使い、グレイが何気なく躱す魔術の一つ一つが、現実ではあり得ない濃度となっている。
「我が名を持って命を下す」
煙が晴れたその場所には、頭から血を流した桃が。回復に魔力を回すことすら惜しい。ただあの吸血鬼を屠る。そのためだけに、この力を使わなければ。
「其は瞑き底より出でし災厄」
空を飛ぶグレイを中心に、薔薇の花弁を模した氷が風に舞う。周囲に冷気を撒き散らしながらも、あっという間に吸血鬼を閉じ込めた。
その檻の中に、氷の狼が現れた。
「
グレイの腕を、脚を、首を、その身体の悉くを。狼が食い破り、蹂躙する。
もはや原型を留めない肉の塊と成り果てた吸血鬼は、しかしそれでも終わっていない。吐き気すら催す生々しい動きで結合していく肉塊。数秒と経たずに元の姿を取り戻したグレイは、涼しい顔で首を鳴らした。
「どれだけの威力を誇ろうと、今の俺の前では無意味だ。理解しているだろう?」
この世界に細胞の一欠片でも残っていれば、灰色の吸血鬼は再生する。それが可能なだけの魔力を、今のグレイは持っている。
「それに、そのドレスも持ってあと五分、いや三分といったところか。勝負は見えたのではないかな、魔女」
痛いところを突かれて、桃の顔には険が増す。グレイの言う通りだ。レコードレスはあまり長く使えない。おまけにこれが解除された後、桃はまともに動けなくなるだろう。ただでさえ魔物との戦闘からずっと、賢者の石を酷使し続けているのだ。
そうなれば全てが終わる。自身の敗北という形で。それまでに、決着をつけなければ。
「そもそもが、魔術で無理矢理再現している力。おまけにキリの人間でもない、幻想魔眼も持たない貴様が、十全に使いこなせるはずもないのさ」
「随分と、この力について詳しいんだね」
「求めるものについて知ることは当然だろう?」
キリの人間に、幻想魔眼。
なるほど、ならば次に託す相手は、やはり彼しかいないわけだ。
果たしてそれはいつの頃になるやら。ここで死んでしまった後か、それとも何年も先か。
いや、違う。決めたのだから。彼らと生きて死ぬと。隣を歩けなくても、同じ道を行けなくても。それでも。
だから、そんな未来は訪れない。この石もこの力も、桃が墓場まで持っていく。
不意に、こんな状況でも未来のことを考えている自分に気づき、それがなんだかおかしくて笑みが漏れた。
「何がおかしい?」
「ふふっ、ねえグレイ。こんなわたしでも、未来があるらしいよ?」
「それは面白い冗談だな」
本当に、笑えるほど面白い。
その面白い未来を実現させるために。
魔女は、さいごの術式を構成した。
「我が命を持って名を下す」
詠唱が響き、魔力が渦巻く。桃の足元に広がるのは、未だかつて誰も見たことのない魔法陣。グレイを殺すためだけに開発された、新しい元素。
天に向けて腕を伸ばした、その先。闇に覆われていたはずの空から、僅かに光が差し、まるでスポットライトのように魔女を照らす。
「我は蒼穹を往く魔の探求者。輝かしき空の光よ、その意思と力をここに示し、我らの明日を照らし導け!!!」
「貴様まさか、その魔術は……!」
魔術の正体に気づいた吸血鬼が、初めて焦りの表情を見せる。
だが遅い。既に手遅れだ。
天に伸ばしていた手をグレイに向ければ、桃の動きと連動するようにして、光がグレイを照らし出す。
吸血鬼にとっては、ただそれだけで苦痛となる。一歩も動けなくなるほどに。
「じゃあね、吸血鬼。先に地獄で待ってなよ」
僅かに見える空の青から。太陽の力を凝縮した光が、灰色の吸血鬼に落とされた。
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