幕間 『黒霧葵』

第36話

「あっつ……」


 心地いいそよ風が教室内に吹き抜ける中、机に突っ伏した黒霧葵は力なく呟いた。

 季節は未だ夏には遠く、さして暑いというわけでもない。教室にいる他のクラスメイトたちは、ブレザーを脱いでいる者も散見されるが、半袖を着ている者はかなり少ない。

 葵はそんな少数派の一人なのだが、それにしても暑い。まだ五月。繰り返すが、夏というには早すぎる。


「もうこれ夏じゃん……暑い……」

『今年はいつにも増して暑いわねぇ……』


 葵は暑いのが苦手だ。より正確には、太陽の光が苦手だ。まるで吸血鬼みたいだな、と何度思ったことか。毎年夏になるとぐでーっとしてしまうのだが、今年は例年よりもそれが早い。


 そして去年までの一番の違いは、暑さに付随するものがあること。暑いのだけなら耐えられるが、肌を焼くようなピリピリした痛みにも満たない感覚。それが葵の生気を削いでいた。

 半袖は失敗だったかな、と今更ながらに後悔する。


 クラスメイトたちはそんな葵を遠巻きに眺めるだけ。去年、入学した頃からクラスでは浮いた存在だった。特異な二重人格に、強力すぎる異能。それだけならまだしも、今は学院内で恐れられてる風紀委員の一員だ。自分がクラスメイトから怖がられている、怯えられている自覚は葵にもある。


 愛美のように、他者を慮る余裕と相応のカリスマがあれば話は違ったのだろうけど。葵は尊敬する先輩とは違い、自分のことだけで精一杯だ。カリスマなんて、そんなものも持っていない。


 唯一の例外を除いて、彼女に話しかけるクラスメイトは存在しなかった。


「おっす、黒霧。おはよ」


 机に突っ伏したまま首だけ巡らせれば、茶色の髪をワックスで固めた、所謂イマドキな背の高い男子生徒が一人、笑顔を浮かべて立っていた。


「あー、おはよ、糸井くん」


 起き上がるのも怠くて、そのままの態勢でへにゃりと笑い挨拶を返す。

 糸井いといれん。彼がこのクラスで唯一葵に話しかけ、彼女が友人と呼べる人間だ。


「そんなぐでっとしてどうした?」

「ほら、去年もあったでしょ? 私、暑いのはダメだからさ……」

「そういやそんなこと言ってっけ。でも、今日はそこまで暑くないと思うけど」


 その言葉の通り、蓮はブレザーを着てはいないものの、長袖のカッターシャツを着ている。おまけに窓際に位置する葵の席は、開いた窓から風が吹いて涼しいと思うのだが。


「昨日まではなんともなかったんだけどねぇ……」

「あんまり気温変わってなくないか?」

「そうなんだよね……」


 自分の体に、なにかしら異変が起こっている。それに気づかないほど、葵は鈍感でも頭が悪いわけでもなかった。


 昨日までにあったことと言えば、一昨日ほ土曜日に桃と依頼に行って、とんでもない魔術師と戦った。いや、戦ったというのは適当ではない。葵は途中から記憶がなく、気がつけば学院の桃の自室で寝かされていたから。


 桃の説明では、賢者の石を使った敵の攻撃で気を失ったとのことだが、それだけではどうにも腑に落ちないのだ。


「もう一人、か……」

「碧の方がどうかしたのか?」

「え? あー、いや。別になんでもないよ。碧も今日はテンション低いし」

『こんなに暑いんだから当然でしょ』


 脳内で響く碧の声を聞き流し、蓮には適当にはぐらかす。


 一度ならともかく、二度もあった。葵と碧、両方の記憶が途切れてしまう事態が。

 しかし本人達に覚えがないだけで、その時の黒霧葵は、たしかに目を覚まし、動いていたのだ。信頼できる人たちからその証言を得ている。

 となれば、行き着く答えは一つ。


 自分の中に、もう一人いる。

 これが葵でなければ、その可能性が頭をよぎったとしても一笑に付して終わるだろう。

 だが、彼女の中には既に一人、別の人格がいる。それが通常の乖離性同一性障害とは違う、魔術か異能によるものだとも本人は分かっている。

 常識で考えてはいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しい結論でも、可能性を疑うな。それが葵たちの生きている世界だ。


 とまあ、その辺りは今考えても仕方ない。せっかく唯一の友人が、今日もこうして語りかけてくれたのだ。難しいことを考えるのは後でいい。


「それより、もうちょっとで学院祭だね。糸井くん、どう? クラスの方は順調?」

「順調順調。みんな張り切ってるし、かなりやばいクオリティになるよ」

『魔術師が二十人も集まってお化け屋敷するんだから、そりゃやばいもんが出来るでしょうね』

「あはは……ほどほどにね……」


 碧が述べた通り、このクラスは学院祭でお化け屋敷をすることになっている。そのためにこの術式が使えるだの、あの術式は誰も使えないから図書室で魔導書持って来いだの、魔術の無駄遣いここに極まれりだ。

 まあ、これも学院祭特有のノリというやつだろう。残念ながら葵は風紀の仕事があるし、そうでなくともクラスには溶け込めなかっただろうが。


「黒霧は当日も風紀の仕事だろ? 大変だな」

「そうでもないよ。仕事って言っても見回りだけだし、ずっと肩肘張ってやるものでもないからさ」

「そっか。じゃあさ……」


 そこで言葉が途切れる。キョトンとした目で蓮を見つめるが、彼が何を言いたいのかは葵にも察しがついていた。

 当日、仕事をしながらでもいいので、一緒に見て回らないか。

 そんな感じのことを聞きたいのだろう。葵は恋愛ポンコツ殺人姫と違って、蓮が自分に向けている気持ちに気付いている。いや、気付いていると言うのは少し違うか。


 以前に碧が、蓮に対して異能を使ったのだ。蓮だけではない、このクラス全員の情報を、碧は視た。

 それ自体は一年の四月にもあったことだ。周りは知らない人だらけで、その全員が魔術師で。自衛のためだと言いながら、クラスメイトの情報を全て閲覧した。

 クラスが変わった四月にもそれを行い、去年から同じクラスの蓮の情報を視た時に知ってしまった。


 だから葵は、この異能をあまり使いたくないのだ。知りたくもないことまで知ってしまうから。

 愛美が碧を咎めるのは、そう言ったものから彼女らを守ろうとしている意図もあるのだろう。葵とて全く視ないということはない。実際、先日の安倍家では愛美のことを視てしまったし。言い訳させてもらえるなら、あの時は大好きな先輩の恋路が心配だったから、なのだけど。


 ともあれ、葵は蓮の気持ちを知ってしまっている。かと言って、その気持ちを受け入れようなんてつもりもない。

 蓮本人から言われたわけでもないし、なにより恋愛にかまけている余裕なんて、今の葵には存在しないのだ。


 だから、無理矢理にでも話を逸らす。胸に小さな痛みが走るけど。言外に、そのつもりはないと告げるように。


「そうだ、聞いてよ糸井くん。うちの委員長のことなんだけどさ」

「あっ……ああ、桐原先輩だっけ? 黒霧、よくあの人の話するよな」

「まあね。私、愛美さんのこと大好きだし、尊敬してるもん」

「もしかして黒霧って、そういう趣味……?」

「違うから!」


 気がつけば、苛まされていた暑さもどこへやら。やはり唯一の友人と交わす会話は楽しい。それはきっと、今の距離感、友人同士として交わすものだからで。


『全く、罪な女ね』


 碧の言葉は聞こえなかったフリをして、友人との談笑を続けたけれど。胸を刺す小さな痛みは、消えてくれなかった。



 ◆



 放課後になれば風紀委員会室に向かう。それが葵の日常だったが、最近はその限りでもない。有澄との修行があったからだ。

 あった、と言うように、それは既に過去形。有澄からは纒いも完璧になっているし、これ以上は実戦で磨いていくしかない、と言われている。人類最強のパートナーからお墨付きを貰ったのだ。それなりに自信も湧いてくるが、土曜の依頼ではなんの役にも立たなかった。完全に出鼻を挫かれた葵は、リベンジとばかりに掲示板に来ていた。

 一人ではなく、友人を伴って。


「お、いい感じのやつあるな。これならどう?」

「水質調査で八万か。いいんじゃないかな」

「じゃあ決まり。先生のとこ持ってこう」


 依頼書を剥がした蓮とともに、職員室へと向かう。水質調査といえば聞こえはいいが、調査だけではなくその原因を取り除くところまで依頼に含まれている。確実に面倒な依頼だろう。

 と言っても、原因が魔物であればそいつを倒せばいいだけだし、悪い魔力が溜まってる、とかなら葵の異能でちょちょいのちょいだ。

 最悪のパターンは、裏の魔術師が絡んでいた場合。そしてその魔術師が、土曜のやつと同じものを持っていた場合だ。


 あんなことそうそうないとは思うが、最悪のパターンは考えておくに越したことはない。微かに残っている記憶の中では、あの魔女ですら手を焼いていた。葵程度の魔術師では手も足も出ないだろう。


 職員室内に残っている教師は比較的少ない。殆どの教師が魔術の講義に出ているか、自分に割り当てられた依頼を片付けに行っているからだ。日本支部は人が少ないから、教師でも構わず駆り出されることがある。

 そんな人の少ない職員室の中、二人の目的の人物はすぐに見つかった。


「久井先生」

「おー、黒霧と糸井か。どうした?」


 椅子の背もたれに体を預け、覇気のない声を返して来たのは、久井くい聡美さとみ。葵たちの担任教師であり、こんなのでも教師の中では最も腕の立つ魔術師だ。


「依頼の受理お願いします」

「おーけー。依頼書貸してみ」


 蓮の手から依頼書を受け取り、机の上に置かれたパソコンを操作しだす。神秘やらなんやらを売りにしている魔術師が、化学の最先端であるパソコンで仕事をしているのは、どうにもおかしな感じがしてならない。

 しかし、この依頼をこなした数が即ち単位になるのだから、そのあたりの管理を考えればパソコンを使うのも当然か。


「湖の水質調査か。気をつけろよー、油断してたらとんでもない目に遭いました、とかザラにあるからなー。特にお前ら二年は」


 入学したての一年生や、それなりに経験を積んだ三年生とは違い、しっかりとした経験も積んでないのに油断して大怪我を負う二年生は多い。場合によっては、死者が出ることも。今の三年生が二十人二クラスしかいないのは、それが理由だ。


「ま、黒霧がいるなら安心か」

「買い被りすぎですよ。私、そんなに強くないですし」

「比べる相手、間違ってないか? お前の周りは魔女やら殺人姫やら、えげつないのばかりだからな。その辺と自分を比べても意味ないぞー」


 覇気はないが気遣うような久井の言葉に、隣に立っている糸井もうんうんと頷いている。

 実際に、今の二年生の中だと戦闘力という点に関して言えば、葵は頭一つ抜けている。三年生でも、彼女に勝てる者は少ない。というか、殆どいない。纒いを完全に習得した今となっては、愛美にすら届く勢いだ。


「ほい、受理完了。ちゃんと帰ってこいよ」

「はい」

「ありがとうございます」


 ヒラヒラと手を振る久井に礼をして、二人は職員室を出た。これでいつでも依頼に行ける。転移は葵の異能で行えばいいだけだし、早速現地へ向かおうと演算を開始しようとして。


「おっ」

「あら」


 目の前から、見知った先輩二人が歩いて来た。今日も今日とて仲睦まじい桐生織と桐原愛美だ。

 学院内での数少ない心許せる二人を見つけて、葵の表情は直ぐに華やいでしまう。


「愛美さん、織さん、こんにちは!」

「ええ、こんにちは葵」

「おっす。これから依頼か?」

「はい! 簡単なやつですけどね。お二人は?」

「あー……俺らのことより、ほら、そっちの男子生徒くんは?」


 頬をぽりぽりと掻く織は、苦笑を浮かべながら話を逸らす。その隣では、愛美が重いため息を吐いていた。

 さすがにあからさま過ぎたので気になったが、無遠慮に聞くのも憚れる。碧も今回は自重したのか、「これは面白そうな香りがするわね」とか言ってるが、無理に体を変わろうとはしない。


 急に話を振られて蓮だったが、戸惑いつつも自己紹介する。


「糸井蓮です。黒霧とは同じクラスの友人で、これから一緒に依頼に向かいます」

「桐生織だ。葵と同じ風紀委員。で、知ってると思うけどこいつが悪名高い桐原愛美」

「ちょっと、なによその紹介の仕方は」

「間違ってないだろ?」

「間違ってないからムカつくんでしょうが殺すわよ」

「そういうとこだからな」


 この二ヶ月ほどで見慣れた夫婦漫才。初対面の蓮がいる前でも関係ない辺り、さすがはこの二人と言ったところか。

 二人と会う日は毎日見ている光景だからつい微笑ましくなるが、初見の蓮からしたら微笑ましいどころか、あの殺人姫と対等に話す織を若干怯えた目で見ていた。

 それに気づいたのだろう。織は蓮に笑いかけ、おどけたように言う。


「おっと、俺はこいつらと違って、どこにでもいる凡人だからな。あんまり怖がらないでくれよ」

「あの、さりげなく私も入れないでくれません?」

「俺と比べたら葵も十分そっち側だよ」

「そんなことないと思うんですけど」

「まあ実際、私よりも葵の方が怖がられてる節はあるものね」

「そんなことないと思うんですけど⁉︎」


 殺人姫なんて物騒な通り名を持ってる先輩から言われるのは釈然としないが、それが事実だとしても大体碧のせいだろう。人畜無害な自分が怖がられるとか、まあ、クラスでの様子を鑑みるに違うとは言い切れないけど。


「んじゃ、俺たちはそろそろ行くわ。依頼頑張れよ」

「糸井蓮、だったかしら? 葵のこと、よろしくね」

「は、はいっ!」


 織と愛美の二人が去っていき、その背中が見えなくなった頃に、蓮がポツリと呟いた。


「桐原先輩って、意外といい人?」


 そう、あの人はいい人なのだ。優しくて、かっこよくて、可愛い、自慢の先輩なのだ。

 愛美の魅力に気づいてくれた人がまた一人増えたことを嬉しく思いながら、葵はニコニコと笑顔を浮かべ転移のための演算を再開した。



 ◆



「あー、やっぱり魔物の仕業っぽいね。この湖の底の方に棲みついてるみたい」

「じゃあサクッと倒して終わらせよう」


 現場へと飛んだ二人の前には、一見して綺麗な湖が広がっている。しかしそこに生物の気配はなく、魔術師であれば一目見ただけでその異常に気付くだろう。

 魔力の流れが、ここだけおかしい。

 この湖は地脈の上に位置している。文字通り脈のように地球上に広がるそれは、魔力の通り道。全世界に魔力を巡らせているもの。いわゆる魔術的に優れた土地というのも、地脈の上が該当する。例えば各地の魔術学院だったり、桐原家や安倍家を始めとした魔術の家だったりは、そう言った場所に建っているのだ。


 ここもその一つなのだが、魔力の巡りが悪くなり、ここで停滞している。しこりのようなものだ。これ一つ自体はさほど問題になるようなものでもないのだが、このような状態が世界各地で何千何万と同時に起きてしまえば、それこそ朱音が来た未来のようになってしまう。

 だから学院に依頼が行き、調査とその原因の駆除が任されるのだ。


 さて。湖を一瞥しただけで魔物の存在まで察知した葵だが、問題点が一つ。


「底に棲みついてるんだったら、どうやって誘き出そうかな……」


 異能を使えば、葵一人でも湖に潜ることは可能だ。しかし水中に棲みついてる魔物とそこで相対するのは、余りにも不利なことに変わりはない。

 いっそのこと湖ごと氷纒で凍らせるか。いや、それは最終手段。他になにか良い手があるはず。

 うんうんと考え込む葵を尻目に、蓮が一歩前に踏み出す。


「誘き出すのは任せてくれ」


 不敵の笑ってみせた蓮は、徐に右手を湖へ差し向けた。そこから、視認出来ないほどにか細い魔力の糸が湖に向けて伸びる。

 糸井蓮が得意とするのは、その名が示すように糸を用いた魔術だ。安易で単純と思うなかれ。魔術において名前による親和性とは、時に大きな武器となる。

 蓮とはこれまでにも何度か依頼を共にしたことがあったが、その魔術に助けられたことは多くあった。


「よし、かかった! 黒霧、準備よろしく!」

「うん!」


 蓮が力一杯糸を引き上げると、湖の中から巨大な魚の魔物が飛び出してくる。更にいくつもの糸を射出し、空中で雁字搦めにされる魔物。鋸のような凶暴な歯は、しかしこの状態だとなんの役にも立たない。


「行くよ碧!」

『任せなさい』

「雷纒!」


 バチバチ、と音が鳴り、葵の全身が青白い稲妻に包まれる。

 雷の翼をはためかし、魔物めがけて一直線。瞬きするよりも早く空中へ駆けた葵の鎌によって、魔物の体は真っ二つになった。


 いえーい、と地上にいる蓮へ笑顔とピースを向ける葵。脳内では「そういうとこよね」と声が聞こえてくるが、聞かないふり。なにがどういうとこなのか、分からないふり。


 地上に降りて、蓮とハイタッチ。背の高い蓮が葵に高さを合わせてくれたから、ハイタッチというよりはロータッチになってるが。


「これで終わりだね」

「呆気なかったな」

「ついでだし、湖の浄化もしちゃおっか」


 改めて湖の方へと歩み寄る葵。彼女の異能にかかれば、滞った魔力を正常に戻すことなど容易い。少し疲れはするものの、言ってみればそれだけだ。


 異能発動のために演算を開始しようとして、しかしその直前、葵の瞳が微かな魔力の動きを捉えた。それは徐々に大きくなり、湖の水面に巨大な魔法陣を描く。


「なに、これ……?」


 湖を覆うほどの魔法陣に目を見張る。脈絡もなく現れたこともだが、それより。一体誰が、こんな規模の魔法陣を描いているのか。

 学院内で見ても、こんなことが可能な魔術師は少ない。この場にいる葵と蓮の二人には到底不可能だ。


「黒霧、一旦下がろう!」

「う、うん!」


 蓮に言われるがまま、湖から距離を取る。背後にあった森の中に姿を隠せば、魔法陣が赤く発光。そこから鷲のような魔物が現れた。


 全長五メートルはあろう金色の体に、赤い翼。纏った魔力には神々しさすら帯びていて、見るものに畏怖を与える。だが、その瞳は狂気の真紅に染まっていた。

 インド神話に存在する神鳥。その名を、ガルーダと言う。


「ガルーダって……なんで神話の生物がこんなところに……!」


 その存在は蓮も知っていたのだろう。驚愕に目を見開き、いかにしてこの状況を脱しようかと思考を巡らせている。

 それは葵も同じだ。あんな見たこともない魔物を相手に戦ったところで、勝てるわけがない。一度学院に戻り、桃や愛美たちに知らせなければ。


 見たことがない?

 本当に?


『葵、あなたなに考えてるの? まさかとは思うけど……』

「……違う。そうじゃないよ、碧。あいつは、あの時の……」


 頭が、痛む。

 脳裏を掠めるのは、記憶にない光景。


 満月の夜

 漂う黒い霧

 輝いた鉤爪

 赤く染まる視界

 目の前に立つのは、灰色の男?


「■■■■■■■■ーーーーーーー!!!!」


 耳を劈く絶叫に、葵の意識が現実へと帰還する。同時に、魔力が熱波となって二人に襲いかかった。発生源はわざわざ見るまでもなく、湖の上で雄叫びをあげるガルーダ。


 ダメだ。逃げないと。今の熱波だけで、嫌という程に理解させられた。アレには、絶対に勝てない。蓮は転移を使えないから、自分が異能を使わないと。


 ギロリ、と。神話の化け物が、隠れているはずの葵と蓮を、その紅い瞳に捉えた。


「まずっ……!」

「伏せろ黒霧!」


 吹き荒ぶ暴風。天を衝くガルーダの絶叫と共に、葵たちの周囲にあった木々が粉微塵に吹き飛んでいく。蓮のお陰で咄嗟に身を屈めたから良かったものの、そうしなければ葵の体は風の刃によって八つ裂きにされていた。


 また、頭が痛む。演算に集中できない。早く逃げなきゃいけないのに。脳内で叫ぶ碧の声も、蓮の気遣わしげな声も、どこか遠くに聞こえて。


『変わって』


 全く違う他の誰かの、けれど酷く耳に覚えのある声が聞こえて、葵の意識は暗転した。



 ◆



「黒霧! おい、大丈夫か⁉︎」


 糸井蓮は困惑していた。クラスメイトであり、密かに想いを寄せている黒霧葵と共に簡単な依頼へ訪れたと思えば、現れたのは神話の時代から存在する神鳥。その圧倒的な存在感と魔力に気圧されていれば、今度は葵の様子がおかしくなった。


 ガルーダの一撃を、いや、攻撃にも満たないただの咆哮をやり過ごしたのはいいが、葵は虚ろな目でガルーダを見つめるのみ。何度呼びかけても、蓮の声に反応しない。


 困惑と同時に、焦りも湧き上がってくる。この状況をどうにかしければと思えど、どうにか出来るだけの力を蓮は持ち合わせていない。あの神鳥の目を盗んで逃げる術もなければ、打ち倒す力もない。

 完全に手詰まりだ。


 そもそも、なぜあんなものが出てきたのか。ただの水質調査じゃなかったのか。ガルーダは元々人間の味方をする神鳥ではなかったのか。そして葵はどうしてしまったのか。

 いくつもの疑問が降ってくるが、そのどれにも答えは得られない。

 けれど、唐突に。そのうちの一つに答えが返ってきた。


「糸井蓮くん、だよね」

「え、黒霧……?」


 ガルーダに向けられていた視線が、自分に向けられる。まるで初対面の相手に投げるような言葉と声。

 まるで、ではない。まさしくその通りなのだろう。だって、今の葵は、葵ではない。もう一人の碧でもない。

 見て分かる変化はないが、友人である自分には分かってしまう。


「ちょっと下がってて。それと、終わった後にこの体をよろしく」

「お、おい!」


 蓮の返事も聞かずに葵は立ち上がり、雷纒を発動させてガルーダへと突っ込んでいった。

 なにが起こっているのか分からない。彼女が二重人格だとは聞いていたが、三人目がいるなんて初耳だ。


 翼をはためかせて宙を舞い、ガルーダとの戦闘を始めた葵。その小さな体を見て、蓮は悔しさと情けなさに歯噛みした。



 ◆



 ガルーダとは、インド神話に登場する神鳥だ。本来ならば、人々に恐れられている蛇や竜の敵対者であり、人間から崇拝される存在。炎と風を司る神の使いだ。

 インドの神々すらも震え上がらせたというその力は、現代においてもなお衰えていない。


「それがどうした、って話なんだけどね」


 一筋の稲妻が、ガルーダの体を貫く。不意打ちに身をのけぞらせた神鳥の背後。そこに滞空している稲妻の正体、は、憎悪の炎を瞳に燃やしガルーダを見下ろしている。


「まさかこんな早く会えるなんて、思ってもなかったな。私のこと、覚えてる? なんて、そんなわけないか」


 吐き捨てる『葵』を強敵だと認識したのか、ガルーダが咆哮しながら羽ばたく。余波で吹き荒れる風にすら込もる、濃密な魔力。熱を帯びたそれを受けても、『葵』は眉ひとつ動かさない。

 右手に持った刀を中段に構え、目の前を飛ぶ憎き相手を睨むのみ。


「この子たちは事故だって勘違いしてるみたいだけど、私は覚えてる。お父さんとお母さんの仇……お前の飼い主を殺す前に、お前を殺してあげる……!」


 バヂィィ!!

 稲妻の迸る音が響き、『葵』の姿が消える。否、雷へと変貌したのだ。雷速よりも余程速いスピードで、一直線に突き進む雷撃。先ほどと同じ攻撃だ。

 故に、神鳥は冷静に対処する。黄金の体を輝かせ、人の身では耐えられない熱を纏った。だが『葵』にはそんなもの関係ない。熱の鎧すら突き破り、二度、三度とガルーダの体を貫く。自慢の黄金には瞬く間に血の赤が混ざり始める。


「そんなもんじゃないでしょ⁉︎ お父さんとお母さんを殺した時の力はどうしたのよ! あの時の力を出してくれないと、それを叩き潰さないと! 私の気が晴れないじゃないッ!!」

「■■■■ーーー!!」


 咆哮と共に、ガルーダの纏う魔力が質を変える。人の域では到達し得ない、神の力。

 破壊と蹂躙の限りを尽くす風が、熱が、一人の小さな少女に向けて放たれる。

 掠っただけでも命を奪う死そのものを、あろうことか、『葵』は真正面から迎え撃った。


「雷鳴轟き灰燼に帰せ!帝釈天インドラ!!」


 展開された魔法陣から現出するのは、雷の巨人。ただ出現した余波の稲妻だけで周囲の木々を焼き、湖には高い波が立つ。

『葵』と動きをシンクロさせた巨人が刀を一振りすれば、ただそれだけで迫る神の熱風を打ち破った。


 狂気に染まったガルーダの、それでも残されている僅かな理性が驚愕を示している。

 何故だ。インドラの名を冠するのであれば、自分に負ける要素など万に一つもありはしないのに。ましてやそれが、小さき娘の手によるなど。


 そして、その一瞬に生じた隙は、致命的なものとなる。


 巨人が右腕を掲げれば、轟音と共に天から落ちた雷がガルーダの右翼を捥いだ。態勢を崩してしまい、湖の上に墜落する。忌々しい人間を見上げれば、憎しみを宿した瞳と視線がぶつかる。

 同じような人間はこれまで何度でも見てきた。憎悪に囚われる哀れな人間。数え切れないほど存在するその中に、いた。


 十年前。ガルーダにとってはつい昨日と変わらぬ、昔とも言えないほど過去の話。

 飼い主の指示通りに殺した人間と、憎しみに染まった少年少女。


 今、圧倒的な力で自分を地に墜としたあの少女は、その片割れだ。

 なるほど、主人である吸血鬼が自分をここに寄越すわけだ。


「お父さんとお母さんの仇……まずはその一匹目……ここで殺す……!」


 インドラと呼ばれた巨人の右手に、法具が出現する。雷を帯びた金剛杵。神話において、最強とされたインドラの武器。

 あれはマズイ。神の力、神氣しんきを纏っているガルーダと言えど、まともに受けてしまえばただでは済まない。不死の力は果たして作用するだろうか。

 いや、それよりも。

 どうして、神の力であるはずの神氣を、


 金剛杵が掲げられる。あれが振り下ろされた時こそ、この命が終わる時だろう。

 それもいいかもしれない。神の使いであるはずのこの身を、たかが吸血鬼風情に使われて千年は経った。その屈辱から解放されるのであれば、少女の両親の仇として死ぬのも一興だろう。


 そう考えど、しかし覚悟した死は訪れず。


「邪魔しないでよ、碧……!」


 インドラが消えた。術者の少女は苦しげに頭を抑えている。

 最後にガルーダをひと睨みして、『葵』は忽然と姿を消したのだった。



 ◆



「はぁ……はぁ……なんとか、取り返した……」

「黒霧!」


 異能で転移した先は、どこかの森の中。あの湖からは何千キロも離れた位置までやって来た。一先ずはこれで安心。いや、そうとも言い切れないか。


 一緒にここまで転移させた蓮を見上げる。あの子が異能で守っていたみたいだが、その表情には疲労と困惑が綯い交ぜになっていた。


「ごめんなさいね、あの子は今寝てるわ」

「……碧の方か?」

「ええ。こうして話すのは久しぶりかしら? まあ、そのあたりはどうでもいいわ」


 碧は、なるべく蓮の前では表に出ないようにしていた。蓮だけではない。愛美や織、桃たち以外の前では、出来る限り引っ込んでいる。それが葵のためになると思っているから。


 だから、蓮と直接言葉を交わすのだって、片手の指で数えて足りるほどだ。

 それは蓮に対する、明確な線引きに他ならない。


「じゃあもしかして、さっきのも黒霧じゃなくて、碧が?」

「んなわけないでしょ。あたしだってなにがなんだか分かってないのよ……葵は起きないし、が出しゃばってくるし、かと思えば意味わかんない力まで使い始めるし……」


 最後に放とうとした一撃。あれは、ヒトの身で再現できる力ではなかった。

 だからだろうか、もしかしたら無理矢理使おうとしたその力によって何処かに綻びが出来、碧が体の主導権を奪えたのかもしれない。


 過去二度は、それができなかった。

 もう一人が出てきた時、葵には記憶がないと説明していたし、葵も同じだと言っていたが、それは嘘だ。碧には、ちゃんと記憶が残っている。もう一人が出てきたことも、そこでなにを言っていたのかも、なにをしたのかも。


 基本的に記憶は共有している葵と碧だが、それでも例外が一つ。睡眠中だ。

 考えてみれば当然のことで、人間は寝ている時の記憶など存在しない。どんな寝相で、どんな寝顔で、どんな寝言を呟いていたかなど、カメラでも設置していない限りは把握できない。

 それと同じ。片方が引っ込んで眠っている状態では、もう片方がなにをしたとしても記憶は共有されないのだ。


「とにかく、生きててよかった……お前が死んだら、俺は……」

「ま、体は共有だものね。この体が死んじゃったら、あたしだけじゃなくあの子まで死んじゃうし。でもそう言うのは、あの子に直接言いなさいよ」


 全身にまとわりつく倦怠感に耐えられず、碧は地べたに座り込む。魔力も異能もフルに使って、おまけによく分からない力まで勝手に使われたのだ。正直、こうして一度座ってしまえば、暫くは立ち上がれない。


 なんとなしに言葉を発した碧だったが、蓮の顔を見ればムッと眉を寄せていて。


「何言ってんだ。お前も、さっきのもう一人って子も、みんな合わせてなんだろ? だったら誰に言うとか関係ない。全員に言いたいくらいだよ」


 さすがに驚いた。

 葵と碧を別の人物として捉える者は多い。実際に人格が違う以上は、全くの同一人物と言い切ることは出来ないし、親しい先輩たちだってその例に漏れない。

 でも。それでも碧は、『黒霧葵』の一部だ。そこから分かたれた人格。碧だって、『黒霧葵』に違いない。


 それをこうして言葉にしてくれた人は初めてだった。もしかしたら、愛美や織あたりも同じ風に思っているかもしれないけれど。それでも、直接言葉にされたことはない。


 なるほど。こいつはいい男だ。葵には勿体ないくらいに。


「ま、礼は言っとくわ。ありがと」

「心配すんのは当然だろ。友達なんだし。だから、礼なんていらないよ。むしろ俺が礼をしたいくらいだ」

「なにも出来なかったから?」


 頷いた蓮は、悔しそうに俯く。

 誰かに似ていると思っていたが、その姿を見ていて分かった。力の足りない自分に歯噛みする様は、まさしく織と似ている。


「仕方ないでしょ。あたし達だって、もう一人のあの子が出てこなかったらなにも出来なかった。そう言う意味ではあんたと同じ」


 織との違いは、隣に誰がいるのか。あの先輩には頼りになるパートナーがいたけど、生憎ながら、葵にも碧にも、蓮にとってのそんな存在になるつもりは毛頭なかった。

 だから、突き放すようにこう言うのだ。


「でも、これに懲りたらあたし達に関わるのはやめときなさい。あのガルーダ、明らかにあたし達を狙ってたし。今後もあんなんが出てこないとも限らない。そうなったら足手まといになるのは誰か、分かるでしょ?」


 答えはなく、沈黙。それがなによりの答えだと勝手に解釈して、碧は携帯を取り出した。取り敢えず、桃に迎えに来てもらって事情を説明しよう。


 俯いたままの蓮を見て、思う。


 ごめんなさい。でも、せっかくいい男なんだから、もっとマシな女を好きになって。

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