願い、あるいは呪い

第37話

 学院の地下にある、魔女の部屋。そこには様々な魔導具が散乱しており、壁には古今東西の魔術を用いるための魔法陣が描かれている。

 部屋の主である桃瀬桃は、片付けが苦手だ。いや、正確には片付ける気が毛頭ないのだ。その行為が頭の中から抜け落ちている。そんな暇があるのなら、やるべき事をいち早く済まさなければならない。


「それにしたって、急ぎ過ぎな感じはするけど。少し休めばどうだ?」

「うるさい。そんな時間ないの、わかってるでしょ」


 部屋に落ちてる魔導具を適当に拾い、手元で弄ぶ人類最強の男。黄緑の筒は一体どんな用途があるのか、蒼は興味深げに眺めている。人類最強の肩書きを持ち、転生者として数多くの時代を渡り歩いて来た彼だが、魔女の作る術式や魔導具はどれも面白く、蒼にとっても興味を惹かれるものだ。

 長い付き合いの中で、気に食わないところも多々見てきたが、気に入る部分もそれなりにある。この魔女とは奇妙な縁で繋がっているものだと、蒼は微苦笑する。


 そんな蒼に一瞥もくれない桃の眼前には、壁一面を覆うほどの術式が広がっていた。カチ、カチ、と音を立てながら、幾何学模様が蠢いている。

 この二百年間。正確に言えば、グレイとの因縁が始まった百八十年前から作り続けている、一つの魔術。いよいよ完成間近まで来ているそれは、あと一歩のところで躓いていた。

 その原因はわかっている。この術式に組み込んでいる桃の奥の手、レコードレスの力だ。

 桃自身、あれがどう言った力なのかは理解できていても、は理解していない。


 賢者の石は、器の魔術を記録する石である。

 桃の体内に存在しているオリジナルの賢者の石は、彼女以前に器となった人間がいない。つまり、今石に記録されている魔術は、桃が使う魔術だけ、のはずだ。

 しかしたった一つだけ、桃が器になった時には既に存在していた魔術がある。

 それこそが記録されるはずのない魔術レコードレス。位相と呼ばれる力を操るためのドレス。


「そこの術式、間違ってるぞ。凡ミスじゃないか」

「……分かってたし」

「嘘を吐くなよ。やっぱり少し休憩した方がいい。そもそもが人よりも睡眠の必要な身体だろう」

「いいんだよ。夏休みにパーっと寝るから」

「織や愛美たちと出かけたりしないのか?」

「てか、小鳥遊には関係ないじゃん」

「関係ないことはないさ」


 蒼の伸ばした右手人差し指の先に、淡い光が灯る。徐にその手を振れば、それに合わせて幾何学模様が新たな動きを見せた。

 カチカチカチ、と先程よりも速く、術式が変化を見せる。桃のミスを修正し、蒼の独断で他の部分にも手を加えていく。それを詰まらなさそうな顔で見つめる桃。こういうところが、魔女は気に食わない。


「こんな感じかな。位相の力は僕も完璧に把握してるわけじゃないからね。既存の術式でどうにかなるところは弄ったけど、それ以外は触ってない」

「それでも、大分マシになった方だよ」

「なら良かった」


 礼はしないし、蒼自身も求めているわけではない。そも、この魔術が完成しなければ蒼だって困るのだ。

 グレイを殺しきれるであろう、唯一の手段。蒼だってあの吸血鬼に負ける気はしないが、殺しきる手段を持っているわけでもない。夜の吸血鬼の再生力は、人類最強でも手を焼くほどだ。再生のたびに魔力を消費するとは言え、グレイが賢者の石を持っているのなら話は違ってくる。


「一応聞いとく。明日、死ぬつもりじゃないだろうな?」


 投げた言葉に、魔女がどんな表情をしているのか。背後に立っている蒼からは見えないが、それでも返ってきたのは嘲笑とも取れる音。長い付き合い、愛美よりも腐れ縁を続けている人類最強の男に対して、魔女は鼻で笑ってみせた。


「昔はそれでもいいと思ってたんだけどね。生憎、死にたくない理由が出来ちゃったからさ」


 脳裏をよぎるのは、去年学院に入学した恩人の妹。数ヶ月前に拾った弟のような男。そして、二年前に出会ったかけがえのない友達。

 あの三人と、これから先の未来を生きるために。


「誰も死なせない、って言うのは流石に無理だけど。わたしも含めたわたしの周囲は、全員死なせないよ」


 学院の全員を助けるのは無理だ。やつらが攻めてくるのを事前に知っているとは言え、学院祭は中止にできない。いや、したくない。それは桃のワガママである。

 だからこそ、誰も死なないように最善の努力をしている。学院の誰も欠けないために。

 それでもだ。それでも、戦場ではなにが起こるのか分からない。もしかしたら、学院の内部に魔物を入れてしまうかもしれない。蒼が見張っているとは言え、南雲が内部から動くかもしれない。可能性を上げればキリがなくなるが、そう言ったことは想定しておかなければならない。

 でないとまた、大切な人たちを失ってしまうから。


 優先順位を間違えるな。何かあった時、真っ先に助けるべき命は有象無象の魔術師どもじゃない。自分の大事な友人たちだ。


 今回は失敗するな。葵も、織も、愛美も、もちろん桃だって、全員で生きて明日を乗り越える。絶対に。


「話はそれだけ? だったらさっさと帰って。まだこれ完成してないんだから」

「休めって言っただろう」

「小鳥遊がいたら休みたくても休めないし。それともなに、無防備なわたしを襲おうとでも考えてた?」

「有澄よりも魅力的な女になって言うんだな」

「はいはい、惚気乙。織くんと愛美ちゃんと言い、小鳥遊と言い、なんで聞いてもないのにそう言うこと人に聞かせるかな……」

「君も恋愛の一つでもしたら、その気持ちが分かるようになるんじゃないか?」

「冗談言うなら面白いのにして」

「そりゃ悪かった」


 その言葉を挨拶がわりに、蒼は転移で部屋から出て、図書室に移動した。すぐそこのカウンターでは、今日も有澄が魔導書を読み耽っている。相変わらず、本の世界に入ったら蒼でもあろうと気づかない本の虫っぷり。

 何度見ても飽きない、読書をする妻の美しい横顔。つい笑みが溢れて頭を優しく撫でてみれば、さすがにハッと我に帰った有澄。


「蒼さん、戻ってたんですね。桃さんはどうでした?」

「いつも通りだよ。魔術のことになれば、寝る間も惜しんで、というよりも寝ることも忘れて没頭だ」


 肩を竦めてみせる蒼に、有澄も苦笑いを返す。

 蒼とて、桃のことは気に入らない相手としてみているものの、死んで欲しいというわけでもない。

 人類最強の男が魔女を嫌う理由はただひとつ。自分には使えない、あの力だ。

 レコードレス。

 幻想魔眼が異能の、賢者の石が魔術の頂点に立つなら、あのドレスが操る位相はそれらを統べるモノ。この世に存在する超常の力、その全ての始祖とも呼べる力。なぜ存在しているのか、なぜ魔術としての形を与えられ、賢者の石に記録されているのか。誰も完全には理解出来ていない、謎の力。

 しかしその力は絶大に過ぎる。あれさえあれば、魔女に敵うものなど誰もいない。蒼ですら例外ではないのだ。


「全く。無駄に一人で背負い込みすぎなんだよ、あの魔女は。昔に比べればいくらかマシになってるけど、性根は哀れなほどに変わってない」

「今は愛美ちゃんや織くんたちがいますもんね。勿論、わたしたちも」

「僕はそこに含まないでくれよ」

「そんなこと言って。蒼さん、どうせさっきも様子見るだけとか言って、手伝って来たんでしょう?」


 クスクスと微笑む有澄の視線がむず痒くて、蒼はつい視線を逸らしてしまう。何年経っても、妻である彼女には敵わない。あるいは何年も付き合いがあるからこそ、こちらの考えなど見透かされてしまうのか。


「ともあれ、わたしたちもそろそろ準備を始めた方が良さそうです」

「だね」


 有澄が開いたままだった魔導書を閉じ立ち上がる。明日は久しぶりの大きな戦いになりそうだ。全員死なせない、などと大それたことは言わない。そのつもりで戦うが、どうしても選択の迫られる局面は出てくるだろう。

 これまでと同じだ。全ては望まない。それでもこの手が届くのであれば、絶対に差し伸べる。つまりは、それ以外を切り捨てるということで。


「全く、人類最強も楽じゃない」


 自嘲の笑みとともに漏れた言葉は、それでもたしかな自信に満ちていた。



 ◆



 学院祭まで、いよいよあと一日となった。

 生徒たちはきたる明日に備えて、それぞれの出店の最終確認を行ったり、前夜祭はどこにするかと話していたり。

 誰も彼もが浮かれ気分ではしゃいでいる中、しかし風紀委員である織には、そんな雰囲気を共有することすらできなかった。


「それじゃ、明日の打ち合わせを始めましょうか」


 放課後の風紀委員室にて。昼食を済ませた後に集まった織、愛美、葵の三人は、明日の文化祭の最終チェックを始めていた。

 それぞれの手元には、愛美が生徒会から受け取ったプリントがある。そのプリントによれば、広大な学院の敷地の殆どは生徒会側で見回りを担当してくれるらしく、風紀委員の三人は主に校舎内がメインらしい。


「なんだ、殆ど生徒会でやってくれるんじゃねぇか」

「校舎も十分広いですから、結構大変ですけどね」

「それに、本当ならわざわざ見回りなんてしなくてもいいんだけどね。いつも通り、何かあったら葵がすぐ察知するし」


 身もふたもないことを言い出す愛美だが、実際に普段の風紀委員はその様にして仕事をこなしている。葵の異能によって、学院内で起こった風紀委員案件の事件は、リアルタイムで彼女に届くのだ。

 ただそうなると、葵ひとりの負担が大きくなる。学院祭なんてどんちゃん騒ぎ、いつもよりも仕事が多くなるに決まってるのだから。


 そのあたりは愛美も理解しているだろうし、風紀委員としての体裁というのもある。どの道見回りの仕事は避けられない。


「私だって本当は見回りなんて面倒ごとやりたくないし、織と一緒に色々回りたいんだけど」

「お、おう……」

「でもまあ、仕事って言うなら仕方ないわ。幸い、校舎内の見回りは午前だけでいいって言われてるしね。午後からは目一杯デートとしゃれこむわよ」


 まだ慣れていないのだから、唐突にデレないで欲しい。いや、割と前からこんな感じだった気もするけど。


「そう言えば、結局桃さんは? 当日は用事があるって言ってましたけど、それで一日潰れるんですか?」

「風紀の方は任せた、とか言われてるから、そうじゃないかしら?」

「愛美も詳しくは聞いてないのか?」


 どうやらこの場にいる誰も、桃の明日の用事とやらについては聞いていないらしい。いや、今までだってあの魔女は、自分の予定について誰かに伝えたりはしていなかった。なぜなら大概が自室にこもって寝てるからだ。もしくは魔術の研究か。


 二百年生きてきた割に、桃は愛美を始めとした友人との交流を大切にしている。むしろそれだけの時間を生きたからこそ、なのかもしれないが。

 そんな彼女が、学院祭の日に予定を入れた。それも犬猿の仲である蒼からの頼まれごとだと言う。なにかあるのでは、と疑ってしまうのが自然だろう。


「直接聞きに行きます?」

「寝てるんじゃねぇの?」

「その可能性が高いわね。ま、桃については別にいいわ。仮になにかあったとしても、あの魔女なら大丈夫でしょ」


 高い信頼を寄せているからこその発言。織に対してのものとも違う、付き合いの長さがあるからこその絆。

 織にとってはそれが少し、羨ましいと思う。

 桃瀬桃と桐原愛美は、もう二年の付き合いになるという。魔女にとっては二年などあっという間にかもしれないが。

 幾ら織と愛美が家族で、恋人で、桃では絶対になれない関係だとしても、その数字だけは勝てない、追い越せないのだ。


「話を戻すわよ。明日は校舎内の見回りを、午前中だけ。後は生徒会が引き継いでくれる。ここまではいいわね?」


 愛美の確認に、織と葵が頷きを返す。

 そういえば生徒会がどんな奴らなのか、全く見たことねぇな、とか考えつつ、説明の続きに耳を傾ける。


「で、その見回りが面倒でやりたくないから、裏技を使おうと思うわ」

「おい委員長」

「失礼、明日を万全の態勢で迎えるために、効率の良い方法を取ろうと思うわ」


 言い直しても遅いからな。ジトッとした目を愛美に向けるものの、織のそんな視線は一顧だにせず、というかするわけもなく。逆に愛美から視線を返された。

 不意にその澄んだ瞳に見つめられれば、半ば反射的にドキドキしてしまう。しかし恋人の口から発せられたのは、断じて甘い言葉などではなく。


「織、未来視使いなさい」

「無理」


 思考の余地なく即答した。


「こう、明日いい感じにトラブルが起きない、私たちが見回りしなくてもいい未来を引き寄せなさい」

「いや聞けよ。無理だって」


 理由は二つ。

 まずシンプルに、引き寄せる未来視は今の織では三十分先が限界だ。ただ予測するだけの未来視なら可能だが、対象となる未来が遠い。一日だけ、などと考えてはいけない。一日あれば、未来は如何様にも変わってくる。

 次に、織の未来視はあくまでも自分の未来が対象となる。目を使う以上、当然自分の視点から未来を見るのだ。他の誰かの未来を変えることは、間接的には可能だろう。未来での織の行動が変わることで、織に関わる誰かの行動も変わる。だが直接変えることなど出来ない。


 以上二つの理由は、愛美も把握しているはずだ。ネザー関西支部に向かった際、愛美もいる場で朱音から説明があった。

 しかしそれを承知の上で、愛美は更に言葉を重ねる。


「幻想魔眼」

「……なんで知ってるんだよ」

「やっぱり」

「……」


 どうやらカマをかけられたらしい。恐らくはその可能性を考えつつも、確信を持てなかった、と言ったところだろう。

 それも当然か。なにせ織が魔眼の力を初めて使った時、愛美もその場にいたのだから。


「魔女も超えるほどの魔力放出量に、私と同じ体術。弱っちいあなたが使えるわけもないこの二つを同時に使った。ネザーでの一件、割と最近よ?」

「弱っちいは余計だろ……」


 もはや負け惜しみの如くそう言うしかなかった。隠していたつもりではないのだが、あれは織自身でも理解不能の力だ。上手く制御出来ているわけでもない。


 なにより、心の中では違ってくれと、そう考えている自分がいた。

 強い力を求めている。それは今も変わらない。家族を守れるだけの力が欲しい。いつまでも守られてばかりではいられないから。

 けれど、強すぎる力は、時に使用者にすら恐怖を与える。


 葵がその一人だ。情報操作という強大な力。葵はそれを万全に振るうことはない。その力を恐れているから、本人が意識している以上に異能の力は発揮されていないのだ。


 あらゆる不可能を可能にしてしまう、異能の頂点と呼ぶべき異能。

 織の未来視では、他人の視線から未来を見ることが出来ない。スペック的にも、明日の未来を今確定させることは不可能。

 。それが幻想魔眼だ。


「あの、話が見えてこないんですけど……」


 唯一その魔眼のことを知らない葵が、困惑した声を出す。愛美が説明しようと口を開きかけて、しかしその寸前、なにか思いついたかのように別の言葉を口にした。


「織のこと、視てみなさい。そしたら私たちが説明するよりも、詳しく分かると思うわよ」


 言われた通りに異能を発動した葵が、織を見つめる。こうして改めて後輩女子からジッと見つめられると、視線の置き所に困る織。見つめ返すわけにもいかないし、なまじ葵が整った顔をしているから、変に緊張してしまう。主に横から刺さる視線への恐怖で。


 が、それもほんの数秒のこと。正面の葵は納得した顔になることなく、どころか眉根を寄せて小首を傾げている。余計に分からなくなった、とその顔に書いていた。


「え、なにこれ……どういう……? 碧も視えてない、よね? ……うん、初めてかも……」

「視えないのか?」

「完全にってわけじゃないんですけど、所々ノイズが走ってるというか、黒く塗りつぶされてるんですよね……不可能を可能にする異能、とはあるんですけど、後はよくわかんないです」

「所々ってことは、ちゃんと視えるとこもあるのよね? 他になんてある?」

「『キリ』の人間、くらいですかね」

「なんだそれ?」


 全く聞き覚えのない単語。それは他二人も同じだったのだろう。葵は傾げていた首を更に倒し、愛美は怪訝な目で織を見ている。


「俺の苗字にキリの文字が入ってるからとかか?」

「それを言ったら、私も葵もそうでしょ」

「たしかに」


 さすがに単純すぎるのは織も自覚している。だが、『キリ』と自分の関連性など、そこ以外には思いつかなかった。


 考えても分からないことに、これ以上の時間を費やしても仕方ない。だいぶ話が逸れてしまったが、とにかく、と発した愛美が話を締める。


「明日でもいいから、織は未来視使って。そしたらかなり楽になるし、この際予測の方でもいいわ」

「へいへい」

「そういうことで、今日はもう解散。各自明日に備えてゆっくり休むこと」

「はい!」


 手を挙げて元気よく答えた葵は、お疲れ様でしたー! と部屋を出て行く。元気があって大変よろしい。明日は半分見回りの仕事で潰れるとはいえ、楽しみにはしているのだろう。もしかしたら、先日会った男子生徒、友人という糸井蓮と一緒に回る約束でもしてるのかもしれない。


 そんな考えが見当外れであることに織が気づくわけもなく、思考はそのまま今日の夕飯にシフトしていた。朱音は相変わらず桐原の屋敷で厄介になっているから、今日も夕飯は二人分の四人前。因みに三人いれば七人前である。計算が合わない。


 いないと結構寂しいから、そろそろ朱音も帰ってきてくれねぇかな、と思い始めた時だった。部屋の扉が突然開き、寝ぼけ眼の魔女が入ってきたのは。


「あー……おはよう二人とも……ふわぁ……」

「おはよう。もう昼だけどね」


 全く我慢もせずに欠伸を漏らす桃を見て、愛美が呆れたように言う。


「あんた、明日は先生に頼まれごとされてるんじゃないの? そんなだと寝坊するわよ」

「大丈夫大丈夫。今起きたんじゃなくて、今から寝るとこだから」

「なんも大丈夫じゃねぇだろ」


 一体いつから起きてたのか。この様子だと、丸二日くらい寝てなさそうだ。いくら魔女とは言えど、織たちと同じ人間だ。睡眠も食事も必要。それらを怠れば体に変調をきたしてしまう。魔術で幾らかは誤魔化せると言っても、それだって限界があるのだ。


「今から明日の朝までだったら、十七時間くらい寝れるよ?」

「普通はそんなに寝ないんだよ!」


 織までも頭が痛くなってしまい、額に手を当てため息が出る。二百年生きてる魔女に普通を語るのはどうかとも思うが、それにしたって呆れる他ない。


「で? 先生からの頼まれごとってなんなんだよ。しかもわざわざ学院祭の日に」

「あぁ、それ? 残念ながらみんなには教えられないんだ。クライアントが秘密主義でね」

「ということは、いつもみたいな依頼が先生から斡旋された、もしくは協力を頼まれた、ってことかしら?」

「そんなとこかな。小鳥遊は呑気に学院祭出るみたいだけど」


 首を傾げる織。蒼からの頼まれごとなのに、蒼本人は学院祭に出る。しかし桃は出れない。なにかしら複雑な事情でもあるのだろうか。なにせ人類最強と魔女の二人を動員するほどの案件だ。織には想像も出来ないことが起きていてもおかしくない。


 そんなことより、と話をぶった切った桃は、話しながらもティーセットの方へと足を向ける。風紀委員会室へ来たのは、紅茶を飲むのが目的だったのかもしれない。


「二人は明日、ちゃんと楽しみなよ。織くんは最初で最後の学院祭だし」

「仕事がちゃんと終わったらね」

「学院祭が終われば、後は夏休みだね」

「それは気が早いだろ。一ヶ月以上もあるぞ」


 桃のことだから、夏休みはずっと部屋にこもって、ぐうたらな生活を送るつもりなのかもしれない。愛美から聞いた話では去年もそうだったとのことだし。想像して思わず苦笑を漏らせば、意外にも愛美が桃の言葉に乗っかった。


「一ヶ月なんて案外早いものよ。よく考えてみなさい。私と桃が織と会ってから、もう二ヶ月経ったのよ?」

「まだ二ヶ月、だろ。学院に入ってからは特に、一日がめっちゃ長く感じる」

「それは織くんが慣れてないだけだね、魔術の世界に。それにしても、もう二ヶ月なんだ……たしかに早かったかも」


 どうやら織だけ体感時間が違うらしい。まあ、そこの差異は桃の言う通りだろう。

 そして二人が言ったように、織が拾われてから、全てが始まったあの日から、二ヶ月経ったのだ。

 その間、色んなことがあった。あまりにも濃密な二ヶ月間。さすがにそれは、二人も思うところなのだろう。桃の声には感慨の色が見て取れたし、愛美は穏やかな微笑を口元に湛えている。


「でも織の言うように、まだ二ヶ月しか経ってない、とも言えるわね」

「その心は?」

「これから先、私たちには幾らでも時間があるってことでしょ」


 未来のことなど誰にも分からない。それは織であっても同じ。見た未来はほんの些細なことで変わりうるから。

 もしかしたら、二人と離れる日が来るかもしれない。こう言う世界だから、死別する可能性も捨てきれない。

 それを理解していながら、いや、理解しているからこそ、愛美は望んでいる。この三人での未来を。朱音や葵たち、みんなとの未来を。それはきっと、この場の三人が共通して持っている願いで。


「うん……うん、そうだよね。時間なんて幾らでもある。全部終わらせたその時は、みんなと一緒に歳を取るのもありかな……」


 だけど、そう口にした魔女の声には、どこか寂しげな色が混じっていた。


「夏休みはみんなで海に行って、秋はやっぱり紅葉狩りとか山登りとかしてさ、その後はクリスマスもお正月もバレンタインもある。楽しいことが沢山待ってる。今更だけど、普通の女の子みたいに生きるのも、悪くないのかな」

「やめなさい、死亡フラグにしか聞こえないわよ」

「えー、わたしが死ぬわけないじゃん。だってわたし、魔女だよ?」


 冗談めかしてそう言った桃は、魔女なんてあだ名が似つかわしくないほどに純粋な笑みを浮かべている。

 もしかしたら、魔女にならなかった彼女は、いつだってそんな風に笑えていたのかもしれない。普通に歳を取って、百年以上前に寿命を迎えて死ぬような、ごく普通の人間であったならば。

 その笑顔の奥で、憎悪の炎を燃やすことなどなかったのに。


 でもそれはきっと、これから先の未来でも叶うはずだ。全てが終わった後、桃自身が言ったように、織たちと一緒に歳を取って、普通の女の子と同じように生きることが、出来るはずだ。

 未来は誰にも分からないのだから。その可能性だって、あるに決まってる。


「なんにせよ、二人は明日の学院祭、わたしの分まで楽しんでね。もちろん朱音ちゃんとも一緒に」

「あんたに言われるまでもないわよ」

「だな。後で桃が羨むくらい楽しんでやる」

「それはそれで納得いかないなぁ」


 ムッとする桃は本当に納得いってなさそうで、織は小さく吹き出した。

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