第25話

「これマジでヤバイってぇぇぇぇ!!」


 絶叫しながら叫ぶ織。その背後には、織を追いかける蜘蛛の魔物が。

 強化した筋力を更に全力で動かしながら走るが、追いつかれるのは時間の問題だろう。いや、追いつかれるよりも前に、蜘蛛が糸を吐いた。粘着性の高いそれは、一度捉えた獲物を決して離さない。

 巻き添えを食らった野鳥が哀れにも魔物のエサとなるのを、織はさきほど見ていた。


 初撃はなんとか横に飛んで避けるが、すぐに二撃目がくる。せめてもの抵抗として防御陣を目前に張ると、糸はそこへ命中することなく、明後日の方向へと逸れていった。


 糸を放った蜘蛛が、横からの衝撃波で吹き飛んだからだ。


「だらしないなぁ。この程度の魔物に苦戦してるようじゃ、グレイに瞬殺されるよ?」


 言葉と同時、続け様に放たれるのは風の刃。近くの木に激突した蜘蛛へと殺到し、立て直そうとしていた体を細切れにした。


 風を放った本人である桃は直ぐに視線を周囲へ移し、次の敵を見定める。

 織と桃を囲む魔物は、まだ数え切れないほどいるのだ。


「我が名を持って命を下す。現出せよ、其は吹き荒ぶ嵐の歌」


 詠唱が始まるとともに、微かに吹いていた風の強さが増す。やがてそれは天を衝く巨大な渦となり、周囲の木々を薙ぎ倒し呑み込んでいく。


 桃が指差す先、魔物の群れへと向けて、悉くを呑みほす暴風が動いた。


風に乗せ届ける鎮魂歌カネレ・ヴェントゥス・レクイエム


 その魔術名が静かに囁かれるのと、竜巻が蜘蛛の魔物を飲み尽くしたのは同時だった。

 天候を操作するほどの大規模魔術。ここが隠蔽の結界に覆われた富士の樹海内でなければ、世間にニュースとして報じられていただろう天災。


 木々を根こそぎ奪われ更地と化した富士の樹海には、しかし更に魔物が現れる。今度は蜘蛛だけじゃない。狼や熊、トカゲに虫型の魔物などなど、様々な種類の魔物が夥しい量現れた。


 その全てが、瞳を狂気の紅へ染めている。

 つまり、吸血鬼グレイの眷属たちだ。


「どうなってんだよ……」

「結界が破られた、ってことかな。魔物が学院にここまで近づくなんて、聞いたことがないし」

「父さん! 桃さん!」


 二人の近くに転移してきた朱音が駆け寄ってくる。いつも戦闘の際身につけている仮面は外して手に持っており、羽織っているマントには魔物の返り血がこびりついていた。


 こことは別方向からやって来た魔物の対処に当たっていた朱音だが、どうやらこの様子だと全滅させてきたらしい。


「朱音、大丈夫だったか?」

「もう、誰の心配してるの? 大丈夫に決まってるじゃん。後は他の人に任せて来たし、向こうはもうなんとかなるよ」


 幸いにも、学院には三人以外の生徒や魔術師がいてくれた。それら全員をこことは別方向、学院の北から攻めて来た魔物の対処にあたるよう、桃が事前に指示を出していたのだ。


「ありがと、朱音ちゃん。後はこいつらをどうするかだけど……」

「桃さん、明らかに北よりも数が多いですが。おまけに、これまでの眷属よりも力が増してます」

「狙いはわたし、だろうね」


 桃の口から漏れたのは、挑戦的な笑み。その小さな体から溢れ出る濃密な魔力が、大地を震わせる。

 狂気に染まっているとはいえ、未だ現れ続ける魔物たちも桃の脅威に気づいたのだろう。排除すべく三人へと一斉に襲い掛かる。


 咄嗟に魔法陣を展開した織と朱音だったが、しかし魔物が彼らの元へ辿り着くことはなく、上からなにかに押し潰されたように体がひしゃげて、原型を留めることすらなく絶命した。


 襲い掛かって来た魔物の、その全てがだ。


 後から現れた魔物たちは、味方だったはずの塊を見て二の足を踏み、その場から動こうとしない。否、動けない。

 動けば殺される。理性が働いていなくても、本能でそう理解しているから。


 自分では決して届かない力を目の当たりにした織も、同等以上の力をその身に秘めている朱音も、等しく魔女へと驚愕の視線を送っていた。


「全く、随分と舐められたもんだよ。陽の下に出てこないから知らないのかな? わたしが、どうして魔女と呼ばれてるのか」


 まるで温度を感じさせない、鋭く冷え切った瞳。だが対照的に、その声にはたしかな激情が秘められていた。


 この場にいない吸血鬼へと、魔女は強い殺意を向けて力を振るう。



 ◆



 そもそも、一体なにが起こっているのか。

 時間を少し巻き戻そう。

 朱音と桃から盛大にため息を頂いた織は、そのまま三人で朱音について話していた。

 桃の部屋には客人をもてなすようなものなどなにもないので、風紀委員会室へと移動していたが。


「緋桜の件を置いておくにしても、その短剣はちょっと不思議だね。朱音ちゃん、今までの周回でも愛美ちゃんからそれ貰ってた?」

「はい。貰ったと言うより、母さんが遺したものを私が勝手に使ってるだけですが」

「じゃあ、この時間軸だけがズレてるのか?」

「あくまで、朱音ちゃんの主観から見たら、の話だけどね」


 それはそうだ。朱音の主観から見たこの時間軸が、他とは異なって来ている。もしかしたら、愛美の短剣を使わない朱音だって存在するかもしれないのだ。それは緋桜の件と同じ。

 だが今ここにいる朱音は、紛れもなくこの時間の未来から来た存在だ。時間遡行を行なってここにいるというのが、何よりの証拠。


 緋桜の件とは逆に、あらゆる可能性を考慮する必要などない。ここにいる朱音だけに目を向ければいい。


「実はね、朱音ちゃんの短剣に関しては、結構簡単な問題だったりするんだよ」

「そうなのか? また面倒で複雑な理屈があるもんだと」

「詳しいところまで説明すると、まあ結果的にそうなるけどね。でも、一言に纏めてしまえば、本当に簡単なこと」


 疲れたようにため息を吐いた桃は、気遣わしげな視線を朱音へと送る。

 今の会話を聞いていて、朱音も桃の言いたいことが分かったのだろうか。その視線に対して困ったように眉根を寄せていた。


「別に気を使わなくても大丈夫ですが。正直、私の目的は、今ここでこうやっていられるだけで、半分達成してるようなものですし。もう半分は、この時間の父さんと母さん次第、ですが」

「朱音ちゃんがそれでいいなら、わたしからはなにも言わないよ」


 二人の会話の意味が分からず、織は首を傾げて考える。

 朱音の主観から見れば、変わってしまった過去。しかし変わらない彼女自身の状態。

 これまで聞いてきたキーワードを頭の中で羅列する。

 時間遡行、並行世界、世界の荒廃に、収束する未来。


 答えへと辿り着くのに、然程時間は有さなかった。


「なあ、朱音……」


 なにか、言葉を掛けようとして。けれど二の句が継げない。だって、それはあまりにも残酷な結末だ。


 口を閉ざしてしまった父を見て、朱音はやはり困ったように微笑むだけだった。その笑顔が、織の目には痛ましいものに見える。


 再び織が口を開こうとしたのと、朱音の表情が険しいものに変わったのは同時だった。


「なにか来た……」

「朱音?」

「……あー、これはちょっとマズイかもね」


 同じくなにかを察した桃の声も切迫したものだ。織にはなにも感じられない。だが、この二人がこんな表情を浮かべるということは、なにか良くないことが起きているのはたしかだ。


「正門からと、裏の北側からか。南雲は今イギリスだし、仕方ない。わたしが指揮取るしかないかな」

「父さん、戦闘準備。ここに、魔物が攻めて来た」



 ◆



 そうして学院長の代わりに指揮を取ることとなった桃は、学院にいた五十名ほどの魔術師を集め、魔物の襲来を告げ、学院の防衛を命じた。


 さすがは二百年を生きた魔女。年の功と言うべきか、その行動は迅速だった。全員をグラウンドに集めた後に簡単な指示を出し、それぞれが配置に着くまで三十分とかからなかった。慌てるだけだった織とは大違い。


 かくして、数の少ない北側を朱音と学院の魔術師たちに任せた後、桃と織は正門から来る魔物の相手をすることになったのだ。

 どうやら北側は正門と違い、新しい魔物が湧いてくることもなかったらしい。だからこそ朱音が正門側に来れたのだが。


「くそッ、グレイはどんだけ魔物を従えてるんだよ……!」


 魔力弾を放ちながらも、織は苦々しくそう漏らす。今までも何度か対峙したことのある、グレイの眷属。しかしこうも多くの魔物を従えているなんて、思いもしなかった。

 本当に無尽蔵。どこかに召喚の起点となる魔法陣があるのだろうが、この数はどうしようもない。


 撃ち漏らした魔物の一体が織へと肉薄する。熊の姿をしたそいつは二本の足で立ち、凶悪な爪を振り上げているが、織の魔法陣が展開される方が早い。

 射出された鎖があっという間に巨大な体躯を縛り上げ、存在を構成させている魔力を吸い尽くす。


 その魔力を持って、間断なく攻めてくる魔物へと攻撃を放とうとした瞬間。それより早く、魔物たちは巨大な白光に呑まれた。

 桃の放った魔力砲撃だ。


「二百年だよ、織くん。あいつがこうして、表舞台に姿を見せるまで二百年。それだけあれば、魔物なんていくらでも眷属にできる」

「それにしたって、多すぎる気がしますが」


 魔物の集団の只中へと斬り込んでいた朱音が、二人の元へと一度下がって来た。異能を駆使して一体ずつ殺しているのでは、埒が明かないと判断したのだろう。


 朱音の言う通り、いくらなんでも多すぎる。朱音がいた未来では当然の光景だった。地上のみならず、空や海すらも魔物に支配された世界。それらの殆どが、元凶であるグレイの眷属だった。

 けれど、現代でこれほどの魔物を従えておくには、時間の問題よりも場所の問題がある。

 いつ用意したのかではなく、どこに控えさせていたのか。


「その辺を考えるのは、こいつらをどうにかしてからかな。朱音ちゃん、魔法陣の場所は見えた?」

「だからこうして下がって来たのですが。とりあえず、今出てるやつらを一掃します」

「オーケー、そっちに合わせるよ」


 魔女と、その力の一端を担う少女。二人を中心に、魔力が渦巻く。

 大地を包むのは、自然ではあり得ない異常な熱。それに足を止めた魔物たちの上空に、巨大な魔法陣が描かれた。

 ただ大きいだけではない。そこに秘められた魔力は絶大だ。


「我が名を持って命を下す。現出せよ、其は灼き尽くす業火の怒り」

「第一術式限定解放」


 異なる詠唱が重なり、魔法陣が赤く輝く。今もなお灼熱に焼かれ続ける魔物たちに向けて、無数の巨大な火球が降り注いだ。


「「顕現せし災禍の怒りイラ・ウェニーレ・アモン!!」」


 以前織がネザーで見たものよりも広範囲で高威力の、火球による爆撃。

 朱音はあくまでも制限された魔術行使とはいえ、桃の力さえも上乗りしている。地上の魔物を焼き尽くすのに、そう長い時間はかからなかった。


 そして、魔物の掃討が終われば、後は織の仕事だ。


「あった……!」


 右の瞳が橙色に輝く。朱音の未来視によって補強されているとは言え、自分自身が望んだ未来を引き寄せている。

 その実感をたしかに持ちつつ、織は魔導収束を発動させた。


 離れた位置に視認した魔法陣。その魔力を吸収して、瓦解させる。これで魔物が新しく召喚されることはなくなるが、それでも織は警戒を解かない。


 魔物を召喚していた魔法陣が消えた瞬間、その場の土や岩が生き物のように動き出したからだ。やがてそれらは一つの巨大な体を形成し、ゴーレムと呼ばれる人工の魔物へと変貌を遂げる。


「望み通りの未来だよ、クソ野郎」


 だが、現れた巨躯を前にしても、織は口の端を歪めるだけ。

 近くで桃が次の魔術を準備する気配を感じたが、それが終わるよりも早く、聞き慣れた声が耳に届く。


斬撃アサルト弐之項フルストライク


 一閃。

 縦に真っ二つに斬られたゴーレムは、地面に倒れるとただの土塊へと戻った。

 その余波で舞い上がった砂塵の向こう。漆黒の髪を風に靡かせ、手に持つダガーナイフから魔力の刃を伸ばした殺人姫が立っている。


「私に内緒でなに楽しんでるのよ」

「母さん!」


 嬉しそうな声をあげた朱音が、突然現れた愛美へと駆け寄った。

 ここまで、織が見た未来の通り。初めて自分の意思で発動させ、無事その通りの結末を迎えたことに安堵の息を漏らす。


 望み通りの未来を引き寄せる異能。

 それが織の未来視だが、どうやらその未来へ辿り着くまでの経過は問われないらしい。

 魔物を全滅させる未来を見た織だったが、まさかあんなゴーレムまで出てくるとは。おまけに愛美がここに来る未来まで見たのだ。


 動揺が戦闘に支障をきたさなかったのは、我ながら頑張った方だと思う。


「どう? 自分の異能が初めてまともに機能した感想は」

「まともにって言っても、朱音も同じ未来見てただろうからな。俺一人の力で発動させたわけじゃない」

「またまたご謙遜を。朱音ちゃんがいてもいなくても、ちゃんと使えてたと思うよ」


 桃の言葉にむず痒さを覚えながら、二人も愛美の元へと足を向ける。

 得物を納めた愛美は娘の頭を撫でつつも、自身を屠った土塊を不思議そうに見ていた。


「桃、説明」

「グレイの眷属になった魔物が学院に攻めてきたの。学院の裏にも来てたんだけど、そろそろ終わってるんじゃないかな」

「裏のやつらはここに来る前に全滅させて来たわ。こっちにもいるって聞いたから急いで来たんだけど」


 全滅させてきたのか。朱音が離脱しても良かった程度とはいえ、それでもそれなりに数がいたはずなのだが。


 さっきゴーレムを斬り捨てた愛美は、どうにも概念強化全力だったっぽいし、文字通り瞬殺だったのかもしれない。


「一足遅かったねー。わたしと朱音ちゃんが全滅させちゃった。それは召喚陣壊した時に出てきたやつ。ていうか、愛美ちゃんこそなんでここに?」

「家に帰ったら二人ともいなかったから、わざわざ探しに来たのよ」


 ギロリと睨まれ、織は気まずさから視線を逸らす。たしかに愛美からは先に帰ってろと言われたが、そもそもここに来たのは朱音に連行されたからだ。

 それに、あんな言い争いをした直後に探しに来るなんて、思いもしなかったし。


「まあまあ、丁度よかったじゃん。それより母さん、父さんが話したいことあるって」

「ちょ、おい、朱音?」

「あら、本当に丁度よかったわね。私も織に話したいことあったし」

「じゃあ二人とも、先に戻っててね。私は桃さんとここ直してから戻るから」

「待て待て、お願いだから待っ──」

「はいボッシュートー」


 織の言葉など聞く耳持たず、痺れを切らした桃が二人を強制転移させてしまった。

 その場に残った二人は、目の前に広がる更地へと向き直る。


「うーん、ちょっとやり過ぎちゃった感じあるね。朱音ちゃん、炎で直せる?」

「この範囲は流石に……反動も無視できないものになりますから」

「それじゃあ魔術でチマチマ直していくかな。ついでだし、朱音ちゃんの術式も見てあげる。所々構成が甘いからね」

「え、本当ですか?」

「わたしから見たらまだまだだよ」

「うぅ……精進します……」



 ◆



 静止の言葉は最後まで言わせてもらえず、織は愛美と共に風紀委員会室へと強制転移させられた。


 いくらなんでも、突然すぎる。謝りたいとはたしかに思っていたが、心の準備なんぞ出来ているわけがない。

 だって、昨日の今日どころかさっきの今だ。バカな言い争いをしたのは数時間前。一日も経っていない。険悪な雰囲気のまま家で過ごすよりはいいのかもしれないが、出来ることなら自分のタイミングで愛美と二人になりたかった。

 どう切り出せばいいかも分からず、それは愛美も同じなのか、互いに無言の時間が続いている。


 所在なく立ち尽くす織の耳に、ため息が一つ届いた。


「ダメね。全然ダメ。色々話そうと思ってたのに、結局こうなるんだもの。こんなの私らしくないわ」


 それは、敢えて織に聞こえるように言ったのだろう。自分らしくないと。桐原愛美とはこうあるべきだと。まるで自分自身に言い聞かせるような言葉。


 織の顔を見据えた愛美の瞳には、強い意志が宿っている。


 ああ、いつもの愛美だ。ただ前だけを見る、真っ直ぐで、強い意志の宿った優しい瞳。織が恋した愛美だ。


「ごめんなさい。さっきは、少し言いすぎた。私には私の言い分があったとは言え、あまりにも周りが見えてなかったわ」

「え、あ、いや、俺の方こそ悪かった」


 あまりにも直截的に言われた謝罪の言葉に、織も思わず釣られて謝罪を返す。

 なんだか呆気ない。もっと直前でどう言おうか悩んでしまうもんだとばかり思っていたのに。実際、つい今さっきまでは、どう声をかけるべきかで黙り込んでしまっていた。


 そんな織の様子がおかしかったのか、愛美はクスクスと可愛らしく微笑む。


「今回はお互い様、ってことね」

「いや、俺の方が悪かったって。緋桜さんがお前にとってどんな人かも知らないのに、一方的に正論で否定するばっかだったんだし。桃から聞いたけど、そりゃお前が怒っても仕方ねえよ」


 感情論だけで話を展開させていた愛美と、正論だけでそれに相対した織。

 客観的に見れば、織の方が正しく見えるだろう。文字通り、正論を振りかざしていたわけなのだから。けれど、人間というのはそれだけで生きていける程に強くない。

 感情を優先させすぎるのは良くないのかもしれないが、それでも無視することのできないものだ。


 今回は、愛美の言う通りお互い様だ。なにせ織だって、いくら正論を振りかざしていたと言っても、結局は感情に振り回される結果となったのだから。


 それを心のどこかで分かっていながらも発した言葉。ただ、愛美はなぜかキョトンとしていて。かと思えば、呆れたようなため息が一つ。


「あのね、織。勘違いは全部正しておきたいから言っておくけれど」

「お、おう?」

「私は別に、緋桜がどうのこうので怒ってたわけじゃないから」


 愛美の目に責めるような色が帯び始め、織は内心慌て始める。ていうか、今もまだ怒ってんじゃん。謝りあってお終いじゃなかったのかよ。


 しかしそうは言われても、織からすると思い当たる節などない。てっきり緋桜のことでああも感情的になっていたと思ったのだが。


「まあ、たしかに最初のきっかけはそこかもしれないけど。私がなにより許せないのは、あんたが自分自身を貶したことよ」

「はあ……俺……?」

「覚えてないとか言ったらもう一回腹パンするわよ」


 その冷え切った声に怯えながら、織はなんとか思い出そうと頭をひねる。

 そう、たしか愛美に殴られる直前。そんな感じのことを言ったような、言ってないような……。


「……ああ、あれか!」

「覚えてなかったのね」

「ま、待て、思い出した! 今思い出したからセーフだろ!」


 無造作に握られた拳を見て、慌てて声をあげた。念のため防護壁も張っておく。結構痛かったからね、あれ。


 ふんっ、とそっぽを向いて拳を解いた愛美を見て、織も安堵の息を漏らしながら防護壁を消した。

 だが、あの発言はたしかに、怒られても仕方ないと思う。なにせ朱音の存在を否定することとなってしまうのだ。織も朱音には全力で謝り倒したし、朱音自身が気にしていない様子だったが。


 なによりも家族を大事にする愛美だ。たとえ織が相手であっても、許すことはできないのだろう。


「あれは、まあ、我ながら酷かったと思ってるよ。朱音にもちゃんと謝った」

「……」

「愛美?」

「……あー、もう! そこじゃないわよ! なんであんたはそう、一々変な勘違いを……!」


 乱雑に頭を搔くその姿に、織は困惑する一方だ。どうやら、またなにか間違っているらしい。でもやはり思い当たる節がない。

 あの発言の中で、愛美が怒りそうなことと言えば。朱音のこと以外に、一体なにがあるのか。


「あのね、織。たしかに朱音の存在自体を否定したことも許せない。でも、それ以上に、あんたがいてもいなくても一緒だなんて、そんなことを宣ったこと自体が許せないのよ」

「だから、それは朱音の……」

「朱音のことは今関係ない! あの子じゃなくて、あんたと私! 桐生織と桐原愛美の話よ! たとえ朱音が居なくたって、私はあんたの発言を許してなかった!」


 そこまで言われれば、いくらバカな織だって愛美の言いたいことが見えてくる。


 桐原愛美は、なによりも家族を大事にする少女だ。

 その家族がバカにされたなら、絶対に許さない。それがたとえ、本人の発言だとしても。


 愛美にとって、織だって家族の一人だ。その織をバカにするような発言。それが織自身の口から語られたことだとしても、許すわけにはいかない。


 叫んだことで乱れた息を整え、愛美は冷静な声で言葉を発する。


「桐原愛美にとって、桐生織が居ても居なくても同じだなんて。そんなことは、絶対にない。いえ、少し違うわね。そんな世界、そんな可能性は、私が嫌なのよ」

「嫌ってお前、そんなわがままみたいな……」

「ええそうよ。これは子供のわがままみたいなもの。あなたと出会うことのない世界なんて、私は嫌。考えたくもない。前に言ったでしょう。朱音がこの時間に来て、これから私たちの関係がどうなったとしても。私にとって、あなたが大切な存在であることに変わりはないって」


 それは、覚えている。忘れられるわけがない。でも、愛美のその言葉は、一体どう言った感情の元に発しているのだろう。


 やはり、家族だから、なのだろうか。


「正直、私自身だってよく分かってないわよ。ああいう話をして、色んな可能性を考えたわ。緋桜のこともそうだし、桃や葵、朱音とかアーサーと出会わなかった可能性だって」


 そういう世界、そういう時間軸が、どこかには存在しているのだろう。例えば、桃と出会って葵とは出会わない世界。その二人とは出会わず、織とだけ出会う世界。

 考え出したらきりがない。それが可能性というやつだから。


「でも、織だけなの。緋桜や桃たちはそうじゃなかった。どうしてか分からないけど、あなただけ。あなたと出会わない可能性を考えるだけで、心の奥が嫌だって叫ぶのよ」


 その理由が、分からないという。自分の感情の源泉を、愛美はまだ知らないと。

 困惑した表情に嘘は見られない。いや、そもそも愛美はこんな事で嘘を吐こうだなんて思わないだろう。


 だから、本当に分かっていない。その想いをなんと呼ぶのか。


「……そういう事なら、改めて悪かった。色々と無神経すぎたな、俺は」

「本当よ。あなたは自分を過小評価しすぎなの。もっと自分の価値を正しく認識しなさい」

「善処する」


 体ごと愛美から逸らした織の頬は、真っ赤に染まっていた。

 だって、さっきの言葉はまるで。

 まるで、遠回しな告白みたいに聞こえてしまって。


 違うと分かっている。そもそも、本人ですら自分の抱いている感情を理解していないのだ。それを他人の織が決めつけるわけにはいかない。織が思っているような、織と同じような想いを抱いているのだとは限らない。


 だから、落ち着け。無駄に期待するな。いや、これこそ愛美が言っていた、変な勘違いとやらだろう。そうだ、そうに違いない。


 いくら自分に言い聞かせても、それでも顔の熱は一向に冷めなくて、心臓はずっと煩いままだ。


「あ、ねえ。そういえばなんだけど」


 ふと思い出したように声を上げた愛美。まだなにかあるのか、と若干身構えつつも彼女の方に向き直ろうとして。


「なんで織はあんなにムキになってたわけ?」


 キョトン顔で発した言葉に、動きを止めた。

 まさかそれを聞いてくるのか。たしかに愛美からしたら、織が感情的になってしまっていた理由なんぞ分からないかも知れない。

 でもだからって、まさかこんな直接聞かれるとは……。


「別に、大した理由じゃねえよ。だから気にするほどのもんでもない」

「むっ、そう言われると気になるじゃない。教えなさいよ」


 いつの間に近づいて来たのか、ヒョコッと横合いから織の顔を覗き込んでくる愛美。不意に近くなった端正な顔に、織は目眩がしそうになる。


 なんというか、本当に。困る。色々と。

 この無防備な距離の詰め方は信頼の証なんだろうが、本人は織の気持ちにも自分の気持ちにも気づかない鈍感っぷり。

 いっそ全部ぶちまけてやろうかと思いはするものの、今の織にそんな度胸はない。


 だからせめて、聞かれたことについては素直に答えよう。それで、少しでもこの鈍感な少女が、答えに近づければいいのだが。


「はぁ……なんつーか、あれだ。お前がやたらと緋桜さんを庇うのが、面白くなかったんだよ」

「つまり……緋桜に嫉妬?」

「端的に言えばそうなるな……」

「へぇ?」


 吐き捨て、赤くなった顔を抑える織。それで隠せる訳もなく、やっぱり愛美はニヤニヤと笑みを浮かべながら織の顔を覗き込んでいて。


 けれど、愛美が浮かべていた笑顔は、織が想像していたものではなかった。

 悪意、といえば聞こえは悪いが、こちらを弄ろうという意思が、透けて見えるような類の笑み。つまり、いつも通り揶揄われるものだと思っていたのだが。

 そうではなくて。

 頬は緩み切って、嬉しさが堪えきれず滲み出ているような笑顔。


 そんな笑顔は、反則だ。

 至近距離で直視してしまった織の顔に、更なる熱が集まる。


「そう、織は緋桜に嫉妬してたのね」

「悪いかよ……」

「別にー?」


 楽しそうに言いながら、愛美の顔が漸く離れてくれる。

 これで自分の感情を自覚出来ていないというのだ。ならきっと、今自分がどんな顔をしてるのかも、どうせ分かっていないのだろう。


 自分の恋路の前途多難っぷりを考えて、織は頭が痛くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る