第26話

 ゴールデンウイーク最終日。長かった連休も最後の一日だが、愛美としては休みという感覚はなかった。

 毎日というわけではなかったが、殆どが事務所の仕事で潰れてしまったのだ。お陰で漫画やライトノベルの新刊が溜まっている。


 休みが少ないことには、特に不満があるわけではない。春休みも似たようなものだったし、場合によっては夏休みだってこんな感じで潰れるだろう。お金に困っているわけではないものの、仕事がある以上は仕方のないことだ。うちの所長はお人好しだから、困ってる人を見過ごすこともないだろうし。


 今頃一階の事務所でパソコンとにらめっこしてるであろう彼のことを思い、自然と笑みが溢れてしまう。


 学院に魔物が襲来してから数日経ち、桐生探偵事務所はその翌日からも平常に仕事をしていた。主に魔物退治だったが、やはりそれら全てはグレイの眷属。

 いくらなんでも、数が多すぎる。桃が魔物の魔力を解析して逆探知をかけているらしいから、その結果が出るまではこちらから動くことも出来ない。


 最終日くらいはということで事務所も休みにしてあるし、今日は溜まっていた新刊を読むために朝から二階の居間に篭りきりだ。

 体育座りでぬいぐるみを膝とお腹の間に抱きながら漫画を読んでいると、階段を登ってくる足音が。顔を上げてそちらを見ると、疲れた顔した娘が現れた。


「お腹空いた……お菓子……」

「随分と疲れてるわね」

「聞いてよ母さん〜」


 冷蔵庫からチョコレートを取り出した朱音が、フラフラ歩いて愛美の横に腰を下ろす。本当にお疲れの様子だ。ここ数日はなにやらずっとこんな様子で、時間があれば魔法陣と睨めっこしていた。


「この前桃さんから宿題出されたんだけど、それが難しくて……」

「宿題?」

「うん。概念強化、完成度は母さんの方が高いから、あれくらい扱えるようにって」


 どうやら最近疲れているのは、それが原因らしい。概念強化は強力な魔術だが、故に反動も大きい。身体能力を強化するだけならともかく、愛美のように脳を強化するとなれば、その反動も無視できないものとなる。

 甘いものを求めていたのはそれが理由だろう。


 朱音の概念強化は、愛美に転生したことによる恩恵の一つだ。だから、どちらの完成度が高いとかはないと思うのだが。


「あなた、私よりも概念強化の効果は大きいじゃない。それに賢者の石があるんでしょ?」

「賢者の石があるからだよ。私の場合、魔力量でごり押しするからさ。術式自体は雑なんだよね。概念強化だって、母さんに転生したからってわけじゃなくて、元々母さんの見様見真似だし」


 見様見真似で簡単に出来るような魔術ではないのだが。そのあたりの器用さは父親譲りか。

 割と試行錯誤しながら作り上げた魔術だから、若干複雑な心境になる愛美だった。


「そんなことよりさ、私、母さんに聞きたいことがあるんだけど」

「そんなことで済ましていいのかしら……」

「いいのいいの。今は休憩中なんだから、魔術の話はおしまい」


 朱音に限らず、桃や蒼もそうなのだが。その辺の強大な力を持つ人間は、どうにも愛美や織たち平凡な魔術師の苦悩を分かってくれない。自分が作り上げた無二の魔術を、簡単に見様見真似で再現してる、なんて言われたのだ。愛美としてはそんなこと、で済ませたくないのだけれど。


 まあ、休みの日までわざわざこんな話をしなくてもいいか。頭の中を切り替えて、愛美は改めて娘に向き直る。


「それで、聞きたいことって?」

「うん。母さんって、父さんのこと好き?」

「ええ、好きよ?」


 即答で返せば、朱音は驚愕に目を見張る。なにをそんなに驚くことがあるのか。いや、そもそも朱音なら、分かっていてもおかしくないと思っていたのだけど。


「織だって大切な家族の一人だもの。嫌いなわけないじゃない」

「あー、そういう……」

「それ以外になにがあるのよ」


 あからさまに肩を落とす娘を見て、愛美は眉根を寄せる。

 愛美にとって、家族とは特別な存在だ。桐原組のみんなも、アーサーも、朱音も。当然織も。その全員のことが好きで、大事な存在。もちろん、それぞれにそれぞれの好感を抱くポイントはあるけれど。


 もっと言えば、家族だけではない。桃や葵たち、友人や後輩も愛美にとっては大切な存在に違いはなく、そういう意味では好きだと公言できるだろう。


 桐原愛美という人間は、とにかく身内に甘い。一度自分の懐に入れた相手のことを、ひたすら大切に扱う。

 それはきっと、桐原家にとっての家族の形が、他とは違うからだ。

 愛美にとっては全員が、血の繋がらない赤の他人。それでも、見えない何かで繋がる家族。


 そういう在り方が、今の愛美に多大な影響を及ぼしている。


「もっとさ、こう、男としてはどうなの?」

「織が?」

「うん。その辺、二人の娘としては気になるわけなんだよ」

「またその手のやつ……」

「また?」

「なんでもない。こっちの話よ」


 キョトンと首を傾げる朱音だが、わざわざ語って聞かせるような話でもない。

 いやはやしかし。こうも多方面から同じようなことを言われ続ければ、いい加減辟易としてしまう。朱音の場合は、気になって当然なのかもしれないけれど。


 優しい目、と言われた。織と接している時だけ、自分はそんな目をしているのだと。普段が全然優しくないみたいで癪に触るが、あれから数日経った今なら、なんとなく理解出来る。


 そう、朱音やアーサーに向けているものと同じなのだろう。言わば、あの日あの場にいた連中とは違う関係、家族だからこそ、織に対してもそういう目を向けるのだ。


 愛美の中では、そう結論づけられていた。


「それで、どうなの? 父さんのこと、男として意識しちゃったりしてない?」

「してないって言ったら嘘になるけど、だからってどうこうなる程でもないわよ」

「そうなの?」

「ええ」


 たしかに、織は男性としての魅力を備えているのかもしれない。

 こういう暮らしなのに指一本触れてこない紳士っぷりに、要所要所でこちらを気遣う優しさ。腕っ節はともかく、それ以外だと割と頼りになることも多いし、料理などを始めとした家事も完璧。顔も悪くない。

 彼の隣は居心地が良い。安心して背中を預けられる。


 どこに出しても恥ずかしくない、自慢の家族だ。まあ、今のところは他所様に出すなんてあり得ないのだけど。


 と言うことを朱音に説明してやれば、なぜかめちゃくちゃ重たいため息を吐かれた。


「それ、もう好きじゃん……」

「だから、最初からそう言ってるじゃない」

「そうじゃなくて……」


 再びため息。なぜか来た時よりも疲れた様子の朱音は、チョコをぽりぽり食べながら立ち上がり、桃さんのとこ行ってくる、と言って転移してしまった。


「なんだったのよ」


 結局、いまいち要領の得ないやり取りだった。朱音がそこを心配するのも分からなくはないが、愛美にとっての織は家族だ。そこが覆ることはない。


 たしかに最近は、自分でも理解できない感情やら衝動やらに振り回されたりするけど。

 だからと言って、彼とどうこうなるわけでもあるまい。


 漫画を読む気も失せたので、少し気晴らしのため服を着替えてから一階に降りる。

 事務所ではアーサーがソファの上で丸くなっており、織は丁度作業が終わったのか、自分の椅子に座って体を伸ばしていた。


「お疲れ様。終わったの?」

「おう、なんとかな。朱音は?」

「桃のとこ行った。あの子、魔女から宿題貰ってたんだって」

「らしいな」


 苦笑した織が先程まで取り掛かっていたのは、事務所のホームページの更新だ。どういう仕事をしたのかを載せる、と言っていたので、先日の迷子犬探しについての記事を書いていた。

 今のところ、世間の皆様にお見せできるような仕事なんてそれしかやってない。馬鹿正直に魔物退治してますとか書いても、誰も信じやしないだろうが。


「お茶淹れるけど、お前も飲むか?」

「頂くわ」


 ソファに腰を下ろし、隣で眠っているアーサーを優しく撫でる。相変わらず触り心地のいい毛並みだ。この手触りを知らないとは、織も可哀想に。人生の三割くらいを損してる。


 紅茶の匂いにつられたのか、狼は軽く鼻を鳴らして目を覚ました。いつの間にか隣に座っていた主人を見て、その足に顔を擦り付けてくる。ちょっと擽ったいけど可愛い。


「そいつ、一応オスだぞ」

「あら、緋桜の次はアーサーに嫉妬?」

「ちげぇよ……」


 げんなりとした声が返ってきて、愛美は愉快げに声を漏らす。

 愛美だってアーサーがオスだとは分かっているが、とは言えこの子は狼、もっと言えば魔物だ。そんな相手が肌を剥き出しにした足に擦り寄って来たところで、どうにか思うはずがない。


「つーかお前、いつものタイツは」

「そろそろ暑くなってきたからやめたわ」


 そんな愛美の現在の格好は、適当なティーシャツの上からパーカーを羽織り、ホットパンツを履いている。

 ホットパンツからはスラリと長い足が伸びており、先も述べた通り白い肌が剥き出しになっていた。


 紅茶を淹れて持ってきた織が対面に座り、その視線がチラチラとそこへ向けられていることに気づく。いつもならここぞとばかりに揶揄うはずなのだが、何故だろう。少しだけ羞恥心が湧いてくるのは。


 それをなんとか押し殺して、愛美は口の端を歪めた。


「あんまり女の子の生足を凝視するもんじゃないわよ」

「べっ、別にんなことしてねぇし」

「それとも、織はタイツの方がお好みかしら?」


 面白いくらいに真っ赤になる織の顔。それに機嫌を良くして笑みを漏らせば、自分の顔を隠すように紅茶を飲み出した。


 そう、こういうのだ。こういうやり取りでいいのだ。なにを今更恥ずかしがっているのか。事故とは言え、一度は全裸を見られたりしてるのに。いや、あれはまたちょっと違う気もするけど。

 なんにせよ、織には毎日洗濯も任せているのだし、普通に下着とかも洗われてるし、ちょっと足を見られた程度で、どうして。


「それより、お前漫画はもういいのかよ」


 思考が霧散したのは、そんな言葉をかけられたから。織には昨日から、明日は一日新刊消費に使う、と言っていたから、まだ昼前のこのタイミングで事務所に降りてきたことを、不思議に思ってるのだろう。


「ずっと読んでると疲れるのよ。丁度朱音と話してたし、お腹も空いてきたし」

「んじゃちょっと早いけど、昼にするか」


 時計を見た織につられて愛美もそちらへと視線をやれば、時刻は十一時過ぎ。たしかに早い気もするが、今から作り始めるのなら食べる頃には早すぎるというほどでもなくなるだろう。


 ただ、せっかくの休日だ。朱音もいない、久しぶりの二人きり。いつものように家で簡単に済ませるのでは、少し味気ない。


 と、そこまで考えて。織と二人きりの状況を、思いの外喜んでいる自分がいたこと気づく愛美。

 しかしやはり、その感情の出所が分からなくて、深く考えず織に提案した。


「せっかくだし、外で食べない? ほら、港町の方とかで」

「お、なんだデートのお誘いか?」

「そうだって言ったら?」


 即答すれば、織は僅かに頬を赤く染めて黙ってしまった。こういうところが可愛くて、揶揄い甲斐があるのだ。


「そういうことだから、エスコートは任せたわよ?」

「へいへい」


 さっと紅茶を飲み干した織は、支度のために二階へと上がった。


 デート。うん、デートだ。織とデート。

 嬉しそうに小さくはにかんだのを、白い狼だけが見ていた。



 ◆



 棗市の南。先日の依頼で向かった駅の辺りから、更に南下した先にある港町には、多くの商業施設が建ち並んでいる。

 海沿いに面した大きなショッピングモールが、その代表だ。敷地面積は10k㎡にも及び、その中には二百近い店舗が入っている。

 大きな広場となっているモールの南側からは、海とそこを往く貨物船が眺められる。

 棗市のみならず、近くの街からもこのモールまで遊びに来る人が多い。

 今日のような連休中、それも最終日の日曜ともなれば、混雑具合もひとしおだ。


 そんな大盛況のショッピングモールへとやって来た愛美は、物珍しそうに施設を見回している。

 こう言った場所にこれまであまり縁のなかった彼女からすると、一箇所に異なる店舗がここまで混在しているというのが、異様に思えるのだろう。


「すごい賑わってるわね」

「連休最終日だしなぁ。俺が前にチラッと入った時は、ここまでじゃなかったよ」


 織はこの街に越して来てから、一度街の隅々を行き渡った。北の住宅街から、この辺りの港町、もちろんこのショッピングモールにも。その時も日曜だったのだが、やはり普通の休日と連休では大分違う。


 とは言え、いくら人が多いと言っても、歩くのに苦労する程でもない。逸れる心配もないだろうし、仮にそうなっても電話すれば済む話だ。

 だと言うのに。


「はい」


 短く告げて、差し出されるのは白く小さな右手。そんな手でいつも絶死の凶器を振り回しているなんて、到底思えないような。


「……なんだよその手」

「エスコート、任せたって言ったわよね?」

「握れと?」

「それ以外にどう見えるの?」


 それ以外にどうにも見えないから困っているのだ。クスクス楽しそうに笑っているのを見る辺り、織を揶揄うのが目的だろう。

 問題は、仮に本当にこの手を取ったとしても、愛美なら恥ずかしがらずにすんなりと受け入れてしまうこと。


 それでもただ揶揄われるだけよりかはマシだ。そう思って、素直に愛美の手を取ってみたところ。


「……」

「どうした?」


 自分の手の上に乗った、織の手。それをマジマジと見つめる愛美。瞳の奥に宿っている感情は、イマイチ読み取れない。


「……いえ、なんでもないわ。さっさとエスコートしなさい」

「満足しなくても殺すなよ……」

「それはこれから決めることね」


 冗談めかして笑った愛美の手を引き、織はモール内を闊歩する。たしか、この中に健啖家の愛美でもご満足いただける店があったはずだ。前に一度来た時の記憶を手繰りながら、なるべく右手には意識を向けないように努める。


 いつもは敵の命を刈り取るその手も、こうした日常の中では、単なる一人の少女の手だ。

 小さくて、柔らかい。少し力を込めれば、折れてしまいそうにも錯覚する。そんなはずはないと言うのに。


 こんな風に考えてしまってる時点で、意識しているも同然なのだが。

 いかんせん、思春期男子にとって『好きな女の子と手を繋いでいる』という状況は、刺激が強すぎるのだ。それがデートという名目で、その相手が楽しそうに表情を和らげていれば、尚更に。


 しかし、それにしても。


「なに?」

「いや……お前ってやっぱ美人なんだなぁ、と」


 それにしても、である。すれ違う男全員の視線を欲しいままにしている愛美。普段一緒に暮らしているから、感覚が麻痺している織だが。桐原愛美はとびきりの美少女だ。

 こうして人通りの多い場所を二人で歩いていると、今更のように実感する。

 先日大阪の街を歩いた時には、特に感じなかったのだが。


 唐突な織の言葉を聞いた愛美は目を丸くして、かと思えばふっと笑みを一つ。


「あら、今頃気づいたの? そうよ、私、美人なの」

「可愛げはないんだけどなぁ……」

「なにか?」

「痛い痛い痛い!」


 握っている手に力を込められた。めちゃくちゃ痛い。もしやこれ、手を握ったのは間違いだったのでは?


 下手したら生殺与奪まで握られている可能性に震えながらも、織は手を離さずに歩き続ける。手を離してもらえない、とも言う。

 ともあれ、そうこうしているうちに目的地まで辿り着いたのだが。


 その店を見た途端、愛美の口から盛大なため息が漏れた。


「あんたがモテない理由、よく分かったわ……」

「どう言うことだ!」

「いやだって、普通女子と二人でお昼食べにいくってなって、二郎系ラーメンとかチョイスする?」


 そう、織が愛美を連れてきたのはラーメン屋。しかも世に言う、二郎系ラーメンたら言う類のラーメンを扱っている店だ。

 店先に出ている看板には、高々と野菜を積み上げ、バカのようにニンニクを盛り、カロリーなんぞ知るかとばかりに油を乗せたラーメンの写真が。


 少なくとも、女子を連れて来るような場所ではないだろう。


「いや、でもここならお前も腹一杯になるだろ? なに、もしかしてラーメン嫌いだったか?」

「嫌いじゃないし、二郎系は私も好きだけど……」


 好きなんだ。一人で行ったりしてるのだろうか。もしくは桃が付き合わされてるか。


「まあいいわ。入りましょう」

「お、おう……」


 呆れたような声音だが、その目はキラキラと輝いている。ここならお腹いっぱい食べれるから、愛美個人としては気にしないどころか、ベストなチョイスだったらしい。


 でも、たしかに冷静に考えてみると、女子ってニンニクとか嫌いそうだもんな。

 次の機会があれば、ちょっと小洒落たレストランとかにしてみよう。


 そんな考えは、ラーメン屋から出てきた頃には苦しさで掻き消えてしまっていた。愛美は一番多いやつをケロリと平らげてたのに。

 解せぬ。



 ◆



「あー、やべぇ、まだ腹苦しい……」

「あれくらいで根をあげるなんて、情けないわね」


 ラーメン屋から出た二人は、モールの通路に置かれている椅子で一休みしていた。

 いやもう、本当凄かった。愛美が全部マシマシのカラメで、とか言い出した時には、織や店員はおろか、他の客まで驚愕し、愛美の方を見ていた。なんなら店員から、大丈夫ですか? とか聞かれる始末。そりゃ心配になる。


 だって、こんな細い見た目してるのに、全部マシマシとか。正気の沙汰とは思えない。それを普通に平らげてしまうのだから恐ろしい。食べ終わった時の店員さんの顔を、織は暫く忘れられそうにない。


「口の中がニンニクに支配されてる……」

「ニンニク抜いたらよかったのに」

「そしたら美味しくないだろ。てか、お前は口臭とか気にしないのかよ」

「魔術で消した」


 なにそれせこい。いや、せこいってことはないか。織もやろうと思えば出来るのだし。

 本当便利だよなぁ、とか思いつつ、織も愛美に倣って魔術で口臭ケア。ニンニクの匂い口から撒き散らしながら愛美の横を歩くのは、いくら織とてNGだと分かっている。


「で、どうする? せっかくだし、ちょっと見て回るか?」

「そうね。朱音にお土産買って帰りましょうか」

「そうすっか」


 本当は朱音もこの場にいて欲しかったのだが、桃の元へ向かってしまったから仕方ない。あの子にはもう少し、普通の暮らし、普通の休日を経験して欲しかったから。

 だからせめて、なにかお土産くらいは買って行ってやりたい。

 もしも、いつかあの子が未来に帰る時が来ても。ここにいたという証を、残しておきたいから。


「よし、行こうぜ」


 立ち上がり、愛美へと手を差し出せば、キョトンとした顔でそこを見つめている。

 さすがにもう手は繋がないか。出来る限りさり気なくを装ったが、今からは案内も必要ないのだし。


 途端羞恥心に襲われ、その手を引っ込めようとした織だったが。

 それよりも早く、柔らかな温もりに包まれた。


「ええ、行きましょうか」


 穏やかな微笑みが耳に届き、背中のあたりがむず痒くなる。周囲の喧騒がやたら遠く感じるのは、握っている彼女の手のせいだろうか。手を繋ぐ、という行為になにも考え感じていなさそうな愛美は、熱を持った織の顔を小悪魔のような笑みで見ているだけ。

 ろくに愛美の方も見れずに、顔の熱は増すばかり。それを誤魔化すように、織は言葉を吐いた。


「お土産って言っても、なに買うよ」

「目星はついてるわ。さっき歩いてる途中、いいお店を見つけたのよ」

「いいお店って?」

「ついて来たら分かるわ」


 今度は織が手を引かれて、モールの中を歩き始める。

 エスコートしろと言われたのに、逆にエスコートされてる感じ。悪くないとか思っちゃう辺り、どれだけ愛美に惚れてるんだと自分に呆れる織である。


 そうしてしばらくもしないうちに辿り着いたのは、なんかファンシーな雰囲気の雑貨屋だった。


「これ、これよ。これにしましょう」


 男が入るにはハードルの高いその雑貨屋の店先。そこに置いてある大きな熊の人形を指差し、お目々キラキラの愛美が訴えかける。


 普段よりも子供っぽく見えて非常に可愛くていいのだが、織はついため息を零してしまった。


「これ、お前が欲しいだけだろ……」

「べっ、別にそんなことないわよ? お土産、ちゃんと朱音のお土産だから」


 愛美はかなりの少女趣味である。家には少女漫画やら可愛らしい人形やらが結構な数置かれているし、休日は人形を抱きしめながら漫画を読んでいる。どうせ今日の午前中も、そんな感じで過ごしていたのだろう。


「ねっ、これでいいでしょ? ていうかこれ以外に認めないから。はい決定。買ってくるわね」

「待て待て待て」


 愛美が両手で抱えるほどに大きな人形。買ってやりたいのは山々なのだが、問題が一つ。


「お前、これ買ったとしてどこに置くんだよ。ただでさえ今ある人形で部屋圧迫してるんだぞ?」

「うっ……」


 痛いところを突かれたのか、バツが悪そうな顔で斜め下に視線が逸れる。


 そう、現在彼らが住んでいる事務所の二階は狭い。織と愛美が二人で暮らす分には良かったのだが、今は朱音もいてそれなりに窮屈だ。いや、ただ三人で暮らすだけなら、まあ問題ないだろう。十分な広さとは言えないが、それでも三人で暮らせないこともない。

 窮屈さの最たる原因は、大量の漫画と人形。桐原の屋敷から持ち出して来たそれらは、それで全部というわけではないのだから恐ろしい。屋敷にはまだ更に多くの漫画と人形が眠っているのだ。


 ということで、こんなに大きな人形は置く場所がないのである。

 仮に置くとしたら、今度こそ織が一階の事務所で寝なければならなくなる。


「ほら、分かったらそいつを置くんだ。さっきから周りの視線が痛い」

「うぅ……」


 売り物であるはずのそれを両手で抱えている愛美は、いやでも人目をひく。こんな美少女と人形のコラボレーションだ。店の中と外、両方からの視線に、いい加減居心地が悪くなって来た。


 おまけに愛美まで瞳を潤ませてこちらを見ているのだから、妙な罪悪感まで湧き上がってくる始末。


「ねえ、ほんとにダメ? 他の人形、屋敷に戻すから。それならいいでしょ?」

「……」

「お願い織。これなら朱音も喜んでくれると思うの」

「……まあ、今あるのを屋敷に戻すなら、問題ないな、うん……」


 結局罪悪感に負けてしまった。せこい。可愛いってせこい。


「ちょろ……」

「なんか言ったか?」

「なにも?」


 聞き捨てならない言葉が聞こえた気がするが、気のせいということにしておこう。今のが全部演技とか、さすがに人間不信になっちゃいそうだから。


「あ」

「ん?」


 なにかに気づいたのか、熊を抱えながらレジへ向かう愛美の足が止まった。

 その後ろをついて歩いていた織は、愛美の視線の先を追う。そこには、愛美が抱えている人形と同じブランドの、普通のサイズの熊が。


 愛美の意図にすぐ気付いて、織はふっと笑みが漏れる。


「ほら、さっさとレジ行くぞ」

「ふふっ、ええ」


 その熊を二つ手に取って、レジへと向かった。今家にある人形を屋敷へ戻すなら、このでかい熊一人になる。

 それは、些か寂しいだろう。

 うちは三人家族なのだから、この熊にもあと二匹、仲間が必要だ。


 上機嫌な愛美と合計三匹の熊を購入して、二人は帰路についた。

 翌日から、二階の居間では熊に抱かれて昼寝をする娘と狼が見れるようになるが、学院に行かなければならない二人はその光景を中々見れなかった。

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