与えられた選択肢

第19話

「父さん、ちょっといい?」


 四月の末、ゴールデンウィークに入った。

 世間と同じように連休となった魔術学院だが、織たちはそうもいかない。この連休で本格的に探偵業を開始することとなったのだ。

 仕事は主に、桐原の家や学院から斡旋してもらったもの。


 その内の一つを明日片付ける予定だったので、織は事務所で仕事に関する資料を読んでいたのだが、そんな折りに二階から降りてきた朱音が話しかけてきた。

 朱音は、先日愛美が屋敷に取りに行った、彼女のお古の着物を着ていた。母親と同じでよく似合っている。


「ん、どうかしたか?」

「大事な話があるんだけど」

「大事な話?」

「うん。今後のことについて、ちょっとね」


 言われ、織は手に持っていた資料を机の上に置く。


 ゴールデンウィーク前、サーニャと桃をもう一度ここに呼んで、今後の方針を打ち合わせした。

 今はひとまず、織と愛美が強くなること。サーニャと桃は引き続きグレイを追うが、二人はそちらに専念し、朱音は力を完全に取り戻すこと。


 以上が先日出た結論だ。

 だからこそこうして、この連休中に少しでも実戦を積むために仕事を開始させたのだ。

 それを踏まえれば、織の異能に関することだろうか。そう言えば、朱音はどのくらいの精度で未来視を使えるのだろう。


「それ、愛美が戻ってきてからの方がよくないか?」


 しかし、今は愛美が留守にしている。アーサーを連れて散歩に出掛けているのだ。あの狼をご近所さんにどう説明するのかは知らないが。さすがにシベリアンハスキーと言うのは無理がある。


「出来れば、母さんはいない方がいいかも。父さんのためにも」

「そう言われると怖くなってくるんだが……」


 今後についてで、愛美がいない方が織にとっては助かるようなこと。

 心当たりが全くない。


 異能についてなら愛美がいても困ることはないし、むしろ色々と助言を貰うこともあるからいてくれた方が助かる。魔術関連も同様だ。


 なら可能性としては、織の両親に関する話か。転じて、事件当日の話やグレイとの関係など、その辺りが考えられる。

 それにしても、愛美がいない方が織が助かる理由は見当たらないが。


「私が力を完全に取り戻せていない理由、もしかしたら分かったかもしれないんだ」

「本当か?」

「うん。私としては母さんにも聞いて欲しかったんだけど、さすがにそれは父さんに酷だからさ」

「……?」


 上手く話が見えてこない。朱音の力が中々戻らない理由。それこそ、愛美がいて織が困ることなんて何一つないと思うのだが。

 それどころか、桃やサーニャも呼んだ方がいいかもしれない案件だ。


 ティーカップに入った紅茶を飲みながらも頭の上で疑問符を踊らせている織に、朱音は突然ぶっこんだ。


「父さん、母さんのこと好き?」

「うぇっ? ゲホッ、ゲホッ!」


 変な声が出た挙句、盛大にむせた。

 大丈夫かと背中をさすってくれる朱音に手を挙げ、大丈夫だと伝える。


 いやしかし、この娘はなんてことを聞いてくるのか。


「悪い、朱音。もう一回言ってくれるか?」

「だから。父さんは、母さんのことが好きかって聞いてるの」

「そりゃまあ嫌いではないけどな。あいつの変に素直なとことか、家族思いのとことかは好感持てるし」

「あ、そういうのいいから」

「……」


 情けない言い逃れは、娘の容赦ない一言に封殺された。我が娘ながらえげつない。

 顔がにわかに熱を持ち出すも、いくら娘とは言えその質問に素直な返答をするわけにはいかない。いや、娘だからこそ、か。


「それ、お前の力とどう関係してんの?」

「この前、未来は必ず収束する、だからこそ私は遡行できたって言ったでしょ? でもそれって、吸血鬼グレイによって世界が荒廃した未来が決定づけられてるのであって、イコールで私の存在が未来で確定してるわけじゃないんだよね」

「いや、でも朱音はこれまで、何回も自分をやり直してるんだろ?」

「だから問題ない、ってわけじゃないんだよ。私はあくまで、私の主観でしか生きられない。だから私が存在しない世界だって、どこかにはある。この時間の未来で私が生まれない可能性だって、ゼロじゃないんだ」


 朱音はこの時間、この世界の未来からやって来た。だから不可逆的に、朱音は未来で生まれることになる。

 と、そんな単純な話ではないらしい。


 未来は変わる。それは未来視を持つ織自身もよく分かっているし、変えられるからこそ朱音はこの時代にやって来たのだ。

 だが、変わってしまうのはなにも、荒廃した世界だけじゃない。

 何かの拍子に、朱音が生まれることすらも変わってしまえば。今ここにいる朱音は、存在しなかったことになってしまう。


「だから多分だけど、今の私は不安定な存在なんだと思う。既存の魔術理論を適用すれば、の話なんだけどね」

「まあ、ことが異能だからな。その魔術理論の全部が当てはまるのか、一部が当てはまるのかも分からないし仕方ないか」


 もしくは、全く当てはまらないかもしれない。異能については本当に、殆どなにも分かっていないのだ。

 一部の人間や魔物が持っている、魔術とは異なる超常の力。

 なにが起きてもおかしくはない。


「そういやさ、力が使えなかったのは炎を無理な使い方した反動だからデメリットだかって言ってなかったか? そっちは?」

「それだけにしては、あまりにも長いんだよね。前にも炎の使いすぎで魔術とかが使えなくなったことはあったけど、ここまで長引くものじゃなかったんだ。だから、他に理由があるって考えると、これ以外に見当たらなかったの」


 転生者のことなんて織にはさっぱり分からないので、こればかりは朱音の言葉を信じるしかない。

 いや、別に疑っているわけでもないのだが、そこはかとなくなにかしら企んでいる気配がするのだ。


「で、ここからが本題だけど」

「嫌な予感しかしないが、まあ聞いてやろう」

「母さんのどこが好きなの?」


 ほれ見たことか。思わずため息を我慢できず、織は自分の心を落ち着かせるために紅茶を一口。


「いいか朱音。そもそも俺は、愛美が好きだって認めてないからな」

「じゃあ好きじゃないの?」

「いや、別に好きじゃないわけじゃないけどな? たしかにあいつのことはどっちかって言うと好きだけど、それは家族としてであって」

「母さん、あんなに美人なのに? 父さんにも優しくしてくれるのに?」

「あいつは身内に対してだだ甘だからな。それはお前も知ってるだろ」

「言い忘れてたけど、私当時の記憶がないだけで、父さんと母さんの思考とか心理は完全にトレース出来るからね。転生者ナメたらダメだよ」


 逃げ道を完全に塞がれた。

 そう言えばそうだ。朱音は織と愛美の娘であると同時に、かつてその二人本人でもあったのだ。

 現代の知識を始めとした当時の記憶が殆ど磨耗しているとはいえ、織と愛美として生きたことは、今の朱音を形作る要素の一つに違いない。


 それに、こうまでして自分たちに会いたいと願ってくれたのだ。桐生織と桐原愛美がどのような人物だったのか、なにを忘れても、それだけは忘れているはずがないだろう。


 再びのため息は諦めによるもの。

 今まで心の奥底にしまっていた感情を、織はついに吐き出した。


「ああそうだよ、愛美のことが好きだよ。むしろ好きにならない方がおかしいだろ」


 ふてくされたようにそっぽを向いた織の顔は、隠せないほどに赤くなっている。

 今までの人生、漠然と彼女が欲しいな、とは思ったことがあった。一般的な男子高校生並みには、そういう欲があったのだ。

 けれどそれ以前に、誰かを好きになることなんてなくて。誰かとそういう関係になりたいだなんて、考えたこともなくて。


「うんうん。分かるよ、父さんの気持ち。純情な男心が弄ばれたもんね」

「言い方。別に弄ばれたわけじゃねぇだろ」

「それで? 母さんのどこが好きになったの?」

「やたらグイグイ来るな、お前……」

「だって、現代の女の子ってこうやってコイバナ? ってやつやったりするんでしょ? あとは友達のフリして仲良くしてあげた後に陰で悪口言ったりとか。あと頭に芋けんぴつけたり、ペガサス昇天盛りだったり?」

「知識が偏ってんなぁ!」


 どう考えても、二階に置いてある大量の少女漫画が原因だった。暇つぶしの道具なんてそれか織のゲームのどちらかしかないとは言え、やはり母親同様、少女漫画にハマってしまったらしい。


「とにかく! 父さんにはさっさと母さんとくっついてもらわないと、私的にも困るの! 壁ドンでもなんでもして、ちゃんと母さん攻略してね!」

「善処します……」


 あの愛美が壁ドンごときで落ちるわけがないと思うが、朱音のあまりの剣幕に、織は頷くことしか出来ず。しばらくして帰ってきた愛美のとこを、妙に意識してしまうのだった。



 ◆



 愛美が帰ってきてから、両親を事務所に残して二階に戻った朱音はとても満足していた。


 我ながらいい仕事をしたと思う。

 この時代、この時間で織が愛美に対して好意を抱いているのは、分かりきっていることだった。

 未来の知識云々関係なく、一緒に暮らすようになってすぐに分かってしまうレベルで。

 ならばその背中を後押ししてやりたいと思うのは、二人の娘としておかしな感情ではないだろう。


 いや、そもそも普通なら、娘である朱音がいるのだから、二人が結婚すらしていないのはおかしいことなのだが。


 皮肉なことに、親にを吐くのは慣れてしまっている。あれだけそれっぽい理由を並べたのだ。まさか織も、それが嘘だとは思わないだろう。


 結論から言うと、朱音の力が戻らない理由に織と愛美は関係なかった。

 朱音の存在が不安定だから、なんて嘘っぱちだ。たしかに未来は変わる可能性がある。朱音が生まれない未来も、どこかには存在しているかもしれない。

 けれど、少なくともこの時間軸は違う。終わってしまったあの世界へと収束してしまうこの時間軸では、朱音の存在は保証されている。


 そもそもが逆なのだ。

 朱音は、世界があのような形になってしまった後に生まれた。つまりあの未来が変わらない以上、朱音も必ず生まれてくる。


 朱音の力が戻らないのは、やはり炎のデメリットによるものだ。

 力を使った以上、やはり機能しない力が出てくるのは必然だった。


 だから、朱音は本当に覚えていない。一番最初の自分から、両親に転生したまでの記憶がごっそり削られている。二度目の自分からの記憶しかない。

 そうしたことがあったという記録が魂に刻まれていても、記憶としては残っていない。

 サーニャにも伝えていないこの事実は、遡ってきた頃の朱音を愕然とさせた。

 何度も同じ生をやり直し、記録されることのない未来を積み重ね、そうして辿り着いた先に待っていたのは、自分自身の欠落。


 けれど。それでも、両親のことは覚えていた。あのあたたかい温もりを、忘れることはなかった。


 それだけが、朱音にとっての救いであり、ただ一つの道標だったのだ。


 両親に会えた。こうして一緒に、平穏な暮らしを過ごすことが出来ている。朱音の目標は達成したと言ってもいい。


 でも、それだけじゃダメだ。

 未来を変えて、そして大切な両親に幸せになってもらう。二人の幸せのためなら、自分の命なんて惜しくない。どうせ自分は転生者。その中でも異端の異端。転生先も選べるんだ。


 その時は、もし叶うのなら。

 もう一度、二人の子供として生まれたい。



 ◆



 朱音と変な話をしてしまったせいか、愛美のことを今まで以上に意識してしまう。

 それは一日経っても変わらなかった。


 気がついたら目で追っていたり、ふとした仕草が気になったりと、これではまるで恋する乙女だ。

 そんな織を訝しむ愛美と、満足そうに微笑んでいる朱音。正直ちょっと耐えられそうにない。


 昨日、自分の気持ちを初めて口にしたからだろう。愛美のことが好きなんだと、他の誰でもない織自身がよく思い知らされた。

 きっかけはいつなのかと聞かれると、そんなもの一番最初に決まっている。


 あの日、満月を背に現れた美しい少女の姿を、今でも思い出せるのだ。


 それで一目惚れというわけでもないが、あの日のあの光景は、一ヶ月経った今でも脳裏にこびりついている。

 そしてこの一ヶ月、長いようで短い時間のうちに、色んなものを共有して、互いのことを知って、そうしているうちにいつからか自然と。


「準備出来たわよ」


 掛けられた声に、事務所の椅子に座っていた織は思考の海から浮上した。

 二階から降りてきたのは、学院の制服に身を包んだ愛美と、ルーサーとしての仮面を手に持った朱音だ。その二人の元へ、ソファで寝ていたアーサーが駆け寄る。


「今回は、アーサーを連れて行くわけにはいかないわね」

「隠密行動がメインだからな」

「ごめんねアーサー。今日はお留守番よろしく」


 そう言ってアーサーを撫で回す朱音も、織としては留守番させておくつもりだったのだが。本人がどうしても一緒に戦いたいと言って聞かないので、渋々同行させることにした。

 なにより、織にとって朱音の戦いを見ることは有益以外の何物でもない。


 織の使う魔導収束、そして異能、未来視。その完成形とも言えるのが朱音の戦闘だ。強くなりたいのであれば、連れて行くほかなかった。


「それで、今回の依頼だけど。概要は二人ともわかってるな?」


 聞けば、二人から頷きが。

 今回は魔術学院からの斡旋。依頼主は異能研究機関ネザー。

 文字通り、謎だらけの異能を研究している機関なのだが、ネザーとはまたおっかない名前だ。実は裏で変な実験とかやっているのでは、と最初聞いた時に思った織だが、そんな考えは当たってしまっていたらしい。


「ネザーの日本・関西支部で、非人道的な実験が行われてるらしい。それを止めてくれ、とアメリカの本部から依頼があったそうだ」


 具体的にどんな実験なのかは聞かされていない。元々ネザーは、秘密主義なきらいがあるらしい。

 そんな機関が依頼してきたのだから、よっぽどのことなのだろう。


「身内の諍いに人を巻き込まないで欲しいわね」

「全くもってその通りだが、仕事だからな。報酬も結構弾むらしいから、文句も言ってられないだろ」

「ネザーは研究機関だから、戦力は殆ど持ってないんだよ。未来でも一応残ってたけど、なんの役にも立たなかった」

「せめて、研究成果を公表してくれたらまた違うんでしょうけどね」


 依頼主に対する愚痴を言っても仕方ない。織がさっき言った通り、仕事は仕事だ。引き受けた以上やらなければなるまい。


「それにしても、止めてくれ、とはまた随分と漠然としてるわよね」

「基本的には、実験データの破壊だ。バックアップも含めて全部な」

「持ち逃げされたら?」

「追うしかないだろ」


 この二人から逃げられるとは思わないが。だから相手さんには無駄な抵抗などせず、さっさと降参して欲しいものだ。


「正直、実験データ壊すだけだったら、外からでも出来るんだよね」

「どうやって?」

「こう、バチっと」


 言いながら鳴らした朱音の指先で、火花が散る。つまり、外から電気系統ごと全部破壊してしまおうと、そういうことだろう。

 朱音の魔力なら実際に可能だし、それなら無駄な戦いも避けられる。


 しかし、忘れてはならない。そもそも今日から探偵の仕事を本格化させることになった理由を。


「でもそれだと、父さんの訓練にならないんだよね」

「ですよね……」

「ま、研究所にいるのは殆ど非戦闘員でしょ。そもそも戦闘回数も少なく済むわよ」

「だといいんだが」


 実戦あるのみな織ではあるのだが、だからと言って初日から飛ばしすぎるのもいけない。

 これは蒼との訓練と違い、本当の本当に実戦なのだ。なにかを一つ間違えれば、容易く命を落としてしまう。


 しかし先程織自身が言ったように、今回は隠密行動を心掛けないといけない。正面から突っ込んで実験データを持ち逃げされたら、それは即ち依頼の失敗を意味する。


 前回は朱音たちやグレイとの遭遇などもあって、なんだかんだ曖昧に終わってしまった仕事。今回こそはちゃんとやり遂げたい。


「そんじゃ、気合い入れてくか」



 ◆



 異能研究機関ネザーは、全世界に五十以上の支部を持っている巨大な組織だ。アメリカに本部を置き、日本には大阪、東京の二箇所に支部を置いている。


 その大阪にある関西支部は、大阪湾にポツリと浮かぶ小さな人工島の上にあった。

 地下五階から地上三階までの研究棟と、研究員たちが住む居住棟があり、島の周囲には結界が張り巡らされて、一般人には視認できない。

 駐在している戦力は雇われの魔術師が十人程度。ではない。

 研究機関ということで勘違いされがちだが、研究員の全員が戦える魔術師だ。関西支部は、百人近い魔術師を戦力として保有していることになる。


 三年前にアメリカ本部から転属となったクリスも、その一人だった。


「ハロー、ナナ。ご機嫌はどうかな?」

「その声はクリスね! こんにちは!」

「その様子だと、どうやら今日も元気いっぱいのようだな。なによりだよ」


 地下三階の一室に、目を包帯でぐるぐるに巻かれ、体の至る所に電極を貼られた少女が、機械に囲まれたベッドの上で横になっていた。

 この少女は、実験体777号。その担当であるクリスは、少女のことをナナと呼んでいた。


 元々、この支部に転属された理由は、クリスが日本語に堪能だからだ。名もない実験体の少女は日本人。ならばセブンではなく、ナナと名付けたいと思ったのだ。


「今日の定期測定は、なんだか上手く行きそうなの!」

「それは嬉しい報告だね。それじゃあ、早速頼もうかな」


 実験体に情を移す変わり者だとこの支部の同僚には言われるが、逆だ。この支部の人間が、あまりに人を人として扱っていない。

 アメリカの本部でもこんなことはなかった。


 そんな環境に三年間。本部へと密告したのは、当然とも言える。

 遅かれ早かれ、この支部はもう終わりだろう。たかが極東の島国の支部一つ潰れたところで、ネザーにとっては痛手にならない。


 眼前の少女は苦悶の表情を浮かべながらも、その包帯から赤い光が漏れ出ている。


 この支部が潰れ、ふざけた実験が終われば。そうしたら、少女は普通の暮らしに戻れるだろうか。

 いや、無理だろう。帰るべき家も頼るべき親もいないのだ。少なくとも、普通の暮らしとやらは送れない。

 それでも、こうして苦しい顔を浮かべることはなくなる。実験に苦しまされることはなくなるんだ。


 ナナの定期測定を終えたクリスが研究室に戻る道すがら、向かいから見知った顔の若い男が歩いてきた。


「やあクリス。今日もナナのとこに行ってたのか?」

「ハロー緋桜ひざくら。彼女の担当は僕だからね。行きたくなくても行かなきゃならないのさ」


 男は雇われの魔術師だ。緋桜とだけ名乗ったそれは、果たして本名なのかも分からない。

 魔術師にとっては別に珍しいことでもなかった。本名を名乗らない輩などごまんといる。


 たかが雇われの魔術師が研究棟を彷徨いていることに、緋桜がやって来た数ヶ月前の当時は不思議に思ったクリスだが、話しているうちに彼と打ち解けてしまい、今ではどうでもよくなった。

 今のクリスは、そんなことよりも本部の対応がどうなるのかに、心の余裕を奪われている。


「最近疲れているように見えるな。ちゃんと休んでるか?」

「勿論。残業だらけのブラック労働は日本人の得意技だろう? 生憎、僕の国じゃ流行っていなくてね」

「耳が痛い皮肉だな」


 二人で笑いあっていれば、突然研究棟内に大きなサイレンが鳴り始めた。

 研究棟だけじゃない。恐らく、島全域で鳴り響いているだろうこれは、クリスがこの支部に転属してから一度も聞いたことのないもの。

 しかし、どう言ったものかは知っている。

 侵入者を知らせるサイレンだ。


「おいおい、マジかよ。こんなところに侵入者だって? 物好きな奴もいたもんだな」


 俄かに慌ただしくなる研究棟内で、クリスは努めていつもの調子で目の前の魔術師に話しかけた。

 だが、緋桜の表情は険しい。

 やがてクリスの目を見つめて口を開いた緋桜は、とんでもないことを言い出した。


「クリス。隙を見つけて、ナナを連れて逃げろ」

「な、……にを、言ってるんだ、緋桜。僕だって腐ってもこの研究所の一員。マニュアル通り、侵入者の迎撃に当たるぞ」

「いや、ダメだ。どの道この支部は、今日で壊滅する。どうやら学院の手先がやって来たみたいだからな」


 魔術学院。かつてクリスも在籍していた、魔術の総本山。侵入者は、学院の手先?

 恐らく、本部は学院に依頼を出したのだろう。なら、クリスの密告は無駄ではなかった。この馬鹿げた支部が、今日で終わる。


「侵入者は三人。うち一人は殺人姫だ。その通り名くらいは聞いたことがあるだろう?」

「……ああ」


 対象は必ず殺すと言われている、悪名高き殺人姫。これは個人が相手でも組織が相手でも関係ない。噂によれば、たった一人で五十人以上ものテロ組織を壊滅させたのだとか。

 そんな魔術師に攻め入られれば、この島にいる全員が殺される。


 もしかしたら、実験体の少女すらも。


「君はどうするつもりだ?」


 言外に、一緒に逃げないかと問いかけた。緋桜はこういう事態を想定して雇われたとはいえ、相手が悪すぎる。

 親しい相手を見殺すような真似を、クリスは選択できない。

 だが、緋桜は差し出されたその手を払いのけ、いつものように笑って言った。


「俺はマニュアル通り、だよ。クリスは知らないだろうが、こう見えて俺は強いんだ」

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