幕間 最初の一夜
第10話
織と愛美の共同生活が、ついに幕を開けた。
同い年の美少女と一つ屋根の下。さぞかし胸踊るシチュエーションだろう。それなんてエロゲ? とか言われてもおかしくない。
だが、織を待っていた現実は、そんなに甘いものではなかった。
「なんで! 洗濯回すだけで! 洗濯機がこんなことになるんだよッ!!」
夜の洗面所で叫んだ織の前には、真っ二つに切断された洗濯機と申し訳なさそうに立っている愛美が。
今日から事務所での生活が始まった。その一日目。まだ一日目だ。だというのに、早速洗濯機が使い物にならなくなった。おまけに中に入っていた衣服もいくつか切れてしまっていて、もう使い物にならない。
「だって、どこ押しても反応なかったもの。私が悪いんじゃないわ。洗濯機が悪いのよ」
訂正。愛美は全く申し訳なさそうにしていなかった。それどころか、稼働時間一日にも満たずご臨終となった洗濯機に責任をなすりつける始末。
頭が痛くなる。
「だからって真っ二つにしなくてもいいだろ⁉︎ お前、明日から洗濯どうするつもりだよ⁉︎」
「虎徹に言って新しいのを用意させるわ」
「そういう問題じゃねぇだろ!」
「煩いわねぇ……ていうか、そもそもの原因を追求すれば、私に家事を任せた織が悪いのよ。お父さんと虎徹が言ってたこと忘れた? 私に家事はさせるなって言ってたでしょ」
「まさかこのレベルだとは思わなかったからな!」
いい加減叫ぶのにも疲れてきた織が肩で息をする。
マジでどうしてこうなった。俺は洗濯機回すのを頼んだだけなのに……ボタン一つ押したらお終いなのに……。
事の起こりは十分前に遡る。
昼からこの家に正式に越してきてあれやこれやとやることを終わらせ、さあ夕飯の時間だという時。屋敷から持ってきていた洗濯物がいくつかあったので、自分が夕飯の支度をしている間、愛美に洗濯機を回すよう頼んだのだ。
洗濯物を突っ込んでボタンを押すだけ。一徹と虎徹の両名からは絶対に家事をやらせないでくれと言われていたが、まあこれくらいなら問題なく出来るだろう。そう思って愛美に頼み、彼女も意気揚々と洗面所へ向かったのだけど。
夕飯を作り終わっても戻ってこないから、心配して見にきたらこのザマである。
ボタンが反応しないからムカッとしてつい斬っちゃった、とのことらしい。
「お前、もう家事全般禁止な……」
「最初からそうしてたらいいのよ」
「なんでお前が偉そうなんだ……」
とりあえず使い物にならなくなった洗濯機と洗濯物を処理して、ダイニングの方へ戻り夕飯の配膳を始める。
それほど大きくないダイニングテーブルに並べるのは、初日だし簡単なものを、ということでカレーだ。もちろん愛美の皿には特盛。織の三倍は入れた。
「あら美味しそう」
「自信があるわけじゃないけど、まあ人並みには作れるからな」
「私が作るとこうはいかないわね」
だから、なんでそこでドヤ顔が出来るんだ。たかがカレー程度作れないとか、恥ずべきことだぞ。
屋敷での二週間で織が得たものは多岐に渡った。家事の手伝いをするにつれて、元々出来ないことはない程度のレベルだった料理スキルは大きく向上したし、洗濯や掃除などの効率の良い方法だって教えてもらった。
ヤクザの屋敷でなにやってんだと思わなくはないが、こうして役に立っているのだから結果的にはありがたいことだ。
量は全く違うのに殆ど同じタイミングでカレーを食べ終えれば、あとは風呂に入るくらいしかやることがなくなる。
「じゃ、私お風呂入ってくるから」
「おう。さっさと行ってこい」
「覗いたら殺すわよ」
「覗かねぇよ……」
一度痛い目に遭っているのだ。同じ轍を踏もうとは思わない。
着替えを持って風呂へ向かった愛美を見送り、改めてこの居間の中を見渡す。
昨日荷物を運んできたことで、随分と狭くなった気がした。本棚には所狭しと少女漫画やライトノベルが並べられ、お気に入りらしい猫のぬいぐるみが二つ、壁際に並んでいた。
どれも愛美の私物だ。織がこの家に持ってきたのなんて、衣類と携帯ゲーム機くらい。
本人は昨日、自分の趣味について随分と恥ずかしそうに告白していたか。しかし織にとってこんなものは、桐原愛美という少女を彩る魅力の一つに過ぎない。
乙女趣味な殺人姫。可愛らしくていいじゃないか。
だがそれに比べてみると、自分がいかに無趣味な人間なのかが浮き彫りになってしまう。
織だって人並みに漫画を読んだりするし、暇つぶし程度にゲームもする。けれど熱中するようなものがあるかと聞かれると、首を横に振らざるを得ない。
俺も何か趣味を持ってた方がいいのかねぇ。そんなことを考えながら、なんとなしに本棚の漫画を一冊手に取ってみた。
いくら織が漫画を読んだことがあるとはいえ、少年漫画ばかり。少女漫画は全く読んだことがない。なんか主人公の女の子が頭に芋けんぴつけてるらしい、程度の知識しかないのだ。
いや、頭に芋けんぴついてるってどういう状況だよ。少女漫画パネェな。
織が手に取ったのは、ドラマ化もされている割と有名なシリーズの一巻だった。タイトルだけなら聞いたことがある。
ページを捲ればいかにも少女漫画な絵が出てきて、話も恋愛に極振り。織もそういう話は嫌いじゃないが、やはり少年漫画とは毛色が違う。
だがなるほど、たしかにこれは面白い。ドラマ化するほど人気が出るのも分かる。
予想していたよりも漫画の世界にのめりこんでしまい、あっという間に一巻を読み終えてしまった。
続きが気になり二巻を手に取ろうとしたところで、居間の扉が開かれる音。どうやら愛美が戻ってきたらしい。
「勝手に人の本棚漁らないでよ」
「ああ、悪い。ちょっと気になっちまっ、て……」
振り返って愛美の姿を見た織は、絶句した。
屋敷でも寝巻として使っていた和服を着用した彼女はいつもは軽く化粧をしているのか、その顔は常よりもあどけなく見えた。しかし僅かに上気した頬と湿った黒髪が、妙な色気を演出している。
そういえば、風呂上がりの彼女を見るのは初めてだ。
いつもはそもそもどのタイミングで風呂に入っているのかすら知らなかったし、先日の朝に起きたハプニングでは、彼女の顔をまじまじと観察する余裕なんてなかった。
言葉を失い固まっている織を見て、愛美が不思議そうに小首を傾げる。そんな仕草すらも可愛く見えてしまう。
有り体に言えば、見惚れてしまった。
目の前の少女が持つ魅力に、打ちのめされてしまったのだ。
「これ、結構面白かったよ。また今度続き読ませてくれ」
そんなこと悟られるわけにもいかなくて、顔を逸らしながらもやや早口で言った。
顔が熱い。まさか自分がこんなにも女子に対して免疫がないなんて思わなかった。
「別にいいわよ。好きな時に読みなさい」
「そか。んじゃ俺も風呂入ってくる」
タンスから着替えを取り出し、そそくさと居間を出た。あのままあそこに留まっていたら、頭が茹で上がりそうだったから。
愛美の言葉が頭の中で反芻される。
好きな時に読めと言われた。つまり、自分たちは今、そういう状況にあるわけで。
今日から一緒に住むという事実を、改めて突きつけられた。
意識しすぎだろうと自分を諌めつつも、風呂に入ったらまずは冷水を頭にぶっかけることを決めた。
◆
織が風呂から上がれば、居間には既に布団が引かれていた。卓袱台を端に寄せ、二人分の布団が。
当然布団同士は距離を置いているが、それでも野球ボール一つ分ほどだ。部屋が狭いので、それはまあ仕方ない。
しかしいざ布団が並んでいるところを見ると、やはり意識するなと言う方が無理な話で。
今の織には、風呂場で冷水を被った意味が殆どなくなっていた。
「布団はちゃんと引けるんだな」
そんな自分を紛らわすためにも軽口を叩けば、愛美の片眉が釣り上がる。言葉のチョイスを間違えたらしい。
「あんた、もしかしなくても私のことバカにしてるでしょ」
「洗濯一つ出来ない奴が何言ったところで無駄だぞ」
どうやら洗濯機の件については罪悪感があるようで、愛美も言葉を詰まらせている。
罪の意識があるなら結構。そのついでにこの状況についても多少意識してくれないかなと織は思うが、まあ今更そんな希望を抱いたところで無駄だろう。
「で、マジでこれで寝んの?」
「そうだけど?」
思い切って聞いてみれば、なにを当然のことをと言わんばかりのキョトン顔が。
だがまあ、ことここに至って反抗するつもりなど織にはなかった。何を言っても無駄だと学んだのだ。
時刻は二十二時を回ったところ。元々屋敷での暮らしも夜はみんな寝るのが早かったから、この時間でもう就寝してもいいのだけど。
「つかさ、お前はどうとも思わないわけ?」
「なにが?」
「家族だなんだを抜きにして、同い年の男と布団を並べて寝ることに対して、思うところはないのかって聞いてるんだよ」
半ば疲れ気味に胡乱な視線と言葉を投げてやれば、少し考える素ぶりを見せる愛美。ややあって彼女が口元に浮かべたのは、からかうような笑みだった。
「あら、もしかしてお年頃な男の子であるところの織は、こんな美少女が隣にいたら悶々として眠れない?」
「分かってても口に出して言うなよそういうことは!」
クスクスと耳触りのいい音色が届くが、それは織の顔に熱を与えるだけだ。
マジで男の子的に微妙なところを的確に突いてこないで欲しい。
「お前マジ、襲われても文句言えねぇぞ……」
「別に襲ってきてもいいわよ? その代わり、首と胴体がサヨナラすることになるけど」
結局のところ、愛美がこうも無防備なのはそこに帰結するのだろう。
仮に織が寝込みを襲ったとしても、その時点で織に命はない。寝ている時は短剣を持っていないとか、そんなのは関係ないのだ。だって今まさしく、腕に魔力の刃を生成して微笑んでるし。怖い。
「それとも織は、女の子の寝込みを襲うようなクズなのかしら?」
「違うけどさぁ……」
「ならいいじゃない」
一応、織のことを信頼しているというのも、彼女の中では理由の一つになっているのかもしれない。
それを察せられてしまうから、背中のあたりがむず痒くなる。
「話は終わりね。ほら、電気消すわよ」
織の返事も待たずして、愛美は居間の電気を消した。
僅かな衣擦れの音が聞こえる。布団に潜り込んだ音だろう。煩悩退散と必死に唱えながら織も横になる。
程なくして、隣からはスースーと穏やかな寝息が聞こえてきた。静かな夜の居間には、その音がやけに大きく聞こえる。
いけない事だとは思いながらもチラリと視線をそちらへやれば、これまた随分と可愛く幼い寝顔が。
「生殺しもいいとこだな……」
据え膳食わぬはなんとやら、とか聞いたことあるけど、これは断じて据え膳などではない。むしろハニートラップとかの類だ。
いくら隣を意識してしまっていは言えど、やはり睡魔には勝てず、織も目を閉じて大人しく寝ることに。
そういえば、結局この状況についてどう思ってるのか聞いてないな。
そんなことを思ったのは、夢の世界へと旅立つ直前だった。
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