第9話

 愛美と織が桐生探偵事務所に向かっている頃、桃瀬桃は部屋のベッドに寝転がりながらも不機嫌そうに眉を顰めていた。

 二人が事務所に向かったのは知っている。二人の魔力は常に感知できるようにしているからだ。さっきから事務所の中で色々会話してるのも、その内容も。

 盗み聞きするつもりはなかったが、桃の結界内で話す二人が悪いのであって、自分は悪くない。誰に向けてかも分からない言い訳をしつつ、寝返りを打った。


 彼女が不機嫌な理由は、そこにはない。

 二人が自分に内緒でなにか話してるとか、自分だけ除け者にして新しい事務所を開こうとしてるとか、そのあたりは正直どうでもいいのだ。

 むしろ、事務所を開こうという話に関して、桃はあまり関わろうとは思わなかった。それは未来のある若者たちが為すべきことだ。過去に執着し続ける自分のような老いぼれは、いらぬ口を挟まぬ方がいい。

 あとは若い二人でどうぞ、というやつである。


 それよりも、あの男に頼らざるを得ない自分の不甲斐なさこそ、桃が不機嫌な理由だった。


「君から僕を呼びつけるだなんて、また珍しいことがあるもんだね」

「今回の一件がそれくらいヤバイってこと。わたしだって、出来れば頼りたくなかったんだけど」


 なんの前触れもなく部屋に現れたのは、織と愛美の師である人類最強の男。小鳥遊蒼。

 昼間、学院に報告で出向いた際には不在だった彼を直接この場に呼びつけたのには、もちろんそれなりの理由があってのことだ。


 目下最大の障害である敵、ルーサーについて、彼の意見を聞いておきたかったから。


「で、なんの用なのかな? 僕も眠たいんだ。出来ればさっさと話してくれ」

「銀色の炎を使う転生者に心当たりはある?」


 大げさにあくびをしてみせた蒼の表情が、一転して引き締まった。


 転生者。

 蒼としては聞き逃せない単語だ。彼自身がそうであり、把握している同胞の数も片手で数えて足りるほどだから。


「残念ながら知らないな。元々、そこまで多くの転生者を知っているわけでもないし」

「銀色が持つ能力についても?」

「知るはずがない」


 そもそも転生者とはなんなのか。

 それは小鳥遊蒼の持つ異能でもあり、昨日の特訓の際に織が見たあの蒼炎の正体でもある。

 蒼の異能は不死鳥の力による転生だ。前世の記憶、力を保持したまま生まれ変わり、その副産物として炎の形をした特別な能力を与えられる。


 この世界に複数人いるとされる転生者は、各々で炎の持つ力が違っている。しかし、共通するのはその回復力。不死鳥の再生を模したその力だけは、どの転生者も持っているものだ。


 ルーサーに一撃を入れたあの時。桃にはたしかな手応えがあった。あれは躱されたわけではない。むしろ直撃したはずだ。

 しかしルーサーは無傷であり、現れたやつのマント、その端には銀色の炎が僅かに揺らめいていた。


「転生者って、前世の力も全部使えるんでしょ? 魔術も異能も関係なく」

「ああ、使えるよ。だから、異能を複数持ちの場合はまずその可能性を考えた方がいい。それくらいは君も知ってたはずだろ?」

「一応確認だよ」


 だとしても、だ。ルーサーが愛美の異能を使えることの説明にはならない。賢者の石にしても同じだ。


 仮に、ルーサーが転生者であるとして。ルーサーと同じ時代を生きている愛美や桃には転生できない。

 桐原愛美と桃瀬桃は、たしかに今ここにいるのだから。同じ時間に同一人物が二人いることとなってしまう。


「……時を渡る炎。そういうのってあり得るかな?」

「ないとは言えないな」


 もしも。もしもルーサーが未来からやってきたのだとしたら。そう考えれば、矛盾は生まれなくなる。

 愛美がなにかしらの要因で転生者となり、来世において賢者の石を体内に宿して、過去へ遡ってきた。そう考えることは出来ないか?

 果たして過去に来た目的はなんなのか。そこは取り敢えず置いておくとするが。


 これならやつが愛美の異能や体術を使えることを証明できる。賢者の石に関してはこじつけな感じが否めないが、その存在を知っている愛美ならば賢者の石を求めてもおかしくはない。


 おまけに、おそらくは持っているであろう未来視。あれも蒼の推察通り、無意識化における高速演算であると仮定すれば。脳を概念強化出来る愛美にも再現は可能だ。


「学院長から、ある程度は聞いて来た。君が転生者だと疑ってるのは、ルーサーとかいうやつなんだろう?」

「うん。愛美ちゃんの異能と体術、それと賢者の石も持ってた」

「それは初耳だな」

「南雲には話してないからね」


 桃は南雲仁を信頼していない。学院長として信用は出来るが、魔術師としては信頼できない。だから、ルーサーについても全てを話したわけではなかった。

 サーニャには協力者がいて、その協力者こそが魔術師を殺し回っていたやつだ、程度である。


「なるほど、それで時を渡る炎か」

「うん。もしも今世の死後に愛美ちゃんが転生の異能を発現して、転生者になったら。そう考えると辻褄が合うんじゃないかなって」

「強引ではあると思うけど、可能性としてはありそうだな……うん、僕もちょっと探ってみる」

「そんな時間あるの?」

「可愛い弟子のためだ。無理矢理にでも時間を作るよ」


 その言葉を最後に、蒼は別れの挨拶もなく部屋から消えた。一人残された桃も、そのことにこれと言った不満を漏らさない。


 そもそも、桃は蒼のことが嫌いなのだ。理由は多岐に渡る。性格が合わなかったり、蒼に魔術師としての腕が劣っていることを自覚してしまっていたり、転生者という強大な力を持つその境遇だって、元は凡人の桃には嫌う要素にしかならない。


 ともあれ、こうして助けを請うくらいには彼のことを信頼しているのも事実だ。その信頼に対しても、桃からすれば複雑なものがあるのだが。


「もしもルーサーが未来から来たとしたら、か……」


 自分の思考を口に出して反芻する。

 やつの体内に賢者の石があるということは、つまり未来の自分は……。


「まあ、そりゃいつまでも生きてるわけにはいかないしね」


 二百年生きた魔女は自嘲気味な笑みを浮かべ、事務所の盗み聞きに戻るのだった。



 ◆



 織が生まれ育った地方都市の再調査。それが終わってから三日ばかりが過ぎていた。学院へ正式に入学するまであと二日。今日を入れたら三日だ。


 愛美ももう学院に用事はないらしく、ここの所毎日屋敷にいる。昼間は部屋に籠っているからなにをしているのかは分からないが、余計な詮索はしない方がいいだろうと織は考えていた。

 彼女にだってプライベートの時間があって然るべきだ。おまけに自分のせいで彼女の時間を奪ってしまっている自覚があるからか、織は若干の罪悪感すら抱いていた。


 少しでも早く、愛美や桃の力を借りなくてもいいようにならなくては。


「とは言え、焦る必要はないと思うぞ。小鳥遊のガキにも訓練つけてもらったんだろ?」

「まあ、それはそうなんすけどね。やっぱジッとしてらんないっすよ」


 屋敷の庭先に出ているのは、織と若頭の虎徹だ。二人より十メートル先には人型に切り抜かれた板が立っており、その何箇所かには銃弾で撃ち抜かれた痕があった。


 虎徹がその場から魔術をかければ、板は瞬く間に元どおり。銃弾の痕はおろか、傷一つない真っ新な状態に。たった今人型に切り抜いたと言われてもなんら不思議ではない。


 桐原家が得意とする復元魔術だ。治療にも使われる魔術ではあるが、このように人体以外にも使用することができる。

 何故か愛美はあまり得意ではないらしいが、彼女の場合は使う必要がないのだろう。そこらの魔術師では、まず愛美を捉えることすら不可能だ。


 そう。その愛美のことで一つ、気になっていることが。


「そう言えばなんすけど」

「ん?」

「愛美のやつ、なんでまだ会って二週間しか経ってないような男にあんな優しくするんすかね。一周回って怖いんすけど」

「お嬢に聞かれてたら殴られるぞ」

「いや、でも実際そうじゃないっすか」


 もっと言えば、この家に来た初日から。

 いくら愛美といえど年頃の女子であることに変わりはないのだから、もう少し警戒していてもいいものを。

 織のことを家族として直ぐに受け入れ、学院での面倒も見て、挙句に新しい事務所で同居するとか言い出す始末。

 彼女の性根がそうなのか、もしくは他に理由があるのか。なんにせよ、織にとっては不思議で仕方なかった。


 まあ、その優しさに甘えてしまっているのも事実ではあるが。


「お嬢は面倒見いいからなぁ。それに、お嬢にとって家族ってのは、ちと特別なもんなんだよ」

「特別?」

「ああ。あんま詳しくは言えねぇが、オヤジとお嬢は本当の親子じゃねぇんだ」

「え、そうだったんすか?」


 それは知らなかった。いや、しかし。考えてみれば一徹と愛美は歳が離れ過ぎている。おまけ母親らしき人物についても、織はなにも知らない。


「昔、十五年くらい前、お嬢がまだ物心つく前に、オヤジがお嬢を拾ったんだとよ。俺も当時はまだ組にいなかったから、話に聞いただけだが」

「それで特別、か……」


 愛美にとっての家族とは、血の繋がりによるものではないのだろう。一般的な解釈とはもっと違ったもの。

 桐原家もこういう家だから、彼女がその言葉を定義づける一因になっているかもしれない。


「だからまあ、お嬢は身内に対してかなり甘いんだ。一度家族だと決めたやつには余計にな。織のことも、弟みたいに思ってるんだと思うぞ?」

「それはそれで、男としては複雑ですけどね……」


 年頃の男女と違って、愛美にとっての織とは恋愛が云々よりもまず、家族愛というものが先に来るのだろう。

 だからあんなにも優しく接してくれる。


 初手から好感度高すぎるだろうと常々思っていた織だが、その理由が分かってスッキリしたような、けれど男としては哀しいような。

 腕っぷしが負けてる時点で男として、なんて言えるはずもないのだが、そこは目を瞑ることにする。


「当然のようにお嬢はうちで一番歳下だったからな。織を可愛がるのも当然だ」

「いや、ちょっと待ってくださいよ。俺と愛美、同い年ですよ」

「お前誕生日いつだよ」

「九月です」

「お嬢は八月だ」

「一ヶ月だけかよ!」


 たかが一ヶ月で姉面されても困る。世の中には姉ビームなるものがあると聞いたことがあるが、まさか愛美もその類ではあるまい。

 いや、姉ビームってなんだ。どこの世の中を探してもそんなものはない。


「そういうわけで、お前はお嬢の弟だ」

「納得いかない……」


 ぶつくさ文句を言いながらも、織はホルスターから銃を抜く。

 右足を下げ、若干の前傾姿勢。的に対しては正面を向く。

 どれも虎徹に教わった、銃の撃ち方だ。先日の蒼との特訓では魔力弾を使用したから姿勢なんてどうでも良かったが、実弾を使用するならそうも行かない。

 狙いを定め、引き金を引く。炸裂音が防音のために張った結界内で響き渡り、しかし銃弾が板に当たることはなかった。僅かに上へと逸れたのだ。


 続けて二発目、三発目と撃つが、織が狙いを定めた場所、頭部に当たるそこに命中することはなかった。今度は下すぎた。肩のあたりに命中している。


「どこ狙ってるのよ。下手くそね」


 虎徹とはまた違う声がかかり、振り向けば縁側には愛美が立っていた。

 ここ最近知ったことだが、愛美は部屋着に和服を着用している。これがまたやけに似合っているのだ。織としては大変眼福でありがたい限りだが。


 美人は三日で飽きるなんてのは眉唾だ。織の最近の信条である。


「悪かったな下手くそで。そういう愛美はちゃんと狙えるのかよ」

「貸してみなさい」


 下駄を履いて縁側から降りてきた愛美に銃を渡せば、的に対して半身のまま構え、片手で銃弾を二発放った。

 どちらも見事に命中。一発目は足に、二発目は頭にだ。足を撃って動きを止め、頭にトドメを刺す。確実に殺すための射撃。


「ざっとこんなもんよ」

「すげぇ……」

「今の、あんまり参考にしない方がいいわよ。片手で撃つ時も体は正面を向けてなさい。もっとも織は、まず両手で反動制御ちゃんとできるようにならないとだけど」


 手元で銃を半回転させ、グリップ部分を差し出される。なんかその動きからしてカッコよかった。男はそういうスタイリッシュな動きに憧れるものである。織とて例外ではない。


 しかし愛美も、織をバカにするためにここへ来たわけではない。


「それより、稽古の時間はもう終わり。お父さんが呼んでるわ」



 ◆



 虎徹も含めた全員で移動した先は、組長である一徹の私室だ。とは言え、他の個室よりも広い以外はなにも変わった点は見受けられない。古い小説や魔導書なんかが収められた本棚と、書きものをするための小さな机がある程度だ。


 部屋の奥でドッシリと座る一徹は、皺の目立つ顔を笑顔にしていた。


「織、オメェの次の家が決まったぞ」

「ていうことは……」

「ああ。事務所の準備が出来た」


 三日前、あの場所で愛美と話していたことだ。新しい事務所を持って、二人で探偵としてやっていく。

 諸々の準備があるから、と愛美からは聞いていたが、十分早い。まさか学院が始まる前に用意してくれるとは。


「準備は殆ど出来てる。あとはオメェらの荷物を運べばしまいだ」

「やっぱり愛美も付いて来るんですか……」

「当たり前でしょ」


 織が諦めたように溜息を吐けば、隣に座っている愛美が拗ねたように言った。ようやくこの広い屋敷で美少女と一つ屋根の下、という状況に慣れてきたと思っていたのに。まさか次はそれよりも過酷な環境とは。


 それより、一徹や虎徹たち組のみんなはいいのだろうか。可愛い娘、可愛いお嬢が家を出るというのだ。しかも出会って二週間しか経っていない男と二人きり。


「織、お嬢を頼んだぞ」

「じゃじゃ馬がおまけで付いてって悪りぃが、くれぐれも、くれぐれも家事はやらせるんじゃねぇぞ」


 あ、これ押し付けられてる。

 察した織は、それ以上なにも言わなかった。


「そ、それで、事務所の場所はどこなんですか?」


 織は賢いので、見るからに蛇が出てきそうな藪を突こうとは思わない。話を変えると、ああ、と頷いた一徹が説明を続ける。


なつめ市っつー地方の街だ。うちの組の力が及ぶギリギリのとこだな。しばらくはうちから仕事を回すか、学院から回してもらうかだ」

「一応桃にも話して、学院長からも許可をもらってるわ」

「なんにせよ、まずは実績作りからってわけだ。当面の活動資金はこの口座に振り込んどいたから、好きに使え」


 一徹から手渡されたカードと通帳。その中身を見て、織はギョッとする。四桁万円を超えていた。高校生が手にしていい金額ではない。

 もしや目の錯覚かと何度も見直すが、しかし織の目に映っている数字は変化を見せない。


「い、いやいや、親父さん! さすがにこんなに受け取れませんよ!」

「いいから持っていけ。可愛い娘と息子の門出なんだからよ」


 そうは言われても、素直に受け取れるほどの額ではない。事務所を融通してもらっただけでも十分過ぎるほどなのだ。その上でこの金額。お金は多い方に越したことはないと言っても、これはさすがに多すぎて気後れしてしまう。


「でも、俺には返せるものがなにもないですし……」

「馬鹿だなオメェは」


 頑なに受け取ろうとしない織に、一徹が呆れたように笑う。一徹とてこの二週間で、織が律儀で義理堅い性格だということは把握していたし、こうして金を差し出しても簡単に受け取らないだろうとは思っていた。


 しかしまさか、返せるものがない、と来たもんだから、呆れ笑いが出るというものだ。


「返す返さないなんざどうだっていいんだよ。たかだか二週間の付き合いだろうが、オメェは俺の家族だ。俺の息子だ。親が子供のために金出すのは当然だろうが」


 愛美にとっての家族。それを形作った一番の要因が、分かった気がした。拾われた頃、物心つく前から、この父の背中を見て育って来たのだ。


 彼女が家族というものを特別に思うのも納得できる。


「それでも納得いかねぇってなら、死なないことだ。こういう世界だから、誰がいつ死んでもおかしくねぇ。だから死ぬな。生きろ。そんでまた、元気な面見せてくれや」


 血の繋がりなど関係ない。この人たちは、紛れもなく自分の家族だ。

 この家に来てから二週間。早いのか遅いのか、織の心にようやくその自覚が芽生えた。



 ◆



 制服に着替えた二人が組の人に転移で送ってもらった先の棗市は、周囲を海と山に囲まれた然程大きくない街だった。しかし小さいということもなく、鉄道などの交通網や商業施設もあり、港には貨物船もやって来る。

 織の生まれ育った地方都市よりも小さいが、それでも十分に栄えていると言えるだろう。


 そんな街の中。人通りの極端に少ない通りにある二階建ての建物が、新生桐生探偵事務所となる場所だった。


「うわぁ……見事なまでに怪しいな……」

「文句言わないの」

「別に文句ってわけじゃねぇよ。せっかく用意してもらって、その上金まで結局受け取ったんだ。そんなこと言うか」


 織たちがこの場に来たのは、なにも今からここで暮らすため、というわけではない。実際にどのような場所か見るため、屋敷から荷物を運ぶためだ。


 実際にここで寝泊まりするのは、明日からになる。屋敷では今頃、転移で荷物を運び出す係と二人の送別会の準備係に分かれて、組の人たちが動いてくれているだろう。

 後者に関しては多分、騒ぐ口実が欲しいだけだと織は思っているが。


「とりあえず入りましょうか」

「だな」


 扉を開き、いざ新しい我が家へ。


 まず一階が事務所になっていた。そこまで広いわけではなく、向かって右手側に仕事用のデスクが一つとその手前には応接用のソファにテーブル。デスクの向かいにはテレビがあり、観葉植物も飾ってある。部屋の一番奥にも大きめのテーブルがあって、その上にはティーポットとカップ、茶葉が置かれ、椅子は二つ用意されていた。近くには冷蔵庫まである。仕事用のデスクにはパソコンも置かれていて、どうやら備品は殆ど揃えてくれているらしい。


 広さはないが、狭々しさは感じない。白い壁もシミひとつなく、清潔感がある。織と愛美の二人だけなら、十分な間取りと配置だろう。


「このデスクは織の席ね」

「お前は?」

「ソファで寛ぐなり、後ろの椅子に座るなりしてるわよ」


 部屋の奥へ進みそこの扉を開けば、二階への階段。来客用のトイレもある。

 続いて二階へと上がれば、トイレ、洗面所、それから風呂が。洗濯機もある。


「お風呂狭いわね……」

「桐原の屋敷がデカすぎるだけだ。これが普通だろ」


 風呂の狭さに不満そうな愛美を伴い、二階の奥へと進んだ。


 二階は和室の居間とダイニングキッチンのみだった。居間に置かれているのは卓袱台とタンス、一階にあったものよりも小さいテレビに本棚くらいなので、今度は広く感じる。本棚の中にはまだ一冊も収まっていないのも一因となってるだろう。

 キッチンには一通りの調理器具と皿や箸、コップなどが揃っていた。

 狭いがベランダもあり、二人分の洗濯物を干すには十分そうだ。


 それらを見て回り、織は一言。


「え、部屋これだけ?」

「みたいね……」


 そう。これだけである。

 二階建ての建物で、そのうち一階を事務所に使っている以上はそれぞれの個室なんぞあるわけもなく。

 つまり寝る時はこの居間で、布団を並べなければならないのである。


「いや、それはさすがにまずいだろ……」

「私は別にいいけど?」

「お前が良くても俺がダメなの!」


 愛美のガバガバ倫理観に大声で突っ込みながらも、いやしかし美少女と並んで寝るってのも……と頭の中で悪魔に囁かれる織。


 甘い誘惑ではあるが、桐原の屋敷で待っている強面のお兄さん方を思い出し、なんとか正気に戻った。


「それに、お前だって見られたくない私物とかあるんじゃねぇの?」

「……」

「え、なに、なんで黙るんだよ」


 織にその手の私物はない。というより、毎日が忙しなくてその様なものを調達する余裕がやかったのだが、愛美は違うだろう。年頃の女の子なのだから、その様なものがあってもおかしくない。


 いや、てか下着とかもその類じゃん。と今更ながらに思う織だが、屋敷で何度か洗濯にかけたこともあるので気にしないことに。


 ともあれ、黙り込んでしまっていた愛美は慎重に、重々しく口を開く。


「……ない、ことはないわね」

「やっぱりあるんじゃねぇか。なんなら俺は下で寝るぞ? 飯も上で作ってから下で食えばいいし」

「いえ、さすがにそこまでのものじゃないけど……」

「けど?」


 愛美が次第に顔を赤く染め始め、織はなぜか自分が悪いことをしている気になって来た。別に詰め寄っているわけでもないのに、謎の罪悪感が湧き上がる。


「笑わないのと、誰にも言わないの、約束してくれる?」

「まあ、人のもん見て笑う様な悪趣味はしてねぇけど」

「絶対?」

「やけに念押ししてくるな……絶対だよ」


 織は人様の趣味嗜好を馬鹿にして笑う様なやつはクズだと思っている。昨今は多様性がどうちゃらと言われる世の中なのだ。例え愛美が重度のアニオタだろうがなんだろうが、その程度を気にする織ではない。


 やがてスカートのポケットからスマホを取り出した愛美は、軽く操作した後に画面を見せてきた。


 果たしてそこには、織が予想していた以上に可愛らしい光景が写っていて。


「こりゃまた、凄い部屋だな……」


 見せられたのは屋敷の愛美の部屋。その写真だ。画面に映っている部屋の中には所狭しとぬいぐるみが並べられている。犬、猫、兎、クマと動物が殆どだ。

 そして本棚に収められているのは、大量の少女漫画とライトノベル。

 そこに愛美の姿は映っていないが、この写真を撮った時の彼女はさぞや満足げな表情をしていたことだろう。それくらいは織にも察せられた。


「……どう?」

「どう、って聞かれてもな」


 おずおずと聞いてきた愛美には、小動物のような可愛らしさを感じる。常日ごろから堂々としている彼女のこんな姿、初めて見た。


 それも含めて、だ。織が思うのはただ一つ。


「可愛くていいんじゃねぇの? ほら、ギャップ萌えってやつだ。愛美はどっちかっていうと美人よりだから、こういう趣味持ってるのは普通に可愛いと思うけどな」


 紛れもない本心を素直に口にすれば、愛美は目に見えてホッとする。

 この様子だと、周りには隠していたのだろう。誰にも言うなと約束させられたあたり、組の人たちにも言ってなさそうだ。

 まあ、ここまで部屋を飾っておいて、バレていないということはなさそうだが。


 しかし話の本筋は愛美の趣味についてではなく、この部屋をどう使うかである。


「でも、それ全部持ってこれるほどの余裕はないぞ」

「……分かってるわよ」


 今、変な間があったけど。こいつ本当に分かってるんだろうか。


「でも、これで万事解決よね」

「いや待てまだなにも解決してない。お前の私物問題が解決しただけで、寝る場所についてはまだ議論を重ねさせてもらうぞ」


 そもそも、愛美は思春期男子をなんだと思っているのか。織と同じ年頃の男なんて、頭の中は年中エロいことしか考えていないというのに。

 あまりにも無防備すぎる。襲われたらどうするんだか。


 そもそも織が男として見られていないのか、襲われたところで返り討ちに出来るからか。その両方の可能性が高そうだ。男としては哀しいばかりである。


「あのね、議論を重ねる余地なんて最初からないのよ。寝れるような部屋はここしかないんだから」

「いや、下のソファで寝れるだろ」

「あれは応接用よ」

「だったら床に布団を引いて」

「いい、織。万全の体調を整えるには質のいい睡眠と食事が大切なの。地べたに布団を引いて、それでちゃんと寝れると思う? それで体調崩したりしたらどうするのよ」


 愛美はあくまでも善意から言ってくれているので、織もこれ以上は言葉に詰まってしまう。これでからかわれているだけなら、いくらでも跳ね除けることが出来たのだが。


 ていうか、愛美の隣で寝るとか、それこそちゃんと寝れなさそうなのだけれど。愛美にそのことを理解している様子はない。


「……分かった。分かったよ。俺もここで寝る。それでいいんだろ?」

「分かればよろしい」


 先に折れたのは織だった。

 半ばヤケクソ気味に認めれば、愛美は満足げに頷く。まあ、織としても悪いことではないのだし。美少女と一つ屋根の下、それもこの狭い空間で二人きりとか、普通の男であれば垂涎もののシチュエーションだ。


「あとの細かい取り決めは、また明日決めましょうか。今日は荷物運びがメインなんだから」

「そうだな……」


 なぜかやけに疲れた気がする。いや、気がするではなく疲れた。おまけに今後の生活を考えると疲労はさらに増してくる。


 大丈夫か俺。こんなんで愛美のこと意識しないで暮らしていけるのか。


 不安が胸中に渦巻きながらも二人でひとまず一階に戻る。


 ここが、明日からは織と愛美の仕事場であり、家だ。生活に慣れるのは時間がかかるだろう。今まで考えたこともない苦労があるだろう。

 それでも、明日からの未来がどこか楽しみな自分もいて。


「明日からは、ここが私たちの帰るべき場所ね」


 きっと、そう言って笑う愛美が酷く魅力的に見えたからなのだろう。

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