第8話
「状況の再確認が必要だね」
転移でホテルの部屋に戻った矢先、桃が深刻そうに言った。先程出会ったあのルーサーと名乗った者は、現状に混乱を起こしかねないほど強大な存在だったからだ。
「ルーサー。あいつは明確にサーニャの味方をしてる。でも、私たちに対する敵意も少なかった。直接戦った私にも殺気すらぶつけてこなかったわ」
「敵対の意思はない、ってことか。愛美が先走ったからそれに対応しただけって感じだな」
「でも、あいつがサーニャの側にいる以上、私たちと敵対することは避けられないわよ」
「事務所に入られると都合が悪い、っていうのも気になるな……」
「なによりの問題は、あの力だよ」
意見を交わし合う織と愛美を、桃の一言が遮った。織としては、出来れば考えたくない問題だ。
だって、あんなの反則にも程がある。愛美と同じ異能、体術を使い、桃の攻撃を受けても無傷。その上、桃とルーサーが最後に交わした会話には、最悪の可能性すらある。
「異能っていうのは、基本的にはこの世に全く同じものは存在しない。例えば、姿を見えなくする異能持ちが二人いたとしても、そのプロセスは絶対に違う。透明になっているのか、人間の無意識を突いているのか」
あの時にも桃は言っていた。あり得るはずがないと。
実際にルーサーが切断能力を発揮し、なにかを斬った場面を見たわけではない。しかし、愛美の斬撃を受け止めることができたのも事実だ。
「たしかにルーサーの言う通り、仮に本当に全く同じ異能があったとしたら、愛美ちゃんの剣を受け止められるのも納得できる。同じ力同士がぶつかれば相殺されるのは、いくら正体が分からない異能だって同じだから」
「防御に特化した異能って言う可能性はないのか?」
「ないわね。それは断言するわ。ていうか、あれは私と同じよ。全く同じ異能。直接剣を交えたから分かる」
きっとそこは愛美にしか分からない感覚だろう。桃のように手助けすら出来なかった織には、分かるはずもない。
だが件の異能を持っている張本人が言うのだ。そこに疑う余地はない。
「私としては、異能よりもあんたが最後に話してたことの方が気になるんだけど?」
胡乱な眼差しを桃に向ける愛美は、半ば答えに至っているのだろう。それでも織と同じく、そんなことはあり得ないと思う自分もいる。いや、あり得ないと思いたい。
「わたしとしても、半信半疑なんだけどね。でも多分、間違いないとは思う」
ルーサーの体内にあるもの。それは、桃と同じものだと言っていた。奴の言葉を鵜呑みにするなら、即ち。
「賢者の石。桃と同じように、ルーサーの体内にもそれが埋め込まれてるってか?」
織の口から乾いた笑いが出てくるのも、仕方のないことだろう。単純な戦力差を鑑みても、あまりに絶望的すぎる。いくらこちらに殺人姫と魔女がいるとはいえ、向こうはその二人の力を全て一人で扱えるのだ。
愛美の猛攻に対しても余裕を見せていたし、桃のあのタイミングの攻撃を無傷で済ませる。戦闘経験もかなり積んでいるのだろう。
それだけとは思えない。他にもなにか隠しているはずだ。
「多分だけど、未来視も使えるわよ、あいつ。それも織より数段上のね」
「まあ、そう考えるのが妥当だろうね」
「たしかに……」
織が見た廃墟での未来は、夜になっていた。つまり、織たちがやって来た時点でルーサーが既に待ち構えていたのはおかしい。いくら見えた未来を変えることが出来るとは言っても、その未来を見たのは織だ。織がそれを共有した愛美と桃以外が知るはずもない。
ならば、あちらも未来視を持っていて、織たち三人があの時間あの場所にやってくる未来を見たと考えられる。
根拠はこれだけしかないが、三人の中の二人の力を持っているのだ。残りの一人が追加されたとしてもおかしくはない。
「いよいよ正体が掴めなくなってきたわね」
「多分他にもなにか隠し持ってるよ」
「もうなにが出てきても驚かねぇ自信あるぞ……」
「それはどうだろうね」
呆れたように言う桃に、織は言葉を返す気力もない。これ以上驚かせたいのなら、人類最強の男と同じ力を持ってる、くらいのインパクトは持ってきてもらわないとダメだ。
「どの道、これからサーニャを追うならルーサーと戦うのも避けられない。今度は異能も体術も魔術も、全部使ってこっちを殺しにかかって来てもおかしくないよ」
「そのサーニャがどこにいるのかも分からないけどね」
「先は長そうだな……」
「時間があるのはいいことだよ。特に織くんは、これから学院に入るんだし。もっと強くなれるよ」
そうだといいのだが。自分の才能が平凡なことは、織だって自覚している。桃のような魔力は持ち合わせていないし、愛美のような戦い方もできない。
織が持っているのは少し特殊な魔術と未来視のみ。
果たして伸びしろがどれだけ残っていることやら。
後ろ向きな思考には無理矢理蓋をして、織はこれからのことを相談した。
「魔術師殺しの犯人は分かったわけだけど、どうする? もう帰るか?」
「せっかくこの部屋取ったんだし、帰るのは明日にしよっか。学院にはわたしが戻って報告しとくからさ。それに、わたしも久しぶりにベッドで寝たいし」
いや、いつもはどこで寝てるんだよ。
突っ込みを口にするよりも前に、桃は魔法陣を展開させてどこかへ消えてしまった。恐らくは早速学院に戻ったのだろう。
「俺らも部屋に戻るか」
「そうね」
飯はどうしようか、なんてことを考えながら、織は隣にある自分の部屋へ戻った。
◆
夕飯はホテルが提携しているピザ屋の出前を取って済ませた。近くのファミレスに行っても良かったのだが、ここは織の生まれ故郷だ。この二人を連れてるところを知り合いにでも見られたら困る。
なにより、織はもう魔術世界に生きる人間なのだ。織自身もうまく言葉にはできないが、知り合いや友人と会うことはなぜか躊躇われた。
さておき、また桃の部屋に三人で集まって、雑談も交えつつピザを食べていたのだが。外食や出前だと愛美の食べる量の多さがとても目立つ。
織と桃はそれぞれ一枚ずつ食べて腹が膨れたのだが、愛美は二人のものより一回り大きなサイズを五枚食べた。しかも食べ終えたのは、織とそう変わらないタイミングでだ。
脳を酷使するからよく食べる、と先日虎徹から聞いていたし、昨日の愛美を見てその言葉の意味も分かったが、それにしたって彼女の胃袋はどうなっているのか。中にブラックホールでもあるに違いない。
しかしまあ、屋敷でもそうなのだが、美味しそうに食べる愛美の姿は見ていて飽きない。
特に屋敷で食べるご飯は織も作るのを手伝っている。そんな立場からすれば、あんなに美味しそうに食べてくれると悪い気はしなかった。
いっぱい食べる女の子は可愛い。桐原の家に住むようになって、織が辿り着いた一つの真理である。
そんなことを考えながらも、織は一人、見慣れた街の大通りを歩いていた。時刻は深夜。当然のようにどの店も閉まっている。昼間は賑わいを見せていた大通りは、織以外に誰一人として歩いていなかった。
なるほどたしかに、魔術師や魔物が夜に活動を始めるのも納得がいく。
これだけ人がいないのだ。ここで魔術を行使しようと目撃者はいないだろうし、今の織のように一人で歩く人間ならば、魔物にだって狙われるだろう。
そんな中一人で歩く織は、迂闊と言わざるを得ない。特にこの街は今、裏の魔術師が多く潜んでいるという。いつ襲われてもおかしくはない。
「誰も出てこないってのは、それはそれで不穏だな」
通い慣れた道を歩きながら、織は呟く。
そもそもこの街には、ある一点に強力な魔物避けが張られている。その影響で街中には一匹も魔物が存在しないし、裏の魔術師たちはルーサーを怖れて碌に動けないでいるのだ。
それが分かっているからこそ、織はこんな時間に外を出歩いている。
やがて大通りから出て、川沿いの道を進む。
あの日と全く同じ道順。けれど違う速度で、織は目的地へと歩いていた。
やがて辿り着いたのは、彼の生家である雑居ビルだ。一階はもう随分前からテナント募集の張り紙を貼っている。二階が事務所で、三階と四階が織の家だった。
階段で二階まで上がる。一つ深呼吸をして、事務所の扉に手をかけた。
あの日と比べれば、事務所の中はある程度綺麗になっていた。
当然のように死体は既に処理されていて、壁や床にこびり付いていた血も綺麗になくなっている。散乱していた資料はどこにも見当たらない。おそらく、それも学院が回収したのだろう。割れた窓ガラスだけがそのまま放置されていた。
「ただいま……」
返事がないことなんて百も承知だ。それでも、言っておきたかった。あの日は言えなかったその言葉を。
あれからもう十日と言うべきか、まだ十日と言うべきか。どちらにせよ、それだけの時間が経っているのは変わらぬ事実だ。
桐原の屋敷で最初に目覚めた時には、ただ虚無感と無力感に襲われただけだったけど。再びこの場所に来て、織の胸には今更ながら悲しみが去来する。
「本当、いきなりすぎるだろ……」
呟いたのを皮切りに、込み上げてくるものを抑えられなかった。目尻には雫が溢れ、視界が霞む。せめてそれが零れ落ちないように上を向くけれど、耐えることなんて出来なかった。
あの日の朝は、本当にいつも通りだったのだ。上の階にあるリビングで三人揃って朝食を摂り、母が作ってくれた弁当を持って塾へ行った。
行ってきますと言って、行ってらっしゃいと言われて。
その何気ない挨拶が、最後の会話になった。
事務所の奥へと足を進める。割れた窓ガラスの前には、所長である父親が座っていた机が。所長なんて名ばかりだった。そもそも両親の二人しかいなかったこの事務所では、いつも凪が冴子の尻に敷かれていて、経営自体も冴子が回していた。
そんな凪に呆れながらも、けれどたしかに尊敬していたのだ。魔術師として、探偵として、父親として。
主を失った机は埃を被っている。その上に指を這わせながら在りし日のことを思い返していると。
カツン、と。
音が、鳴った。
事務所の外から聞こえたそれは、何度も繰り返し聞こえてくる。階段を登る足音に違いない。
目元を拭い、腰のホルスターから銃を抜いた。扉に銃口を向けて構える。
ここには人払いと魔物避けの結界が張られているから、学院の一部関係者しか辿り着けないはずだ。もしもやって来たのが敵で、この結界を無視出来るほどの実力者だとしたら。果たして、今の織が太刀打ちできるかどうか。
やがて足音が鳴り止み、扉がゆっくりと開かれる。ゴクリと唾を飲み込んで引き金に指をかけた。
そして扉の向こうから現れたのは、
「私よ、私。銃を下ろしなさい」
「愛美……?」
こんな時間だというのに未だ制服を着ている愛美だった。もっとも、織だって制服でここまで来ているから、服については人のことを言えないのだが。
なぜ愛美がここに来たのかは不明だが、敵じゃなかったことに安堵した織は銃を下ろしホルスターにしまう。
「なにしに来たんだよ」
「織が部屋から出た気配がしたから、追いかけて来ただけよ。そっちこそ、なんでここに来たの?」
「俺は……」
なぜ、と問われれば、明確な答えを返せるわけではない。あの日からここには全く来なかったというのもあるし、昼間のルーサーの言葉が気がかりだったのもある。
でも、強いて言葉にするのなら。
「ただいまを、ちゃんと言えてなかったから、かな」
「そう。ちゃんと言えた?」
「ああ」
事務所の中に入った愛美は、織の隣へと歩み寄る。割れた窓ガラスの向こうに浮かぶ月は、あの日と違い三日月だ。
「ねえ織。あなた、自分の未来のことって考えたことある?」
静かな夜の事務所内に、愛美の綺麗な声が響く。しかしその質問の意図は分からず、織は首を傾げた。
「自分が大人になった時のこと。高校を卒業した後のこと。その時自分はどんな人間になっていて、どんな仕事をしていて、どんな人と結婚してどんな家庭を持つのか。思い浮かべたことくらい、あるんじゃない?」
「お前は?」
「もちろんあるわよ。でも、どれだけ想像してみても、今と対して変わらない自分がいるだけだった。学院との縁は切れないだろうし、今みたいに依頼をこなして魔術師を殺して、魔術世界で生きていく。今更私みたいなのが現代社会に馴染めるとも思わないし、そうこうしてるうちに独り身のまま時間が過ぎて、いつか地獄に落ちるんだろうなって」
「やけに具体的だな」
「そんなことないわよ。これくらいなら、誰だって思いつくわ。それで、あなたはどうなの?」
「そうだな……父さんみたいな探偵になりたいとは、ずっと思ってたよ。この街の色んな人から頼りにされて、時には便利屋みたいに扱われてたけどさ。それでも、俺も父さんみたいに、色んな人から頼られる人間に、そんな探偵になりたいって」
「今も?」
「今も、だな。でも、今は目の前のことで精一杯だし、なにより事件のことが最優先だから、それ以上は考えられねぇよ」
「なら、私と二人でやってみない? 探偵事務所」
「は?」
唐突に言われたその言葉が信じられなくて、織は思わず聞き返してしまう。
振り向けば、三日月を見上げたままの愛美は、口元に柔らかな笑みを浮かべていて。
一瞬、その横顔に見惚れてしまった。
「形から入るのよ。あなたが桐生凪のような探偵になりたいと言うなら、まずはその探偵自体にならないといけないでしょう?」
「いや、そうだけど……他にももっと色々と問題があるだろ」
「場所とか活動資金なら、お父さんに頼めばどうにでもなるわ。最初の方は組からの下請けって形で実績を作ればいいし、学院長に頼んでそっちの依頼を回してもらうのもありね。サーニャやルーサーを探す上でも、探偵やってたら情報も入ってくるかもしれない。諸々の準備もあるから今すぐにってわけにはいかないだろうけど、悪くない提案じゃないかしら?」
やけに具体的なプランが出来上がっている。もしかして、愛美は何日か前から考えてくれていたのだろうか。
たしかに殆どの問題は難なくクリアできてるとは言え、一番重要なことが残っている。
「お前はいいのかよ」
「なにが?」
「出会ってまだ十日しか経っていない男と、二人三脚で探偵事務所の経営だぞ?」
家族だなんだとは言え、その短い時間を覆せるわけではない。織はまだ愛美の全てを理解しているわけではないし、愛美だって織のことを十分に理解しているわけではないだろう。
少なくとも、織自身は愛美のことを信頼している。十日前も、昨日も助けてくれて、短い時間ながらもそれなりの言葉を交わし、ちょっとしたハプニングもあったりして。当然のように情も湧いている。
けれど、織がそうだからと言って愛美も同じだとは限らない。それなりに親愛を向けてくれているとは思っていたけれど、急にこんな提案をしてくるほどだなんて思ってもいなかった。
「別に私は構わないわよ。そもそも、私が提案してるんだから」
「まあ、そうだな」
「それにね、さっき言ったでしょう? このまま生きていれば、私の未来は今と変わらないもの。それってとても退屈だと思うの。だから私も織に倣って、見えている未来を変えてみようかなって」
月に向けられていた笑みがそのまま自分に向けられて、織は頬が熱を持つのを自覚した。それを悟られたくなくて顔を逸らせば、クスリと耳触りのいい音色が聞こえる。
ああ、クソ、なんでこんなに顔が熱いんだ。愛美が美少女だからか。そうだきっとそうに違いない。
「それで、どう?」
「どうって言われてもな……そこまで聞かされて、俺が断れるわけないだろ」
篭った熱を吐き出すつもりで溜息を落とす。その言葉をイエスと取ったのだろう。愛美は上機嫌な声音で決まりね、と呟いた。
「帰ったら早速お父さんに相談してみましょう。私が家を出るとなると、煩くなりそうだけど」
「は? 待て待て、家を出るってなんだよ?」
「なにって、そんなの決まってるじゃない。事務所作るんだったらそっちに住むでしょ」
「いや、そりゃそうだけど、俺だけじゃダメなの? お前まで住むのは問題あると思うんだが……」
「あら、なにか不満かしら? こんな美少女と二人一つ屋根の下よ?」
「それが問題あるって言ってんだよ!」
俺、今度こそ山に埋められるか東京湾に沈められるんじゃないだろうか。
桐原の屋敷に来た日の、虎徹を始めとした組のみんなの目つきを思い出して、織は身震いするのだった。
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