第3話
織が桐原の家に住むことになってから、一週間が経過した。
この一週間、実に平和な毎日だったと言えるだろう。朝は五時に起きて朝食を作る手伝い、朝食後は洗濯、昼からは自由に過ごし、夕方になれば夕飯の準備を手伝う。
まるでハウスキーパーとして雇われたみたいな生活だが、あんな事件があった後だ。英気を養う意味でもありがたくはあった。
愛美はと言えば、朝食を食べ終えてすぐに学院へ行き、夕飯前に帰ってくる。こうして見ている分には普通の学生と変わらないが、実際にやっていることは大違いだ。
一方で、あの日から桃の姿は一度も見なかった。まあ、ここは桃の家ではないのだし、そう頻繁に訪れることもないだろう。愛美曰く、研究室に篭ってるとのことらしい。これはたまにあることらしいので、桃については放っておく。
そんなこんなで、実に平和な一週間が過ぎたのだった。
「お前、朝から食い過ぎじゃね?」
屋敷に住んでる全員で朝食の時間。織はこの一週間、突っ込もうかどうか迷っていたことをついに切り出す。
織の視線の先は、隣に座る愛美。彼女が持つ、白米を山盛りにされたお椀へ向けられていた。
今まさしく箸で白米を口に運ぼうとしていた愛美は、可愛らしく小首を傾げる。
「いや、そんな『なに言ってんだこいつ』みたいな顔されても困るから」
「なに言ってんのあんた」
「口に出せとは言ってねぇよ!」
我関せずとばかりに食事を進める愛美は、やはりその量になんの疑問も持っていない。
今日の朝食はとてもシンプルな和食だ。だが愛美一人だけ、白米もおかずも量がみんなの倍以上はあった。最初に見た時なんて目を疑ったものだ。だがこの場の誰もがそれを当然のものとして受け入れていたので、迂闊に突っ込めなかったのだが。
「私にとってはこれが普通よ」
「や、普通ではないだろ」
「いい、織? 普通っていうのは酷く曖昧な概念よ。それは個人個人によって違ってくる。あなたにとっての普通が私にとってはそうでないように、私にとっての普通があなたとは違って当然なのよ」
「なんか説教臭く言おうとして誤魔化そうとしてないか?」
「そんなことないわ」
「せめて俺の顔を見て否定しろ」
まあ、愛美の言うことも一理あるな、と織は思う。それにしたって朝食でこの量は多すぎるが。因みに、昼はどうか織には分からないが、夕飯はこれよりも更に多かった。山盛りの白飯を一日三杯以上は必ず食べる。
そんなに食べてよく太らないものだ、と口には出さないが思わずにいられない。しかしその答えは織の向かい側、この一週間、織に家のことや、昔からの日課であった魔術の鍛錬に付き合ってくれていた、若頭の虎徹からだ。
「お嬢はよく脳を酷使するからな。そのせいでよく食べるんだよ」
「そうなんすか?」
「ま、お嬢が実際に動いて戦ってるとこ見てみねぇと、ピンと来ないかもしれねぇな」
その一言で余計にピンと来なくなったのだが、豪快に笑っている虎徹にはそんなこと分かっていないだろう。
脳みそを酷使する、と聞けば頭脳労働が真っ先に浮かぶ。余程複雑な術式の魔術でも扱っているのだろうかと思ったが、それなら動いて戦ってる所なんて見なくてもいい。
なにより、愛美は短剣を所持していた。それを織はあの日の夜にも見ている。織の予想では、恐らく愛美は魔術よりも体術や剣術が戦闘でのメインになっているのだろう。
いやでも、その二つで脳を酷使することなんてあるのだろうか?
考えれば考えるほど分からなくなって、結局織は思考を中断させて朝食に集中することにした。
「そんなことより織。今日は学院に行くわよ」
「え、俺も?」
アジの塩焼きをつついていると、愛美からいきなり言われてしまった。せっかく綺麗に骨が取れそうだったのに、驚いた拍子にバラけてしまって台無しだ。余計に食べづらくなってしまった。
一方で織を驚かせた張本人は、アジの骨を綺麗に取っている。ちょっとドヤ顔なのが可愛いじゃねぇか。
「お父さん、入学の手続きは終わりそう?」
「あと三日か四日ってところだな。話だけは通してあるが、あちらさんでも色々とあるらしい。ま、こっちからお願いしますで終わるとは最初から思っちゃいなかったがな」
「そういうわけだから、先に学院長に挨拶でもして、既成事実を作っちゃうってわけ」
織はフリーの魔術師、それもまだ見習いの域を出ない程度だったので、魔術師の世界にさほど詳しいわけではない。一般常識程度なら父親から教えてもらっているが、あくまでも知識として知っているだけだ。
だから学院側で色々とあるらしい、なんて聞くと、なんだかヤバいことにでもなっているのかと不安になってしまう。
「まあ、俺はいいけどさ。まだ正式に所属してるわけでもないのに、いいのか?」
「私がいいって言ったらいいのよ」
「いいのか……」
果たして愛美にどのような権限があってそう断言しているのかは分からないが、事前に学院を見て回れるのは織にとっても悪いことではない。いきなり学院のトップに挨拶というのは、若干緊張してしまうが。
しかし、もしも万が一、学院に入れませんでした、なんてことになってしまうのは避けたいのだ。
織には、どうしてもやらなければならないことがあるのだから。
「そういうことだから、ご飯食べたら準備しなさい。昨日のうちに制服も貰ってきてるし」
「分かった」
ともあれ、まずは朝食だ。学院に行くとなれば、腹ごしらえはしっかりしておかなければなるまい。
小骨があちこちに散乱しているアジと戦う織の横で、愛美は満足そうに白米をお代わりしていた。
◆
「うん、よく似合ってるじゃない」
「制服が似合わない高校生なんていないと思うぞ」
朝食後、織はあてがわれた部屋の中で制服に着替えていた。学院の制服は黒のブレザーだ。特に変わった特徴もなく、全国を見て回れば似たような制服の学校が見つかるようなもの。
先程部屋に入ってきた愛美も、女子用の制服に身を包んでいた。ちょっとスカートが短くないかと思うものの、織にとっては眼福でしかないので言わないでおく。
タイツ履いてるからどうせ中は見えないし。
制服がよく似合っている愛美だったが、しかしそんな可愛らしい外見には似つかわしくないものが、その手にあった。
「一応聞いとくけど、それなんだ?」
「あんたに渡しとこうと思って。魔術の媒介にするもよし、そのまま使うもよし。護身用に持ってて損はないでしょう?」
はい、と渡されるがままに受け取ったのは、ハンドガンとそのホルスター。手の上でズッシリと重みを主張しているそれは、たしかに本物の銃だ。
「グロック18C。フルオートでも撃てるけど、反動でかいし集弾性は悪いしで最悪だから、基本はセミオートで使っときなさい」
「なんでこんなもんがあるんだ……」
「ヤクザで魔術師の家よ? なにがあってもおかしくはないでしょ」
思いっきり軍用の拳銃なのだが、それでもおかしくないのだろうか。まあ、ヤクザで魔術師だし。たしかになにが出てきてもおかしくはないのだろうけど。
実際ありがたくはある。織は攻撃に使える魔術をそれほど多く使えないし、このハンドガンを媒介にすれば、簡単な魔力弾くらい撃てるようにもなるだろう。
でも普通の射撃はあまりしないでおこう。そういうのは訓練された人がするものであって、たった今初めて本物の銃を触った素人である織が撃っても、当たるはずがないのだから。
セーフティだとか弾の装填だとかを愛美から教えてもらい、ホルスターをベルトに通して銃をそこに収めた。腰回りがちょっと重くて動きづらいが、そのうち慣れるだろう。
幸いにして、ホルスターはブレザーで上手く隠れてくれているから、道を歩いていても直ぐにお巡りさんのお世話になることはなさそうだ。
「よし。それじゃあ行きましょうか」
「そういや、学院ってどこにあるんだ? まさか街中にあるわけでもないだろ?」
「さすがにそんなことはないわよ。魔術ってのは秘匿されないとダメなものなんだから」
言いながら庭に出る愛美を追い、靴に履き替えながらも、織は父に教えられたことを思い出していた。
魔術は秘匿されるべきもの。魔術世界での一般常識である。だから織も、以前まで通っていた高校の友人たちには魔術のことなんて喋らなかったし、人前で魔術行使することもなかった。
現代社会と魔術世界は、鏡合わせの関係だ。決して交わってはいけない。いや、交わることが出来ない。
大昔、まだ腰に刀を差していたような頃ならいざ知らず。科学技術が高度に発展した今の世の中では、そもそも魔術なんて眉唾、誰も信じちゃくれない。
さてでは、秘匿されるべき魔術の総本山、その支部である学院はこの国のどこにあるのだろうか。街中でないとすれば、山なり森なりの中に隠しておかなければならなくなるが。
「どこにあるのかは行ってからのお楽しみ、と言いたいところだけど。ヒントくらいは出してあげましょうか。この国で一番高いなにかの近くにあるわ」
「一番高いなにか?」
値段、ではないだろう。それこそ街中になりそうだ。魔力濃度でもなさそうだ。あまりにもそれが濃すぎると、人間にとっては害になる。では大きさ的な意味の高さか?
考える織を見て愛美がクスリと笑みをこぼし、おもむろに詠唱を始めた。
愛美が紡ぐ言葉に呼応して、庭中に魔力が渦巻く。淡い光はやがて形を成し、地面に大きな魔法陣を形成していく。
まるで歌のようだ。
青空の下で響く力ある美しい声に、織はただ聞き惚れていた。
自分や両親の詠唱は、ただ魔術を行使するためだけの無機質なものに過ぎなかったのに。
どうして目の前の女の子は、こうも美しい音色を奏でられるのだろう。
詠唱とは魔術を行使する上で、己の魔力を励起させ制御するためのものだ。高度な魔術であれば例外を除いて必須になるだろうし、簡単な魔術でもその精度を高めるために詠唱することもある。
ゆえに、本来はただ言葉を羅列するだけでいいのだ。
それだけで、いいはずなのに。
「こんなもんね。これで転移するから……って、どうかした?」
魔法陣が完成し、満足気に頷く愛美。視線を感じたのか織の方を振り向くと、小首を傾げて問うてきた。
ただ織としても、お前の詠唱に聞き惚れてた、なんて素直に言うわけにもいかなくて。可愛らしい顔から目を背け、言い訳がましく口にする。
「いや、転移なんて上級魔術使えるんだなと思って」
「あまり得意じゃないんだけどね。こういうのはいつも桃に任せてるから」
「じゃあ普段はどうやって学院まで行ってんだ?」
「訓練がてら走ってるわ」
なるほど、つまり学院はここから走っていける距離にあるのか。
実はまだ桐原邸から一度も外に出ていない織ではあるが、ここが都内だということは聞いている。つまり、学院も都内、もしくはその近辺の県にあるのか。魔術師なのだから、強化でも使えば隣の県にくらい走って行けるだろう。
「因みに走って何分くらい?」
「三十分かからないわね」
決まりだ。三十分前後となれば、東京都内ではなく近隣の県。街中にはないとのことだから、埼玉の方とかだろうか。いやでも、埼玉に一番高いものなんてあったか?
地味に埼玉のことを馬鹿にした思考だが、織がそれに気づくことはない。
「さ、行くわよ。心の準備はいい?」
コクリと頷けば、展開された魔法陣が輝き出す。その上に乗った次の瞬間。
刹那の浮遊感の後、織の視界に広がる景色は、予想の斜め上の変化を見せた。
◆
「……へ?」
思わず間の抜けた声が漏れてしまったことを、誰が責められるだろう。織にとってそこは、本当に想像以上に予想外の場所だったのだから。
目の前に広がるのは、織の背丈よりも三倍以上は大きいだろう樹の群れ。果ての見えない海のように広がるその向こうには、日本国民ならば誰もが知っている山が。
即ちここは、富士の樹海である。
「どう? びっくりした?」
クスクスと楽しそうに笑っている愛美だが、織は驚きすぎて言葉を返せない。ただ口を開けたままの間抜けな表情で立ち尽くすのみ。
たしかにこの山は日本で一番高いし、富士の樹海なんて普通は誰も近寄らない場所なら、魔術を秘匿するのにも十分だろう。だが周囲にそれらしき建物は見つからない。
いや、それ以前に。
東京からここまで走って三十分って、なんの冗談だ?
「その反応が見れただけで満足ね。ほら、入るわよ」
「お、おう……っていや、そもそもこの樹海のどこに学院があるんだよ」
「すぐ目の前よ」
「目の前?」
歩き出した愛美に慌ててついて行くと、またしても驚愕することになった。
織の目の前には富士の樹海が広がり、その奥には富士山も見えていたはずなのに。
気がつけばそこには、学校があったのだ。
日本のあちこちでよく見る高校と似たような校舎、校庭、校門。魔術学院なんてものとは思えないほど、それは一般的な高校を模していた。
今度ばかりは、織も驚くだけではない。突然現れたそれらに対して、その答えらしきものに見当がついていた。
「結界、か?」
「正解。いくら富士の樹海とは言っても、丸裸のままじゃ問題もあるみたいだから」
結界にはいくつか種類がある。織は気絶していたので知らないが、以前桃が人払いや魔物避けの効果を持つ結界を使用していた。それ以外にも様々なものが存在していて、学院を覆うのは偽装のための結界だ。
これほどの規模の結界となると、術者が直接張っているのではないだろう。恐らく、何箇所かに基点を用意して、そこへ定期的に魔力を流すことで結界を維持している筈。
ともあれ、なるほどこれなら、魔術の存在を外に漏らすことはないだろう。そもそもが富士の樹海なんていう誰も立ち寄ろうとしない場所で、その上で結界まで張り巡らせている。どうせ偽装だけでなく、人払いや魔物避けも同時に発動しているのだろう。
見たことないレベルの高度な結界に織が感嘆していると、誰かが校門前、織と愛美よりも数歩離れたところに音もなく転移してきた。
「ごめん、遅れちゃった!」
「三分遅刻ね。後でジュース奢りなさい」
「三分ごときでけち臭いなぁ殺人姫さんは」
「二百歳の魔女には三分ごときだと時間が経過したうちに入らないのかしら? 更年期障害かなにか?」
「まだ百九十七歳ですー!」
「四捨五入って知ってる?」
なんだかとんでもない数字を叫んでいるのは、学院の制服を着た桃だ。織が会うのはあの日以来となる。
愛美との言い合いを適当に切り上げた桃が、改まって織の方に体を向けた。
「や、織くん。一週間ぶりだね。元気にしてた?」
「お、おう。いや、それより二百歳だとか魔女だとか殺人鬼だとか、なんかよく分からん数字やら単語が聞こえたんだけど……」
「殺人鬼じゃなくて、殺人姫ね。鬼じゃなくて姫だから。そこは間違えないで」
愛美に訂正を求められた。あだ名とか二つ名っぽいけど、気に入ってるんだろうか。
ていうか、それにしても物騒すぎる気がするのだけど。
殺人、なんて言葉。織の知っている愛美からは程遠いものに思えてならない。
「その辺は後で説明するから、とりあえず学院長のとこに行きましょう。桃、話は通してあるんでしょうね?」
「もちろんだよー。あいつはわたしに逆らえないし、ちょっとお願いしたらすぐオッケーしてくれたよ」
学院長をあいつ呼ばわりしたり、先日は人類最強をアレ呼ばわりしたり、桃が二百歳というのはどうもマジっぽい。容姿は完全にただの女子高生と変わりないというのに、いったいどんな手品を使っているのか。
なにはともあれ、やっぱり俺は割とヤバい女の子たちに助けられたらしいと再確認する織であった。
「さて、それじゃあ改めて。ようこそ、魔術学院日本支部へ!」
「神秘と叡智の最奥を代表して、私たちがあなたを歓迎するわ」
それでも、少なくとも織の目には。普通の女の子となんら変わらない笑顔が二つ映っていた。
◆
愛美と桃の二人に連れられ、学院内、校庭のすぐ近くを歩く。外観は日本の高等学校と変わらない、魔術なんてものとは関わりのなさそうなもの。
校庭では生徒たちが部活らしき活動に精を出しており、校舎の作りや材質だって魔術的な意味は見受けられない。
が、しかし。当然ながら、普通の高校と違うところだってある。いや、ガワが同じなだけで、そこに所属している生徒は普通の人間ではないのだ。
だったら、校庭でユニフォームに身を包み野球をしている生徒たちが、リアルに火の玉ボールを投げていたり、それを平然と打ち返したり、高く打ち上がったそのボールが落下を始めるよりも前に捕球されたり、なぜか乱闘が始まって様々な攻撃魔術がグランドを飛び交っていてもおかしなことではないのである。
「いやおかしいだろ! なんで乱闘になってんだよ!」
「みんな血気盛んだからねー。野球部は特にヤンチャなのが集まってるから」
我慢できずに織が突っ込んでしまえば、隣を歩く桃がのほほんと返す。
いや、そもそも。織が想像していた魔術学院とは乖離しすぎていて、他にも突っ込みたいところはあるのだ。
神秘と叡智の最奥なんて言うくらいだから、みんなもっと魔術の研究に精を出したりしてるものだと思ってたのに。
何故、部活の真似事なんてやっているのだろう?
「普段は中々乱闘騒ぎにまで発展しないんだけどねぇ。ここのところ愛美ちゃんが留守にしがちだったし、気が抜けてるのかな?」
留守にしがち? それは学院を、ということだろうか。桐原邸にいた織としては、愛美は学院に行ってるものだと思っていたのだけど。
そんな疑問を口にしようとした矢先、突然目眩に襲われた。身に覚えのある、けれど決して慣れないこの感覚。
未来か見えてしまう前兆だ。
「織……?」
突然立ち止まった織に、愛美が訝しむ声と視線を向けてくる。
果たして見えた未来とは、極々直近の未来だった。
「愛美、後ろ!」
「は? 後ろ?」
振り返る愛美。その数秒後、乱闘騒ぎの中心から巨大な火球がこちらに向かって飛んできていた。織たち程度なら余裕で呑み込んでしまうような大きさだ。
織が見た未来。その中にあったものと同じ。
それを前にして、愛美はただ溜息を吐いただけだった。なにをしてるんだと言葉が出かけ、それよりも前に、火球が消えた。
いや、より正確に言うと、真っ二つに切れたのだ。その結果魔力が霧散し、火球はその熱のみを残して完全に消滅していた。
「今のは……」
「愛美ちゃんの異能だよ」
異能。魔力を介さない、超常の力。
愛美がそれを発揮し、火球を斬った、ということか?
疑問に思う織の中には、しかしたしかな心当たりがあった。桐原の家に住まわせてもらうことになったあの日、織の魔法陣が真っ二つに切れたじゃないか。その時愛美は、短剣を取り出していた。
そう、まさしく今のように。
「魔術学院には本部支部問わずに、一つだけ取り決めがあるのよ」
たった今振るったばかりの得物の腹をトントンと指で叩きながら、愛美が言う。
その声が、今まで聞いて来た彼女のどの声よりも低く、妙な圧を感じて、それを直接向けられているわけではないにも関わらず、織は若干たじろいでしまった。
「学院の敷地内では私闘を禁ずる。まあ、破ったからってこれと言ったペナルティがあるわけでもないけど、それでも取り締まる必要はあるでしょ?」
その圧の正体に、織は遅れて気づく。
殺気だ。愛美は今、校庭で乱闘騒ぎを起こしている生徒全員を、殺すつもりでいる。
浮かべている表情は笑顔。ただし、これも織の知らない表情。冷酷で、凄惨で、惨忍な笑顔。こちらが彼女の本当の顔なのだと、織は直感した。
「集え」
詠唱が開始される。数十分前の、歌うように綺麗な声ではなく、そこに殺意を込めた声。
「我は疾く駆けし者、万物万象悉くを斬り伏せ、命を刈り取る者」
愛美を中心として、魔力が渦巻く。それを察知したのか、乱闘を起こしていた野球部の面々が一斉に愛美の方を向いた。
渦巻く魔力はやがて収斂され、黒いタイツに包まれた愛美の脚へと宿る。
「お、おい! ヤバイぞ、風紀委員の二人だ!」
「なんで殺人姫がいるんだよ! しばらく学院は留守にしてたんじゃなかったのか⁉︎」
「そんなこと俺が知るか! いいからとっととズラかるぞ!」
「逃すわけないでしょ」
気がつけば、愛美は野球部たちの中心まで移動していた。まさか無詠唱で転移をしたのかと織は疑ったが、違う。地面にはたしかに、愛美が駆け抜けた跡がある。
「概念強化。わたしを含めた他の誰にも真似できない、愛美ちゃんだけの魔術だよ。今愛美ちゃんが発動した『神足』なら、走るという行為、概念を強化する。だから普通の強化魔術ではあり得ないスピードで動ける」
そもそも、一般的な魔術師は強化魔術をそれほど多用しない。攻撃魔術とは基本的に、中距離以上から放たれるものだ。さきほどの火球がいい例ではある。
おまけに強化魔術にも限界がある。身体強化とは読んで字のごとく、身体能力を強化する、つまりは筋力を代表とした運動能力の向上が主な効果だ。限界以上に強化すれば先に体の方が悲鳴を上げてしまうだろう。
だが、愛美の使用する概念強化は、運動能力を強化する魔術ではない。結果的にはそう言った効果を得られるだろうが、本質はそこじゃない。
これも文字通り、概念を強化する魔術である。脚は走るためのもの。短剣は斬るためのもの。そう言ったある種の存在意義をより強固にする魔術。
通常の強化とは、そのアプローチもプロセスも全く異なっている。そもそも、概念に干渉する魔術だなんて織は見たことがなかった。
それくらいに高度な魔術なのだ。
魔術師のくせして短剣を持ち接近戦を行い、あろうことか概念強化なんていうものまで使う。
桐原愛美は魔術師でありながら、戦士でもあるのだ。
「よく見ておいた方がいいよ、織くん。あれが桐原愛美。あれが、殺人姫だから」
魔女の言葉に応えるように、殺人姫が舞う。
一人を回し蹴りで昏倒させ、一人を短剣で斬り刻み、また一人を掌底で腹を抉る。
「殺しちゃダメだよー」
驚いてなにも言えず、ただ見ていることしか出来ない織と違い、桃はこんな状況に慣れているのか愛美に向かってそんなことを言っている。
しかし殺人姫は止まらない。今もまた一人、反撃のために放った魔術をその術式ごと斬り伏せられ、逃げようと背を向けたところで後頭部を掴まれ地面に叩きつけられた。
圧倒的すぎる。そもそも愛美は、魔術という魔術をあまり使っていないのに。最初に使用した神足だけ。あとは殴って蹴って斬り刻んでの繰り返し。
人数差なんて関係ない。どれだけの魔術師が束になろうと、誰も止められないのではないだろうか。織がそう錯覚してしまうほどに、愛美は強かった。
恐らく、彼女の体術にも秘密があるのだろう。織の動体視力では追うのがやっとだが、とにかく早いのだ。
速い、ではなく。早い。
もちろんスピードも十分以上にある。だがそれだけではない。常に相手の先手を取る。攻撃動作の初速が既にトップスピードに達しているのではないのかと言うほどに。
「面倒ね」
小さく呟いた愛美が、大きく地面を踏みしめた。たったそれだけの行為で、周囲にいた残りの野球部員が全員、泡を吹いて倒れる。
魔力は感じ取れなかった。だから、今のは魔術ではない。これも愛美の異能の力なのだろうかと疑うが、さきほど発揮した切断能力とも違うように見える。
そんな織の口に出さない疑問に、桃が答える。
「織くんも見てたら分かるでしょ? 愛美ちゃんの体術は、ちょっとおかしいんだよね。とある殺し屋一族にのみ伝わる体術。今のはその技の一つで、崩震って言うんだって。地面を伝って相手の波長を狂わせる技」
どうして愛美が、とある殺し屋一族とやらの体術を使えるのか。その疑問もやはり、織は口に出さない。いや、それは桃ではなく、愛美に直接聞くべきなのだろう。根拠もなくそう思うのだ。
最早立ち上がる者は一人もいないことを確認した愛美が、悠々とした足取りで織と桃の元へと戻ってくる。短剣を鞘に収め懐にしまい、殺気に溢れた表情は見る影もなく。
「桃、治療お願い」
「はいはーい」
どうやら倒れた野球部員たちは、全員命に別状はないらしい。桃がパチン、と指を鳴らせば、全員同時に復元の魔術、つまりは治療のための魔術がかけられ傷が癒えていく。
それで直ぐにでも目を覚ますわけでもなさそうだが、誰も死んでいないことに織は安堵して、そして無詠唱のままに復元魔術をこの規模で発動させた桃に戦慄するのだった。
「ごめんなさい、待たせたわね」
「いや、いいけど……」
なんと声をかければいいのか分からない。
家で普段見ていた愛美の表情とは、明らかに違っていた。桐原愛美は優しい少女だ。家族思いで、茶目っ気もあって冗談も言うような、年相応の女の子。
そんなイメージが、今の十分にも満たない時間で覆された。
あれが、桐原愛美の本性。殺人姫の正体だと言う。
「……まあ、そういう反応にもなるわよね」
そんな織の心情を察したのか、ふっと笑みを見せた愛美は小さくそう呟いた。
諦念に満たされた笑み。きっと、織と同じような反応をした相手を、これまで何度も見てきたのだろう。
その笑み一つを見ただけで、織の胸の内に言いようのない憤りが湧き上がる。
違う、そうじゃないだろう、と。この一週間、桐生織が接した女の子はどんな人間だった。
あの夜、俺に手を差し伸べてくれた、俺を家族と言ってくれた女の子は。
殺人姫なんて呼ばれるような子ではなかったはずだ。そんな言葉とは、無縁にすら思えるほどに。
今しがた織がその目で見た、愛美の姿。それが本性だとして、けれど。桐原の屋敷で織が接した愛美だって、決して嘘ということにはならない。
未だ一週間にしか満たないが、それでも愛美は、織を家族として接してくれた。
なによりも。桐生織は、自らが望んだ願いを簡単に捨てるほど、諦めのいい人間ではなかった。
力になりたいと、分不相応にも願った。ならば、その願いを未来で形にしなければならないのだから。
見誤るな。これでも探偵の息子だろう。ただでさえ、共に過ごした時間はまだ短いのだ。だったら、一週間と十分未満、どちらの時間に重点を置くべきかは分かるはずだ。
「いや、悪い。ちょっと驚いた。てか、実際愛美が怖かったのも事実だな」
頭の後ろを掻きながら言う織に、どうやら愛美は呆気にとられているらしかった。小さく口を開けたまま、そこからは織の耳に届かない程度の声が漏れる。
「でもまあ、それがなんだって話だろ? 愛美がここでなんて呼ばれてるのかなんて、正直知ったことじゃねぇし。気にならないって言ったら嘘だけどさ。それ以前に、愛美は桐原の家で一緒に暮らす家族なんだ。んなこと一々気にしてたら、これから先やっていけねぇよ」
言いながら、自然と苦笑が漏れた。自分で言っておいてなんだが、本当にその通りだと思ってしまう。
家族なのだ。
愛美は、そう重く捉える必要はないと言っていたけれど。それでも、その言葉にどのような意味を持たせるかは、織の自由だ。
これから先の未来。果たしていつまで続くのかは分からない関係ではあるけれど。明日にでも終わってしまうようなものではないのだから。
織が言葉にした通り、一々気にしていたらやっていけない。
「そう……」
素っ気なくそれだけ言って、愛美は踵を返し目的地へと足を進める。もしかして、今のセリフはちょっとキザ過ぎただろうか。愛美からしたら失笑ものだったかもしれない。
いや、あれ? 冷静に振り返ってみたらなんかどんどん恥ずかしくなってきたんだけど?
胸の内で羞恥心と必死に戦いながらも愛美の後をついて歩き始めると、前方から桃の楽しそうな声が聞こえてきた。
「あれあれー? 愛美ちゃん、そんなにニヤついちゃってどったの?」
「桃、うるさい」
「嬉しそうに満面の笑みなんて浮かべちゃってさー。あ、そういえばわたしの時も同じだったね! これで案外寂しがりやなところあるんだから、愛美ちゃん本当可愛いなぁ!」
「殺す」
「やれるものならやってみれば?」
いや、私闘は禁止じゃなかったのかよ。
愛美と桃のやり取りを聞いていると何故か赤くなった顔を抑えながら、織は頭の中でそんな突っ込みを漏らしたのだった。
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