第2話
織が目を覚ましたのは、知らない天井、知らない部屋の中でだった。
広々とした和室の中央。そこに置かれた布団で眠っていたらしい。周囲は襖に囲まれていて、今が何時でここがどこなのか、ちっとも分からない。
なにも分からない中でハッキリしているのは、昨夜の光景だ。
事務所で血塗れになり倒れていた両親。襲い掛かってきた狼の魔物。両親を殺したと思われる銀髪。
なにより、満月を背に立つ美しい少女の姿を、織は覚えていた。
あの少女が助けてくれたのか? ならその後どうなった? 両親は? あの魔物は? 見えた未来の中にいた銀髪は?
湧き上がる疑問を、しかし一度ねじ伏せる。考えたところで分からないものは分からない。まずは現状の確認からだ。
日付と時間、それからここがどこなのか。とにかくこの部屋を出ようと立ち上がり、違和感に気づいた。立ち上がった際、体に痛みが走ったとか、上手く立てなかったとか、そんなものではない。
むしろ、上手く立ててしまったことにこそ、違和感を感じた。
寝ている状態から立つと言うことは、つまり一度手を床につかなければならない。だが織は昨夜、間違いなく利き腕である右腕を負傷したはずだ。あの魔物によって。ともすれば、骨を噛み砕かれていたのではなかろうか。
だが、今はどうだ。無意識に利き腕で床に手をついたが、至極スムーズに体は動いた。
試しにゆっくりと右腕を動かす。肩を回し、肘を伸ばして縮ませ、手のひらを何度も握る。だがどれだけ動かそうとなんの問題もない。
「魔術、か……」
その答えに至るのは早かった。
魔術とはつまり、神秘の力だ。魔力を用いて、常識ではあり得ない現象を引き起こす奇跡にも等しい
あの大怪我を一晩で治せるなど、魔術以外には考えられない。もしくは、織の未来視のような異能か。後者の方が可能性は高そうだ。
いくら奇跡のような力と言えど、魔術にも限界はある。一般的な魔術師が復元の魔術、つまりは怪我を治すための魔術を行使しても、精々がかすり傷を治す程度。専門の魔術師なら完治させることは出来るだろうが、あれを一晩で治すには、術者は徹夜していないとおかしいだろう。
だがそれをするにも、魔力が保たない。
ならば魔力の介在しない、その正体のなにもかもが不明な異能の力と言われた方がしっくりくる。
異能は魔術と違い魔力を用いず、その上でその殆どが魔術よりも大きな力を発揮するものだ。自分の異能がその大きな力とやらに該当するかは、織には分からないが。
ともあれ、怪我が治っているのならそれでいい。少なくとも、織をここに連れてきた誰かは敵ではない。
気を取り直してこの部屋を出ようとした矢先、それよりも早く襖が開いた。
どうやら、あちらさんからお出ましのようだ。
「あら、目が覚めた? それは良かった。せっかく助けてあげたんだから、さっさと礼の言葉が欲しかったのよね」
「ちょっと愛美ちゃん。彼を助けたのはわたしもでしょ。わたしが治療してなかったらぽっくり逝っちゃってたんだから。愛美ちゃんもいい加減、復元魔術ちゃんと覚えてよ」
「必要ないわね」
「愛美ちゃんの家、その道の専門だったよね? 親父さんが聞いたら泣くよ? また白髪増えるよ?」
現れたのは二人の少女。昨夜の記憶、その最後にある長い黒髪の少女と、その記憶にはないお下げ髪の少女だ。二人ともどこかの制服を着用している。歳も、恐らくは織と変わらないくらいだろうか。
制服を着ている以上はまだ学生のはずだ。なら今年から高校三年生の織と同じ年、もしくは歳下。つまりタメ口でもオーケー。
こんなどうでもいい事ばかり頭が回る自分に悲しくなりながらも、織は尋ねた。
「あんたら、誰だ?」
「そっか、まずは自己紹介からだね。わたしは桃瀬桃。その腕を治した魔術師だよ。で、こっちの仏頂面な美人さんが桐原愛美ちゃん。昨日君を魔物から助けてくれたの。よろしくね、桐生織くん」
和かに答えたのは、桃瀬桃と名乗ったお下げ髪の少女。織を助けてくれた桐原愛美という少女の方は、紹介通りの仏頂面を貫いている。
自己紹介してくれたのはいいが、新たな疑問が沸き起こった。ただでさえ脳内には疑問が溢れてやまないのだから、これ以上増やさないで欲しい。
「なんで俺の名前を……」
「学院が調べたわ」
今度は愛美の方が答えてくれた。そしてその答えに、織は半ば驚愕する。
魔術学院と呼ばれる機関がある。イギリスに本部を置き、日本、アメリカ、ロシア、中国に支部を設立している魔術師の総本山だ。
魔術師を育成し、卒業生も各支部や本部を拠点に活動していると聞く。織の両親もその魔術学院の卒業生だと聞かされていた。
しかし学院なんて名称とは裏腹に、魔術世界を牛耳っている組織でもある。
全ての魔術師を監視下に置き、魔術世界を管理、運営する組織。
どうしてそんな学院の生徒が、フリーの魔術師である織の両親のところへ来たのか。
ああ、やっぱり疑問が増えたじゃないかと、織は頭を抱えたくなる。
「あんたが知りたいであろう情報を、端的に言うわよ。桐生凪と桐生冴子は死亡、犯人はおそらく銀髪の女吸血鬼。私たちは、また別の吸血鬼を追っていた。桐生探偵事務所に協力を求めにあの街を訪れたけど、私たちが来た時には既に殺されていたわ。その時丁度、銀髪の吸血鬼と居合わせたんだけど、逃げられた。追跡も撒かれて一旦事務所に戻ったところで、あんたが魔物に襲われてたってわけ。で、そのあんたを連れてきたここは私の家。ぐっすり八時間寝たあんたは朝になってようやく目を覚ました」
凪は父の、冴子は母の名だ。
聞きたくなかった。半ば分かってはいたことだけど、それでも聞きたくなんてなかったのに。
だが意外にも、織の心は怒りも悲しみも湧き上がらなかった。ただ虚無感が募るのみ。
いつだったか、父が言っていた言葉を思い出す。
魔術師なんてやっている以上、いつ死ぬかは分からない、と。
けれどまさか、こんな突然の別れになるなんて思わないじゃないか。
「その、銀髪の吸血鬼について、分かってることはないのか……?」
「残念ながらね」
「そうか……」
吸血鬼。魔物の一種であるやつらは、その名の通り血を求める。魔物の中でもかなり強力な種族だ。
今の織では、到底太刀打ちできない。
「それで、ここからの話が本題よ」
「織くんは、これからどうする?」
どうするか? 決まっている。その吸血鬼を追う。復讐なんて大それたことは考えない。織は己がどれだけ弱い存在か自覚している。吸血鬼に立ち向かったところで、返り討ちに遭い殺され食料にされるのが関の山だ。ただ、知りたい。なぜ両親を殺したのか。
その謎を解かなければならない。探偵の息子として。父のような探偵になる、その夢のため。
だが、その為の具体的な方策は何一つ思い浮かばない。織は未だ学生であり、社会的な力もなければ魔術的な力も小さい。家はあんなことになってしまったから、行くあてもないのだ。
「とりあえず、付いて来なさい。詳しい話はあっちでしましょう」
「あっちってどっちだよ」
「来たら分かるわ」
ブレザーのポケットへ手を突っ込み、愛美は部屋を出て行ってしまう。桃も何も言わずに愛美に付いて行ったので、慌ててその後を追う。歩き出した体は、やはり万全の状態だ。一欠片も変調の兆しを見せない。
部屋を出て廊下を歩く。内装を見る限り、どうやら古き良き武家屋敷のような家らしい。部屋の数から見ても相当大きな屋敷なのだろう。愛美の家だと言っていたし、もしかして金持ちなのだろうか。
迷いのない足取りで進む愛美の後ろを、借りて来た猫みたいに縮こまって歩く織。そんな織に、丁度二人の間を歩いていた桃が話しかける。
「ねえねえ、織くんってどんな魔術が得意? 異能持ってたりする?」
「え、は?」
「その魔女の言葉は適当に受け流してたらいいわよ。ただの魔術バカだから」
「むっ、
魔女だとか殺人姫だとかよく分からない単語が飛び交っているが、もしかして俺が知らないだけでこの二人は有名人だったりするんだろうか。てか、結局また分からないこと増えたじゃねぇか!
最早頭が痛くなって来た織ではあるが、そんなこと知る由もない桃は、さらに質問を畳み掛ける。
「で、どう? いつ頃から魔術習い始めたの? 実戦経験とかある?」
「さっきと質問変わってるぞ……」
「じゃあ全部答えよっか!」
はい、どうぞ。そう言わんばかりにマイクを持つ仕草で右手を顔の前に突き出される。まあ、教えたところで減るもんでもなし。助けてくれた礼もあるからこれくらいならいいかと、織は順番に答えていく。
「得意なのは魔導収束、異能は未来視、魔術は中学上がってから習い始めて、実戦はあんまないな。父さんが魔物退治してるとこ見たことならあるけど」
これで満足かとばかりに桃の顔を見返すと、何故かその可愛らしい顔を驚きの表情で溢れさせていた。
織としては普通に答えただけなのだが、なにか変なとこでもあったのか。
「嘘、魔導収束って他にも使える人いたんだ⁉︎」
「そんなに珍しいもんなのか?」
「珍しいなんてもんじゃないよ!」
愛美曰く魔術バカの桃が、目を輝かせて説明を始める。
そもそも魔導収束とはなにか。
それは自分の魔力を殆ど必要とせず、大気中や第三者の魔力を吸収し利用する魔術だ。術式の構成に込めた魔力に、吸収した魔力をさらに上乗せ。自身が消費した魔力以上の力を持つ魔術を使える。
そこまでは織も知っていることだ。この魔術を父親から教わった時に説明された。
しかし、この先は織も知らないことだった。
魔導収束は、使用できる魔術師が極端に少ないことで有名らしい。相性の問題か、才能の問題かは分からない。しかし事実として、多くの魔術師が会得しようとして失敗している。他でもない、桃もその一人だ。
なにせこの魔術を使えたら、同じ魔術師相手ではかなり有利に戦えるのだ。相手の魔力を吸収する、即ち相手は魔術を使えず、自分は持ち得る魔力以上の力を発揮できるのだから。
この魔術を開発したのは、人類最強と呼ばれるとある男。その男はごく身近な一部の人間にのみ直々に術を伝授し、その他には一切口を割らなかったという。
「でもそんな魔導収束を使えた織くんのお父さんって、何者だったんだろうね?」
「普通の探偵で普通の魔術師だったけどな。探偵やってるから、顔は広い方だったとは思うけど」
「実はアレと接点があったのかな……? いやでも、桐生なんて魔術師聞いたこともないし……」
アレ、とはまさか、話に出て来た人類最強の男とやらだろうか。そんな男をアレ呼ばわりする桃の方こそ何者なのだろう。
目が覚めてから疑問ばかりが増える織であるが、なぜか迂闊には聞けないでいた。だが、魔術師なんてのは元々秘密の多いやつらばかりだ。一々気にしていたら埒があかない。
「まあその辺はどうでもいいか。それよりも、魔導収束見せてよ! てかわたしに使ってみて!」
「いいのか? 魔力抜かれるとかなりしんどいはずだけど」
一度父さんにやられた時はキツかったなぁ、と。戻らない日常を思い出す。あの時は風邪を引いた時のように体が重くなった。ていうか実際に風邪を引いて熱も出た。
魔術師にとっての魔力とは、生命力と同じだ。そんなものを抜き取られてしまえば体力も低下するし、そうなると免疫力とか諸々も落ちて風邪だって引く。
桃はそれを、あろうことか自分に対して行えと言うのだ。
「大丈夫大丈夫! わたし、魔力の量は全世界で一番多いから!」
「えぇ……」
流石に世界一は言い過ぎだろう。魔力量なんて目に見えてわかるものでもなく、本人ですらなんとなくこの程度だろう、くらいにしか分からないと言うのに。
が、まあ、桃がやってくれと言うのだ。ここまで言われたら仕方がない。
いよいよ目の前の少女の正体が分からなくなって来た織だが、それは一旦頭の片隅に追いやり、魔力を練り上げて術式を組み立てた。
織の掌の上に、直径がサッカーボールほどの魔法陣が展開される。そこへ桃の魔力が吸収され、自分のものになっていくのをたしかに実感する。
しかし、魔力を吸い取られたはずの桃はケロリとしていて、なるほどなるほど、なんて呟きながら頷いているではないか。
「あー、そこの式はそうなってるのか……だから誰も使えないんだね。ただ、これを再現するのはちょっと骨だなぁ……」
「なんともないのか?」
「なんともないよ?」
なんともないらしい。
いやいやまさかそんなはずは。この魔法陣にはたしかに桃の魔力が吸収されたし、やろうと思えばこの場で魔術を直ぐに発動できる状態だ。
となれば、桃の言う通り、この小さな少女の中には膨大な魔力が秘められているのだろう。今まさしく現在進行形で魔力を吸収し続けているのに、顔色一つ変わらないのだ。世界一、というのも強ち嘘ではないのかもしれない。
だから、そんな彼女は一体何者なんだよ。
織はいい加減考えるのをやめた。
さてこの吸収してしまった魔力はどうしようか。持ち主に返す事も出来ないし、取り敢えずは自分の体に取り込もうかと思っていると。
突然、その魔法陣が真っ二つに割れた。
「は?」
そこに込められていた魔力は空気中に霧散していき、魔法陣は搔き消える。
何が起こった? なぜ魔法陣が割れた? 目の前で起こった現象を理解できずにいると、前を歩いていた愛美がこちらに振り返っていた。その右手には、いつの間にか短剣が。
「バカなことやってないでさっさとついて来なさい。みんな待ってるのよ」
再び前を向き、スタスタと歩き出す愛美。
もしかしたら、俺はとんでもない女の子達と関わってしまったのかもしれない。
織がその結論に至ったのは、少し遅すぎたと言うべきだろう。
◆
愛美の後をついて行き、そして通されたのは大広間。その大広間の中央で、織は出来る限り身を縮こませて正座していた。
織の背後には愛美と桃が並んで座っており、その三人の両サイドには、いかつい顔した和服姿のお兄さん達がズラリと並んでいるのだ。
やばいやばいやばいやばい!! これ絶対あれじゃん、ヤクザ屋さんじゃん!! やっぱりこの二人ヤバいやつらだったじゃん!!!
心の中で叫び、冷や汗が止まらない。なにせ左右どちらからも威圧感を与えられ、背後に控えている二人は間違いなく織よりも強い魔術師。そしてなにより、彼の目の前に座っている男性がヤバかった。
何がヤバいってマジでヤバい。語彙力をなくすほどにヤバい。
所々に白髪の目立つ頭をオールバックに整え、顔の左半分には火傷の跡、右目には刀傷が縦に走っている。子供が見たら泣き出すどころか一瞬で失禁ものの顔をした男が、織に向かって口を開く。
「オメェが桐生織か」
「ひゃいっ⁉︎」
後ろからぷふっ、と吹き出したような声が聞こえたが無視。そっちに反応している場合ではない。
「そう怖がらないでくれ、つっても無理な話か……悪りぃな、こんなに人を集めちまってよ。愛美が男を連れ帰ってきた、なんて言うもんだから、勝手に集まりやがったんだ」
「そ、そですか……」
おそらくみなさんが想像しているようなこととは大分掛け離れていると思うのですが、まあこの感じを見るに言っても分かってもらえないですよね知ってます。
チラリと右側に視線をやると、傍に刀を置いている男と目があった。めちゃくちゃ睨まれてる。怖い。
だがそんな織に対して、背後から助け舟が。
「
「すいません、お嬢」
が、声が若干震えている。具体的に言えば、必死に笑いを堪えてる感じがする。いや、さっき吹き出したのお前かよ。
クールな美人の印象とは裏腹に、どうやら愛美は意外にも茶目っ気のある女の子らしい。
改めて視線を前に戻し、気を取り直した織は自己紹介から始めた。
「桐生織です。昨日、危ないところを愛美、さんに助けてもらいました。その上一晩置かせてもらい、ありがとうございました」
出来るだけ礼儀正しく。彼らの琴線に触れないように。なにせ左右に控えている若い衆は、今にも織をとって食わんばかりに睨んでいるのだ。こんなところで死にたくない。
「俺は
しかしこの場の全員を纏める立場にある一徹は、織の言葉を笑顔で受け流した。どうやら、器の大きな人物らしい。いや、そうでなかったら織は今この場にいないだろう。
愛美と桃がこの屋敷へ連れてきたとしても、知らないうちにどこかの山の中へ放り出されるとか、最悪コンクリート詰めにされて海の中、なんてことも。
「さて、早速だが本題に入らせてもらおうか。オメェのこれからについてだ」
一転して真剣な顔つきに変わった一徹は、その鋭い眼で織を見据える。自然、抜けかけていた力が再び入り、ゴクリと生唾を呑んだ。
「オメェ自身はどうしたいと思ってる?」
「俺は……両親を殺した吸血鬼を探し出したいです。探して、どうして殺したのかを聞きたい」
「復讐は考えねぇのか?」
「考えませんね……俺なんかが立ち向かったところで、殺されるのがオチですから」
「吸血鬼を探す過程で死ぬかもしれんぞ? もしくは、その吸血鬼を探し出したとしても、話の通じないやつならどうする。問答無用で殺されるだろうな」
「それは……」
一徹の言う通りだ。自身の口からと語った通り、今の織には力が足りない。吸血鬼を殺す力はおろか、そいつを探し出す力すらも。
なら力をつけるしかない。だがどうやって? 師でもあった父親は死んだ。土下座してでも頼めばこの屋敷で色々学ばせてもらえるだろうか。
悩む織に、一徹は口角を上げて提案する。
「オメェには二つの道がある。このままフリーの魔術師として生きるか、それとも学院に入るかだ」
「学院に……?」
「ああ。学院に入れば、魔術についても学べる。今より力をつけることが出来る。ただし、自由な時間もそれなりに奪われるだろうがな」
一方でフリーの魔術師であるならば、全てとは言わずとも、多くの時間を吸血鬼の捜索に割り当てることが出来る。
だが、それでは力を得ることが出来ない。
織が選べる選択肢は、最初から一つしかなかった。
「学院に、入ることができるんですか?」
「うちはそれなりに古い家でな。学院とも昔から懇意にしてる。俺の口添えがあれば可能だろうさ」
どの道、この家に協力してもらうしかないということか。命を助けてもらった上に、そんな助力までするのは烏滸がましいだろう。ましてや相手はヤクザ。その組長だ。一徹の言葉から察するに、魔術世界でもかなりの力を持っていると推察される。
その様な事実、今の織には関係なかった。
「お願いします。俺を、学院に入れさせてください」
額を畳に擦り付ける。力がないのなら、借りるしかない。たとえ土下座しようとも、だ。
ことここに至って、織にプライドなんてものなかった。女の子に命を助けられた時点で、元々多からず持っていた彼のプライドは意味を失っているのだから。
力を得るために学院に入る。そのためなら、頭を地につけようが関係ない。
「頭を上げろ。男が簡単に土下座なんてするもんじゃねぇよ」
恐る恐る顔を上げれば、一徹はニヤリと笑っていた。
「オメェの頼み、たしかに承った。手続きはこっちでしておくから、この家にいるといい」
「いいんですか……?」
「当然だ。理由はどうあれ、可愛い娘が初めて連れ込んできた男だからな」
「ちょっと、お父さん?」
「ハハハッ! 冗談だ。ともあれ、どの道行くあてもないんだろ。だったらこの家に住め。んで、今日からオメェも、俺ら家族の一員だ」
家族。両親を失ったばかりの織にとって、その言葉はやけに胸に響いた。
今日が初対面のはずなのに。どうして一徹はここまでしてくれるのだろうか。同情したから? それとも、本当に娘が連れ込んだ男だというだけで?
分からない。分からないけれど、それでも。
「ありがとうございますッ……!」
胸の内に広がるこのあたたかさは、本物だった。
◆
織が桐原の家に住むことが決まったその日の晩は、一徹の指示で軽い宴会の様になっていた。
この広い屋敷に住んでいるのは一徹と愛美、それから一部の幹部たちだけで、愛美以外は当然のように皆男だ。そんな男所帯にも関わらず、出てきた料理は非常に美味しかった。紅一点である愛美は台所に立っていないらしいが。まあ、組長の娘でお嬢なんて呼ばれてるくらいだ。その様な雑用はやらせてもらえないのだろう。
宴は大盛り上がり。織の歓迎会のはずなのに、その織本人を置き去りにして、男たちはドッタンバッタン大騒ぎ。
意外なことは、酒を勧められなかったことか。こういう場所、こういう家だから、当然のように勧められるもんだも思っていて、断る準備もしていたのだが。
ともあれ、組の人たちとはかなり打ち解けることが出来たと言えるだろう。あの大広間でいかつい顔していたお兄さん達が、その数時間後である今ではとてもフレンドリーに接してくる。
織の方が慣れるのには、まだ暫くの時間が必要だろうが。
因みに、桃は宴会と聞いて逃げるように帰っていった。当然のようにこの家にいたから彼女もここに住んでいるものだと思っていたが、ちゃんと自分の家があるらしい。
「疲れた……あの人たちどんだけ食わすんだよ……」
宴会場から命からがら逃げ出した織は、どんどん勧められる数々の料理を思い出しながら独り言ちた。
いや、美味しかったからよかったけど。でもさすがに限度ってもんがあるじゃん? 育ち盛りだからって無限に食えるわけじゃねぇんだぞ。
胸中で愚痴るものの、それを聞いてくれる相手はいない。
とりあえず風にでも当たろうと思い、昼間に教えてもらった屋敷の縁側へと向かう。
季節はまだ春先。この時間の夜風は少し寒いくらいだろうか。借りている和服だけでは心もとないかもしれない。
目的地である縁側、広い庭がよく見えるそこに辿り着けば、どうやら先客がいたようだ。
「あら、逃げ出して来たの? それとももしかして、私を探してたり?」
縁側に座り、月を眺めていたのは愛美だった。彼女は未だ学院の制服を着ていて、他の人たちみたいに和服を着ればきっと似合うだろうなと、そんな思考が過ぎる。
「逃げ出して来た。お前があそこにいなかったのなんて気付かなかったよ」
「そこは嘘でも、探してたって言うところじゃないかしら?」
「出会ってまだ一日しか経ってないやつに、そんなセリフ吐けるか」
「それもそうね」
コロコロと笑う愛美は、やはり最初に抱いた印象とはかけ離れていた。
満月を背に立つ彼女を見て、美しいと思った。部屋に現れて自己紹介された時は、クールで冷たいやつなんだろうと感じた。
しかし、実際の愛美はご覧の通り。織の予想は外れ、可愛らしく笑っている。
「とりあえず座りなさいよ」
「ん、ああ」
こんなところで出会ったのはいいものの、さてどうしようかと悩んでいた織にとっては渡りに船。言われた通り縁側に腰を下ろせば、まだ少し冷えている風が肌を刺した。
和服の上から腕をさすると、それを見た愛美がブレザーを脱いで渡してくる。
「寒いなら肩に掛けてなさい」
「いや、いいよ。そしたらお前が寒いだろ」
ていうか、普通こういうのって男女逆じゃなかろうか。女子に上着を借りるとは、いよいよ男として終わってないか桐生織。
が、まあ、実際に寒いのは事実であって。頑なに手を引っ込めない愛美を見ていると、受け取らない方が失礼な気がして来た。
「悪い、ありがとな」
「これくらいで礼なんていいわよ。一応、今日から織も家族の一員だし」
「そう、だな」
実感はまだない。けれど、一徹も、組のみんなも、愛美も、こうして織を受け入れてくれた。
一徹の言葉が胸に響いたのは事実だ。それは織が、つい昨夜に両親を失ったばかりだから。けれど、だからこそ。織の中ではまだ抵抗もある。
「ま、家族って言ってもそう重く捉える必要はないわよ。ただ、苦楽を共にする仲間、程度に思ってたらいいわ」
「そんなもんか?」
「そんなもんよ。だからまあ、取り敢えずこれくらいは受け取っときなさい」
「じゃあ、遠慮なく」
ブレザーを受け取って、自分の肩にかける。腕を通すのは流石に無理だ。織と愛美ではそれなりに体格差があるから。
しかし、肩にかけただけでもブレザーからは甘い香りがして、隣にいる美少女のことを改めて意識してしまう。
織とて男だ。十七歳、春からは高校三年生になる予定だった。つまり思春期真っ盛り。
隣に美少女がいればドキドキしてしまうし、そんな子から優しくされてしまえば勘違いだってする。おまけに今日から、この広い屋敷の中で一緒に暮らすのだ。
意識しないわけがなかった。
隣に座る愛美を見る。月を眺める切れ長の目、長い睫毛に、透き通った鼻梁、桜色の小さな唇。長い髪は、まるでこの夜空のように漆黒だ。
あまり不躾に視線を投げすぎたか、愛美の顔が織に向けられる。
「どうかした?」
「あー、いや……そう言えば、助けてもらったお礼、ちゃんと言ってなかったと思ってな」
咄嗟に口から出たのは、織自身でも驚くほど完璧な言い訳だった。いや、咄嗟に出たからこそ、本心が漏れたのかもしれない。
愛美とこうして二人きりで話すというのは、初めてだった。目を覚ました時には桃がいたし、その後もあれよあれよという間に時間は過ぎて、ちゃんと礼を言う機会を逸していたのだ。
「家族なんだから、てのは無しだぞ。あれはそれ以前の話だったからな。それに、命を助けてもらったんだ。礼を言わないわけにはいかない」
「律儀なのね」
なにが面白いのか、愛美はやはり口元に笑みを浮かべている。
あの魔物も、愛美からすれば大した相手ではなかっただろうし、織を助けたことだってさしたる手間でもなかっただろう。
それでも、織が愛美に命を救われたのは事実だ。
「ありがとう。お前のおかげで助かった」
だから、礼を言いたかった。いや、とても言葉だけでは足りない。出来ればそれ以外の形でもこの恩を返したいところだが、生憎と今の織はなにも持っていない。
「礼をするなら、名前くらいちゃんと呼んだらどう? それこそ礼を失していると思うけど」
「そうだな、悪い……愛美のおかげで助かった。だから、ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
もしも返せるのだとしたら。いつの日か、今度は俺が愛美を助けてやれれば。
力のない織にとっては傲慢で、分不相応かもしれないけれど。
でも、願うくらいなら、許されるだろう。
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