Recordless future
宮下龍美
第1章 探偵と殺人姫
始まりの未来
第1話
丑三つ時にはまだ遠い時間。空に輝く星々よりも明るい街灯が、道行く人々を照らしている。ある者は恋人との逢瀬を楽しみ、ある者はスーツ姿で家へと急ぎ、またある者は友人と意味のない時間を過ごしている。
とある地方都市の街並みは、今日も変わらぬ日常が流れていた。
しかし、多くの人が行き交う大通りからは外れた路地裏には、街の光など届かない。ここでは月と星の輝きのみがアスファルトを照らす唯一の光源だ。
そんな中に、一つ。新たな光源が生まれる。
それは純粋な光ではない。銀色に輝き揺れる炎だ。
明らかな異常。この世の常識では考えられないナニカ。
やがて銀色の炎が消えていき、果たしてその中から現れたのは、マントのフードを被り顔を全体を覆うマスクをした一人の少女だった。
「成功、した……?」
少女は自分の掌を眺め、信じられないと言った様子で呟く。
だが、間違いない。自分はここにいる。とっくの昔に、私が生まれる前に消えてしまった、当たり前の街並みの中に。
路地裏という言葉を知識として持たない彼女に、今佇んでいるそこがどのような場所か、理解できているのかは疑問だが。
ともあれ、成功したんだ。その喜びに打ち震えるのも束の間、少女の瞳に決意の炎が宿る。
忘れてはならない。ここに来た理由を。
命を削ってまで、時間を遡った目的を。
「父さん、母さん……待ってて、私が助けるから……」
フードを目深に被り直し、少女は光の多い方へ足を進めた。
来るべき絶望を変えるために。
その光を、未来に取り戻すために。
◆
とはいえ、それは好きな時に好きなタイミングの未来が見えるわけではない。いつ、どれだけ先の未来が見えるのかは、本人にも分からないのだ。
それでいいと思う。いや、それがいい。
人間は欲張りな生き物だと、織は知っていた。十八年という決して短くはないが、長くもない人生でそれを学んだ。一度知ってしまえば、更にその先を求めてしまう。もっと、もっと、と。多くを望んでしまう。なら、元から多くを求められず望むことができない方が、何倍もマシだ。
ある種の悟りを開いてしまっているのは、この異能のお陰か。それとも、両親の職業に影響を受けているからだろうか。
少なくとも、塾帰りに目の前で馬鹿な話に興じている友人達には理解してもらえないだろう。
「いやマジだって! マジで見つけたんだよ、女子更衣室を覗けるベストプレイスを!」
「んなうまい話があるかよ。信じらんねぇ。なあ織?」
「ま、見つかって先生にチクられて停学処分がオチだろうな」
年頃の男子らしい、馬鹿な会話。織としても本当に覗けるものなら覗いてみたいと思うが、残念なことに数日前、この三人でチャレンジして失敗する未来を見てしまっている。どうかこの馬鹿な友人が馬鹿な真似をしませんように。今の織にはそう祈ることしかできない。
織はこの春から高校三年生。つまり、ついに受験生となるわけだ。あまりこう言ったおふざけも楽しめなくなってしまう。それを悲しいとは思えど、仕方のないことだとどこか諦めがついていた。
どうせこいつらだって、新学期が始まれば、やれテストがやばいだの模試がやばいだのと泣きわめくことだろう。
「ん?」
引き続き馬鹿話を楽しんでいた友人の一人が、唐突に背後へ振り返った。織たちも釣られて振り返るものの、そこにはいつもの街の風景が広がっているだけだ。
夜の街を行き交う様々な人々。そんな彼ら彼女らを誘惑する店の灯り。
「どした?」
「いや、なんか今、フード被った女がいた気がしたんだけど……」
「誰もいねぇじゃん」
「気のせいかな……」
少し気になり、織も周囲を見渡してみる。それでもフードを被ったやつなんて見当たらなかったので、友人たちには秘密にしている、とある方法でも探してみるが、しかしどこにも見当たらない。
「彼女欲しすぎて幻覚でも見たんじゃねぇの?」
「んな馬鹿な⁉︎」
「はははっ! こいつならあり得るかもな!」
「俺らももう三年だからな。彼女欲しいのは痛いほど分かるけど、妄想はほどほどにしとけよ?」
「てめぇ織この野郎!」
適当に話を逸らしつつも、帰ったら父さんに一応報告しておくか、と頭の隅に留めておく。俺なら見つけられなくても、父さんなら既になにかを見つけていてもおかしくはない。
織の両親は、探偵業を営んでいた。このさして大きくもない地方都市で、なにかと頼りにされては便利屋のように使われているものの、それでも織は両親を誇りに思っているし、自分もいつかは父親のような探偵になりたいと、常日頃から思っている。
しかし、それはあくまでも表の顔だ。両親の裏の仕事を、織はよく知っていた。そのお陰で、この街が平穏なことも。
「んじゃなー織」
「また塾でな」
「おう」
友人二人と別れ、織は夜の道を一人歩く。時刻は既に十時近い。そろそろ警察に補導される時間になってしまうし、不審者なんてものが出てくる可能性も。
前者はどうにもならないが、しかし後者はどうにか出来る自信があった。
織の両親は普通の人間ではない。魔術師という、神秘の力を振るう人間だ。それが、織の両親の裏の仕事。
織自身も両親から魔術の手解きを受けている。仕事の手伝いで、実際にその力を使ったことだってある。
誰かを守るためにその力を使え。
それが、魔術の師である父親の言葉だった。織はその言葉を胸に刻み、いつか誰かを守るために、魔術の腕を磨いてきた。
だからたかだか不審者程度なら、幾らでも撃退できるし、面倒だからすぐに逃げることだって可能だ。
とは言え、この街に不審者なんて出てくるはずもない。他の誰でもなく、織の両親によってこの街の平和は保たれているのだから。
そう呑気に考えていると、突然。なんの前触れもなく。
「っ⁉︎」
視界が、揺れた。遅れて、なにかの景色が見える。
ああ、またか、と。織は心の中でため息を吐く。また、未来を見てしまう。この感覚はいつになっても慣れない。物心がつく前からの付き合いだが、慣れる気がしない。
さて今日はどのような未来が見えるのかと待ち構え、そして実際に見えたその光景は。
「なんだよ、これ……」
地面に倒れ伏した血塗れの両親と、その前に立つ銀髪の女だった。
思わず落としそうになってしまったカバンを握り直す。気がつけば、止まっていた足は必死に地面を蹴っていた。
まさか。そんなはずはない。未来は変えられる。それはこれまでの経験で実証済みだ。
だから、まだ間に合う。この未来は変える。なんとしてでも。
胸の内で何度も何度もそう唱えながら、走る。ひたすらに走る。
やがて大通りを出て、街の灯りから遠ざかった川沿いの道。その先に、織の実家である桐生探偵事務所がある。
幼い頃から何度も通った道を駆け抜ける。
心臓がバクバクと煩い。いつも以上に家までが遠く感じる。その距離がもどかしくて、足に魔力を巡らせた。
体が軽くなるのを感じる。魔術の中でも初歩中の初歩、強化の魔術だ。
文字通りの効果を発揮して強化された筋力を振り絞り、走るスピードを更に上げる。
そうして辿り着いたのは、川沿いに佇む雑居ビル。この二階が事務所になっている。階段を駆け上がり、事務所への扉を勢いよく開いた。
「父さん! 母さん!」
事務所に入って真っ先に織を襲ったのは、強烈な異臭。血の匂いだった。それに顔をしかめながらも一歩踏み出せば、ピチャッ、と水を踏んだ時のような音と不快感。
「なあ、嘘だろ……?」
声を出しても、返事はない。いつも笑顔で出迎えてくれた「ただいま」の一言は、耳に届いてこない。
間に合わなかったのか? 未来は、変わらなかった? なぜ、どうして。いつもは上手くいっていたのに。何度だって、この目で見た未来を変えてきたのに。なんで、なんでだよッ!
叫びは胸の中で木霊し、足元の不快感も無視して前に進む。事務所の奥、いつも父親が座っていた机の前へ。そこで倒れているであろう、両親の元へ。
だが、そこへ到達する前に、足が止まった。不意に体が強張った。
なにかが、いる。この事務所の中に。まだ、なにかが。もしかしたら、両親を殺したかもしれないあの銀髪が。
恐る恐る気配のする方に視線を向ければ、そこには二つの赤い光が。違う、あれは光じゃない。目だ。
神経を研ぎ澄ます。そこにいるなにかへと意識を集中させれば、たしかに魔力を感じ取れる。
──敵だ。
逃げるという選択肢はなかった。視認できる光の高さからして、恐らくはあの銀髪ではない。それでも、逃げられない。そこに両親がいるのだから。
もしかしたら、まだ息があるかもしれないのだから。
ジリジリと後ろに下がり、壁のスイッチを押した。部屋の明かりが灯され、部屋の様子が嫌でも視界に入る。
書類は散乱しており、窓ガラスは派手に割れていた。そしてなにより、地面には大量の血。その血は紛れもなく、そこで倒れ伏している両親のものだろう。今すぐ駆け寄りたい衝動に駆られるも、けれど体は言うことを聞かない。
すぐそこに敵がいるから。
敵の正体は、狼の姿をしていた。しかし、それがただの狼ではないことは一目瞭然だ。筋肉は不自然に膨張し、獰猛な瞳は赤く光っている。なにより、魔力を感じ取れる以上、ただの動物なわけがない。
魔物の類だろう。
人や動物が変質したモノ。あるいは、魔力が形を持ったモノ。魔物の出自には様々あれど、そのどれもに共通していることは、人間に危害を加えるモノだということだ。
「お前が、父さんと母さんを……!」
先程未来を見たことなど忘れ、怒りのままに声を上げる。
それが合図となった。狼が唸り声を上げながら突進してくる。織は即座に術式を組み上げるが、狼の方が一歩早い。放出される直前だった魔力は霧散してしまい、咄嗟に顔を庇った右腕に、狼の牙が突き刺さる。そのまま押し倒された織は、あまりの激痛に顔を歪めた。
「ぐッ……ァ……!」
痛い。痛い。痛い。
痛みで意識が飛びそうだ。だが湧き上がる怒りが、織の意識を現実に繫ぎ止める。
しかし、魔力を練ることができない。狼に特別な力があるわけではなく、痛みで集中できない。
牙が食い込んだところからは信じられない量の血が漏れていて、いっそ意識を失えばどれだけ楽か。
やがて狼の牙が離れ、その顎は次の標的、織の頭に向けて開かれている。
強く目を瞑り死を覚悟した、次の瞬間。
「やっぱり面倒なことになってるじゃない」
よく通る凛とした声音が、呆れの色を帯びて事務所の中に響いた。
同時、織の上にいた狼が、標的を変える。倒れている織の反対側。砕けた窓ガラスの方へと。
朦朧とする意識の中、なんとか視線をそちらへ巡らせる。血塗れの両親の、その奥。まさか窓から入ってきたのか。声の主であるその少女は、美しい満月を背にして立っていた。
「犬っころ殺すのは楽しくないけど、仕方ないわね。我慢するとしましょう。一応、人助けも仕事のうちだし。来なさい魔物。
そう言って笑う少女の姿を最後に見て、織の意識は途切れてしまった。
◆
首と胴体が離れ離れになった魔物の死体を無感動な瞳で見下ろし、
その細い腕のどこに、狼の魔物を真っ二つに斬り裂ける力があるのか。なにも知らない人間が見れば、とてもこの美しい少女の仕業とは思えないだろう。
その美しい容姿は、魔物の返り血を帯びていた。艶やかな長い黒髪は赤黒くなり、着用している制服のブラウスなんて、元の白さは見る影もない。
その返り血を一顧だにしない彼女も、やはり普通の人間ではないのだ。
魔術師。
魔術を扱い、魔術で生計を立て、目的のために魔術を利用する者。
人死にが日常茶飯事の魔術師にとって、魔物の返り血など慣れたものだ。愛美の場合は、特に。
さて、問題はこの魔物ではない。協力を頼むはずだったそこの死体二つと、意識を失い倒れている少年だ。
死んでしまった二人は学院の方に隠蔽を頼むとして、少年はどうするべきか。悩んでいると、事務所の外から足音が聞こえて来た。
「愛美ちゃん、早いよ……」
声がして、扉の方へと視線を向ける。割れた窓ガラスから入った愛美とは違い、正規の入り口からしっかり入って来たのはお下げ髪の少女。愛美と同じ制服を着ている。彼女も愛美と同じ魔術師だ。
「桃が遅いのよ。二百年生きてる魔女のくせして、あの程度でグロッキーになってどうすんの」
「二百年前にはあんな愉快なアトラクションなかったもん!」
魔女と呼ばれた少女、
危うく乙女が出してはいけないものを出してしまうところだった。夕飯抜きであちこちを駆け回っていたのが、こんなところで功を奏したとは。
未だ恨みがましそうに睨んでくる桃の相手が面倒になったのか、愛美は顎で倒れている少年を指す。
「あれ、誰この子? もしかして一般人?」
「人払いの結界は張ってたでしょ。つまり、ここの関係者」
人払いはあくまでも、結界内を周囲の意識から逸らす程度のものだ。だからこの場に関係のない一般人が紛れ込むわけがない。
仮に結界を素通りできるのだとしたら、毎日のようにその場所にいた人物、意識を逸らそうとも、無意識のうちにこの場に辿り着ける人物だ。つまり、この事務所の人間。それも死んでしまった二人の家族と考えられる。
「んー、なら連れて帰る? このまま放置しておくのも忍びないし」
「任せるわ」
それだけ言い放ち、愛美は少年から興味を失ったかのように視線を魔物へと向けた。
愛美と桃がここに来たのには、れっきとした理由がある。
二人はとある吸血鬼を追っている過程で、所属する魔術学院の仲介により桐生探偵事務所へと協力を依頼しようとしていた。しかし、最初にここへ訪れた頃には時すでに遅く。この事務所の所長とその妻は殺されていたのだ。そしてその場には先客がいた。
銀髪の吸血鬼。二人が追っている吸血鬼とは、また別の個体。
直ぐに逃げられ、慌てて後を追い街中を探し回ったが、結局撒かれてしまった。一度事務所に戻り二人の死体について考えようかと相談していた時に、桃の張っていた結界、そこに込められた人払いとはもう一つの術式、感知魔術に反応があったのだ。
魔物と人間の、二つの反応。魔物は恐らく、血の匂いに連れられてやって来た野良だろう。だが、人払いをしていたにも関わらず人間が来たとなれば、少々面倒なことになりかねない。
そう思い全力でこの場へと飛ばして来たわけだが、その判断は正解だったようだ。一般人にせよ関係者にせよ、無駄な死は少ないことに越したことはない。多くの魔術師を殺し、殺人姫と呼ばれるようになった愛美とて、それくらいの人間性は残っている。
果たして魔物の方は大したことがなかったが、人間の方はもっと大したことなかった。拍子抜けである。こんな現場に乱入してくるくらいなのだから、それなりの魔術師かと期待していたのだが。
魔物の方も、やはり野良の魔物だ。人払いだけでなく魔物避けも張っていれば良かったかと少し後悔する。
なんにせよ、状況から見て二人を殺したのはあの吸血鬼に間違いないだろう。その手がかりが残されていないことは残念だが、地道に捜査するしかない。
「愛美ちゃん、学院の方に連絡したよ。この子連れて、一旦帰ろっか」
どうやら愛美が思考に耽っている間、桃が諸々の連絡を済ませてくれたらしい。おまけに結界を強化して、魔物避けの術式も埋め込んでくれている。これで学院の魔術師が来るまで、現場はこのままで保たれるだろう。
少年の方も、桃が治療を施したようだ。血は止まり、怪我も塞がっている。が、直ぐに目覚めることはないだろう。
桃が展開した転移の魔法陣を見て、愛美はイタズラに笑った。
「なに、転移使うの? 帰りもアトラクションを体験させてあげようと思ったのに」
「怪我人いるんだからダメ!」
憤慨しながらも魔力を放出し、転移の魔術が発動される。
一瞬の光の後、三人の姿はその場から消えていた。
◆
事務所の中が一瞬光で溢れたのを、フードを被った少女は雑居ビルの外から見ていた。
「間に合わなかった……!」
歯噛みして拳を握りしめる。自分が街で迷っている間に、最初にして最大の分岐点は過ぎ去ってしまった。ここでは、未来を変えられなかった。
そもそもなんなんだ、この時代の街は。同じような外観のビルがいくつも立ち並び、道は細い枝のように分かれていて、おまけに人が多い上に車はあんなにも多く走っている。
まるで迷宮だ。迷ってくださいと言わんばかりの迷宮っぷりだ。
異能が上手く使えていたら。そう思わずにはいられない。
この時代に来てから、少女は自身の体の変調にいち早く気づいていた。まともな術式は組めないし、頼みの綱の異能も使えない。持ってきた認識阻害のマスクは上手く作用しているみたいだが、これもいつまで使えるか。
「次は、十日後……」
十日後に、彼らと銀髪の吸血鬼が遭遇するはずだ。それまでになんとか体調を整え、最低限戦う力を取り戻さなければ。
だからまずは、そのために。
「……お腹空いた」
ぐぎゅるるる。
満月が輝く夜に、どこか虚しさを覚える音が響き渡った。
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