いつまでも甘くあまい人生を

※フォロワーさんとの会話から生まれたバレンタイン読み切りです。ネタバレですので本編+ボーナスステージ読了推奨。



 メリエール・にとって、そこは我が家の中でもっとも聖なる場所だった。彼女の身長と動線を考え、シンクや引き出しは完璧な場所に配置されている。夫手製の戸棚内に整列された可愛らしい小瓶のスパイスたちはいつもこちらに微笑んでいるし、壁に吊るされた銀の道具たちは曇りひとつない顔で眠っていた。


 普段は敬虔なる祈りの徒である女は、このキッチンでのみ女王クイーンとなる。


「ふう……できたわ」


 小さくも満足そうな呟きと共に、メリエールは大きく息を吐いた。女王の冠がわりであった三角巾をしゅるりと抜き取ると、頭上でまとめた銀の髪からふわりと甘い香りが広がる。それは愛するキッチンを占める香りと同様のものだ。午前いっぱい嗅いでいればさすがに胸焼けを起こしてもおかしくはないだろうに、作り終えた今でも彼女の心は躍っていた。


「うん。見た目はいいわね」


 冷まし網の上に鎮座するのは、ふっくらとした濃い大地色のケーキ。優しく降り積もった粉糖の雪、その山頂には近づく春を予感させる“明星すみれ”の砂糖漬けが淡く色を撒いている。


「少し甘すぎたかしら? お酒の量は適切だと思うけれど」


 メリエールは端正な顔を近づけ、全方向から慎重に完成品を検分する。先に作ってみた試作品と双子としか思えない出来だが、それは見目の話だ。使った砂糖や粉類の量も、混ぜ具合も同じ。つまりこちらの品も、問題はないはずなのだが――。


「だめね。何度作ってもやっぱり、食べてもらうまで不安が残ります」


 自分の繊細な性格に苦笑しつつ、女は細い腰から武装エプロンを解いた。豊かな胸を包む白いセーターにチョコレートが付着していないことを確認しつつ、用意していた贈答用の箱を開ける。


「……。やっぱり、新しいケーキを考えたほうが良かったかしら」


 器用に切り抜いた自前のレース紙を広げながら、メリエールはちらと菓子を見た。このレシピは彼のお気に入りだが、それ故にもう何度も作っている。実は今日という日に備えて新たなケーキ開発に幾度も挑んではいたのだが、その度に体重を増やすだけの結果に終わっていたのだった。


“あんたのケーキ、本当にどれも美味しいよ”

“ふふ、ありがとうアレイア。新しいレシピはどうだったかしら”

“この『夕陽レモンの糖蜜パイ』もよかったし、学院の伝説のパンを模した『ピリ辛メープルクリームケーキ』も、あいつにとっては嬉しいと思う。ま、あたしはちょっと色々思うところがあるけどね”

“そ、それで……一番は?”


 試食をお願いしたのは、親友である魔物まじりの少女だ。自身も村で一二を争う料理人である彼女は真剣な顔をしてしばし悩んだあと、不安がるメリエールを見たものだ。


“『明星すみれのチョコケーキ』かな”

“えっ! あ、あのよくおやつに焼いている……?”

“うん”


 机上に所狭しと並べられたケーキの中に、その地味な甘味の姿はない。少々がっかりしつつも好奇心が勝り、メリエールは身を乗り出して友に問う。


“どうして? だって、せっかくの『ヴァラテリオ・デー』なのに”

“親愛を伝える日、だからだよ。ま、このアレイアちゃんを信じなさいって” 


 薄い胸をどんと叩き、親友は小さな牙を見せてにっこりと笑った。食べきれなかったケーキをバスケットに詰め、“これだけおやつがあれば、アイツも満足でしょ”と上機嫌に帰途についてしまったのを呆然と見送ったのが昨日のこと。


「いつも通り作ったけれど……がっかりされないかしら」


 不安で菓子は不味くなる。そうと分かっていながらも、メリエールは小さなため息とともに贈り物に蓋をした。





「エッド! おかえりさない」


 温かみのある木の扉がキイと鳴る音を聞きつけ、メリエールは勢いよく椅子から腰を浮かせた。


「ただいま。メル」


 村の大工仕事を請け負う彼は、今日も明るく真面目に働いてきたのだろう。穏やかな低い声には充足感と、我が家に帰ってきたことによるささやかな喜びが満ちている。


「あの……お腹、減ってますか?」

「もちろん。今すぐ、目前の美女の生き血を啜りたい気分だ」

「もう。あなたは“亡者”じゃないの」


 彼が放ったのはいつもの冗談だが、メリエールは口に手を添えてくすくすと笑みをこぼした。結ばれてもう5年も経つというのに、こうして毎日彼に笑わされてばかりいる。


「んんーっ!」


 肩にかけていた道具鞄を降ろし、夫――エッド・アーテルは大きく伸びをした。しなやかな筋肉を蓄えた働き盛りの腕は灰色で、数多の傷の数も昔と変わっていない。言葉通り、彼は今でも立派な“亡者”なのだ。


「いやあ、何度行ってもペッゴのアトリエは迷宮だな。今日こそお天道さんを拝めなくなるかもしれないと思ったよ。それに水漏れ修繕として呼ぶのは、部屋が湖に変わる前までにしてほしいもんだ」

「お疲れさまでした。帰って来られてよかったわ」

「まったくだよ」

「!」


 疲労を知らない男の身体が軽やかに床を踏み、メリエールの眼前へと迫る。魔物の身のこなしを捉えられるわけもなく、元聖女はあっけなくその逞しい腕に捕まってしまう。


「でも俺は君に会うためなら、土を掘ってでも迷宮から這い出てくるからな」

「お、大袈裟ですよ。エッドったら……」

「本当さ」


 背に軽く回されていた腕が緩まるのを感じ、メリエールは頭上にある夫の顔を見た。跳ねがちのくすんだ赤髪に、人外の証でありながらも優しい光をたたえた金の瞳。敬愛する神からもっとも離れた存在であり、今は己にとってもっとも愛しい男の顔だ。


「じゃなきゃ、“起き上がった”甲斐がないだろ?」

「……っ」


 長い牙を覗かせてからりと笑う伴侶に、メリエールの頬は熱くなった。慌ててその心音の途絶えた胸から離れる。自分の鼓動だけ聴かれるのは恥ずかしい。そんな心中を誤魔化すため、キッチンの端に待機させていた贈り物を手に取った。


「あなたならきっと、もう香りで気づいているでしょうけど……はい。“ヴァラテリオ・デー”の贈り物です」


 すみれ色のリボンがかけられた箱を受け取った夫は心底嬉しそうに微笑みつつも、少しばつが悪そうに白状する。


「ありがとう。ああ、実を言うと3軒前に差し掛かった時から気づいてた。チョコレートは特に鼻が喜ぶからな」

「亡者の嗅覚は厄介ね。サプライズだって出来やしないんだもの」

「そんなことないさ。君の贈り物はいつだって驚きに満ちてる」

「……今回こそ、そうは言ってもらえないかもしれないです」

「? ――あ」


 器用にリボンを解いて贈り物の正体を確認した夫は、目を丸くしている。メリエールは背後で指を擦り合わせつつ、自分の心が沈んでいくのを感じた。きっとどの家でも今夜は、丹精こめた華やかなデザートを囲んでいるに違いない。しかし自分の贈り物にいささか“華”が足りないのは明らかだ。


「あの……」


 レシピはいつも通りにこなしてこそ味が保障されると信じている女は、今日もその信条を貫いていた。だからこそ、なにひとつ驚く要素はない。そのはずなのに夫ははじめに驚き――そして次の瞬間には弾けんばかりの笑顔を浮かべたのである。


「ほらな! やっぱり君は、俺を驚かせる名人だよ」

「えっ!? で、でもこれ、いつも作っているケーキですよ。飽きたんじゃないかって、ここひと月は作ってなかったけれど……」

「まさか。ちょうど数日前からこれが食べたいって思ってたところさ」


 呆然とするメリエールの前で、夫は嬉しそうに箱からケーキを取り出す。長い爪が光る手で慎重に甘味を持ち上げると、ためらうことなく豪快にかじりついた。


「美味い! やっぱり俺、このケーキが一番好きだな」

「……」


 灰色の頬を膨らませて味わっている男の顔にも言葉にも、嘘や世辞の気配はなかった。込み上げるあたたかい気持ちに少し目の端が熱くなる。メリエールはセーターの裾を握り、小さな声で言った。


「どうして……? 特別な日に贈るケーキにしては、地味すぎるわ。普通はもっと季節のフルーツや、たくさんのクリームで飾って――」

「特別さ。君がはじめてこの家で焼いたケーキだろ」

「!」


 指に付着した粉糖を舐め、歳を取ることのない夫はまるで少年のように顔を輝かせて続ける。


「新しいキッチンだったからまだ焼き加減の調節が難しくて、ちょっと焦がしたって落ち込んでたよな」

「そ、そんな昔のことっ!」

「覚えてるさ。亡者には時の流れなんて関係ない。君と暮らしはじめたこの家での出来事は全部、俺にとってはどんな報酬にも勝る宝物だ」


 天使の羽のように軽やかで、晴れ渡った空のように澄んだ言葉。彼が心からそう思って発せられた言葉に、メリエールの胸は高鳴った。


「今日は“ヴァラテリオ・デー”――親愛を伝える日だ。だからこそ俺は、一番好きな甘味を贈ってもらって幸せだよ」


 親友が持っていた自信の意味がようやく分かった。今日はなにも特別な日ではなかったのだ。飾りつけず、背伸びせず、いつもの味で。日頃の感謝はこれだけで、十二分に伝わってしまうものなのかもしれない。


「ということで、はい。これは俺から君に」

「えっ!」


 一度屈んで体勢を戻した夫の手に小さな箱が載っているのを見、今度はメリエールが目を点にした。


「悪いな、質素な包みで。ギリギリまで粘ってたから、リボンをかける時間がなかったんだ」

「そんなこと……開けてもいい?」

「あー、うん。いや、やっぱりちょっと待ってくれ。君のケーキを食べたあとじゃ、自信なくなってきた」

「なんですかそれ。開けますよ」


 急に焦りはじめた夫を置いて、メリエールはそっと蓋を開ける。そしてそのまま、王都にある荘厳なディナーレア像のごとく固まった。


 萎んでしまったのか、大きさはマフィン程度のケーキだった。しかしその濃い大地色の土台は雄々しい火山のようにひび割れ、粉糖は戦地を思わせる粉塵のごとく豪快に盛られている。薄い色をした花の砂糖漬けは我が家のものだったが、位置を迷ったのかあちこちに要らぬうさぎの穴をこしらえていた。


 不恰好で香りもかなり焦げ臭かったが、それは紛れもなく――。


「“明星すみれのチョコケーキ”……」

「えっと、だな。もちろんレシピは君しか知らないから、見よう見まねなんだ。ログが“味の分析には自信があります”とか言って材料を書きだしてくれたんだが、要らないと思われるものは省いたつもりで……」

「いただきます」

「あっ!」


 お気に入りの皿とフォークを用意するのも忘れ、メリエールははじめてクッキー以外の菓子を手で口に運んだ。生地は硬くゴワゴワとしているし、多すぎる粉糖は口内に張りつく。と思えば中央のあたりはどうやら生焼けのようで――


「メル、大丈夫か? ま、まさか本当に“うずしおタコのエキス”が隠し味ってことは」

「そんなもの入れてません。ただとても……とっても、美味しくて」


 そうとしか表現できなかった。たしかに菓子の品評会には出せない品だろう。それでもこれはやっぱり、アーテル家で誕生したケーキなのだ。


「……。不味くて泣いてるんじゃないんだよな」

「ええ……嬉しくて。ありがとう、エッド」

「お褒めいただき光栄だ。でもやっぱりケーキ作りはこれからも、君に任せていいか?」


 気遣わしげだが、どこかからかうようでもある優しい声。同時にメリエールの頬に、ひんやりとした夫の指が添えられる。あたたかな涙を拭われたのち妻である女の顔に残ったのは、光が芽吹くような笑顔だった。



「はい! 任されました」



 自分たちの“普通”は、ここにある。

 これからも変わらず続いていくのはきっと、甘くあまい毎日だ。






 いつまでも甘くあまい人生を ―完―




***


あとがき近況ノート(イラストつき):

https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330652809909613


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