エピローグ:おやすみなさい
大きく開け放った窓から、軽やかな春風が舞い込んでいる。
甘酸っぱい林檎の花の香りを含んだその風は、心地よく整えられた部屋の中を吹き抜けた。
廊下へとつながる扉が開いているのを見つけると、遊び足りない妖精のようにそちらへと駆けていく。
「……。入りますよ」
その春風を見送り部屋に足を踏み入れたのは、背の高い老人である。
質素な黒の胴衣に身を包んだ老人は、ほとんど足音を立てずに窓辺にあるベッドへと歩み寄った。
「ログレスおじいちゃんっ! おへやに入るときは、ノックしなきゃいけないのよ」
軽い足音と共に背後から掛けられた声に、老人――ログレス・レザーフォルトはゆっくりとふり向いた。
まだくびれのない腰に手を当ててこちらを見上げているのは、小麦色の髪を跳ねさせた少女である。
「……ああ。うっかり、忘れていました」
「もー。ヘンなおじいちゃん! “まじゅつ”は、いっこもまちがえないのにね!」
「そうですね。アーヴィア」
くすくすと可笑しそうに笑い、少女は小さなサンダルのかかとを鳴らして部屋に駆け込んでくる。
あっという間に祖父と並んで立つと、大きな金色の瞳を忙しそうに動かして言った。
「ねえ、おかあさんが呼んでるよ。あたらしいパイが焼けたんだって! ゆっくりでいいから、みんなでおりてきなさいって」
「……わかりました。しかし、あなたの母上に伝えてください――パイは、僕と貴女達の分だけでいいと」
「えっ?」
素直に驚いた表情を浮かべる孫に、老人は小さくうなずく。
皺に囲まれた紅い目を向けた先には、陽光が降りそそぐ大きなベッドがあった。
「あの二人は……やっと、眠ったようですから」
広いベッドの中央に、ひとりの女が横たわっている。
深い皺が物語る齢は老人と変わらないものだったが、その顔は今でも十分なほどの美しさを備えていた。銀糸のような髪が春風に数本巻きあげられ、きらきらと輝いている。
日差しをたっぷりと蓄えた寝具に包まれ、彼女はとても穏やかな顔で目を閉じていた。
「メリエールさん、おひるねしちゃったの?」
「……ええ。そうですよ」
「エッドおじちゃんも?」
孫の物珍しそうな視線は、ベッド脇の椅子に座っている男へと向けられている。
上半身を老女の脇に乗り出し、みずからの肘を枕に頬を埋めているその男はまだ若かった。
褪せた赤毛に、健康的とは言い難い――しかし、老人にとっては見慣れた――灰色の肌。赤黒い爪を有した手はシーツの上でしっかりと、そして優しく老女の手を握っている。
「……さあ。お行きなさい、アーヴィア。パイが冷めてしまいます」
「うん、わかった! おじいちゃんも、ゆっくりおりてきてねっ! でも、はやくねっ!」
小さな八重歯を見せて花のように笑い、少女は上機嫌に戸口へと駆けていく。
静かになった部屋の中でしばらく老人は思想に沈んでいたが、唐突に言った。
「貴女は行かないのですか? ロヴィア」
「!」
磨き込まれた木の床が軋み、老人のとなりにひとつの気配が現れる。
陽炎のようにねじれた空間から突如現れた少女は、真っ白な頭を老人へと向けた。
「……ログレスおじいさま」
「隠遁術が達者なのは良いことですが……貴女の姉上は、今ごろ屋根裏まで探しに行っているでしょうね」
老人の指摘に、現れた少女はばつが悪そうにうつむいた。
歳はさきほどのアーヴィアよりも下に見えたが、こちらの少女のほうが大人びた雰囲気を帯びている。
魔力に輝く紅い瞳が、落ち着きのない様子で老人をちらと見上げた。
「あの……おふたりとも、“おひるね”じゃありません」
「ずっと見ていたのですか?」
「は、はい……。ごめんなさい」
か細い声でそう謝り、少女は縮こまる。
老人はいつもどおりの平坦な調子で、孫に声をかけた。
「良いのです、孫よ。“彼”は……貴女に気づいていたのでしょう?」
「……はい。わたしのあたまをなでて“メルおばあちゃんがねむるから、しずかに”って……。そしたら、エッドおじさまも……なんだか、ねむくなってきたって……」
大きな紅い瞳が歪み、溢れんばかりの液体が滲む。
この聡い孫に子供じみた嘘をつくことは出来ないだろう。そう感じた老人は、震える白い頭に大きな手を置いた。
「……二人とも、どんな様子でした?」
「おふたりとも……わらっていました。まるで、森にピクニックにいくみたいに」
戸惑うような少女の言葉に、老人は薄い唇をわずかに持ち上げた。
「……そうですか」
「ねえ、おじいさま。おふたりは……もう、かえってこないんでしょう? どうして、あんな……」
自分の持つ知識とは異なる現実を見、ロヴィアは混乱しているようだった。
老人は無数の皺が走る手で孫の艶やかな髪を撫で、静かに言う。
「いつも、目の前に解はある。孫よ――貴女には今、何が見えますか?」
「……」
問いを問いで返されることに慣れているのか、孫は特段驚きもしなかった。小さなブーツの音を押し殺しながらそろりとベッドに近づき、突っ伏している男の顔を覗き込む。
紅い瞳が、これ以上ないほど大きくなった。
「お、おじいさま……! エッドおじさまが」
孫の上から同じように男を――長年の友を見下ろして、老人は呟く。
「……まったく。なんて締まらない顔をしているのでしょうね、この男は」
若者は、目を閉じたまま――微笑んでいた。
少女の言ったとおり、まるで胸を躍らせてどこかへ遊びに行くかのような。
あるいは、誰にも言えない特上の夢を見ているかのような――
「ロヴィーっ! どこなのぉーっ? おやつだよーっ!」
「あ……」
廊下から響きわたる声と足音に、少女はびくりと華奢な肩を強張らせた。
「ほら、姉上が痺れを切らしたようですよ。お行きなさい、ロ――」
「おっ――おじいさまは、いかないでっ!」
物静かな孫が突然口にした懇願に、老人は同じ色の目を瞬かせた。
真剣な顔で胴衣の裾を掴んでいる少女は、納得のいく返答を得るまで動かないという決意を立ち昇らせている。
「……。そんなところは、“おばあさま”にそっくりですね……」
「えっ?」
不可解だという顔をしている孫に、祖父はひとり微笑みを落とす。
「安心なさい。僕が向かうのは、娘と孫――そして、あたたかいパイの待つ部屋です」
「おじいさま……!」
「ちゃんとひと切れ、残しておいてくださいね?」
「は――はいっ!」
頬を紅潮させてこくこくとうなずいた孫は、遠ざかる姉の声を追って部屋を出て行った。
「……ご覧のとおりです。また貴方達と“組める”のは、当分――先になりそうですね」
老人の呟きには当然、誰からの返答もない。
カタンと音がして窓枠が揺れ、春風がふたたび静かになった部屋を訪れる。
林檎の木から拐ってきた白い花びらが数枚、ひらひらとベッドに舞い落ちた。
『アヴィーっ! そんなに、たべちゃだめ!』
『ふふーん! はっやいもんがちー!』
階下から騒々しい物音と、元気な笑い声が響いてくる。
筋張った肩を呆れたようにすくめ、老人は頭をふった。
「……遊び盛りの孫達の相手を、僕ひとりでやれと言うのですか。貴方は」
そう零した老人は、若者――エッド・アーテルが、今にもあの金色の目を開けて飛び起きるのではないかと期待していることに気づき、ひとり苦笑した。
なにせ彼が孫達をからかう十八番の芸といえば、一級品の“死んだふり”なのである。
しかし彼が長い牙を見せ、にやりと笑むことはなかった。
「本当に……長い“
数十年ぶりに見る、友の穏やかな“寝顔”。最後にもう一度それを見たあと、老人は背を向けた。
黒い胴衣を翻し、老いた足に見合う速度でゆっくりと廊下へ向かう。
“またな”
背後から吹きつけてきた春風に乗り、聞き慣れた声が耳を打った気がした。
足を止めた老人は顔だけでわずかにふり向き、答える。
「ええ、いずれ“また”。その日まで、友よ……おやすみなさい。良き夢を」
勇亡者さまのラストクエスト―成仏したいので、告白させてください―
完
***
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
少しでも感じたものがありましたら、星やハート、感想コメントをいただけるとものすごく嬉しいです!
また、“勇亡者さま”の外伝、
「大闇術師の弟子、学院に編入する。―魔物少女も青春したい―」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054893454910
というお話も本日より連載開始しております。
肩の力を抜いて読めるお話となっていますので、ぜひそちらもお楽しみくださいませ!
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