第111話 ふたつの影、ひとつの誓い


 

 かつて人と魔物の戦いで疲弊した荒野が、今は穏やかな夜を享受している。


 星空の中央に月を戴いたその光景は、まるで一枚の絵画のようだった。

 野営地から少し離れた地に並んで立っているのは、ひと組の男女である。


「すごい景色だ……今、はじめてこの荒野のことが好きになったよ」

「はい。私もです」


 しばらく黙って荒野を眺めていた二人は、そう呟きあって微笑んだ。


「エッド、あの……本当に、身体は大丈夫なんですか?」

「ん? ああ」


 心配そうに尋ねてくるメリエールに、エッドは軽く肩を回してみせる。


「まだちょっと動きが硬い気もするけど、大丈夫だ」

「よかった。けれど珍しい体験をしたことで、何かしらの変化もあるはずよ。しばらくは――」

「わかってる」


 神妙な顔でうなずきながらも迷わずに手を重ねたエッドに、想い人は赤面した。


「っ!」


 しかしその華奢な手のひらは、亡者の手の中に大人しく収まっている。エッドは嬉しそうに言った。


「今は、この“奇跡”を楽しまなきゃな」

「……もう。都合がいいんですから」


 苦笑する聖術師の顔が、月光にやさしく照らされている。


 誰にも乗っとられていない、彼女自身の笑顔。その美しい姿を、エッドは絵画のようだとは感じなかった。


 彼女は温かい血を有したまま、まぎれもなく自分の前に存在している。


 そのすべてが愛しく、替えのきかない貴重なものだ。


「……。長かったよ」

「エッド?」


 “聖宝”を持った勇者に打ち倒されたあの日。そして今夜までの苦労を思い出し、エッドは夜空に目を向けた。


「君のいない時間がさ。村で救出の準備をしていた時も、忙しくしてないとすぐに――良くない想像が浮かんで困った」

「……」

「もちろん君のほうが、“聖宝”の中で過ごした時間は長いと思う。俺と違って、孤軍奮闘だったろうし」


 ちらと見ると、想い人も同じように夜空に思いを馳せているようだった。


「たしかに、とても長くて……奇妙な日々でした。ずっと、意識体で過ごしていましたから。でも、ひとりじゃなかったわ。もしあの空間にずっと、自分だけが置かれていたら――気が狂っていたかもしれない」

「メル……」


 静かに語る彼女の横顔は、どこかひと回り成長したように見える。


「誰も、ひとりでは生きていけないということを思い知ったわ。それから、ひとりになった時に思い浮かんだ顔が――自分にとって、一番大事な人だということも」

「ああ、そうだな。……ところで、その“羨ましい人物”の名前を訊いてもいいか?」

「あら、それは秘密よ。でもヒントは、“ヒト”じゃないってことかしら」


 エッドの問いに、聖術師は悪戯っぽい笑みを浮かべて答える。

 それ以上の追求はせず、エッドは肩をすくめてみせた。


 砂粒を撒いたような星空にしばらく見入ったあと、メリエールは言った。


「しばらく、休暇は返上ですね。ライルベルの所業を、こちらの管理組織に報告しなければならないわ。それから、きちんと聖術師たちの弔いをして……」

「だな。港町で待ってる“小さな密偵”にも、報酬を渡さなきゃならない。帰ったら村長に、“魔人”を村に入れる許可も取ったほうがいいだろうし」


 今後について思案していたエッドは、ふと訝しむような目線を感じた。


「……それって、あの“契約書”の魔人のこと?」

「ああ。ログが使い魔として使役するらしいけど――嫌か?」

「あの大きな目玉には、あまり楽しい思い出がないものですから……。仲良くできたらいいけれど」

「大丈夫さ。それに、あいつにはまだ訊きたいこともあるしな」


 翻る緋色と、残忍な笑みを浮かべた口元が幸福な気分に影を落とす。


 積極的に関わっていきたくはないが、いつか彼らとは物騒な邂逅を果たすことになるかもしれない――そして、こういう時の自分の勘は、奇しくもよく当たる。


「……。エッド」

「うん?」


 突然想い人のほうから手を強く握られ、エッドの声が裏返りそうになった。

 見ると、真剣ながらも優しい翠玉の瞳が並んでこちらを見つめている。


「これからも、色々あると思います。あなたはこの世で、たったひとりの“勇亡者”なんだもの。なるべく穏やかに暮らしていきたいのは分かるけど……力を持つものには、良いものも悪いものも集まってくるわ」

「……だろうな。でも心配するな、何があっても――」

「私が、あなたを守ります」

「!」


 淀みなくそう言い放つメリエールに、エッドは金色の目を数度瞬かせた。


「もちろん、鎧を着て盾を構えてというわけじゃないし、相変わらずあなたに治癒術は効かないのでしょうけど――私は私のやり方で、あなたを守ります」

「……そりゃ頼もしいな」

「わっ、私、本気で――!」


 爪先立ちになって身体を乗り出してきた聖術師に、エッドは静かに頭をふった。

 決して、彼女の宣言を軽く受けとったわけではないのだ。


「いや。本当に頼もしいんだ。俺は多分、ヒトでいた時よりも――脆くなってる」

「脆く?」

「身体の話じゃないんだ」


 エッドはぼんやりと明るい野営地を見、呟いた。


「棺から出た時、見知った顔がなかったら――君や仲間が、もう遠くへ行ってしまっていたら……。俺は、とても昏い亡者人生を彷徨うことになっていただろう。君にとっては新顔のアレイアだって、今じゃ大事な仲間だ」

「エッド……」


 心配そうに銀色の眉を下げる想い人を見下ろし、エッドは苦笑する。


「それから、ラケア村の皆も。とにかく、代わり映えしない亡者の――俺の今後の人生には、そういうひとたちが絶対に必要なんだ」


 そうでなければ、長く冷たい夜を超えていけない。

 果てしない闇の時間は、魔物になった今でも恐ろしいのだ。


「俺は死んでも、相変わらず――強くなんかない」

「そうかしら」

「ああ。風邪を引かない身体にだって、心地よく住める家は必要だ。困ったらログレスの知識を借りるし、アレイアに元気を分けてもらうこともあるだろう。……それにもっと疲れたら、好きな人の膝に甘えたい」


 吹けば消えそうなエッドの声に、想い人は静かにうなずいた。


「もちろんよ。私でよければ」

「君じゃないと駄目なんだ。その……だから――」

「はいはい。わかっています。意外と心配性なのね」

「っと!」


 いきなり胸に飛び込んできたメリエールに、エッドは思わずよろける。

 なんとか裸足のかかとで踏んばると、まだぎこちない動きで想い人を抱きしめた。


「……」


 命をあらわす音が、彼女の身体を余すことなく巡っている。

 密着したその熱は、エッドの冷え切った身体にまで流れ込んできそうだった。


「私……あなたをおいて、これからどんどん歳をとりますよ。おばさんになって、おばあちゃんになって……」

「そりゃ、世界一可愛いおばあちゃんになるだろうな」

「でも、あなたはずっとその姿のままなのよ? そのうち一緒に、谷へ散歩にも行けなくなるわ」


 さらさらとした銀の髪を存分に撫で、エッドは力強く誓う。


「君の足腰が弱くなったら、俺が背中におぶってどこへでも連れて行くさ。目が弱くなったら、かわりに本を読み上げるよ」

「……この心臓が、静かになってしまったら?」

「その時は、絶対に君の手を握ってる」


 背中の服が引っ張られる感覚と同時に、メリエールはゆっくりと顔を上げる。


 温かい涙で彩られた顔の中、明るい翠玉の瞳を細めて想い人は微笑んだ。



「では……最期の日まで、ずっと一緒にいてくれますか? 私の勇亡者さま」



 自分は歴史に名を残した勇者でも、ましてや白馬に乗った騎士でもない。

 

 それでも――このひとの前では。



「もちろんだ。それに――“その先”までも」



 ふたつの存在は互いに影を寄せ合い、蒼白い月光を遮った。





<エピローグへつづく>


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