第110話 その身に宿る温度



「ッド――! エッド!!」

「うっ……!?」



 瞼を開いた途端、落ちてきた数滴の液体がエッドの目を直撃する。


「!」


 温かいその水が、人間の――想い人の涙であるということに気づいたエッドは、思わず数度瞬いた。

 聖気を含んでいるはずのその液体は、のように滑らかに灰色の肌を伝っている。


「……っ!」


 エッドは何の予備動作もなく上半身を跳ね起こし、目の前にあった華奢な肩を思い切り抱き寄せた。


「メル!」

「きゃっ!?」



 あたたかい。


 

 肌を灼くようなあの痛みはない。

 ただそこには、ひたすらに懐かしいヒトの温もりがあった。


「え、エッド! あ、あなた――!?」

「ああ、蘇ったぞ! っていうのも、ヘンだけど――とにかく、戻った!」

「……っ! ほん……と、に……っ?」


 メリエールの声が歪み、小さくなる。

 壊さないように、それでも出来るかぎり強く――エッドは想い人を抱き締めた。


「ほんとうの、本当にっ……あなた、なの……? し、しんじ、られない……っ!」

「“聖術師きみ”が奇跡を信じなくて、どうするんだ?」


 エッドの言葉に、メリエールは肩に顔を埋めた。

 細い銀の髪がエッドの頬を擦るが、くすぐったいとしか感じない。


「ずっと……こうしたかった。君は、温かいな」

「……あなたは――やっぱり、冷たいです」

「あ――わ、悪い! っ!?」


 身じろぎしようとしたエッドの背に、白い腕がしっかりと回される。

 意外なほど強い力で抱き寄せられ、エッドの鼻が想い人の肩にぶつかった。



「いいの。この大陸では、むしろ――気持ちいいくらい、ですから……っ!」



 ぐす、と鼻をすすった音が聞こえたが、それがひとつではないことにエッドは気づく。

 頭を回すと、こちらを見つめる大小ふたつの黒い影があった。


 小さい影――アレイアは、止めどなくあふれる涙を拭い、しゃくりあげている。


「う、うぅっ……! し、信じらんないよっ……! ホント“奇跡”じゃん、こんなのっ……!」

「アレイア……」


 想い人を抱きしめたまま、エッドはニッと笑んでみせる。


「ふたりとも、心配かけたな。ただいま」

「お、お、おかえりぃ……っ! あーもう、やめてよっ! あたし……こういう場面に、弱くて……っ!」


 そう白状すると、少女はとなりの男に飛びつく。その黒い胴衣に、遠慮なく泣き顔を埋めた。


 そんな弟子を珍しく引き剝がさず、彼女の師はその小麦色の頭に手を置く。


「……遺言を預けたそばから“戻ってくる”というのは、一体どのような心境なのですか? 友よ」


 紅い瞳を細めてそう問う親友の口元には、妖しい笑みが浮かんでいる。

 エッドは苦笑して答えた。


「ああ、まあ……それなりに、気恥ずかしいぞ」

「でしょうね。仕方ありません……今回だけは、忘れて差し上げましょう」

「ありがとう、ログ」


 エッドが心からの感謝を投げると、闇の友は小さく肩をすくめた。


「ところで、俺……聖気を克服できたのか? メルに触れても――ほら、このとおりだ」

「だ、だからって! 場を考慮してくださいっ!」


 横ざまにもう一度抱きしめると、腕の中でメリエールがあたふたと身を捩った。

 なんの感慨も浮かべずに観察していた闇術師は、顎に長い指を添えて思案する。


「ふむ……そのようですね。さきほど貴方の魔力は、たしかに底をついたように思いましたが――何があったのです?」

「ああ、それは――」



 *



 みずから赴いた“狭間”での出来事と、魂の魔力を注いでくれた聖術師たちの話を聞いた仲間は、しばらく呆然としていた。


 その中で、やはり最初に衝撃から立ち直ったのは闇術師である。


「なるほど……。ここ数年、己が常識を覆す事象ばかりが起きていますが――さすがに、今回の件に勝るものはないでしょうね」

「そりゃ光栄だよ。で、お前の見解は?」


 ログレスは亡者の胸の穴を見つめ、考えるように紅い瞳を細めて言った。


「亡者の魔力は、冥府寄り――闇の力と呼ばれるものです。対して、聖術師たちは祈りを捧げることで、天界の庇護――聖の力を受けています。本来、相反する属性のはずですが」

「だよな。混ざるもんなのか?」

「いえ……おそらく」


 エッドのとなりに姿勢良く座っているメリエールを見、闇術師はうなずいた。


「聖術師たちが分け与えてくれたという“魂の魔力”。これが属性に関係なく、貴方の枯渇した魔力を補ったものと考えられます。そして――そこに、少しの奇跡がまぎれ込んだ」

「どういうこと……?」


 まだ顔をほんのりと上気させたままの聖術師は、自分で思考を稼働させるのを諦めたらしい。

 またエッドが突如抱きついてくることを、ちらちらと横目で警戒している。


「つまり――“祈願成就”です。貴方がもっとも強く願っていることを、無数の強大な魂の魔力が実現させてしまった」

「え……俺が!?」

「ごく最近……いえ、長らくそう願ってはいませんでしたか?」


 淡々とした“尋問”に、エッドは慌てて手をふった。


「べ、べつに不純なことは何も――! メルにもっと触ったり、手を繋いだり、あわよくば抱き上げて海辺を散歩とかしたいなって考えてたくらいだ! 至って健全だろ!?」

「ですからっ! い、言わないでいいんですっ、そういうことは!」


 彼女の愛杖が手にとれる距離にあれば、実に良い音が荒野に響き渡っていただろう。

 その幸運に感謝しつつ、エッドは興味深い表情を浮かべている友を見た。


「それで? そのなんだかよく分からない解説で終わりなのか、大先生」

「ええ。魂の魔力については、まだ研究途中でして。正直――僕にも“さっぱり”分かりませんね」

「お前にそこまで言わすとは……恐るべし、魂の魔力だな」


 慄いているエッドに、友はわずかに口の端を持ち上げて言う。


「奇跡という理由では不服ですか? 死の淵から幾度も戻った“勇亡者”が、今さら驚く道理はないと思いますが」

「……ま、そういうことにしておくか」


 話を結んだログレスは、無言で胸にもたれかかっている弟子の後頭部に向かい呆れた声を落とす。


「いつまでそうしてるのです、弟子よ……。これでも、貴女より消耗しているのですが」

「こ、こんな顔っ……み、見せられないもん……! もうちょっと、匿ってよ」

「……。まったく……」


 そう呟きながらも胸を貸してやる友に、エッドは微笑んだ。



「じゃあ、こちらが少し移動するか」

「えっ――きゃ!?」



 急にこの場にいることに違和感を感じたエッドは、軽々と想い人を抱き上げる。

 腕の中で、メリエールは真っ赤になって叫んだ。


「え、エッド!? なにを!」

「いや。月夜の散歩でもどうかなと思って」

「それは構わないけど……じ、自分で歩けますっ! 足なら、もう治しましたし――」


 たしかに白く滑らかな素足には、傷ひとつない。

 それでもエッドは、にやりと牙を覗かせて笑んだ。



「せっかく“奇跡”が起きたんだ。海辺じゃないけど、味わったっていいだろ?」 

「……っ、もう!」



 真っ赤に腫らした目を逸らし、メリエールは抵抗を諦める。


 エッドは満足げにうなずき、力の戻った足で赤土を踏みしめた。


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