第105話 煩悩を数えて―1
「エッドさま……。いくら穏便な性格でお有名なわたくしでも、少々戸惑いを隠せないのですが?」
「完璧な怒り顔で言うことじゃないぞ、天使さま」
短い付き合いだが、天使の明らかなその怒りの表情にエッドは微笑んだ。
彼女たちがどんな種族なのかは知らない。しかし人間の感情や意思に対し理解があることは、前回の邂逅でわかっていた。
もうひとつの戸惑いの声は、聖術騎士のものである。
「貴様、何を言っている……!? わたしの代わりに、冥府に堕ちようというのか」
「誰がそんなこと言ったんだ? 俺はもちろん現世に帰るし、あんたが行くのは天界だ」
「なっ――!?」
エッドの宣言に、天使は素っ頓狂な声を上げる。
またどこからか分厚い紙束をとり出すと、千切れそうな勢いで項を繰った。
「この期に及んで、そんなご勝手が通るとお思いですか!? それにわたくし、ちゃんと聞いておりましたよ」
銀色の瞳に剣のようなするどい光を宿し、天使はエッドを睨む。
「あなたさまは今しがた、想い人さまに世紀の大告白をなさったじゃありませんか! それはもう、こっちが羨ましくなるくらいの……ええわたくし、これほど独り身を嘆いたことはありません!」
途中からなにやら個人の主張が混じってきた気がするが、エッドは褒め言葉として受けとることにしておく。
「さすがに照れるな……。まあ、返事は貰えなかったんだけど」
「お生憎ですが、そこまでは“未練”に含まれていないはずです――あ、これだわ!」
安堵の息をつき、天使は威厳高く咳払いして読みあげる。
「おほん。“現世残留許可証――対象者、勇者エッド・アーテル。上記の者は、煌々たる魂の輝きを有し……”と、前置き部分は飛ばしますね。公文書はこれだから……」
ぶつぶつ言いながら指で紙面をなぞっていた天使は、目当ての記述を見つけたらしく、今度こそという顔でエッドを見据える。
「ここです――“対象者が果たすべき未練。一。メリエール・ランフアに本心を伝えること”。ほらっ!」
「……“いち”って?」
エッドが首を傾げるのを見、天使の得意顔がぴしりと強張った。
ぎこちなく紙面にふたたび目を落とし、視力の弱った人間のように鼻を近づける。その眼光は、天界製の紙にも穴を空けてしまいそうだった。
「……“二。メリエール・ランフアと同じ家に住むこと。三。メリエール・ランフアの手料理をお腹いっぱい食べること。四。メリエール・ランフアや友と夜遊びを再開すること。五。居心地の良い庭を作り、鶏を飼育すること。六。必要であれば友人たちの結婚式を催してやること。七。メリエール・ランフアと”――。……」
キリがないと判断したのだろう。淡々と読みあげる声は、そこで途切れる。
代わりに、その顔にはまぎれもない驚愕の表情が浮かんでいた。震える白い手でさらに四枚ほど紙を送り、ようやく最後の行を探し当てる。
「ひゃく、はち……百八個の“未練”、ですって!? なんなんですか、これ!」
「はは、そんなに? 我ながら、まるで煩悩の塊だな!」
エッドは思わず吹き出したが、石像のように固まった天使を見て真面目な顔を作る。
「……なんとなく、わかってたんだ。俺の“未練”がもう、ひとつじゃないってことはな」
「こんな……こんなの、ありえないっ……! “未練”を果たすどころか、増えているなんて――!」
「“勇亡者”ってのは、欲深いんだ」
端から端までぎっしりと文字――天界語らしく、まったく読めない――で埋め尽くされた紙面を見せつけ、天使は声高に抗議する。
「げ、限度ってものがありますでしょう!?」
亡者よりも人間らしくぜえぜえと肩で息をする天使を見、エッドは苦笑して褪せた赤毛を掻いた。
「恥知らずだって? まあ、何とでも言ってくれ」
「ひとつでも成しがたいというのに、このような大量の“未練”……。あなたさまはもう、死んでいるのですよ! お忘れで――」
「忘れてないさ。じゃなきゃこんな姿、引っ張り出してこないだろ」
傷跡だらけの生気のない腕を広げ、エッドは肩をすくめてみせる。胸に加え、腹部には新たな風穴がぽっかりと口を開いていた。
この異形の姿こそ――間違いなく、今の“エッド・アーテル”なのだ。
「……いいですか、エッドさま」
一方、天使も今回は簡単に役目を譲らない。
エッドの目線より高く浮上すると、淡く輝く胴衣をはためかせ声を落とす。
「人の浮き世は、空の雲よりも早くうつろうもの。この膨大な“未練”が叶うまで、あなたさまの想い人やお仲間さまがご健勝であるとは限らない」
「だろうな。この短い間でさえ、こんなに“色々”あったんだ。これからも、面倒ごとは尽きないだろうさ」
エッドの覚悟を受けても、天使はきっぱりと頭をふった。
「天界は、気楽ですよ? 何ひとつ、ご不自由はありません。少し待てば、ほかの方々ともいずれお会いできましょう――みなお美しく、若々しい頃のお姿で」
自信たっぷりに言う天使に、エッドは深々とうなずいた。
「わかってる。こっちだって、その評判を信じて頑張ってきたんだしな」
「では!」
「けど君が言ったように、なんだって変わっていくもんだ。人間も、亡者も――俺の気持ちもな」
「……どう、お変わりになったと?」
訝しむように――しかし興味深く見守るようなまなざしを浮かべ、天の使者はエッドに問う。
「眠れなくても、寂しくても――傷ついても。それを上回るほどの楽しさと愛しさに溢れたこの世界に、俺は足をつけていたい。これからも、ずっと」
「……!」
「だから、君の上司に伝えてくれ。しばらく“お迎え”は、必要ないってな」
長い長い沈黙が降りる。
やがて天使は、銀の眉根をくっつきそうなほど寄せ、目を閉じた。
「……はああぁ。そろそろ率直にお申し上げても、よろしいですか?」
「いいとも」
「とんだ馬鹿ですね、あなたさまは」
清廉な天使の口から俗世めいた言葉が飛び出すのを耳にし、聖術騎士がたじろぐ。
しかしエッドは冗談を流す時のようにくつくつと肩を揺らし、笑った。
「だよな。どうも死んだくらいじゃ俺は――馬鹿な俺を、辞められなかったらしい」
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