第97話 残る君が、幸せなら―1
それでもメリエール・ランフアは、魂たちとの“対話”を止めることはなかった。
少しずつ――まるで、氷が溶けるように――だが、死と恨みに支配されていた彼らの心は、音を立てて動きはじめたのである。
中には会話の内容を逐一聖術騎士に報告していた者もいたらしいが、メリエールはその者を特定することに時間を費やさなかった。
「ようこそ! 来てくれてうれしいです。さあ、どこへでも掛けて」
先祖と同じく周りの声など“どこ吹く風”を貫き、すべての来訪者を手を広げて迎えたのである。
すると不思議なことに、海が凪ぐように不穏な動きは収まっていった。
「……ねえ。メルっち」
「どうしたの、ネオリン?」
久々に訪ねてきた隻眼の聖術師はいつになく真剣なまなざしを浮かべ、メリエールを見上げた。
「メルっちは、今の世界が好き?」
「……」
年端もいかぬ少女が口にする問いにしては、あまりにも難解で――あまりにも、重い。
髪の下にある白濁した瞳に、自分の心の隅々までも覗き込まれているような気がした。
「……はい。とても」
「小さな村なら、その辺の森から魔物が入り込んでくるかもしれないんだよ? そのたびに、不運な子供やお年寄りが犠牲になる。そんな、フコーヘイな世界でも?」
「ええ」
メリエールは膝をつき、少女と目線を合わせてうなずいた。
自分と同じ白い胴衣に包まれた細い肩に手を置く。まだ丸みの強い、本当に小さな肩だった。
「今の時代も、悲しいことはたくさんあるわ。やりきれないことも相変わらず、毎日のように。けれど、それだけじゃない。知ってるでしょう、ネオリン?」
「……」
メリエールは静かに目を閉じ、懐かしい光景を瞼の裏に描いた。
「眩しい朝日。早起きの鳥たちの声。日干しにした毛布の匂い……」
無機質なこの空間では嘘のようにも思えるほどの、鮮やかな思い出たち。
「季節の花の香りや、夕食のスープを煮込む素敵な音――」
「――みんなでかくれんぼをする笑い声や、焼きたてのパンをかじる音。犬のごわごわした毛がくすぐったかったこと。それから……」
自分の言葉を引きとった可愛らしい声が、大きく震える。
メリエールは、ゆっくりと目を開いた。
「ママとパパの、大きくてあったかい手……」
話し手の片方の瞳から、ぽたりと涙が伝い落ちる。
「ネオリン……」
彼女がはじめて年相応に泣いていることに気づいた時には、メリエールの瞳からも温かな水が滴り落ちていた。
「うん……そーだった……。好きなものも、楽しいことも……ボクにも、いっぱいあったなぁ……」
名残惜しそうな声で呟く少女に、メリエールは喉を詰まらせた。
その銀色の頭を、ぽんぽんと優しく撫でてネオリンは笑う。
「メルっちは、この先も……生きていきたいんだね? あの世界で」
「……はい……はい……っ! ごめんなさい……もう戻れない、あなたの前でっ……!」
とめどなく頬を流れる熱い液体が、自分でさえ押し殺していた思いを引き出す。
消えたくない。戻りたい。
優しい光が満ち、愛しい人たちが生きるあの世界へ。
「ネオリン……私はっ……!」
「いーんだよ。ボクは――“ボクら”は、自分が死んだことに怒ってるんじゃないんだ。たぶん、これからのことを心配してるんだよ」
小さな手が静かに髪を滑るのを感じながら、メリエールは鼻をすすった。
「これ、から……?」
「そう。でもね……あっちに残っている君が、幸せだっていうんなら――ボクらが“お節介”なんかしなくても、大丈夫って気がしてきちゃった!」
桃色の舌を見せ、少女は悪戯っぽく笑む。
「!」
メリエールの脳裏を、熱気に包まれた祭りの喧騒と優しい声が駆け抜けた。
“それを見て、俺は安心したんだ。ああ、もう泣いてないな――大丈夫だなって”
「……エッド……っ!」
その名を呼ぶと、心の底が驚くほどの熱を持った。
誰もいなければ、一心に駆けていき部屋を飛び出してしまいそうなほどの、渇望。
帰りたい。
彼がいる――あの家へ。
「あれれー? それって、メルっちの“ちょっとイイひと”?」
面白がるような声が耳を打ち、メリエールは我に返った。少女の言葉の意味を遅れて処理すると、今度は顔面が燃え上がる。
「ネオリン! な、なんっ……!?」
「なるほどねー。そりゃ、帰りたいワケだよねえ。相手は魔物なのに、いっけないんだー」
「ち、ちちちがっ……!」
動じるほど墓穴を掘るのはわかっているのに、耳の端まで茹であがっていく。
「……でも、ね。ボク、メルっちのこと好きだから。トクベツに、応援してあげてもいーよっ!」
「もう! ネオリン――」
「そろそろ、行こっかな」
気軽に挨拶をするように挙げた少女の手指が、金色の泡となって散りはじめている。
思わずメリエールは叫んだ。
「あなた、身体が――!」
「……ひどいことを繰り返してきたのに、ボクは天界に行けるのかな」
震える手を見つめる少女を引き寄せ、メリエールは力の限り抱きしめた。
「……行けます、もちろん! こんなに幼くて……優しい女の子なんだもの。これで神の御手が差し伸べられなかったら、私――!」
「おっとと。それ以上は、言っちゃだめ。“おしとやか”にね、メリエール……いい子にしてなきゃ、“むこう”で会えなくなるよ?」
困ったように笑い、少女も残った腕でメリエールを抱き返した。
「ジリオ、ごめんね……。ボクは、ちょっと先に逝くよ……。きみ、も……はやく……」
「ネオリン――!」
泡が弾けるように、腕の中から小さな身体が消え去る。
悲願が成就したというのに、頬を伝う液体はしばらく乾くことがなかった。
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