第93話 部屋と魔人と私



「一緒に帰れない、だって……?」

「ええ。ごめんなさい。もちろん、今から理由を話すわ。聴いてくれる? エッド」


 今すぐその色白の首筋に手刀をふり下ろし、いつかのように拐ってしまうこともできただろう。


 しかし、それでも彼女は心に決めたことを実行するに違いない。


「……わかった」


 エッドは一歩踏み出していた足を引き、うなずいた。


「……ありがとう。さてと――みんなも楽にしてください。疲れたでしょう」


 手近な木箱の端に腰かけ、メリエールは一同を見上げる。

 この勧めに異存がある者はおらず、エッド以外の人間は腰を落ち着けた。


 ちらと寄越された聖術師の視線に気づき、エッドは軽く手を挙げる。


「お構いなく。……“何か”あった時、この中で一番に動けるのは俺だからな。皆はくつろいでくれ」

「……わかったわ。ログも、その剣を手放す気はないのね?」


 闇術師は膝の上に寝かせた“聖宝”に目を落とし、うなずく。


「ええ。……どこかの“お転婆”さんの手に渡ると、危ないですからね」

「そ、それさ。持ってて辛くないの?」

「嫌な感じはしますが……僕は人間ですので。触れないほどでもありません。かの勇敢な聖術師たちも、闇の力が流れるこの身体を依り代にしようとは思わないでしょう」


 淡々とした答えに、隣の木箱に座っている弟子は恐々と身を引いた。

 刀身に灯りが映り込み、警告を発するようにちらちらと揺れている。


「そうね。だけど、心配ありません――もうその剣に、聖術師はいませんから」

「!」


 その静かな言葉は、野営地にある視線を釘づけにするのに十分な力を持っていた。


「……どこから話したものかしら。ずっと意識体だったから、なんだか時間の感覚がなくて」

「ああ。なんとなくわかるな、それ。じゃあ、自分を意識した時からの話でいいんじゃないか?」


 エッドが助言すると、聖術師は少し考えてから背筋をのばした。



「では、“契約書”の中で見てきたことから話すわね――」





 そこは文字どおり、牢だった。


 しかし王城の地下にあるような、飢えたネズミが闊歩する湿った牢獄ではない。

 一辺だけに窓のような細長い切り込みがある、正方形の真っ白な小部屋だった。


「……」


 窓の向かいで膝を抱えて座しているのは、白い胴衣に身を包んだ女――メリエール・ランフアである。


 疲労は感じていないが、何もない部屋に何時間も――いや、何日もかもしれない。時間の感覚はとうに失われている――こもっていれば、敬虔な淑女でも気分がすさむというものだ。


 据えた翠玉の目で足元を見つめ、膝に額をつけた。


(おやおや、がんばるねえ。聖術師)


 思念伝達に近い感覚で、子供のような甲高い声が頭に滑りこんでくる。


「……魔人さん」

(天上の使徒に“さん”づけされるのには、まだ慣れないねえ)


 面白がるように言ったのは、この“契約書”をとり仕切っているという魔人だ。

 窓の切り込みの向こうに広がる暗闇から、丸い金の目玉だけがこちらを覗いている。


(まったく、こっちも困ってんだよ。こんな奥のほうに閉じこもられちゃさ)

「貴方の“お仕事”を邪魔をして、申し訳ないけれど……。私も、簡単にあの勇者の言いなりになるつもりはないの。それに、署名するという約束は守ったわ」

(ひゅー。かわいい顔して、案外キョーレツなんだねぇ)


 自分は闇の友と違い、冥府の謎多き存在である“魔人”に関する知識をほとんど持っていない。


 怨霊や悪魔ならば対処できようものだが、未知の存在に一人で立ち向かうのは下策というものだろう。しかもこの小部屋の外は、完全に相手の土俵なのだ。


(でもねぇ。“契約主”サマも、毎日癇癪を起こしてうるさいんだよなあ)

「……そう」

(なあ、悪いようにはしないって。そろそろこっちに来て、ボクっちの奴隷モノになってよ。毎日、愛想よく笑ってくれるだけでいいんだからさ)


 その猫撫で声に、メリエールは粛々とした態度で応じる。


「“血肉なき者の甘言に耳を貸すは、堕落の洞穴に身を投げるに等しく”――」

(それ、大好きな聖典の言葉だろ? あー、やめてやめて。吐いちゃいそう)

「私のことも、吐き出してしまえば? すっきりするわよ」

(そういうわけにはいかないって。つーか聖女のくせに、そんな言葉使っちゃっていいのぉ?)


 呆れたような魔人の指摘に、聖術師は職に似つかわしくない不敵な笑みを浮かべる。


「……たしかに、誰から学んだのでしょうね。こんな“素敵”な言い回しは」


 今ごろ、その“誰か”はどうしているのだろう。

 闇の友とひそかに用意していた緊急時の策は、うまく発動しただろうか。


(はぁ……こりゃ、お前の意識が緩むのを待つしかないね)

「お互い、長丁場になりそうですね」

(いくら優れた術師でも、人間なら必ずいつか“折れる”。――ま、気長に待ってるよぉ)


 魔人の眼球が闇の中へと退がり、部屋にはふたたび静寂が訪れる。


 メリエールは勝手に震えはじめた腕を握り、身を固くして呟いた。


 

「……大丈夫。大丈夫よ……」





 そうして自分の“牢”に固く錠をおろしたまま、聖術師は粘り続けた。


 身体は汚れることも空腹を感じることもなかったが、やはり気力は擦り減っていく。

 そのたびに赤毛と灰色の肌を持つ男の姿が浮かび、目に光をとり戻すのだった。



――これぐらいの時間、“彼”が感じる時の長さに比べれば。



 そんな悠久とも思える日々の中でも時折、“外”の声が聞こえてくることがあった。


『本当に、お人形さんみたいだ。ルテビアの娼館に引き渡せば、こんなメイド生活ともおさらば――おっといけない、仕事仕事。お嬢様、お召し物を替えますよー。ま、聞こえないだろうけど』


 まったく知らない人物の声が聞こえたこともある。


『なんと嘆かわしい! あなたほどの術師でも、彼女を呪われた運命から解き放つことができないとは!』

『わしら魔法術師も多少の治癒を扱うが、こういう根深いものは不得手でのう。腕のいい聖術師が知り合いにおるから、紹介状をしたためて――』

『いえ、結構。彼女は繊細でね……このような姿を、多くの人に晒したくはないでしょうから』


 深い声の老人と、あの気障な勇者が言い合っているようだ。


『そうは言ってもお主、自分ではどうにも出来ぬからわしを頼ったのじゃろう?』

『……ああ、もう退がってくれたまえ、老いぼれ君。報酬は、部屋の外にいるメイドから受けとってくれ』


 金銭のために来たわけではないと激怒する声を、メリエールはどこか遠くに聞いていた。

 最近は知った声でないとわかると、すぐに興味が薄れてしまうのだ。


 自分は、誰かの救助を望んでいるのだろうか。

 人を助ける身でありながら――。


「お父様、お母様……」


 流行り病で、幼い自分を置いてあっさり逝ってしまった二人。

 それがきっかけで、山間の小さくも厳しい聖堂の門を叩いた。


「ログレス……ニータ……。レーベン……グルゲイル……」


 聖堂ではなぜか周りに馴染めなかった自分を歓迎してくれた、優しい仲間たち。


 いつも賑やかな彼らに自分がどんなに励まされ、支えられてきたか。

 忙しくも楽しい、まさに“冒険”だったあの日々は――この先の人生にとっても、かけがえのない光となるだろう。


「この、先……」


 そんなものが、あるのだろうか。


 自分の一生は、この部屋で潰えるかもしれない。

 人形のような自分に愛想を尽かしたライルベルが見限れば、それまでだ。


 もっと悪ければ“契約”はそのままに、身体だけ処分されてしまうかもしれない――彼に尽くすメイドになるよりマシではあったが、せめて祖国の土で眠りたいとぼんやり思う。


「……」


 いつかこの白い部屋は壊れ、魔人の底なしの魔力に呑まれてしまうだろう。


 なにも残らずに。

 なにも成せずに。


 なにも――伝えられずに。

 


「……エッド」



 予想外の危機に直面した時でも、いつも彼は笑顔を絶やさなかった。

 その点を尊敬していることを伝えた時、照れ臭そうに鼻の頭を掻いて彼はこう言ったものだ。


“俺だって、めちゃくちゃ焦ってたよ。でもそんな時はとりあえず、『余裕だぞ』って顔しとくんだ。そうすりゃ、怖がってるもののほうから逃げてくさ”

“すごいです、エッド……。私には、とても出来ないわ”


 その夜の彼は少し、酒が入っていたかもしれない。

 赤くなった健康的な頬――まだ灰色ではない――を持ち上げ、人を安心させてくれるあの笑みを浮かべて言っていた。


“君やログみたいな、頼りになる術師が後ろを守ってくれてるからな。だからいつも、なんとかなるって思えるんだよ”

“……!”


 その言葉を耳ざとく聞きつけたのは、エルフ混じりの友人。

 ほかの仲間を連れて乗り込んでくると、あとはいつものやりとりだ。


“ちょっろぉ、聞き捨てにゃらないわねぇー! このニータしゃまの魔法が、いらにゃいってのぉ!?”

“賛成だな。オイラの弓も、ゲイルの拳もお呼びじゃないってのかい、勇者さんよ? おいゲイル、一発ぶちかましてやれ”

“もー、みんな。エッドが珍しくかっこいいとこ見せてるんだから、そっとしておいてやりなよぉ。ねえ、ログ?”

“あいつなら、一杯目で寝ちまったぞ”


「……ふふっ」


 温かい喧騒に思わず笑んだメリエールだったが、思い出が去っていくと余計に沈黙が耳につくことに気づいてしまった。


「エッド……。私……」


 森で傷ついた彼の前に立った時、自分はきちんと笑えていただろうか。


 たった一人でも、頼りにしてもらえただろうか?



「私、やっぱり……“勇者あなた”にはなれそうも、ないです……」



 答えてくれる仲間はいない。

 霧のような暗闇が、窓の隙間から這い寄ってきていた。



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