第89話 炎の海に抱かれて
激しい頭痛とめまいに苛まれながらも、エッドは前方を見据えた。
猛る炎、飛び交う轟音と怒声。
(これは……お前の、記憶なのか……?)
(そうだ。だが、剣の中で視ているものより生々しい――この荒野で散った幾千もの魂が、そうさせているのかもしれん。魔物や聖術師は、残留する魂の痕跡に影響を受けやすい)
思念に近い声が、頭に流れ込んでくる。少し離れた位置に立っている聖術騎士の前では、人間の兵士と屈強な魔物が戦闘を繰り広げていた。
(こ、これが……“ウェリアン人魔大戦”なの……?)
アレイアの震えた声に、エッドも硬い表情でうなずく。かわりに、聖術騎士のどこか冷めたような声が答えた。
(そのような大層な呼び名など、後々つけられたものに過ぎん。魔王軍はあり余る兵力を利用し、重要拠点を同時に攻めてきた)
(じゃあ――)
(……ここは今、大陸中で勃発している戦場のひとつでしかないのだ)
その戦場は、エッドの記憶にあるどの場所をも上回る苛烈さだった。
国の境界で起こる小競り合いではなく、大陸の命運をかけた文字どおりの――“大戦”。
「耐えるのだ! 我らが退けば、故郷に暮らす愛しき者たちは皆、魔物どもに蹂躙されることになる! 腹わたで彩られた我が家が見たい者は!?」
激しい鼓舞の言葉を叫び、エッドの前を一人の男が駆け抜けていった。
まとまった数の兵士が、雄叫びを上げながら男に追従している。
(……わたしだ)
苦々しいジリオの呟きに、エッドはその聖術騎士を注視した。
鳶色の髪はまだ若く、祖国を守らんとする情熱を瞳に燃やす騎士。
しかし――。
(これは……)
(みすぼらしくて驚いただろう?)
エッドが王城で見かける、現代の騎士たちとは雲泥の差であった。
くすんだ傷だらけの鎧は薄く、盾も紋章ひとつ入っていない流通品である。率いる兵士どころか、指揮官であろうジリオ自身さえも騎乗していない。
血だまりに足を取られながら進む一団は、すべてが歩兵であった。
(物資も、騎乗するための馬さえも……すべてが不足していた。“勇者”が守る、ルテビア付近に回されたのだ。大陸の端を守る我々に、増援や食料の提供はなかった)
(そんな……! ひっ!)
目の前に倒れこんできた焼け焦げた兵士に、アレイアは悲鳴を上げた。
その虚ろな目は、もちろん少女を見てはいない。それでも炭化しはじめている手を伸ばし、呟いた。
「た……すけ……! あ、つ……い」
(あ……! ご、ごめんなさい――あたし……あたし、闇術師だからっ……!)
涙を流しながらも、アレイアはせめて負傷兵の手を取ろうとする。
しかし空を掻いた黒い指は、戦場の熱風に巻き上げられてぽろぽろと崩れ去った。
(落ち着け、アレイア! これは過去だ。俺たちはもう、何もしてやれない)
(過去……か)
戦闘の最中でもはっきりと聞こえる声で、聖術騎士は呟く。
(貴様らにとっては、そうであろうな。だが、わたしにはこれが現実だ。今なお薄れることのない――最後の記憶)
(最後って……)
エッドがそう訊くのと同時に、悲痛な叫びが戦場にこだました。
「ジ、ジリオ殿ーっ!!」
「ぐぅっ……!」
いつの間にか、走り去った歩兵団の真横に景色は移っていた。
中央に倒れた人物を守るようにとり囲む兵――全員がエッドよりも若かった――は、唇を噛み、絶望と怒りに吠えている。
「と、まるな……おまえ、たち……。すす、むのだ……!」
倒れているのは、血で鳶色の髪を濡らしたジリオであった。
鉄製の重そうな大槍に、背中の薄い装甲が易々と貫かれている。鎧の切れ目から、湯水のように血が流れ出ていた。
剣を落とした聖術騎士の傍らで、白い胴衣の若者が身を投げ出して嘆いている。
「ジリオ殿っ……! じ、自分なんかを、かばって……ッ!! ご辛抱ください……い、いま治癒を――」
「よ、せ……。わた、しは……もう、助から、ん……! 魔力を温存、しろ」
「そ、そんなの、やってみなきゃ――!」
もっとも若く見える聖術師は、長杖を握りしめて食い下がった。
ジリオは土と血にまみれた顔で微笑する。
「わたしを……だれだと、思ってる……。剣の前は、その杖を……にぎって、いたのだぞ……?」
「はい――はい、そうですっ……! 自分の、先生ですっ……!」
「その、師が……おのれの、からだのことを……わからぬ、はずが……ないだろう?」
「……ッ!! う、うううっ……!」
杖をかき抱き、若者は涙と鼻水に顔を歪める。
大きく咳きこみ、若き指揮官は激しく吐血した。一団がざわめく。
「隊長ォ! いやだ、逝かねえでくれ!」
「村で、奥さんが待ってるんでしょう!? ここは、堪えてくださいよっ……!」
「はぁ、がはっ……! だから、だ……。おまえらは……生きて……かえ、れ」
「ジリオ殿ぉっ!」
悲劇に見入っていたエッドは、ふと拳に違和感を感じた。見ると、魔物の爪が容赦なく手のひらに食い込んでいる。緩めようにも、指が動かなかった。
「ランフア……。我が、弟子よ……」
聞き覚えのある姓にエッドは目を見開いたが、もちろん誰も気にしない。
「はい、先生ッ……!」
「戦が、おわった、ら……ディナスへ、わたれ……。おまえ、は……むかしから……汗っかき、だからな……」
「そ、そんな遺言がありますかっ!? 自分は――ぼくは……!」
その間にも、魔王軍のものと思われる炎に包まれた大岩が、隕石のように付近を襲いはじめた。
轟音と熱波に打たれ、輪になっていた若者たちがついに散らばる。
「いけっ……命令、だ! 全員――前進ッ!!」
その力強い指示に、若き兵士たちは覚悟を決めて立ち上がる。
兜をつけている者は面を下ろして涙を隠し、粗末な剣を持つ者は死に逝く仲間のために切っ先を天へと掲げた。
涙を胴衣の袖で乱暴にぬぐい、生命線である聖術師も震える足で立ち上がる。
「もっ……もうだれも、死なせませんっ……!! ぜったいに……!」
「ああ……おまえ、の……すきに、しろ……」
「先生――あとで必ず、お身体を迎えにきます。しばし、待っていて下さい」
「ランフア! 行くぞ!」
「はいっ!!」
仲間に呼ばれ、若き聖術師は駆け出す。
しかし三歩と進まないうちに、その足は止まった。血痕が滲んだマントに覆われた肩が、大きく震えはじめる。
「……っ、せんせ――」
「ふり……むい、たら……おこる……ぞ……! いけッ……!!」
食いしばった歯の間からジリオは弟子を叱咤し、先へ進むように命じた。
震えていた若者の顎が涙と唾を飲み、ふたたび前を向く。
一団の足音が離れていくのを見送る間にも、すぐ近くで轟音が上がる。
炎をまとった投石が、種族にかかわらず戦地に死体を量産していった。
みずから作り上げた血溜まりに横たわり、聖術騎士は手を回して背中の大槍を引き抜いた。
「ぐっ――ああぁっ!!」
部下たちを動揺させまいと、機を待っていたのだろう。血柱が吹き出し、粗末な鎧が紅に染まる――もはや鋼色の部分を見つけることがむずかしいほどだった。
「はあっ、はっ……! いまいま、しい……鉄め……!」
恨めしくそう言い捨てる声は掠れ、覇気を失っている。
壊れた人形のように、ジリオは血の池に倒れこんだ。
「……お、わる……こ、れで……。……なが、かっ……た……」
どれほど戦い抜けば、死に際にそのような言葉を口にできるのだろう。
聖術騎士のどこか穏やかな表情を見つめ、エッドはそんな思いを馳せた。
鼻をすすりあげる音と共に、小さな声が脳内に響く。
(そんな……最後は、ひとりだったの? こんなところで)
(……。なぜ、そのようなことを気にするのだ。戦場には無数とある光景だぞ)
(でも……そんなの、やっぱ悲しいよ)
伏せている自分を見下ろしていたジリオは、その言葉にゆっくりと顔を上げた。
エッドからはその後頭部しか見えなかったが、声からはいく分か厳しさが消えている。
(魔物である上に、甘ったれとはな……)
(い、いいもん! あたしは、生きているかぎり――そういうのを全部、大事にしたいんだ)
青臭いと嗤うだろうと思った。しかしエッドの予想に反し、騎士は黙している。
みずからを問うような、長い長い沈黙だった。
(……では、戻るぞ)
(あ――貴方の身体はその、さっきのお弟子さんが……?)
命の灯火が消えるのを待っている騎士を見つめ、アレイアが心配そうに言う。
(……。あの子は、嘘はつかん)
一瞬の間を置き、ジリオは呟く。
その声に導かれ、戦火の景色は静かに溶けていった。
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