第87話 どうするんだ、騎士さま―1
夜の荒野に浮かぶ満月が、青白い光を惜しみなくふりまいている。
その下で二つの影が、接近しては絶えず火花を散らしていた。
「ハアッ! ――っく!」
ひときわ重い金属音が響き、跳ね飛ばされた女が受け身をとる。つま先が洒落た形の靴は戦いのふんばりに耐えきれず、哀れにも破れていた。
硬い地面に二条の血の線が引かれ、月光に生々しく光る。
「剣士の身体じゃないんだ、無理するな」
『傷つきし者に――』
「悪い。止めさせてもらうぞ」
想い人を打つことはしたくないが、治癒術の詠唱を見逃していたら決着がつかない。
たった二歩で間合いに飛び込んだ亡者を見、聖術騎士ジリオは顔を歪めた。
「くっ!」
血の足型を残して横ざまに跳んだ聖術騎士は、膝をついたままエッドを睨みつける。擦り切れた腰布が舞い、力なく地に落ちた。
華奢な肩を上下させて大きく息を吐き、“聖宝”の柄を音を立てて握りしめる。
「蹂躙するつもりか、魔物め……早く斬れ!」
「挑発しても無駄だぞ。お前がその人の身体を明け渡すまで、亡者らしくずっとネチネチつきまとってやるさ」
「この……!」
エッドの態度が気に障ったのか、ジリオは鼻にしわを寄せてうなる。
しかしすぐに集中状態をとり戻すと、淀みのない詠唱を紡ぎはじめた。
『博愛の
「攻撃術か? 止めとけよ、魔力を消耗するだけだぞ」
神の加護を受け、相対者の身体が淡い光を帯びはじめる。
乱暴にはしたくないが、こうなれば物理的な衝撃を与えて術者の集中を乱さねばならない。
「我慢してくれよ、メル――!」
剣を握っていない生身の手を突き出したエッドは、想い人の頭から指先に飛び移ってきた白い光を見て叫ぶ。
「あっ――つぅ! ……“
聖術師を守る、不可視の防御術である。エッドは本能から、新しい瞳を細めて魔力の流れを視た。
葉脈のように張り巡らされた聖なる魔力が、メリエールの身体をぴったりと包みこんでいる。亡者のうなじが逆立った。
やはりあの気障な勇者の付け焼き刃とは違い、相手は正規の聖術を会得しているらしい。しかも武道にも精通している。
「こりゃ、ますます触れないな」
「逃すか!」
いったん退こうと跳んだエッドに、するどい声が追従する。
その顔に浮かぶ瞳は、晴天のような蒼――高位の聖術を使用する時にのみ顕現するという神の色だ。この目を拝むのは久々である。
神に愛されし女は、高らかに詠唱を結んだ。
『極光の槍を以て、仇なす凶事を穿たんことを! ――“
「な――」
術者の背丈の倍はあろうかという光の大槍が現れたのを見、さすがにエッドは絶句した。
無数の針の雨が肌を打つような重圧に、亡者の本能が逃走を開始するよう叫ぶ。
「貫け!」
術者が細剣の切っ先を振りかざすと、光の槍はまっすぐにエッドへと向かってきた。
このように直線的な飛来物は、十分に引きつけて避ければさほど脅威ではない。エッドは金色の瞳を見開き、完璧な足運びで大槍を回避した。
「だから、逃がさんと言っただろう――撫で斬れ!」
術者が手首を返すと同時に、槍が風の尾を引いて急旋回する。その巨体からは想像もつかない俊敏さだ。
「おいおい、なんだそりゃ!」
追尾系の術だと予想していなかったエッドは、倒れるように上半身を後ろへ反らせた。後頭部の髪が赤土を掠め、鼻のすぐ上を光の刃が滑っていく。
「ぐっ――!」
重力の抱擁を避けるためエッドは手で地を突き、身体を捻った。
土煙をまといながら三度転がり、顔を跳ね上げて叫ぶ。
「――っぶない! また真っ二つになるところだった」
「……蜂の巣か千切りか。希望があれば訊いてやろう」
「悪い顔だな。悪女ってのも魅力的だけど」
「戯言を!」
軽口を叩くエッドに、容赦なく光の筋が襲いかかる。
槍というより矢のようなその凶器は、撹乱のために左右に跳ぶエッドにしぶとく追いてきた。避け続けることはできそうだが、その間に相手に立て直されると厄介だ。
『……虚に
「! この詠唱は――」
ジリオが上げた警戒の声に、エッドも反応する。
いつの間にか足元に這い寄ってきていたのは、冷気のような重い魔力だ。
『常闇の盾を以て、偽善たる慶祝を払わんことを――“
エッドと大槍の間の地面が割れ、巨大な漆黒の盾が迫りあがる。
突進の勢いを弱めることが出来なかった聖槍は、大音響をあげて盾に衝突した。
「ぐっ……」
凄まじい熱と冷気のせめぎ合い。エッドは腕で顔をかばって飛び退いたが、意外にもその戦いは一瞬で終わった。
「き、消えた……?」
焦げたような匂いを残し、巨大な術はどちらも跡形なく消え去っていた。
エッドは目を丸くしたが、それは敵も同じだったらしい。
「相対魔術だと!? 馬鹿な、現代に“この術”を知る者など――!」
「……敵ながら、感謝せねばなりませんね」
「!」
静かな声が耳を打ち、エッドは急いでふり向く。
聖術騎士も、エッドの視線を追って自身の背後を見た。
「よもやこの古術を使う場面が来ようとは……。やはりこの世に、無用な学びはない」
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