第86話 ごめんなさい、ありがとう
暖炉のそばにある、見慣れた肘掛け椅子。
そこに姿勢よく座り、小さな本に没頭している女性が映し出された。後方に現れたのは、過去の自分である。
“メル。読書もいいが、夜更かしはお肌の敵だぞ”
“きゃ! あ、エッド――ごめんなさい。もう、そんな時間?”
忍び寄ったつもりはなかったのだが、没頭のあまり気づかなかったらしい。微笑ましい姿に癒されながら、エッドは律儀に答える。
“悪いな、時間はわからないんだ。この家の時計は、どこかの聖術師と闇術師がとっ払ったらしくてな”
“ええ、そうでした。でも、もともと壊れていたんですもの”
“村には道具屋だってあるんだぞ。不便じゃないのか?”
“いいの。私がそうしてほしいって、ログレスに頼んだのよ”
本に栞を挟みながら、聖術師は楽しそうに笑む。
エッドは鼻の頭を掻き、ぼそりと言った。
“聞いたよ。
“あら。あなたの親友は、意外とお喋りなのね”
“ちゃんと対価は払ったさ。あいつの実験用品をすみずみまで磨いて得た、貴重な情報だぞ?”
苦労を語っているというのに、メリエールは可笑しそうに肩を震わす。
“ふふ。……でも、それ以外にも理由はあります。私たち、長い休暇中なのよ。だったら、時間なんて気にしなくてもいいでしょう?”
“大胆な言い分だな。けど、話がずれてるぞ。君には睡眠が必要なはずだろ”
“……”
“どうしたんだ? ここ数日、やけに粘るじゃないか”
目元に薄く残っている隈を見ながら指摘すると、聖術師は困ったようにうつむいた。
“だって……まったく眠らないあなたは、夜を乗り切るのに苦労してるって”
“……。君の友人も、ずいぶんと舌が軽いらしいな”
“黒スグリのパイひと切れで手を打ってもらいました”
“俺の情報の価値が心配になるよ”
大げさにうめいてみせたエッドに気が緩んだのか、想い人はほっとした顔で続ける。
“夜に眠らないということは、一日がとても長く感じるはずよ。しかも、もうあなたは提出すべき報告書を書くことも、遠征物資の手配に奔走することもないんですもの”
“まあ、そりゃ……多少『お暇』なことは認めるが”
“だから、私にも何かできないかって考えてたの。結局、ちょっとだけ長く起きてるくらいしか思いつかなかったけれど”
湧き上がってきたあくびを慌てて嚙み殺し、聖術師は苦笑する。
過去の自分の胸が、春のような優しい温かさに包まれるのを感じたことをエッドは思い出した。
“気遣いは本当に嬉しい。けど、君の身体が一番だ。大事にしてくれ”
“でも……。あ、そうだわ! べつに、毎日じゃなければいいのよ!”
“?”
本を放り投げそうな勢いで顔を輝かせている想い人に、エッドは首を傾げる。
“たしかに、毎日というわけにはいかないわ。でも日にちを決めて、その夜はたんと騒ぐの”
“え……”
“朝まで好きに食べて飲んで、お話をして。ベンとゲイルみたいに、札遊びに興じるのもいいわね。ログも呼んで、読書会をしてもいいわ”
“おいおい、夜更かしどころか徹夜ってことか? 大聖術師さま”
予想外の提案に面食らっているエッドに、“真面目”なはずの聖術師はどこか悪戯めいた表情を浮かべた。
“そう。……実は私、遊ぶために徹夜したことなんてないの。考えるだけでドキドキします。ああ、神罰が下らなければいいけれど!”
“怯えてる顔には見えないぞ? まったく、君もとんだ悪党になったな”
“亡者とつるんでいるんだもの。仕方ないことだわ”
そう軽やかに切り返し、想い人は微笑んだ。
“よかった。これで……あなたがひとりで過ごす長い夜を、ひとつでも減らすことができる”
伸びをしながらこぼしたその一言に、どれだけ当時の自分が救われたかわからない。
“それに徹夜した次の日は、うんと朝寝坊したらいいのよ。だって、私たちは――”
“休暇中、だもんな”
共犯者たちの笑い声が遠ざかっていく。
ふたたび黒一色に塗りつぶされた空間の中で、エッドは懐かしそうに言った。
「彼女はああ見えて、即行動派だからな。翌日はたっぷり寝て、次の夜には腕いっぱいのお菓子をかかえて居間を陣取ってた」
――みて たよ。
「そうなのか? あ……もしかして、今までのも全部知ってた?」
――しっ てた。
少し躊躇ったような声に、エッドは照れ臭くなって頭を掻く。
「そ、そうか。そもそもここで思い出せるってことは、お前の記憶でもあるってことなのか。だとしたら……ありがとうな」
――ありが とう?
そうだ。伝えるなら、謝罪よりも感謝のほうがいい。
自分が日頃から仲間に語っていたことを思い出し、エッドは丸い金色の瞳を正面から見据えた。
「ありがとう。大事な記憶を持っていてくれて。思い出したよ――死んだあとも、俺は十分幸せだったって」
生前の思い出ばかりが蘇った時には、忘れていた記憶。
しかし、“ここ”にきちんと残っていたのだ。
「俺は間違いなく死んで、魔物になった。それはもう変えられない」
――……。
「けど、これから“どうするか”は選ぶことができる。
――どう するか……。
繰り返された声に、エッドは力強くうなずいた。
胡座を解いて立ちあがり、ぐっと身体を伸ばす。今までよりもたしかに、自分の実体を感じることができた。
「ああ。俺は今から、それを選びに戻ろうと思う。でも、俺だけじゃだめだ」
膝を少し折って屈み、エッドは黒い子供に目線を合わせる。
「お前を連れて行きたい。現世にも天界にも、何処へでもだ。お前が欠けてちゃ、もう“エッド・アーテル”という存在はないんだからな」
――えっど。
「そう、俺とお前のことさ。けど今度は、ちゃんとお前の意見も聞きたい――どうしたいんだ? もうひとりのエッド」
白線が揺らめき、浮かんだ金の瞳を薄い水の膜が覆う。
――める。
――めりえーる。
丸い瞳からぽたぽたと雫が落ち、エッドの膝を打った。
――いっしょに いたい。
「……その
牙を見せて笑い、エッドは震える白線の頭をぽんぽんと撫でる。
その瞬間――すべての黒が弾けていった。
*
「ハァ、ハァッ……! くそ、やはり体力は無尽蔵か……この、魔物がっ……!」
苦々しくも、聞き慣れた美しい声。
「……」
それを合図に、エッドの手足に重みが戻ってくる。
とくに手――“義手”であることも思い出した――には、こちらを滅さんとする敵意が音を立ててのしかかっていた。
鉛のような瞼を押し上げると、赤土を踏みしめている己の素足が目に留まる。
「ああ……あのブーツ、履き慣れてたってのに」
「!?」
エッドが言葉を発したことによほど驚いたのか、腕にかかっていた重みは後方へ跳び去っていった。
顔の前にかかげていた義手を払い、エッドはゆっくりと顔を上げる。
「やあ。良い夜だな」
銀色の髪をふり乱し、肩で息をしている想い人は答えない。
その意識を支配している聖術騎士ジリオは、細剣を構えたまま眉を寄せた。
「貴様、その目は……!」
もちろん荒野に鏡はない。しかしエッドは、自分の目にどのような変化が起こったのかを正確に感じとっていた。
「“金色”なのに正気を保っているのが、そんなに変か? 俺は、そういう人たちがたくさんいる場所を知ってるぞ」
「……」
エッドは鋭利な赤黒い爪先を見、身体の隅々まで脈動する魔力の存在を感じる。
ふと思い立ち、敵前ですたすたと後ろへ歩きはじめた。
「いいのか? 剣、拾うぞ」
「……。好きにしろ」
地面に横たわっていた愛剣を拾い、エッドは赤土を落とす。
素足で踏んだような記憶が頭をよぎったが、あまり思い出さないようにした。
「貴様……。亡者の魔力を屈させたというのか」
「ちょっと違うな」
肩を回し、エッドは手に馴染む剣を構えて相対者へと向き直る。
笑うと、一段と長さを増した牙がのぞいた。
「“仲直り”してきたのさ。覚悟するんだな――今の俺は、ふたり分だ」
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