第85話 亡者の足あと



 そこは、完全な闇だった。


 夜空よりも暗く深い、黒。

 自分の中にこんな場所があろうとは、とエッドは妙な感慨を覚える。


「長いな……」


 天使と会った“理性の淵”とやらから飛びおりてしばらく経つ――時間が流れたのかは定かではないが――というのに、ひたすらにエッドは落ち続けていた。

 受け身をとる体勢にも飽いてしまったほどだ。


「どこもかしこもこう真っ黒だと、訳がわからなくなるな」


 落ちているのか、止まっているのか。

 頭がどちらを向いているのか。


「……よし。勝手に決めよう。俺は今――“頭を上にして、浮いている”」


 不思議なことに、その希望は叶えられた。

 急に天地がはっきりとし、身体がその場に止まっているのがわかる。エッドは満足げに胡座をかいた。


「これで落ち着いたな。で――」


 あたりを見回し、エッドは一人苦笑を漏らす。

 物音ひとつ、気配ひとつすらない。


「いるんだろ? ……自分相手にだんまりなんて、冷たいじゃないか」


 しばらくしてやっと、その呼びかけに反応があった。


――なんで きた。


「よ。元気か? ってのも変か。とにかく、出てきてくれて嬉しいよ――“亡者”の俺」


 その呼称が正解かどうかはわからない。しかし天使と一緒にいた空間を“理性”と呼ぶなら、それを内包するこの暗闇こそが、現在の主導権を握る“亡者”そのものであるはずだ。


――なんで きた。


「自分を見つめ直すってやつだ。あ、その前に――どこ見て話せばいいかわからないから、どうにか形に成ってくれないか?」


 エッドの勝手な希望を聞き、“亡者の意思”はしばらく黙り込んだ。

 無理な注文をしてしまったかとエッドが心配しはじめる頃、白い糸のような線が走り、黒い空間を切り取りはじめる。


「ありがとう。これで話しやすくなった」


 その白い線が象ったのは、エッドの腰にも届かないほどの子供の輪郭だった。


 幼い自分と捉えることもできるが、たんに紙に殴り描いた絵にも見える。ふくらみはなく平面的ではあったものの、顔に浮かんだ丸い目玉だけは妙に生々しかった。


 その色は、見紛うことのない金。


「いい色じゃないか。ごく普通の茶色い目より、ずっと個性がある」


――ふつう じゃない。


 幼さの残る声が落とした呟きは、どことなく悲しそうだった。

 エッドは小さく頭をふって言う。


「“普通”なんていうのは所詮、定義のひとつでしかない。しかも、個々によって馬鹿みたいに大きく変わるんだぞ? ……まあ、全部友達の受け売りだけどな」


――わから ない。


「ああ。俺もよくわからない。気にするな」


 ここにその友がいれば、長い長いため息をつかれたことだろう。エッドは一人低く笑うと、じっとこちらを見つめる平面の子供に向き直った。

 胡座をかいているので、ちょうど目線は同じ高さにある。


「……今日はな。お前に“ごめんなさい”をしようと思って来たんだ」


――けんか してない。


 拙いその言葉がエッドの胸を抉る。

 丸い目を見つめ、元勇者は静かに言葉を紡いだ。


「うん。そうなんだ。実は――ケンカにもなっちゃいない。俺のほうが、一方的にお前を無視していたんだからな」


――……。



「俺は、自分が“亡者”になったことを、たぶん……認めてなかったんだと思う」



 合いの手も、小さなうなずきさえも返ってこない。

 それでもエッドは、目の前に浮かぶ黒い塊にむかって話し続けた。


「蘇生魔術で無事に生き返った人を、何人も知ってる。だから灰色でも自分の身体がちゃんとあって、動いて話してる自分を俺は――“人間”だと思ってたんだ。頭でっかちな“理性”さまで、恥ずかしいけどな」


――でも ちがう。


「そうだ。やっぱり、俺は……死んでる。ヒトの分類上、もう立派な“魔物”なんだ」


 シュアーナの森で親友に言われた言葉が蘇る。


“……貴方、少し変わりましたね。そこまで能天気ではなかったはずですが”


 勇者という重責から解放された喜びだ、と友には説明した。

 しかし心の隅では、ひそかに戦慄していた。


 自分の中身は、変わってなどいない――身体が千切れる前の“エッド・アーテル”と同じ人物なのだと思って欲しかった。



 つまり、力が入りすぎていたのだ――自分で、自分を演じることに。



「お前はもう、あの時から……“ここ”にいたんだよな? 俺もたぶん、そのことを知ってた。自分の中に、別の存在が生まれたってことをな」


――きづい てた?


「棺の番をしてたあの見習い聖術師に、防衛のためとはいえ敵意を向けたろ。それで俺は恐ろしくなって……それ以降は、ログレスの魔力制御に頼った。お前を表に出さないようにしたかったんだ」


――すこし くるし かった。


「……ごめんな」


 自分の中に住まう自分に対し、詫びを入れる方法など知らない。

 エッドは自分の罪を吐露し、後悔を伝えることしかできなかった。


「でも俺が危なくなった時は、ちゃんとお前は出てきてくれた。花束の谷や……今のジリオとの戦いだってそうだ。制御の網を押し通るのは、大変じゃなかったか?」


――いた かった。


「……ごめん」


 魔物としての力があふれようとしている時、いつも自分は激しく抵抗していた。

 元のエッド・アーテルに戻れなくなるかもしれないという、恐れからである。


「でも、恐がる必要なんて無かったんだよな。だって、もうとっくに“変わって”るんだから。俺はここに来るまで、そのことを認めてなかっただけなんだ」


――いま は?


「えーと……ここでも、“あれ”が出来たらいいんだけどな。うーん……!」


 エッドは腕組みをし、唸ってみる。すると、漆黒の空間の一部が淡く瞬きはじめた。

 白線の輪郭をもつ子供は、驚いたようにそちらを見る。


「おお、できた! 見えるか? こんな暗いところからじゃ、お前は見てなかったんじゃないかと思ってさ」


 “理性の淵”と同じく浮かび上がったのは、エッドの記憶にいる住人である。


“どうです、エッド。亡者の身体には、慣れてきましたか”

“ああ、まあまあな。軽いし疲れを感じないし、わりと快適だぞ”


 村に到着してすぐの頃だ。

 半透明の闇術師は、覚書用の紙束の上にさらさらと筆を走らせている。いまだにエッドでも判別しがたい、癖のある字だ。


“……時折、貴方の魔力が制御の下で激しくうねることがあるのですが”

“そうなのか?”

“ええ。大抵は、メルに会いに出かけた時ですね”

“べ、べつに変なことはしてないぞ!? この身体じゃ、手も繋げやしないんだからな”

“……なるほど。生前でも起こせなかった奇跡は、死後も容易く成せるものではない、と”

“変な一文を書き加えるな! 見てろよ、聖気なんかいつか克服してやる”


 見えすいた意地に肩をすくめた友の姿が、闇に溶けていく。


「まあ結局、いまだに克服できてないんだけどな……。お、次か」


 続いて現れたのは、元気よく跳ねる三つ編み頭だ。


犬鬼コボルド先輩!”

“へ、変な呼び方しないでよ、エッド。どうしたの?”

“アレイア――君は、見た目どおりの年齢なのか? うちのパーティーに、エルフ混じりの奴がいてさ。俺の二倍は生きてたっていうのを思い出したから、もしかしたらと”


 女性に対しては失礼な部類の問いだったが、若き闇術師は気前よく答えてくれる。


“なるほどー。エルフって、すごい長寿だもんね。でも安心して! あたしは見た目どおり、ぴっちぴちの二〇歳だから!”

“え? は――はたち!?”

“……ちょっと。何歳だと思ってたのさ”

“いや、十五くらいかと”

“あんた、あたしの経歴聞いてた!?”


 木の実を確保したリスよりも頬をふくらませた少女が、遠慮なくエッドを睨む。


“そりゃ多少、ヒトより成長が緩やかだけどさ。そのうちログレスが目を落っことすような、すごい美女になってやるんだから!”

“その頃には、あいつは爺さんになってるんじゃないか? 落っことすのは歯だろうな”

“えっ!? そ、そうなのかな……”


 深刻そうに考え込んだ少女は、ハッとした表情になって言った。


“でもおじいさんログレスも、渋くて素敵かも!”

“……。すごいな、君は”

“エッドは、老化が止まったんだよね。もしかして、この先のこと気にしてるの?”

 

 時折、この少女はするどい質問をする。

 記憶の中の自分は、焦りを隠しながら答えた。


“気にしてるっていうか、まあ……変な感じだよな。まだ体感はないけど”

“ふーん。でも、気にしなくていんじゃない?”

“そうか?”


 闇術師の少女は、向日葵のような笑顔をこぼして言った。



“それより大事なのは、好きな人のそばにいることだよ。一緒に過ごした瞬間がぜんぶ首飾りみたいに繋がって、その人の歩んだ『人生』になるんだからさ!”



――そばに いること……。



 どこか響くものがあったのか、子供の輪郭がふるふると揺れた。


 エッドは食い入るように記憶を見つめているその黒い横顔から目を離し、次の記憶を呼び出した。



「その金色の目で、よく見ておいてくれ。……次で最後だ」


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