第84話 青くてにがい、だから



 エッドの前に、やや緊張気味の面持ちでたたずむ若き日の自分が現れる。額に手を当てるも、はじまってしまったものは仕方がない。


“お待たせしました、エッド”


 続いて、期待と疑念を抱いた顔の女性が現れる。滑らかな銀の髪が、どの星々よりも明るく輝いていた。


“あ……。やあ”


 エッドは早くも逃げ出したくなりながら、冴えない挨拶を返す青年を見ていた。

 満月の夜に口にする挨拶なら、いくらでも気の利いたものがあるというのに――。


“調子はどうだ? 今晩のログの料理はまた……絶妙な味つけだったろ”

“まあ、一生懸命作ってくれたのに失礼ですよ、エッド。私なら大丈夫です。山の聖堂では木の根でスープを作ったりしたから、こう見えてお腹は強いの”


 自信たっぷりにそう言い切るメリエールだったが、仲間の料理の腕前を肯定してはいない。若き勇者は苦笑し、暗い海原を指差した。


“ほら。もう少ししたら、あの辺りの海面から月が上がってくるぞ”

“楽しみです。あ、これどうぞ。今夜は冷えるので、持ってきました。……そんな顔しなくても、私が作った物です”


 警戒の表情を緩め、湯気のあがる携行用カップをうけ取る。


 心中で舞い上がる若き自分が口にしたその飲み物――その味が、エッドの喉にあざやかに蘇った。

 身体を温める薬草と蜂蜜が入った、とろりとした優しい甘み。


“……”


 崖上に並んで座った男女は、それぞれのカップに口をつけてしばし黙る。

 目まぐるしく思考を回転させている青年を置いて、先に聖術師が口を開いた。


“夜の海も、とても綺麗ですね。星が浮かんでいるみたい”

“そう、だな……”


「あらら、ガッチガチですね。下心とご葛藤なさっているのでしょう。一気に攻めるか、まだ紳士を貫くか」

「いたいけな若者の心中を実況しないでくれ」


 お菓子でもあったら頬張りたいという顔つきの天使に、エッドは肩をすくめる。

 実際にそのとおりなので、天使であれ女性というものは恐ろしいと実感した。


“……あなたのパーティーに入って、これで何度目の遠征になるのかしら”

“疲れたか? 最近は、けっこう任務が続いたから”

“いいえ。それが勇者と仲間たちの使命ですもの。誇り高いわ”


 迷いなくそう答えてこぼした笑みに、若者は心臓を崖下に落としそうになっているはずだ。エッドは胸の空洞を押さえ、懐かしい感覚に浸る。


“ただ……こんなに遠くまで自分が旅をしてきたなんて、いまだに不思議で”

“たしか聖術師は、配属された聖堂から離れずに暮らすんだったか”

“はい。私は、あの王都で一生を終えると思っていたんです。不自由はありませんし、小さな山の聖堂と比べて恵まれているとさえ思っていました”


 整った横顔が、ゆっくりと夜空を見上げる。

 明るい翠玉の瞳を一条の流れ星が通過するさまが、今のエッドにもはっきりと見えた。


“数百人の聖術師を抱える王都大聖堂から、どうしてあなたが私を指名してくださったのか分かりませんが……”

“……。まあ、鶏の導きってやつだな”

“?”


 不思議そうに小首を傾げたが、メリエールは若きリーダーに惜しみない笑顔を送って言った。


“ありがとう、エッド。世界がこんなに広くて、楽しい場所だと教えてくれて”


 カップを落とさないようにするのが精一杯だった若き自分は、ぎこちなくうなずいた。

 果たして今の自分なら、ここで乙女心を射止める優美な台詞を吐けただろうか、と思案する。


「無理でしょうね」

「心を読むな」


 自分たちに鑑賞されているとも知らず、若者たちは星空のもと語り続ける。


“ま……まだまだ、こんなもんじゃないぞ! 今は国内だけの任務だけど、功績を積めばもっと広範囲の任務も発生する。国外や――ほかの大陸にだって行けるぞ”


 色白の頬に、ぱっと紅が散る。


“そ、そうですよね! 私、北のライズ大陸に行ってみたいんです。永久に溶けない氷というのがあって、それを使った甘味で町おこしをしているって――”


 興奮気味に話していた聖術師は、吹き出しそうな表情を浮かべている若き勇者に気づいてハッと口を押さえた。


“君は、栄えある勇者の任を利用して……甘味を食べる旅に出たいっていうのか? 真面目そうなのに、案外『ワル』なんだな”

“なっ! そ、そんな不純な気持ちではありませんっ! 私、いつだって”

“ああ、わかってるよ。君はいつも全力だし、真っ直ぐだってな”



――来た。



 エッドは思わず乾いた喉を鳴らし、若者たちに見入った。

 自分の記憶がたしかならばこのあと自分は――盛大に選択を誤る。


 頬を上気させたメリエールが、小さく口を尖らせて問う。


“あ……あなたは、真っ直ぐじゃないっていうの? リーダーなのに”

“俺? 俺だって真っ直ぐだよ。たとえば”


 波の音が、急に騒がしく耳をつく。

 それが自分の血流の音だと気づいてからは、若き日の勇者の心は乱れに乱れた。


 今でも、はっきりと思い出せる。

 言いたかったのはこうだ。


『……ひと目見た時から、ずっと君が好きだったってこと』


 しかし恥ずかしさと虚栄心に屈し、実際に言葉にしたのは――



“そうだな。バレアン諸島にある火を噴く山が見てみたいって思ってることとか……かな”



「……。興醒めですね。意気地なし根性なし甲斐性なし――お好きな詰り文句を、お選びくださいませ。天使として、懺悔なら聴いてさしあげましょう」

「全部、浴びなきゃいけないだろうな。ほんと、なに言ってんだあいつ……!」


 冷然とした天使の声に、エッドは温度のない床に突っ伏したくなる。今すぐあの崖に行き、青年の背を蹴り飛ばしたい気分だ。


“まあ、そんなところがあるんですか! 是非、見てみたいです”

“……。うん、いつかな……”

“え、エッド! あれを――!”


 聖術師の興奮した声に、二人のエッドは海を見る。

 見事な金色の月が、海面から顔を出したところだった。黒い鏡面のような海が双子の円を揺らめかせる光景に、メリエールは絶句する。


“本当に、こんな光景があるなんて……すごい……!”

“……。もっと予想できないことだって、たくさんあるさ。良かったら、これからも一緒に見に行こう”

“はい!”


 屈託のない笑顔でうなずいた聖術師を最後に、ふたたび赤黒い闇があたりを包んだ。


「ご終了のようでございますね」

「ああ。お粗末さまだったな」


 音もなく腰を上げ、天使はまたふわりと宙に舞う。


「いいえ――人間らしい、素敵なお人生でいらっしゃいましたよ」


 若者たちの姿が消えたあたりに見入ったまま、エッドは突っ立っていた。かまわず、背後で天使が話しはじめる。


「生前のお記憶ばかりでしたね。エッドさま、これでお分かりになったでしょう」

「……」

「代弁して差しあげましょう――あなたさまは、今も“人間”でありたがっている」


 その声に責める色はない。

 むしろ今までで一番、柔らかい口調だった。


「酸いも甘いも、“お人生”のすべてはその言葉のとおり、生きている人間の中にしか有り得ません。お血の通った儚い身体で駆ける短き時だからこそ、魂は強く輝くのです」


 天使が胸元に両手をかざすと、水晶玉のような丸い光が現れる。回収したほかの魂なのかもしれない。


 その眩さに瞼を貫かれ、エッドは目を細めた。


「亡者としてこの先を歩むことに、なんのご意味があるというのです」


 天使の声は、静かにエッドの耳に染み込んできた。


「眠らぬ夜は長く、しかも周りの人間たちはあなたさまを置いてお人生を謳歌する――そんなの、虚しいではありませんか」

「……やっぱり優しいんだな、天使ってのは。それも仕事か?」


 エッドが小さな声で茶化すも、反応はない。

 自分の声にいつもの張りがないことはわかっていた。


「お厳しいことを申し上げますが――亡者の“未練”が成就した例を、わたくしご覧になったことがありません」

「……そうか」

「身体が朽ちるまでお彷徨い、果てるのが常。運よく目的の人物と邂逅を果たしても、ヒトがその存在を受け入れるわけがない」

「……」

「生者たちの時間は流れており、あなたさまがた死者はもう――過去の幻影なのです」


 誰の仕業か、もう一度冷めた声が降ってくる。



“居なくなるなら、ちゃんとそうしてほしい”



「……」


 生者であったころは、周りからの期待など重荷だった。


 果たすべき責任に押しつぶされ、いつからか常に疲弊していた。

 誘いがあれば、楽園とよばれる天界に昇りたいと思っていたのは事実だろう。


 しかし、楽な道を選びたがる自分が身を投じたのは――


「……よし。決まったぞ、覚悟」

「それはなによりでございます。ではさっそく――ああ、また最初から読まないといけないのかしら……」


 長たらしい“清算”の条項が載った重そうな紙束をめくり、天使はうめく。


「その必要はないさ」

「……ですよね。では、さきほどの続きの項から――」

「いや。その先も必要ないって意味だよ」

「はい?」


 見た目と不釣りあいな素っ頓狂な声を上げる天使に、エッドは笑った。


「誰が“天界に行く覚悟”を決めた、なんて言ったんだ?」

「な……あ、あなたさまが、今しがた!」


 天使でも焦りを感じるものらしい。

 銀の眉を吊り上げ、少女はエッドを睨んだ。


「……あなたさま、まさか」

「うん。そのまさか」


 エッドはにやりと牙を見せて微笑むと、脚に力を込めて思い切り後ろへ跳躍した。

 驚いた天使の顔が、あっという間に遠ざかっていく。


「悪いな。けど、ここまで付き合ってくれたんだ。もう少しくらい、待っててくれるだろ?」

「エッドさま――!」


 引きずりこむような暗闇に背中から落ち、エッドは手を挙げた。


 馴染みの酒場を立ち去る時のような気軽さで告げる。



「また来るよ。すぐにな」


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