第75話 背中にご注意―1



「エッド! よかったぁ、無事で――!」



 “停滞の壁”を展開している若き闇術師は、泣きだしそうな声でエッドを歓迎した。しかしすぐに、その顔が強ばる。


 蜂蜜色の瞳が、エッドの左右をこわごわと彷徨った。


「ログレスは……?」

「心配しなくても、お前の師匠はまだ生きてる……と思う」

「えっ!?」


 メリエールらしき“モノ”との会話で心が乱れてしまったのか、エッドは気遣いを欠いた返事をしてしまう。不安そうに小麦色の眉を下げたアレイアを見、慌てて言いなおした。


「あ、いや――! それは、俺にかかっているというか」

(……着きましたか)

「ログ!?」


 複数に向けられた思念で、聞きなれた声が届く。声の主の弟子は、杖を放り出しそうな勢いで歓喜した。


(ログレスっ! よかった、大丈夫!?)

(ええ。……エッド、野営地にいるのですね?)

(ああ。なんで分かるんだ?)

(“瘴気”が覆う場所では、思念が通らないからです。干渉を受けずに自由に意思を伝えられるのは、“高位存在”だけなのでしょう)

(なるほど……)


 あの薄気味わるい“瘴気”の中で友の軽口が聞こえたなら、どんなに励まされただろうか。


(優雅に休憩をとっても構いませんが……“聖宝”の回収を、お忘れなく)

(ああ)


 エッドは野営地の奥にある木箱を見た。

 あの聖気に満ちた武具を携行するのは、亡者としてはかなり気が進まない。しかし契約書を発見すれば、その場で破壊できるという利点もある。


(アレイア……そちらの術の保持は、問題ありませんか)

(うん、ばっちり! “停滞の壁”は、厳しいお師匠さまにとくに指導されたからね)

(……それは何より)


 師匠の言葉に顔を輝かせるアレイアを、エッドもたたえる。

 しかし普段の調子で話しているその師は現在、命の危機の最中にいるのだ。気丈な言葉の中で時折乱れるわずかな呼吸音を、亡者の耳は聞き逃さなかった。


(ログ、ひとつだけ訊くが……この“瘴気”ってのは、幻影とかも見せたりするのか?)

(幻影……ですか)


 詳しく話したくはないエッドだったが、友の博識に救われることになる。


(ええ、そういうこともあるかもしれません。“恐れと悔恨の集積物”ですから。亡者が影響を受けるとは思いませんでしたが……)

(悪かったな。繊細な亡者で)


 とげとげしい思念を送りつつも、エッドは心中で安堵した。

 やはり、あのメリエールは“瘴気”が見せた幻だったのだ。冷静に考えてみると、彼女に“天使”の話はしていない。目覚めたばかりの人間がとる行動としても、あきらかに不自然な点が多かった。


 それでも自身が感じた気持ちだけは、“本物”に違いない。


(……なあ、ログ)

(何でしょう)

(今さらだが、悪かった。その――死んじまって)


 あまりに唐突すぎたのだろう。

 珍しく、友の答えが返ってくるまでにしばしの時を要した。


(哀れですね……よほど、“瘴気”が頭に回ったのでしょうか……?)

(あー、もう忘れろ! なんか恥ずかしくなってきた!)


 しっかりと筋道を立てて話さないと、この男には感情が伝わりにくい。基本的なことを忘れていた己を呪いつつ、エッドは手を額に当てた。


 わけが分からないという顔をしていたアレイアが、おずおずと言う。


「ねえ。よく分かんないけど、これからどうすんの?」

「あ、ああ……悪い。俺は、魔人の寄り代になってる契約書を探して破壊したいんだ。こっちから、なにか見てないか?」


 友からの指示を手早く説明すると、彼の弟子は申し訳なさそうに言った。


「契約書……ううん、ごめん。場所は分からない。戦闘中でも紙切れが舞い上がれば、あたしの目なら見えると思うんだけど」


 彼女の目は信頼できる。爆風に吹き飛ばされたのでないなら、どこかの岩に引っかかっているか、下敷きにでもなっているのか――いずれにせよ、足で捜索を続けるまでである。


「わかった、ありがとう。もし見つけたら、そうだな……」

「さっきみたいに、“闇の矢”でも撃って知らせようか?」

「……。矢文にしちゃ、強烈すぎるな」


 エッドは早足で、聖宝をおさめてある箱を目指した。


「それじゃ、剣だけ回収して――」

「え……エッド!?」


 驚愕の声を上げるアレイアに、エッドは思わず足を止める。

 術の保持のため動けない少女は、杖を持っていないほうの手でもどかしそうに自身の背を指差した。


「せ、背中っ!」

「なんだ、背中でも痒いのか?」

「あたしじゃなくって、あんた! あんたの背中、それ――!」


 カサ、という乾いた音がエッドの耳を打つ。

 まるで見つかったことを察知しているかのようなその音に、エッドは急いで首を捻った。


「……嘘だろ……!」


 背中に貼りついていたのは、一枚の紙片だった。


 “瘴気”のない空間で、赤黒い文字が気味わるく光っている。川辺のヒルのように上着に吸着したその“契約書”を見下ろし、エッドは盛大に毒づいた。


「いつの間に! くそ、見つからないわけだ……!」

「で、でも! ほら、ちょうど“聖宝”もあるし、あとは壊すだけだよ!」


 若者の気遣いに満ちた明るい声が、むしろ痛々しい。

 集中して捜索していたはずだが、思えばあの“幻影”に遭遇した時だけは無防備になっていたかもしれない。


「あの時か……。けど、悔やんでる暇はないな」


 エッドは自分を励まし、背中に手を伸ばした。すると紙片はリスのようにすばやく動き、捕獲者の手から逃れる。


「く、そっ……! こいつ!」

「エッド、こっち来て! あたし、術の展開中は動けないから」


 すいすいと背中を泳ぐ紙片に翻弄されていたエッドは、仲間の声に素直に従った。“宝石犬鬼”の手からは、さすがに逃れられまい。


「うわ、すごい動いてる。たしかに、魔力がまだ残ってるんだね」

「……! ちょっと待て!」


 興味深そうに言ったアレイアの声を聞き、エッドはその手が背中に触れる前に急いで身を反転させた。


「エッド? どうしたの、早く取らなきゃ」

「いや……。もしかすると、俺以外は触らないほうがいいかもしれない」

「え?」

「ログが言ってたろ。契約書に直接害をなした者が、罰を下す対象になる――って」

「うん」


 不穏な言葉を聞きつけたのか、背中から乾いた音が上がる。


「この野営地は、ログレスの隠遁術によって守られてる。けど君が触れて敵に存在が知れれば、ここも攻撃対象になるんじゃないのか」


 術師ではない自分が立てた仮説に、絶対の自信はなかった。しかし若き闇術師は少し考えたのち、肯定の意を示す。


「うん、そうかも……。この紙切れが相手の親玉と繋がってるなら、あたしが触れればきっとここが分かるだろうね」

「だろ!」

「けどふたつ間違ってるよ、エッド。ひとつ――もうそんな心配してる場合じゃないってこと。ふたつ――この野営地には、隠遁術なんて敷かれてないってこと」


 術師というのは相変わらず細かい。そこは今、問題になる部分ではないのに――そう思ったエッドだったが、急に心中に不安の波が打ち寄せる気配を感じた。


「……ふたつ目は、間違いないか? そういう気配がしないから、隠遁術なんだろ」

「ば、バカにしないでよ! あたしだって闇術師だよ。あんたの話を聞いてから周囲を“探知”してみたけど、ほかの闇術の気配はない。“ある”って分かってるものは見つけられなきゃ、術師とは呼べないよ」

「でも、あいつはたしかに――……」


 エッドは背中を這う紙のことも忘れ、思念に集中した。



(ログ――聞こえるか?)



 祈るような気持ちでしばらく待つも、反応はない。


 隠遁術は敷かれていないのではなく、すでに消失してしまったのだった。


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