第74話 恐れと悔恨の中で
「これが“瘴気”か……たしかに、イヤな霧だ」
濃霧の中を駆けながら、エッド・アーテルはひとり呟いた。
時折、足元に完全に干からびた――生命が吸いとられたかのような――動植物の亡骸が転がってるのを見かける。生者にとって、やはりこの物質は危険なものらしい。
「……」
地面に落ちているものを確認しながら荒野を進む道のりは地味で、孤独なものだった。そのせいだろう、心が抱いている不安が這うように思考に侵入してくる。
“人間なら……処置せねば、死に至るでしょう”
どれほどの時間で――とは、とても訊けなかった。
恐ろしかったのである。
エッドは“死”という現象を、その身をもって経験した。
それでも身近な者に死が迫っていることを意識すると、まるで底のない闇のような絶望に頭を埋め尽くされたのだった。
実際に死んでしまった自分は――あの友に、どれほどの絶望を味あわせたのだろう?
彼だけではない。
あの街道にいた、自分の仲間たち全員。
それに、故郷の両親にも――
「……くそ……! 今は、考えるな」
牙で軽く唇を刺し、エッドは現実へと思考を引き戻した。
ここで懺悔を叫んでも、だれも救えない。エッドは目を皿にして、水場をさがす乾いた獅子のように荒野を彷徨った。
「少し、離れすぎたか」
雷鳴のような光と音を遠くに聞きつけ、エッドはふり返った。ママルが戦闘している地点だろう。
いや、自分が離れすぎたとも限らない。むこうが移動している可能性もある。
「……」
そもそも、この“瘴気”の中に契約書が存在するという確信はない。
荒野の地形を変えるほどの魔法魔術合戦が行われたのだ。あのような紙切れなら、吹き飛んでいてもおかしくないだろう。一度この腐ったような場所から出て、ざっと周りを確認してから――
「!」
考えを巡らせていたエッドは、前方にふと気配を感じる。
渦まく粉塵の流れが淀んでいる箇所がある。そこから何者かの影が、こちらを見つめている気がした。
「……エッド」
「!?」
音もなく現れた人影の正体を見極めたエッドは、絶句した。
想い人、メリエール・ランフアその人だったからである。
「メ……メル!? なんでここに――“瘴気”は」
「どうして死んでしまったの? エッド」
「!」
再会の会話は、予想もしていないものだった。
実体はあるように見える。荒野に発生した蜃気楼ではなさそうだ。
たしかに聖術の使い手である彼女なら、“瘴気”から身を守ることもできそうだが――
「いいえ……どうして戻ってきてしまったの? 天界の使者に会ったというなら、勇者らしく導きに従えばよかったのに」
「メリエール……?」
冷たい声に、エッドはその場に立ち尽くした。
答えようと口を開いた亡者だったが、今伝えるべき内容ではないと判断し言葉を呑みこんだ。
「メル……悪いが、深い話は後にしよう。それより目覚めた直後で心苦しいが、ログを――」
「あなたのせいで、私は先に進めないの」
静かなその声は、氷の槍のごとくエッドの胸を貫いた。
鼓動をしていないはずの胸が、ぎゅっと音を立てて締めつけられる。
翠玉の瞳が、苦しそうに歪んだ。
「居なくなるなら、ちゃんとそうしてほしい。あなたの灰色の顔を見るたび、自分の至らなさを感じて辛いの」
「……俺は」
「やっぱり、私を恨んでいるのね? そうして付きまとって、私の失敗を責めようとしている。それが、あなたの本当の“未練”なの?」
「ちがう! 俺は――」
想い人がこんなにも痛烈な態度をとるのを、エッドは見たことがない。しかし穏やかな笑顔の裏、溜め込んでいる感情もあったのだろう。
重くるしい瘴気の中に、銀髪が昏く光る。
彼女の責め句は続いた。
「ごめんなさい、エッド。死なせてしまって――“中途半端”にしてしまって。でも、もう許して。私やみんなを、解放して」
「……解放?」
疲れきった、哀願の声。
「そう。あなたから。みんな、それぞれ――“エッド・アーテルのいない人生”を、歩んでいくべきだわ」
近くに鏡がなくてよかったと、エッドは麻痺した頭で唐突に考えた。
きっと今、自分はひどい顔をしている。
叶うはずのない願いだけを背負って彷徨う――虚ろで、なにもない魔物の顔だ。
「……そう、かもな」
自分がいなくても、両親は終生仲よく生きていけるだろう。
自分がいなくても、幼馴染は新しい友を見つけるだろう。
なにより目の前の美しい女性には、すぐに魅力的な相手が現れるだろう。
世の男性がみな、怪しい契約書を片手に迫ってくるわけではない。
そう。
自分がいなくても、なんの支障もなくこの世界は回っていく。
死者は風化され消えていくのが、正しい“理”――。
『
「う――わっ!?」
冷たい物体が耳元を掠め、エッドは飛びあがった。
戦意を消失していたのだろう。いつのまにか納刀していたことに驚きつつ、愛剣を抜きながら攻撃者に向き直る。
しかし“瘴気”の向こうから聞こえてきたのは、あきらかに動揺した声だった。
「やば、外したっ!?」
「……アレイアか?」
「え、エッド!」
聞き慣れた明るい声にどこか救われつつ、エッドは駆けだす。
しかし背後にいる仲間の存在を思い出して足を止め、やや強張った声をかけた。
「……とりあえず行こう、メル。気がついたら知らない奴の術の中で、驚いたんだよな?」
「……」
「あの子はアレイアって言って、今は仲間なんだ」
「エッド? 誰と話してんの」
「!」
恐々と聞いてくる若き闇術師の声に、エッドは硬直した。
「アレイア――メリエールは、
「え? う、うん……いるよ。まだ、眠ってるみたい」
「……」
すうっと水に沈むように、想い人の輪郭が遠ざかっていく。
「……あなたに、居場所はない」
その低い声は、亡者の敏感な耳の奥まで易々と入りこんできた。
エッドはふり払うように拳を握り、自分に向かって呟く。
「……。だとしても、今は図々しく居座らせてもらうぞ」
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