第75話 背中にご注意―2
(ログレス!)
小さく舌打ちをし、エッドはもう一度強く呼びかける。
事態を察したらしいアレイアの顔色が、みるみる変わっていくのが見えた。
(ログ、応答しろ! 小言でも、なんでもいいから!)
「ろ、ログレス――!? うそ」
ぱち、と防御術のむこうで大きく“瘴気”が爆ぜる。
術が揺らめいたのを感じたエッドは、若き闇術師に叫んだ。
「術を解くな! “瘴気”に巻かれたら終わりだ」
「う――うんっ……」
ふたたび泣き出しそうな顔になりながら、アレイアは濃い粉塵の彼方を見つめる。杖を握る手が震えていた。
「でも、ログレスが……っ!」
その足元には、彼女の師が引いた境界線が静かに横たわっている。
もしや彼は戦闘前、この線に術を込めたのではないだろうか。思えばこの線を踏んだ弟子を、友はすぐに咎めていた。
「……っ」
エッドは、内臓に無数の石を詰め込まれたような気分になった。
足が重い。
自分は今から、何をしようとしているのだったか――
『まあまあ、固まっている場合ではなくてよ“半端者”。あの男なら、まだ生きていますわ』
「ポロク!」
涼やかな声にエッドがふり向くと、木箱の上に緑色の光がふわりと浮きあがるところだった。
『御免あそばせ。ずいぶん寝てしまったみたいですわね』
「ログは――生きてるのか? どうして分かるんだ」
寝起きらしい妖精は細い手足を伸ばし、のんびりと周囲を見る。
『妖精は、周囲にある生命の数を正確に把握できるんですのよ。ここにいる三人のほかは、少し遠くにたしかに人間の生命――しかも、闇のものがひとつありますわ』
「……そうか」
頼もしいその言葉を聞き、エッドは全身の緊張を解いた。
アレイアも息を吐き、慌てて杖を握り直している。
『けれど、反応が弱いですわね……。あの闇術師は、かなり弱ってますの?』
「肩に裂傷と火傷……それに、“瘴気”が身体に入ってるんだ。まだ、それほど時間は経ってないはずだが」
『まあ、それはよろしくありませんわね』
短い眉を寄せ、妖精は荒野を見渡して言う。
『“瘴気”との戦いは時間や体力ではなく、魔力と意志力が肝なんですの』
「そうなのか」
『ええ。あの男は強靭な術者ですけれど、所詮はヒト――己の魔力で“瘴気”の進行を緩めるのにも、限界がありますわ』
恐ろしい説明に、ますます心が重くなる。しかし自分の知るかぎり、この妖精は事実を誇大して伝えることはない。エッドは急いで確認した。
「ポロク、君は“瘴気”の影響を受けるのか?」
『まあ、失礼ですわね。妖精は魔物というより、自然力の権化。冥府からただよう腐臭に巻かれれば、どうなるか――周囲の草木をご覧になれば、わかりますわね?』
「……そうか」
エッドは苦々しい顔でうなずいた。
萎びた草に、朽ち落ちた枝――この野営地に来るまでに、嫌というほど目にした光景である。
友を救いたいのは山々だが、この濃霧の中に命綱である妖精を送り出すことはできない。
焦りを募らせたエッドを、妖精は白目のない瞳で見つめた。
『ところでお前の背中の紙は、例の契約書ではありませんの?』
「ああ、そうだ。これを聖宝で破壊するために来た」
『そんなに荒っぽいやり方、わが友――契約者に影響が出ませんこと?』
「いや、大丈夫だ。メルの契約自体は、もう無効化されていて……」
大事なことだと理解しつつも、説明している時間さえ惜しい。
しかし焦燥感に苛まれていたエッドを救ったのは、意外にも目の前の妖精であった。
『わたくしが取ってさしあげましょうか?』
「え! できるのか」
目を丸くしたエッドに、妖精は得意げに腕組みをしてみせた。
『風の刃を作り出す魔法が使えますの。強度をあげて近距離で放てば、契約書を引き剥がすこともできると思いますわ。お前の背中の肉ごと、ですけれど』
「そうか……! それなら、君が手を触れていることにはならない!」
匙で甘味をすくい取る光景を頭に描いたエッドは、感心したように手を打った。
血なまぐさい相談を耳にし、若き闇術師が慌てて割りこんでくる。
「ちょ、ちょっと二人とも。なに恐い話してんの!? そんなこと……」
「俺なら大丈夫だ。痛みはないし、ポロクならきっとうまくやってくれる」
「そういうんじゃなくて!
「そのログレスを救うためだろ!」
抑えていたつもりが、どうしても声が大きくなる。飛びあがったアレイアが浮かべる困惑と畏怖の表情から目を逸らし、エッドはがしがしと赤毛を掻いた。
「……悪い。けど、ほかの方法を案じる時間がない。ここまでモタついていたのは俺の責任だ、挽回させてくれ」
「エッド……」
『覚悟は決まりましたこと?』
静かに言った妖精は、指の先に小さな風をまとわせて続ける。
『服だけで済むのならそうしたいのですけれど。この紙片が取りついているのは、あくまでお前自身……。多少の肉の剥離は、必須ですことよ』
「わかった。身体の動きに影響が出ない範囲で、頼めるか?」
『任せてくださいまし。このポロク、魔法の正確さにおいては谷一番ですわ』
エッドはうなずき、背中を向けた。危機を感じたのか、契約書はいっそう俊敏に背中を泳ぎまわる。
「……いいぞ、いつでも」
エッドは来たる衝撃にそなえ、足を踏んばった。
痛みはないとはいえ、自身の肉を削ぐための心構えは容易ではない。
「ほーら、怖くないですわよ。いい子だからそのまま、動かないで……」
どこか胡散臭いささやきが、背中のむこうから渡ってくる。
石像のように固まってこちらを見ているアレイアに、エッドは優しく言った。
「……見なくていいんだぞ」
「ううん、見てる――ログレスなら、そうすると思うから」
師弟というのは、やはり似通ってくるものなのだろうか。
肩を切り落とす場に同行すると言って聞かなかった友の姿を思い出し、エッドはわずかに微笑んだ。
その口をふたたび一文字に締め、かたく目を閉じる。
必ず、助けなければ――。
『風よ……!』
妖精の声に応えるように、どこからか風が集まってくる。
あの谷に吹いていたような、魔力を帯びた涼しい風――エッドは背中の筋肉を弛緩させ、“その時”を待った。
「ポロク! あ、あれ見てっ!」
『なっ……なんですの、“犬鬼”!? 今、集中して――!』
精神統一にのめり込んでいたエッドを、騒がしい声が引きもどす。
薄眼を開けると、野営地の奥に見入っているアレイアの姿が見えた。
「……アレイア、どうし――。ッ!?」
思いきり背中を突き飛ばされたような衝撃に襲われ、エッドはつんのめった。
「な……?」
妖精の魔法が発動したのだろうか。風の刃にしては、やけに重い衝撃だった。
それに背中だけではない。前方――胸のあたりに、なにか違和感を感じる。
「……っ、なんで……!?」
こちらを見つめたまま固まっている少女を目にし、エッドは訝しげに眉を寄せる。
それと同時に、聞き慣れない音が野営地に響いた。
ぴしり。
グラスの中の氷が、軋んで砕ける音に似ている。
その音の出処が自分の胸であることにようやく気づいたエッドは、ゆっくりとうつむいた。
「……」
胸から突き出ているのはまっすぐで薄く、しかし強靭な刃。
その白刃の先に引っかかっていた暗褐色の物体が、エッドの視線を絡めとりながらひらりと舞い落ちる。
背後から胸を貫かれたという事実をやっと理解し、エッドはいまだ背中にのしかかる重みに向かってぎこちなくふり向いた。
「――メル」
エッドの呟きに、襲撃者――メリエール・ランフアはゆっくりと顔を上げる。
「……貴様が、亡者だな」
その端正な顔は、もう“人形”のものではなかった。
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