第72話 瘴気と狂気の



「ロ――」

(ログレスーっ!!)


 エッドが呆然と友の名を呟くよりも早く、高い悲鳴が脳内を貫く。


 声の主が若き闇術師であることは分かったが、エッドはとにかく負傷した仲間のもとへ急ごうと駆けだした。


(エッド! うしろっ!!)

「!」


 敵に背を晒して走りだすとは、自分は思っている以上に動揺しているらしい。忠告に感謝しつつ、エッドは剣を構えながらふり返った。


「邪魔だ!」


 隙をのがさず飛来した女神の指――さきほどよりもひと回り小さい。小指のようだ――が刀身にぶつかる直前、見覚えのある影がエッドの視界を覆う。


「“青灰婦人”!」


 刃物のような扇子で指を弾きとばし、長身の悪魔は平たい顔でエッドを見下ろした。しかしすぐにその細面を物言いたげに持ちあげ、主人のいる方角を見遣る。


『……』


 婦人の要求を悟ったエッドは小さくうなずき、背を預けてふたたび駆けだした。

 使者がまだこの場に留まっているので術師は無事なのだろうが、心配なことには変わりない。


「ログ!」


 膝をつき上体を傾けている闇術師の横に、エッドはすべり込んだ。


「大丈夫か」


 すばやく仲間の状態を検分する。“黒の教典”を持っていた手は下がり、その肩に深い傷を負っていた。黒い胴衣の肩口が裂け、その下の皮膚が赤黒くただれている。


 まだ煙がくすぶる肉塊を見下ろし、闇術師は苦々しい口調で呟いた。


「……到達前に、燃やし尽くすつもりでしたが……。少々、間に合わなかったようです」


 土煙の中から飛び出してきた指に闇術の炎を放ったが、わずかに遅かったのだろう。炎をまとった指は朽ちる寸前、敵に一矢報いたというわけだ。


「火傷と――指、刺さったのか?」

「いえ……掠めた、だけです……」


 小さくそう答え、闇術師は無事だった手で傷口を押さえる。

 エッドの耳に届くその呼吸は浅く、やけに速い。


「お前……?」


 “問答”による傷には顔色ひとつ変えなかった友の気丈さを思い出し、エッドは眉を寄せた――何かがおかしい。 


(ふふ……強がりはお止しなさい。“それ”だけで、十分のはずでしょう?)


 女神の思念が、いくらか威厳をとり戻した声を寄越す。


「十分? 何が――」

「……“瘴気”、ですよ」


 闇術師が荒い息の合間にそう漏らしたのを聞き、エッドは目を見開いた。


「“瘴気”!?」

「……冥府をとり囲んでいるといわれる、濃霧です……。恐れと悔恨の……集積物、であり……」

「ああもう、こんな時くらい簡単に言え! つまり、それがヒトの身体に入るとどうなるってんだよ」

「人間なら……処置せねば、死に至るでしょう」


 あまりにも質素で明確な解答に、エッドは言葉を失った。

 かわりに勝ち誇った声が、脳内に朗々と響く。


(油断しましたね、術師よ! 魔人の身などを気遣った結果です)

「……」

(我が“瘴気”はとくに濃厚ゆえ、入りこめばたとえ掠り傷でもヒトの命などたやすく溶かしきるでしょう。……ほら、お前の“悪魔”も動きが鈍くなってきましたよ)


 指が欠けたおどろおどろしい姿の巨腕が振りかぶり、“青灰婦人”に迫っていた。


『……っ』


 たしかに悪魔の動きには、さきほどまでの鋭敏さがない。

 術師の向こうにある“衣裳棚”を見遣ったエッドだったが、その蓋はいつの間にかぴったりと閉じられていた。音楽も止まっている。


 婦人は最小限の動きで女神の腕を避けていたが、反撃はしない――供給される魔力が足りないのだ。

 

「……清廉たる女神が、“瘴気”にまみれた指を放つ、とは……。面白い冗談、です……」

「お前、そんなこと言ってる場合か!」

「……。いつもとは、立場が逆のよう、ですね……」


 軽口を漏らす友だったが、状態は良くないようだった。

 瘴気とやらの影響か、出血の勢いが弱まらない。毒の霧が身体を侵す前に、これでは出血死してしまう。


 地に落ちた“黒の教典”がみるみる赤く染まるのを見、エッドは腰をあげた。


 言葉をまとめるより早く、悲鳴に近い思念が飛び込んでくる。


(――ログレス、聞こえる!? どうしたの、大丈夫っ!?)


 思念が強すぎるのだろう、こちらにも伝播している。居心地悪く感じながらも、エッドは野営地にふり向いた。口を手で覆い、こちらに見入っているのはアレイアだ。


(アレイア。ログレスが負傷した。“瘴気”が身体に入ってる)

(しょ――“瘴気”!? な、なんでこんなところで)

(あの魔人の腕だ。とにかく、今すぐポロクを起こしてくれ)

(う、うん! 分かった――)


「……それは、早計ですよ……エッド・アーテル」

「!」


 低い声で言い、ログレスはゆっくりと上体を起こす。

 フードの暗がりの下、いつもの無表情が激痛に歪んだ。エッドは急いで負傷者を諌める。


「おい、動くなよ――」

「……野営地には、今……敵の目を避ける、隠遁術が敷いてあります……。動けないメルがいる以上……戦闘を、終えるまで……保持したほうが良い、でしょう……」

「お前、んなこと言ったって――! っぐ!」


 またしても残っていた指が突進してきたが、友の視線で感づいたエッドのほうが早かった。

 今度は迷いなく切り刻み、遠くへ肉片を飛ばす。


 その間にも、術師の下に広がる血溜まりは濃さを増していく。

 体内を駆けめぐる“瘴気”に苛まれ、ふたたび友は上半身を折った。


「……っく……!」

(ログレスッ!!)


 エッドの頭に響いた悲鳴と同じものを聞いたらしい友は、ゆらりと顔をあげて野営地を見る。


(……“弟子”とのたまうからには……“師”の言いつけを、遵守してほしいものです)


 普段よりもか細いため息を落とし、ログレスはそう呟いた。

 “境界線”に足を掛けていたらしい弟子は、雷に打たれたかのようにうしろに飛び退く。


(あ……! で、でも、ログレス――!)

(――窮地に立たされた時にこそ……大きな“機会”も巡ってくるというもの……)

(そ、そんなの教えてくれてる場合じゃ――!)

 

 アレイアの言葉を全力で支持したいエッドだったが、友の表情を見て黙った。


 薄闇が落ちた顔の中、魔力を帯びた紅い目が妖しく輝いている。

 滅多に見せることのない――気分の高揚による、大きな笑み。



「……丁度良かった。我が悪魔も、舞い足らぬことでしょう」



 痛みを忘れたかのように滑らかに喋る闇術師に、荒野にあるすべての視線が集まる。


 男は黒い表紙の本をゆっくりと拾いあげ、開いた。

 血に濡れていたはずの書は、何事もなかったかのように元の色に戻っている。


 いや――主人の血を“食らった”のだ。


(お前……その傷で、さらに“深淵”に血を捧げるつもりですか? 愚かな……!)


 女神の嗤い声が、わずかに震えていたように聞こえたのはエッドだけではないだろう。攻撃が止んだ隙に、“青灰婦人”は大きく飛翔して術師の元へ参じた。


「愚者の血の味ほど、歓迎されるようでして」


 口の端を釣りあげて言い捨て、ログレスはふたたび傷口を手で掴んだ。


『渇望せよ、さらなる爛熟を求めし者よ。刮目せよ、理の不夜城に籠りし者よ――』


 みずからの血で濡れた掌を、開いた“教典”の項に躊躇なく叩きつける。

 村で利用した“魔紙便”のように、その血は音もなく紙の中へと沈んでいった。


 血の手形が消えた瞬間、“教典”から黒い光があふれる。

 魔力の奔流があたりを満たし、荒野をさらなる冷気の底に沈めた。



『我が血の労銀に応え、金甌無欠の破滅をもたらせ――“青灰婦人の衣裳棚”』



 術師の呼び声に、“衣裳棚”の黒塗りの扉が音もなく開く。


「!」


 黒い手袋をつけた紳士らしき腕がぬっと現れ、婦人へと伸びていった。

 その手から受けとったのは、絢爛な金細工に彩られた一本の刀剣――。



 剣を携えた“青灰婦人”は、ドレスの裾を翻してエッドたちの前に堂々と立つ。



終焉舞踏ラストダンス――“黒曜金蝶のメヌエット”』



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