第63話 魔人ファーマル



『外界から契約を踏みにじりし、れ者共よ――』



 破いた契約書から吹き上がった紫の煙が、轟々と響き渡る声とともに形を成していく。


 愛剣を構えたエッドは、渦巻く煙の中央に座する巨大な魔力に向かって叫んだ。


「こっちの都合で起こして悪いな、“高位存在”さま!」

「……悠久の時を紙面の中で過ごすよりは、お楽しみ頂けると存じますが」


 背後で杖を構える友も、戦いを前に不敵な台詞を吐いてみずからを鼓舞している。思えばこうして人知を超えた存在と対峙するのは、シュアーナの森でメリエールと邂逅を果たした時以来だ。


 あの頃は“起きたて”の身体に苦労させられたが、今なら当時よりも上等な動きが出来るはずである。


『我が名は契約の導き手、偉大なる魔人ファーマルである』

「“魔人”だってよ。これって、当たりなのか?」

「……」


 エッドの軽口に、珍しくログレスは便乗してこなかった。首だけで振り向くと、妙に険しい顔で紫煙を見上げている幼馴染の姿がある。それほどの強敵を呼び起こしてしまったということなのだろう。


 しかし額を地につけ許しを乞うには、もう遅い。 


『貴様ら……此度の狼藉、その矮小な命を主神セリュン様に差し出したとて――』

「なあログ、これ始めてもいいのか?」

「待つ道理はありませんが……ああいう台詞は、聴いてやるのが人情なのでは?」

「人情ね。じゃ、俺は“定義外”――だよなっ!」


 心が逸るまま、エッドは思い切り赤土を蹴って跳んだ。


 渦巻く煙幕の中心に浮かんでいる存在めがけ、躊躇なく剣を振りかぶる。


『うひゃっ!?』


 手応えはない。しかし初手で討ち取れるとも思っていなかったエッドは、そのまま煙の柱を斬り払って着地した。


 すかさず、慌てた様子の甲高い声が降ってくる。


『おいおいおいっ! まだ喋ってんだけど! あーもう、どこまで言ったか忘れちゃったじゃないかっ!』

「……へえ。ずいぶん愛らしいんだな、魔人ってのは」


 ついに現れた魔人は、エッドの想像を粉々に打ち砕く容姿をしていた。

 シュメンデルのような巨漢か、眼光鋭い老爺ろうやの姿をしているものと思っていたのである。

 

『ふん! 褒めたって、お前らに与える罰を軽くなんかしないからなっ!』


 “魔人ファーマル”は、子供の姿をしていた。


 煙幕と同じ紫色の肌に、長く突き出た耳は明らかに人外のものである。それ以外はやはり人間に酷似していた。珍しい模様が入った露出の高い軽装を見る限り、南方の部族が契約書の製作者であるという話は本当のようだ。


『ったく……ん? 野蛮だと思ったらお前、“亡者”なのかい?』

「そんな印象を変えていけるよう、これから奮闘していく予定だ」

『それに、後ろの細長いのは闇術師。へえ、こりゃ珍しい組み合わせが出たもんだ! 契約者は、どちらも光に属する者だったと思うけど』


 牙を見せて嘲笑し、魔人は空中でくるりと回転する。

 腕や耳に連なった宝飾具が涼しげな音を立てた。


「亡者や闇術師が、聖術師を助けにきちゃ悪いか?」

『いーや? 別に、ボクっちにとっちゃ関係ないからね。誰だろうが、“契約”を破ろうとする者には制裁を加えるだけ――それが、女神セリュン様の命さ』


 自らが口にした主君の名に、魔人は陶酔したようにうっとりと目を細める。


『ああ、こいつらの血肉を捧げれば、また……また、セリュン様に“いい子”って言ってもらえるかなあ……』

「前言撤回させてくれ。魔人さまは、全然愛らしくない」

「……認めましょう」

「さっきからあいつが言ってる、セリュンってのは?」


 エッドたち剣士は、術師ほど神や悪魔の知識――もちろん魔人も――を、持っていない。遭遇すること自体がまずないからだ。だからこの質問は予想されて当然だと思ったのだが、相変わらず友は何かを考えているような顔で黙り込んでいる。


「ログ?」

「……。“女神セリュン”は、世界の南の地と、“真実”を司る存在です」

「この魔人は、そいつの手下ってとこか?」

「ええ……」


 どこか歯切れが悪いが、身体の調子を崩しているわけではなさそうだ。

 エッドは気を取り直し、“高位存在”を見上げた。


「血肉を捧げるって言っても、見ての通り俺には血が流れていない。うしろの術師なんか、肉よりも知識のほうが多くついてる。女神さまとやらの口に合うか、わかったもんじゃないぞ?」


 エッドの言葉に、魔人は大きな瞳をぐるぐると回した。



『この場はもう、ボクっちの領域だ。汚い口を閉じろ、亡者が』

「残念だが――真剣な場ほど、勝手に開きたがる口でね!」



 荒野の熱風ごと切り裂く疾さで、エッドの剣が魔人へと突き出される。

 小さな胸の正面に難なく飛び込んだ白刃は、見えない壁らしきものに衝突して跳ね返った。


「うぉっ!」

『亡者って、やっぱり阿呆なんだね。魔人の魔法に、そんななまくらが通るとでも?』

「だな。じゃ――こいつはどうだ!」

『!』


 魔人を覆う、透明の玉のような“魔力壁マナウォール”をエッドは両足で挟んだ。波打つ魔力が雷のように身体を巡るが、聖気のような痛みはない。

 腹筋を酷使しながら大きく後ろに上半身を反らすと、晴れ渡った空とひび割れた赤土が逆転する。


 逆手に剣を持ち替え、地上でこちらを見上げる仲間に向かってエッドは叫んだ。


「ログ! ッ!」


 こちらの指示を先読みしていたのだろう。闇術師の黒い胴衣の裾が、集めた魔力にはためいている。


『隔絶せよ――“悲劇の刃トラジェディック・エッジ”』


 短い詠唱が終わるのと、闇の力を纏わせた切っ先が“魔力壁”に触れるのはほぼ同時だった。壁の向こうでエッドを見下ろしている魔人の顔に、わずかな衝撃が走る。


『亡者と人間が、協力して攻撃を? ふうん、ますます面白いや!』

「余裕、ぶっててっ……いいのか、よっ……!」

『うん?』


 黒い火花を上げていた切っ先が、ずぶりと“魔力壁”に侵入する。

 丸い鼻先まで迫った刃を見、ファーマルは興味深そうに言った。



『おぉー、すごい! やっすそうな剣が、まるでかの“魔剣ジヌア”のような鋭さじゃないか。人間にしちゃ、よく“闇”を理解してるんだねえ』

「だって、よっ……ログレス!」

「それは光栄の至り。しかし僕などまだ闇の深淵にとっては、浅瀬にはびこる稚魚のようなものです」

『うんうん。ケンキョなのは良いことだよ――ほいっと!』



 ばちん、と大きな風船がはち切れるような音が響く。急に“魔力壁”が解除されたのだ。


「っと!」


 身の寄る辺を無くしたエッドは宙に放り出されたが、猫のように受け身をとって地上に降り立った。


「ふー。やっぱ、一筋縄ではいかないな」

「……魔人は仮初めの肉体を与えられて現世に顕現しますが、中身は純然たる魔力の塊ですから。我々ではよほど工夫しないと、圧倒できないでしょう」

「お前、絶望的なことをさらっと……」


 エッドの小言にも、ログレスは表情を変えない。その無表情の奥では今も目まぐるしく戦略が構築されているはずだが、やはりいつにも増して静かである。


(ログ? どうした。なんか、さっきからお前――)

『おんやあ? 威勢良く向かってくる割には、こそこそ秘密のおしゃべりかい?』

「!」


 思念を飛ばした直後、魔人がそう言い放つ。

 驚いたエッドの顔を見下ろし、出っ張った腹を抱えると嗤った。


『言っただろ? ここはもうボクっちの領域だって。口を動かさずにお喋りしてもいいけど、筒抜けだからねっ!』


 耳障りな笑い声を上げる魔人は、エッドの頭上を漂いながら告げた。



『そんじゃ、今度はこっちから遊んであげる――“マ・ダラガ”っ!』



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