第62話 契約書を守りし者―2
手近な木箱の上に、エッドはそっと契約書を置いた。その古びた書簡を一瞥し、闇術師は紅い目を細める。
「……確かに、居ますね」
「居る? なにが」
エッドの疑問に、ログレスは腰から杖を抜きながら答える。
「この契約書が、只の紙でないことは先の話の通りです。これらは、書面に名を連ねた者たちを魔法をもって束縛します。抵抗する人間の意思を押さえ込み、時には操るほどの強力な魔力――その源は、どこにあると思いますか?」
「単に、紙を作った奴がすごいんじゃないか?」
エッドの単純明快な答えに、がっくりと肩を落としたのは若き闇術師だ。
「言ったでしょ。無機物に魔力を注ぎ続けるのは大変だって。できて魔紙便くらいが、現代の限界なの」
「そうか。じゃ、哀れな亡者に正解を教えてくれよ。アレイア先生」
敬称で呼ばれたのが嬉しかったのか、少女は薄い胸を張って得意げに答える。
「正解は――“高位存在”ですっ! この紙の中には、契約を取り仕切っている“すごく強いなにか”が封じられてるんだよ」
「……アレイア先生。それって、つまり分からないってことじゃないのか?」
しばらく考えていたエッドがそうまとめると、アレイアはぎくりとした顔になる。
「わ、わかったら先にあんたに伝えとくし、対策も立ててくるでしょ! ふんっ!」
「まあ、そりゃそうだが……。本当に当てはないのか? ログ」
「ええ。こればかりは」
書簡に杖を向けてなにごとかを調べていた闇術師は、顎に手を遣り答える。
「契約書を製作する儀式は、南方のとある古い部族にのみ伝えられています。噂では、製作者の血のすべてと引き換えに、契約の守護者として“高位存在”を降ろすのだとか。……あるいは、製作者みずからがそのような“守り手”となるとも」
血なまぐさい伝承に、エッドは小さくうめく。
ただの巻紙が、急におどろおどろしいものに見えてきた。
「それで、その“高位存在”さまは何をしてくるんだ?」
「契約の遵守を監視するほかは、“介入者”の排除などを行うと言われています」
「つまり、契約書を破壊しようとする者に対して攻撃するってことね」
アレイアは言いながら、じりじりと後ずさりしている。
「あー……すごくイヤな感じ。たぶん“守り手”は、もう状況を理解してるよ」
「そうなのか?」
「敵対する気配を感じるの。術師としても、魔物の血族としてもね。エッドは分かんないの?」
「まあ、まだ亡者歴も浅いんでな」
術師二人が“それは幸運だ”という表情で視線を交わしたのを見、エッドは咳払いする。
「べ、別にいいだろ! とにかく、こうなったらもう開けてみるしかないんじゃないか?」
「書面を見るだけなら、問題はないはずです。その時点でこちらに害を為すような術の類は、仕掛けられていないようですから」
「よし。じゃ――」
エッドは思い切って契約書を手に取り、豪奢な紐を解いて一気に広げた。
やけに角ばった小さな字が、ところ狭しと連なっている――その末尾には、流れるような字でメリエールの署名がなされていた。獣の血だという赤黒いインクが、今でも不気味に輝いている。
「おお。ほんと、見た目は普通の契約書だな。次はどうするんだ」
「もちろん、破くのですよ」
「……お前の闇術でも、焦げ目ひとつできなかった紙を?」
若き勇者ごと包み込んだ黒い火柱を思い出し、エッドは懐疑的な声になる。
「契約を“破棄”させる目的でなら、書面を破ることはできると言われています」
「正面から売られる喧嘩なら大歓迎ってわけか。分かった。それじゃ――」
「待ってください」
羊皮紙の端を持って力を込めようとしていたエッドの脇に、音もなく友が現れる。亡者の手から契約書を奪うと、いつもの調子で言った。
「僕も“加担”しましょう」
「加担?」
「ええ。“守り手”は、契約書に直接害をなす者に対し罰を下すとされています。同時に引き裂けば、僕もその対象として数えられるでしょう。……“高位存在”は例外なく、魔法の使い手です。少しはお役に立てるかもしれません」
「珍しく謙虚だな、大闇術師さま?」
からかうように言ったエッドに、ログレスは肩をすくめて答える。
「相手はおそらく、現世の理を超越せし存在です。罰する対象がひとり増えたところで、手間とも思わないでしょう」
「なら、あたしも――!」
鼻息荒く身を乗り出してきたアレイアを、師である闇術師は鋭い視線で制する。
「……貴女は、この時間を有効に活用して下さい」
「で、でも――!」
「傷は塞がっても、失った血が戻るわけではありません。それに、貴女の術で“高位存在”の相手が務まるとでも?」
「うっ」
ばしりと言い切られ、少女はたじろぐ。
それでも名残惜しそうにその場に立ち尽くしている若き術師に、エッドは優しく言った。
「はじめての弟子を危険に晒したくない師匠の気持ちも汲んでやれ、アレイア」
「……勝手な代弁は止しなさい」
「むう。そ、そういうことなら……。それに、ポロクとメリエールを見てる役もいるもんね。分かった、あたしは待機するよ」
もじもじと三つ編みの先をいじり、少女は後退していく。なにか言いかけた師だったが、諦めたように息を落とした。
代わりに妖精の安眠所となっているポーチを渡し、積み上げた木箱の後ろまでぐいぐいと弟子を退がらせる。
「……我々になにかあっても、乱入してこないこと。具体的には、この線を越えてはいけません。分かりましたね?」
「だ、大丈夫だってばログレス……もう。子供じゃないんだから」
師が杖で引いた足元の境界線を見下ろし、アレイアは苦笑する。
あれでいて友は真剣なのだが、その思いが伝わる可能性がないことも悟ってしまうエッドだった。
「我々は念のため、ひらけた場所で挑みましょう。野営地が巻き込まれると危険です」
「そうだな」
「二人とも、頑張ってね!」
少女の激励に見送られ、エッドたちは野営地から距離を取る。
「優しいじゃないか、お師匠様」
「……うるさいですよ、勇亡者様」
交わした会話はそれだけだった。
強敵に挑む前の張りつめた緊張感がただよい、エッドの首筋がちくちくと不快に騒ぐ。
野営地の様子も確認できる場所を見つけて足を止め、ふたたび羊皮紙の端を掴んだ。
友も迷わず、反対側の紙片に指を添える。
「んじゃ、いっちょやるか!」
「何時でも」
上質な紙が裂かれる無残な音が、荒野に響いた。
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