第56話 禁忌事項をお忘れなく
エッド・アーテルは、人を斬るのが好きではない。
もちろん――この時代に剣を持つ者なら、誰しもだが――経験はある。急襲してきた野盗程度であれば、なるべく急所を外して斬り伏せた。
それでも王の任によって、人の命を奪ったこともある。
民の安全を守る任務とはいえ、最初の頃はひと月も悪夢にうなされたものだ。
「ははっ!」
だから、自分のようなヒト型の“亡者”――しかもヒトの言葉を話し感情を有している者に対し、迷いなく刃を向けてくるライルベルの心理は到底理解できそうにない。
その顔には今も、戦闘へ身を躍らせることへの悦びが溢れている。
「君、しばらく見ない間に変わったね!」
「そうか?」
「何というか、そう――“らしく”なった。血に飢えた感じが、ね。今だってほら、僕を引き裂きたくてたまらないんだろう?」
薄ら笑いを顔に浮かべ、勇者は細剣の向こうからそんな挑発を寄越す。
その姿から視線を逸らさず、エッドは感覚で周囲の状況を確認した。危険な生き物の気配はない――前回のような伏兵の心配も無さそうである。
「まあ、そんな時代もあったかもな。けど、今はそうでもない。亡者ってのは、案外紳士的なんだ」
「へえ。そうなん――だねッ!」
「!」
先に動いたのは相手だった。搔き消えるような俊敏さで距離を詰めてくる。万全の状態にあったエッドの目は、的確にその姿を捉えた――恐ろしく速いが、転移術ではなく突進だ。
ふたたび荒野に、甲高い金属音が鳴り響く。
「……ふッ!」
しばらく刀身同士をつき合わせた後、力で勝ると感じたエッドは踏み込むように体重をかける。すると、勇者はあっさりと飛び退いた。
「どうした? 斬り合いをしたいんじゃなかったのか、勇者さま」
「……。君、その剣をどこで?」
怪訝そうな顔をして問うてくるライルベルに、エッドは首を傾げた。
「これか? 王都にある、馴染みの武具店で買った品だけど」
「では、一般品ということかい? 勇者だった頃の武具は」
「現役から、俺はずっとこれさ。ほかは、ずいぶん前に売ったよ。この身体には、鎧は重いからな」
エッドの答えを聞いた勇者は、雷に打たれたような顔になる。
「ああ、駄目だね……。まるで美学がない。君には、勇者の尊厳がないのかい」
「そりゃどうも。煌びやかで高価な特注品よりも、壊れても心置きなく買い換えられる流通品のほうが俺は好きなんだ」
あちらのこだわりを否定するつもりはなかったのだが、勇者は誇りを傷つけられたかのように眉を寄せた。戦意が下火になったのを感じたエッドは、柄を握り直して突進する。
『……光の雨にて穢れを清め、輝きの虚空へと罪を流さん。然りしは――』
失望した顔でぶつぶつと呟いているのが詠唱の一部だと気づき、エッドは慌てて足を止めた。
「あ、おい!? なんだよ、そんな態度で聖術って! 神に対して、不敬じゃないのか」
あまり心を込めた詠唱には聞こえないが、使い慣れている術なのだろう。やがて勇者の輪郭が、蒼い神の光を帯びはじめる。
『滅せよ――“
『踊れ――“
「おわっ!」
目の前で炸裂した熱量に、エッドは顔を覆って後退する。
「!」
しかし飛び退いたのはエッドの身体だけで、その“影”は元の位置に残っていた。
影はエッドを守るように立ち上がり、上空から降ってきた光の塊を受け止めている。漆黒のドレスの裾が、優雅に舞った。
後方の半球の中から、警告の色を濃くした声が飛んでくる。
「その程度の術しか扱えないのなら、この先すべて無駄撃ちになりますよ」
「ああ……そのようだね。以後気をつけるよ」
苦々しく言い捨てた勇者は、ログレスの警告どおり術の集中を解いた。
どこか気怠そうな光だけが、聖宝の周りを漂っている。
エッドは、さっと思念を飛ばした。
(すまん、ログ。助かった)
(僕の術が援護すると知れば、下手に聖術は使用しないでしょう)
(でもあいつ、闇術も使えるんだろ)
生粋の闇術師から見れば、さきほどの転移術程度では“闇の同志”とは認められないらしい。どこか小馬鹿にしたような思念が返ってくる。
(元より闇術は魔物に対して効きにくく、強大な相手になるほど術師の腕が要求されます。あのような“付け焼き刃”では、貴方にとってたいした脅威ではないでしょう)
どこかで似た説明を聞いたことがあるような気がする。しかしエッドは、目下気になっていることを問うことに決めた。
(そうは言っても、また“転移”されたら厄介だぞ)
(転移術は、非常に複雑な構成の術です。加えて、彼はまだ詠唱を省略することもできないようでしたので……貴方が大きく隙を見せなければ、発動には至らないはずです)
(……尽力するよ)
(それに――彼を見てください)
仲間の言葉に従って勇者を見たエッドは、わずかに眉をあげた。
端正なその鼻から、つうと一筋の鼻血が滴っている。エッドの視線で気づいたライルベルは、無表情で乱暴にそれを袖で拭った。
さすがに、戦闘中に優雅に手ぬぐいをとり出したりはしないらしい。
エッドは小首を傾げ、ふたたび友に思念を送る。
(まさか俺って、無意識に“
(……その希少な可能性を追う前に、こうも予想できます。相反する魔術を連続して行使した結果、彼の体内で魔力の均衡が崩れ、身体に影響が出ていると)
(へえ……そんなことが起こるんだな。やっぱり危険なのか、それ)
闇術師は、なかば呆れ声で言う。
(ええ。勇者は両術を習得したことを得意になっていましたが、術師から見ればまさに身を滅ぼす行為です。どの教本の最初の項にも、禁忌事項として載っているのですよ)
(たぶん、本は面白いところだけ読む派なんだろ)
(それは貴方もでしょう)
友が茶化す頃には、勇者の袖は真っ赤に染め上がっていた。不快そうにそれを見たライルベルだったが、意外にも服に未練がないのかすぐに目を上げる。
不思議なことに、色白の鼻には血の痕跡は一切残っていない。
(ん? あの量にしては、止まるのが早いな)
(体内の魔力を、聖術用に調整したのでしょう。あるいは――“聖宝”によって、調整“された”のかもしれません)
あまりにも些細な怪我の治癒を聖術に任せるのは、みずからの身体機能を弱めるので止めたほうがいい――とある聖術師が、エッドに教えてくれたことだ。
つまり今の勇者の状態は、不自然であるということになる。
(いずれにしろ、警戒すべきは聖術です。僕が相殺することはもちろん可能ですが……しかしエッド、こちらも)
(ああ、わかってる。もう撃たせないさ。お前の魔力は、あとの活躍のために温存しといてくれ)
愛剣を構え直し、エッドは相対者に向かって朗々とした声で告げた。
「お互いに剣士だ、小細工なしでいこう。お前が術に頼らなければ、こちらも仲間に術で攻撃させない。それでどうだ?」
「……口約束はしない主義なのでね。けれど、留意しておこう」
尊大な返事だが、エッドは礼儀正しくうなずいてみせる。相手にとっても悪い提案ではないはずだ。それに剣の技くらべで事が済むなら、望ましいものである。
「ま、そうはいかないだろうけどな」
自身の鋭敏な耳にしか聞こえない呟きを残し、エッドは地を蹴った。
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