第54話 ぼろぼろ勇者と人形



「メリエール……!」



 思わずその名を呼んだエッドだったが、もちろんこちらの声が届くはずもない。


 しかし水晶板の向こうに佇む女は、枝に引っかかっている道具の存在を見透かしているかのように視線を逸らさなかった。


 石像のように動かない仲間を見、エッドは目を細める。


「たしかに……彼女の好む格好じゃなさそうだ」


 この大陸の気候によく適合した、開放的な服装ではある。


 彼女の華奢な体躯を強調するような薄布の服で、かざり紐や小ぶりの宝石が至るところで煌めいていた。白い肩に巻きついた雅なショールだけが、乾いた風に揺れている。

 無表情のその人物は今や、言われなければ聖術師には見えないだろう。


『……どうしたんだい、メリエール』

「見て、ライルベルだ!」


 元仲間の声に、アレイアが板を占領する勢いで身体を乗り出す。想い人の様子が気になるエッドも、その小麦色の頭を押し退けつつ割り込んだ。

 道具を支えている闇術師だけが、密度の高さにうめく。


『もう、魔物は仕留めたんだろう……。座ったらどうだい』

「奴のところまでは見えないな。水晶の位置が悪いのか」

「任せて。調整するね」


 興奮を霧散させるように深呼吸した後、アレイアは板に手をかざす。微量の魔力を流しているのだろう。

 少女がゆっくりと手を動かすと、水晶に映った風景が連動して横に流れた――まるで、自分が木の上にいて首を動かしているかのようだ。


「おおっ!」

「すごいでしょ。だから水晶は、遮蔽物がない高い位置がいいんだ」

「道具自慢もいいですが、件の勇者が映りましたよ」


 友の声に、エッドは急いで新たに映った景色に目を走らせる。

 メリエールの向かい側、野営用に組んだ石のかまどを挟んで座っているのは、間違いなくあの勇者だった。


「……人違い、じゃないよな?」

「う、うん……。たぶん」


 港町を出て数日しか経っていないはずだが、勇者ライルベルの有り様は一変していた。


 あれほど丹念に整えていた金髪は砂埃にまみれ、好き放題に絡まりあって固まっている。色白の頬は日焼けするどころか、太陽の下でも不自然に青白い。さらに暗い碧眼の下には、分厚い隈までもが出現していた。


 エッドと出会った時と同じ洒落た旅装だが、風除けの分厚いマントを羽織っている。急いで購入したものらしく、安宿のベッドよりも清潔ではなさそうだ。


「ずいぶん野生的ワイルドになったもんだ。地元じゃ着飾らないのか?」

「んなわけないでしょ。あたしも、こんな状態のあいつなんてはじめて見るよ」

「……水晶板を通してだと魔力の流れは視えませんが、“聖宝”による侵食の影響が出始めているようですね」


 ログレスの推測にうなずき、エッドは周囲の状況を観察する。


 不慣れで、雑な野営である――強風に晒されることも多い荒野だというのに、調理具や寝具が至るところに転がっていた。岩にぶつかり、割れたまま放置されている器もある。

 仲間の扱いが心配になったエッドだったが、さきほど見た彼女はボジルの言ったとおり健康そうであったことを思い出した。


「ひどい有り様だが、メルの扱いはきちんとやっているみたいだな」

「それが“契約”ですから。しかし、自己管理は怠っているようです」

「しっ! なんか喋りそうだよ」


 アレイアが指差した部分で、動きが起こった。


『ああ、僕の言い方が悪かった……。座りたまえ、メリエール』


 幽鬼のように緩慢な動作で立ち上がったのは、勇者である。腰に下げている細剣だけが妙に輝いているのが不気味だった。


『……』


 勇者のうんざりしたような声に、女は無表情で静々と従った。このようなやりとりを何度も交わしているのだろう。

 命令形で言わなければ動かないほど、彼女の意識は“契約”に深く支配されているのだ。


『それから十分に水を飲んで、身体を保てる食事をしたまえ。ああ、僕の分は作らなくていい……食欲がないものでね』


 勇者の指示にこくりとうなずき、メリエールは脇にあった木箱を開ける。保存用の食料などが入っているようだ。その支度風景すら見たくないといった風にライルベルは顔を背けた。

 蒼い目には、相変わらず覇気がない。


『まったく……人形と話している気分だ。でもね、メリエール……。いつまでもその“契約”の魔力の殻に立て籠もっていられると思ったら、大間違いだよ』


 ひとり淡々と喋る勇者はエッドから見ても薄気味悪かった。その後妖しく輝き出した瞳に、さらに背筋が冷たくなる。


『トシアを出る時に、新しい“契約書”を注文した。今度は抜かりない内容だ……。君の自我を引き出して、今度こそあの美しい笑顔を見せてもらうよ――僕のためだけにね』

「うわー、きっ、気持ちわる……! あいつ、こんなに粘着質だったんだ」


 思わず水晶板から顔を離し、アレイアが舌を出す。同意するように彼女の師も眉をひそめた。


「たしかに、凄まじい執着ですね。しかし契約の上塗りなどされては、メルの精神に負荷がかかりすぎます」

「ああ。ここで絶対にとり戻すぞ」


 エッドの宣言に、ふたたび仲間たちは真剣な表情でうなずく。


『そうとも……僕は、栄えある“勇者”なんだ……。優れた人材に囲まれて、偉大な任務をこなしていく……。そういう運命にある人間なんだ』

「……?」


 聞こえてきた低い声に、エッドはふたたび水晶板に目を向けた。

 うつむいてブツブツとこぼし続ける勇者の長い前髪が、ゆらゆらと左右に揺れている。


『そう……使命……。魔物を、全部殺すんだ……ぜんぶ……』

「なんか変だよ、あいつ。魔物退治以外にも、仕事ならあるってのに」


 元仲間の不安そうな声を聞くに、やはり以前とは人格が異なってきているらしい。


 エッドの現役時代も含め、“勇者”の仕事はいつでも多岐に渡っていた。もちろん国に害をもたらす強大な魔物を狩れば名声はついてくるが、平和な昨今ではそのような依頼自体が滅多に発生しない。


『ぜんぶ殺せば……楽になれる……幸せに……。ああ、わかっているとも。なんども、言わなくていい……』

「ね、ねえ……。“誰”と話してるの? あいつ」


 師の黒い胴衣の袖を無意識に握り、アレイアは恐々と訊いた。いや、察しはついているのだろう。

 エッドも同じ予想を抱きながら、そのおぞましい光景を見つめた。


『荒野の魔物の血を吸い尽くしても、“きみたち”は……足りないんだね……。そうだな、次は……“レトニク鉱山”のほうにでも、行ってみようか……。あの鉱山には、汚らわしい“犬鬼コボルド”どもが、たくさんいるらしいし……』


 ライルベルの物騒な呟きに、元仲間であった少女は小さな悲鳴を上げた。


「や、やだっ――あたしの故郷の近くだよ!」

「落ち着きなさい、アレイア。彼はまだ、目の前にいます」


 平常心をなくした弟子を冷静に諭すログレスだったが、ちらとそのするどい視線がエッドに飛んでくる。問題はそこではないと言いたいのだろう。


「……お前の杖って、喋ったりするか?」

「長く連れ添っていますが、今のところは残念ながら」

「俺の剣もだ。つれないよな」


 おどけたやり取りで濁らせたものの、エッドは心中で確信せざるを得なかった。


 ライルベルがこの侘しい荒野で会話を楽しんでいる相手――それは、まぎれもなくあの腰に差した細剣なのだ。


『……そんな小物じゃ、いくら狩っても物足りないんだろう……? わかるよ、ふふ……。けれどもう、この大陸にはあまり……。え……?』

「なんだ?」


 石のように静まり返った標的に、エッドは首を傾げる。

 板が故障してしまったのかと思うほど、しばらくその光景は続いた。


『ふっ、ふふ……そうか。なんという幸運だろう……! まさしく天が僕に、その大任を授けたとしか考えられない……!』


 ゆっくりと、まるで見えない糸に繰られた人形のように勇者の顔が上がる。


 その危うい愉悦に満ちた瞳は、迷わずに木上の水晶を――“こちら”を見つめていた。


 

『やあ。また会えて嬉しいよ――“亡者”エッド』

「!」



 続いて何事かを口の中で呟いた勇者の姿が、水晶板から掻き消える。


 エッドは腰の剣を引き抜きながら、仲間に叫んだ。


「二人とも、構えろ! 気づかれ――」

「あぅッ――!」


 不快な音と短い悲鳴がすぐ近くで上がり、エッドの頬に液状のものが飛び散った。


 熱くて紅い、自分にはない生命のかけら――。



「アレイアッ!」



 異様なほどゆっくりと傾いていく小さな姿と、聞き慣れない友の強張った声。


 そして、紅い尾を引いて細剣を掲げる人影。



「やあ。遠路はるばるようこそ、亡者殿。歓迎しよう」



 開演を告げる幕は引き裂かれ、役者たちは見えざる手によって舞台へと押し出された。


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