第39話 真夜中の林檎



 白砂糖のように輝く半月。

 その淡い光が、静まりかえった村の小道を往く男を照らしている。


「あーくそ……やっちまったなあ……」


 がしがしと褪せた赤毛を掻く男――エッド・アーテルは、歩きはじめて何度目になるとも知れない後悔を呟いた。


 もちろん、答えてくれる仲間は連れていない。うろうろと歩きまわるうちに、すでに夜更かしの人間でも寝静まるだろう時刻に達していた。


「……」


 村の小道には灯りひとつなかったが、亡者であるエッドの目にはむしろ心地よい。

 田舎の澄んだ夜風が、熱されていた思考を冷やしていく。


「はー……」


 明るく努めていたつもりだったが、自分は内心――よほど焦っていたのだろう。


 意識不明でいた間に、彼女を遠くへ行かせてしまったこと。

 そしてあの忌々しい“聖宝”と契約書への対処が、まったく浮かばないこと。

 二つの大きな焦燥が愚かな牙と化し、なんの負い目もない仲間に襲いかかったのだ。


「亡者としても、また“駆けだし”ってわけか」


 自嘲の笑みを浮かべ、エッドはそう吐き捨てる。


 生前はそこそこの年齢と経験を重ね、大抵のことには動じない精神を培ったという自信があった。

 しかしこの身体になってから、気持ちの振れ幅が大きくなったように思う。


 ささいなことで大いに喜び、嫌なことにはすぐさま拳をり作りたくなるのだ。


「子供のころは、よく注意されてたっけか……俺の気質なのかもな」


 止まらない独り言を聞いていたのは、フクロウだけではなかった。



「おんやまあ。どんな子供だったんだい? 興味あるよ」

「!」



 いきなり耳に飛び込んできた声に、エッドは身構えた。

 なんとも情けないことに、剣は自室に立てかけたままだ。エッドは近くの林檎の木を背にし、すばやく視線を辺りに走らせる。


「あんれま! そんなに警戒しなさんな。あたしだよ、あたし」


 葉っぱとともに降ってきた聞き覚えのある声に、まさかと思いつつもエッドは顔を上げる――暗い枝葉の間に、フクロウとは見間違えようもない大きな影があった。


「にっ、ニルヤのおばちゃん!? な、なんでそんなとこに!」


 声の主はなんと、エッドが背を預けた木の上に陣取っていた。

 しかもその正体は、昼間に顔を合わせたばかりの村の主婦――ニルヤである。


 ふだんと変わりないハキハキとした声が、目を点にしたエッドへと降りそそいだ。


「なんて顔だい。こんなおばちゃんが木の上にいちゃ、おかしいべか?」

「い、いや、そりゃ……。元気なのはいいこと、だけど……」


 自分でもよくわからない返事をし、エッドは目を瞬いた。


 いや、やはりおかしい。

 真夜中にひとりで、灯りも持たずに木の上に居座るただの村人などいるはずがない。ましてやニルヤは猟師でもなんでもない、ただの主婦だ。


 実った林檎とうりふたつの丸い巨体が、どうして音もなく細い枝の上に乗っていられる――?


「ちょっと退いとくれ。そこに降りるからね」

「あ……あの、手伝おうか?」

「んまあ、“えすこーと”してくれんのかい? 嬉しいべな。でも、結構だよ。ほいっと」


 サンダルを引っかけた太い足で宙へと飛び出したニルヤに、エッドは奇妙な悲鳴をあげた。


「う、うぉあっ!?」


 受け止めるか、退がるべきか――その逡巡の間に、あっさりと女は見事な着地を決める。


「どうだい。まだまだ、心配されるような足腰じゃないべさ」


 まるで玄関の石段を二段飛ばしで降りただけのような気軽さだった。


「お、おう……おばちゃん、どこかの一座にでも入っていたのか?」


 ついさきほど懐かしんだばかりの少年の身のこなしを思い出し、エッドは呆けた顔で訊いた。一瞬その意味を考えたニルヤは、いつもの底抜けに明るい笑い声を響かせる。


 茂みで愛の歌を奏でていた虫たちが、迷惑そうに次々と飛びたった。


「あっはははっ! 相変わらず面白いねえ、エッドさんは。そりゃ、都会で流行りの冗談かい?」


 しばらく笑い転げていた女は、黙ったままのエッドに向き直って息をついた。


「はー。ごめんよ、真夜中のお喋りは久しぶりでねえ」


 そばかすだらけの頬を持ちあげて笑み、ニルヤははちきれそうなエプロンのポケットに手を突っ込む。

 とっさに身構えたエッドだったが、村人がとり出したのは薫り高い林檎だった。


「ほら、驚かせちまったお詫び。もぎたてだよ」

「あ……いや、俺は」

「大丈夫さ――“この村”のはね。食べてみな」


 放られた赤い実は綺麗な弧を描き、戸惑うエッドの手に飛び込んでくる。

 目の前で、しゃりしゃりっという魅惑的な音が上がった。


「んん、今年の出来も十分だねえ。いい魔力が詰まってんべ」

「なんだって?」


 大きなひと口を頬張ったままのニルヤは、エッドの質問に目で答えた。


 月明かりを吸い込み、明るい金色の瞳がきらきらと期待に輝いている――彼女の目は、こんな色だっただろうか。

 昼間の記憶と比べるエッドだったが、同時にどこかで見たような目だとも感じた。


「……じゃあ、一口だけ。もしかしたら、飲み込めないかもしれないけどいいか?」

「いいから。ほら、がぶっとおいき」


 たくましい腕を腰にあて、女は豪快にもうひと口林檎をかじった。

 その音は耳に心地よく、エッドは無意識にゴクリと喉を鳴らす。


 これは、“食欲”だというのだろうか。

 亡者である自分が、味もわからない林檎にかぶりつきたいと望んでいる――?


「う……美味いっ!」


 勢いにまかせて林檎を頬張ったエッドは、夜中には相応しくない叫び声を上げた。


 詰まった実にずぶりと牙が沈む感覚も、溢れでる甘い果汁も――つるりとした皮の舌触りまでもが、エッドを満たしていく。


「なんだこりゃ! “林檎”の味がするぞ」


 エッドが思わず言った奇妙な感想にも、ニルヤは動じない。

 驚嘆と感動に包まれたまま、エッドは手の中の果物をまじまじと見る。どう見ても普通の林檎であった。


「そうだろうねえ。そんなに“乾いて”たんじゃ、沁み入るだろ?」

「乾いて……?」

「あんたの魔力は、誰から見ても消耗しきってるよ。この村で穫れる作物はみんな魔力をたっぷり含んでるから、明日から村中の野菜をお上りね」


 簡素な部屋着から伸びるエッドの灰色の腕を見、ニルヤは感心できないと言わんばかりのしかめ面をした。しかしエッドも、眉を寄せて女を見返す。


「……何者なんだ、あんた」


 ニルヤの目の動きには、迷いがない。おそらくエッドと同じで、闇夜においても細部まで見えているに違いなかった。

 そして、重量を感じさせないあの身のこなし。気を抜いていたとはいえ、エッドの頭上を取ることができるほどの気配の運び方――。


 どれも人間離れした技だが、もちろん不可能ではない。


 ある“条件”を満たせば、楽々と叶うことだ。



「もう、わかってるだろ? あんたと同じさ。エッドさん、いや――“亡者”エッド・アーテル」


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