第19話 花束の谷と妖精さん
この場所を“花束の谷”と名付けたのは、よほど腕のある詩人だったに違いない。
「……これは、なんていうか……」
「……ええ。なんというんでしょう……」
亡者と聖術師という世にも珍しい二人組は、谷を一望できる崖の上で同時に言った。
「すごいな!」
「すごいです!」
神の雷が落ちて穿たれたような谷には、満天の星よりも多くの花々が群生していた。
赤、青、黄、紫――ほかにも、エッドが知るかぎりのすべての色彩が集合している。身を寄せ合って咲くその花々は、花粉を運ぶ羽虫が立ち入ることさえ憚られるほどの荘厳さをたたえていた。
「ここまで色々咲いてると、もう何がなんだかだな」
花畑の端に到着したエッドは、めちゃくちゃに描きなぐった絵画の中に放り込まれたような感覚に陥った。
絡まりそうなほど隣接して咲いている二種を見て、メリエールは驚愕の声を上げる。
「うそ。ミームンドとラベレンが一緒に咲いてるなんて!」
「ええと……その二人は仲が悪いのか?」
「季節も生息地も、まったく違う花です。ありえない」
奇跡の光景に目を丸くしている聖術師に、エッドは胸を張って言った。
「ありえないことなんて、実はあんまりないだろ? ほら、死んだ勇者だってここに」
「……そうね。あなたに比べれば、たいして珍しくないのかも」
また小言を受ける準備をしていたエッドは、メリエールの軽快な返しに笑った。
『――ここが珍しくないなんて、めっずらしーねぇ!』
「え? なんだって」
急に耳元が騒がしくなった気がして、エッドは辺りを見回す。
たしかに、子供のような甲高い声を聞いたはずなのだが――。
「エッド、どうしたんですか?」
「……いや。谷だから、風が変な吹きかたでもしてるんだろう。それより、そろそろ陽も高い。お待ちかねの昼食にしよう」
エッドの提案にそわそわしながらも、メリエールは心配そうに花の絨毯に目を向けた。
「賛成ですけど、場所がありませんよ。お花の上になんて、座れません」
「そうだな。うーん……」
陽が当たっていないはずの暗がりにもびっしりと生えた花々を見、エッドはうなった。
『ねぇねぇ。それ、なにが入ってるのぉ?』
「何って、ご所望のパンだけど」
『パンだけぇ? つまんないのぉ』
「ふっふっふ、失望するには早いぞ! 珍しい“三つ子いちじく”を煮詰めたジャムと、この地方名産の“白雲イモ”を蒸したやつも買った。おまけに食後は、甘酸っぱい“ルビー梨”を使ったタルトを――」
『すっごーい! それ、ほしーいぃ!』
「いや、そりゃぜんぶ君のだけど……どうしたんだ、急に」
手にしたバスケットが誰かに揺さぶられているのを感じ、エッドはハッと我に返った。
あわてて食料を胸に抱きかかえるも、声の主はどこにも見当たらない。
「あの――エッド、誰と話しているの?」
怪訝そうな連れの声に、エッドは片手で頭を掻いた。
直前のことだというのに、どんな会話をしていたのか――どんな声だったのかさえ、もう思い出せない。
頭が妙に重く、エッドは眉を寄せた。
「誰って、そんなの……あれ、誰だっけ? なんか変だな」
「待って。動かないでください」
てきぱきと指示を出したメリエールは、足早にエッドの前に立った。エッドの額に手をかざし、静かに目を伏せて集中している。
「……子供だましね」
「なんだって?」
『夢幻より還れ――“
「う」
軽いめまいを起こしたものの、エッドは大事な昼食をしっかりと抱いて足を踏んばる。目を瞬くと、聖術師が満足そうに微笑むのが見えた。
「“魅惑”……? いつの間に」
「犯人に訊いてみたらどうかしら」
メリエールの言葉に怯えるように、バスケットがガタガタと揺れる。
エッドはぎょっとしたが、親切な農民の言葉を思い出した。
「――まさか」
手をかけて蓋を一気に開くと、聞き覚えのある可愛らしい声が返ってくる。
『あっ! 見つかっちゃったぁ』
「まあ、かわいい!」
尖った長耳でメリエールの感嘆を聞くと、その存在はジャム瓶の上でふんぞり返った。
パンのかけらをさっと隠したのをエッドは見逃さなかったが、珍しい光景に目を奪われる。
「これが――妖精か!」
短剣の柄ほどしかない体躯は淡く桃色に輝き、バスケットの隅まで柔らかく照らしている。性別は分からないが、ゆらゆらと燃える炎のような髪が頭部を包んでいた。
「素敵な服ね!」
凹凸の少ない体は、葉脈に似た模様が走った布――葉っぱそのものにも見える――をまとい、足先にはエッドの爪ほどしかない靴を引っかけている。繊細そうな美しい羽が、サンドイッチに囲まれて窮屈そうたたまれていた。
『そーでしょぉ! だから――ばいばいっ!』
「ちょっと待て」
『ぎゃっ!!』
急に飛び立った妖精を、エッドは亡者の動体視力をもってあっさりと捕獲した。
『いたいぃ! つめたいぃ! お前、ヘンだぞっ!』
「亡者だからな」
「エッド! もっと優しく接しないと。希少な存在なんですよ」
「希少さなら、俺だって負やしないさ」
小さな牙でがじがじと指に食いつく“希少な存在”を見下ろしながら、エッドは連れの訴えを検討する。
こちらの目線の高さまでかかげてやると、妖精は白目のない瞳を見開いて縮みあがった。
「なあ妖精さん――俺たちと、ちょっと楽しい昼食を過ごしてくれないか?」
『ヒトもどきが、えらそうにぃ! 花畑を穢すなっ!』
メリエールに悟られないほどの力を妖精の足にかけつつ、エッドは長い牙を覗かせて“友好的”に笑んだ。
「まさか、恐れ多い。俺たちが、お花を大事にしないわけないだろう?」
『……ですよねっ! りょーかいっす! お食事の場所、空けますねっ!』
とたんにハキハキと話しはじめた妖精にメリエールは目を丸くしたが、エッドはすばやく牙をしまってにっこりとした。
亡者の手から解放された妖精は、どこかかしこまった顔で大きな来客たちを見回し、告げた。
『あらためて――ようこそ、花束の谷へっ! みんなー! お客さんだよーっ!』
「え。みんなって……」
「エッド! 見て!」
仲間の声に応え、次々と花の陰から妖精たちが飛び出してきた。あっという間に十人以上に囲まれたエッドは一瞬緊張したが、警戒をすぐに解く。
全員のつぶらな瞳が、バスケットを熱心に見つめていたからだ。
『久しぶりだなっ! ヒトのつくるアレ!』
『そーそぉ! ふっかふかの、えーと……パン?』
『あっ! あまい沼もあるぅ! これだいすきっ』
『たべよ、たべよぉ!』
甘い沼とは、ジャムのことだろうか。エッドは色とりどりの妖精たちが興奮してさえずるのを聞き、思わず頬を緩めた。
「よーし、全員にきちんと分けてやるから安心しろ。その前に、どこか座れる場所を教えてくれないか?」
『いーよっ! ほら君たち、ちょっとどいてどいて』
花畑に入ってすぐの花の群れに、妖精はちょいちょいと手をふった。まるで野良猫を追い払うかのような動作に、エッドは首を傾げる。
しかし、すぐに効果は現れた。
「花が!」
『この谷の花なら、とーぜんっ』
得意げに言う妖精の足元には、大人二人が楽に腰をおろせる円形の芝生が広がっている。先ほどまで群生していた赤い花は、円の縁にそって小粋に彩りを添えていた。
『ささっ、お客さん。すわってすわってっ。そんで、それちょうだい』
「……安全なんだろうな」
『あんた、ヒトよりも“しんけーしつ”だなぁ! ふっかふかで、気持ちいいよぉ?』
けらけらと笑う妖精の声にも、エッドは警戒を解かなかった。
人外の者の甘言など、簡単に信じるべきではない――頭の中でそう警告しているのはかつて“勇者”であった男だが、エッドはふと可笑しくなり口の端を吊りあげた。
今は、自分こそが“人外の者”なのだ。
「エッド。どうしましょう?」
「ま、座ろうか。何かあったら、そうなりゃそれで」
「仕方ない、ですか?」
口癖と認識されているだろう。エッドの判断を緊張しながら待っていたメリエールが、すばやく言葉を引き取った。
しかしエッドは、ふり返って彼女に告げる。
「いや。そうなりゃそれで――俺が、君を守るよ」
「えっ?」
完全に不意をつかれた、素っ頓狂とも思える声。
エッドは笑い出したいのを何とかこらえ、至極真面目な顔で続けた。
「毒ツルが這い出てこようが、妖精たちの総攻撃に遭おうが、ちゃんと対処する。だから君は存分に、昼食を楽しんでくれ」
「……っ! さ、さきほど簡単に“魅惑”にかかっていたのは、どなたですかっ!」
「はは。すまんすまん。もちろん、君の支援があればもっと心強い」
この本心からの言葉は、彼女を喜ばせたようだった。
メリエールはこほんと小さく咳払いをし、ほんのりと色づいた頬を反らせて言う。
「仲間の支援が、私の仕事です。……あなたにはどこまで効くか、分かりませんけど」
「その調子だ。頼りにしてるよ」
『ねぇねぇ。“アッチッチ”もいーけどさぁ。パン、ちょーだいよぉ!』
ヒマそうに宙をただよっている妖精から非難の声を受け、エッドは現実に引き戻された。
小さな介入者たちを薙ぎ払いたい気分になったが、聖術師の顔が一気に茹であがるのを見れたので良しとする。
「あっ、アッチッチってなんですか!? 私たち、そういう関係では」
「よし。じゃあ、お昼にするか!」
『わーいっ!』
メリエールの抗議は、湧きあがった甲高い歓声によってかき消された。
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