八日目「日光への恐怖。高坂輝、足掻く。右膝から指先」
顔面に熱を感じて輝は覚醒した。カーテンの隙間から日光が漏れてきている。雨があがるなんて何日ぶりだ? ベッドから降りてカーテンを開けると、日光は恥ずかしいほどに部屋を照らした。今まで気付かなかった埃やゴミが目に入る。輝は顔も洗わずにそれらを処理し、迷った挙げ句カーテンを閉めた。
洗顔と髭剃り、歯磨きを済ませ、物置部屋を覗く。
本棚と家具の間に、頭部と左足だけ無い肉体が鎮座していた。昨日は無かった右足が、既に接合している。
分からない。これは一体誰だ?
朝食はパンと野菜で済ませ、輝はタバコと携帯電話を手に取った。
タバコに火を付けてから、携帯電話の電話帳を開く。今日は目的があった。目当ての人物を探し出す。時刻は午前十時前、きっと出るだろう。番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
『……もしもし』
数回のコールの後、眠そうな女の声が聞こえた。
「おはよう。暇だったら今から会わないか?」
『いいよ、別に。でも今から支度するとちょっと時間かかるよ?』
「いいさ。で、一つ言っとかなきゃいけないんだけど」
『何、どうかした?』
女の声に鋭さが生まれた。
「ここ一週間くらい、記憶がおかしいんだよ。おまえの事を思い出したのも昨日だ。それでも構わないなら、会ってくれ」
『面白そうじゃない』
意識がはっきりしてきたのだろう、含みのある声で、女は言った。
『アンタが問題起こすなんて珍しいね。私でよければ力になるよ。で、場所はどうする?』
「俺は目黒まで行っても構わないけど」
『記憶がおかしいって本当なのね。私が目黒に住んでたのは二年も前よ。いいわ、私が日暮里まで行くから』
「そうか、すまない」
『せいぜい部屋の陰毛でも掃除して待ってなさい。じゃあね』
輝は苦笑した。相変わらずさっぱりした女だ。
石垣百枝は、大学時代に二時間だけ交際した相手だ。向こうから交際を申し込んできて、そのまま強引にホテルに入り、二度セックスをして、身体の相性が合わないから別れる、と言い出したとんでもない女だったが、それ以来も悪友として連絡を取り合っていた。
百枝は大学を卒業してから就職し、自分で学費を用意してアメリカに留学した。一年で帰ってきて、水商売をして稼いで次はイギリスに行った。半年で帰ってきたが、今度はオーストラリアに行くと言って、現在も夜の仕事をしているはずだ。
本能に忠実に行動する女で、特にセックスに関しては奔放だった。アメリカ時代は黒人と白人と同時に関係を持ち、メールで違いを力説してきた事もあった。
輝が百枝の事を思い出したのは、昨夜寝る前に便所で自分の性器を見た事と、アルコールが原因だった。最後にセックスをしたのはいつだっただろうかと考え込み、最初に思い出せたのが先述のホテルの一件だった。百枝の事を思い出す前に、自分の吐息が酒臭い事に気付き、何となく『アダルト・チルドレン』という単語を連想した瞬間、百枝に繋がった。彼女がそう自称していたからだ。
輝は百枝に言われた通り部屋を掃除し、彼女の来襲を待った。
今日は桜子は来ないと、輝は直感していた。よくよく考えると晴れた日に来た試しがない。事実昼前になってもインターホンは鳴らなかった。
掃除を終え、百枝が何か食べるかもしれないと思ったのでキッチンへ向かった。パスタが目に入ったが昨日食べたばかりだし、と悩んでいると、ドアを乱暴に叩く音がした。
慌てて玄関に行き覗き穴を見ると、小柄な女が立っていた。輝は少し嬉しくなってドアを開く。
「相変わらずしけた顔してるね」
百枝はスニーカーを脱いでずかずかと部屋に上がり込んだ。胸にロゴの入ったTシャツ一枚で、下着を着けていないのだろう、乳首が浮いていた。
「何か食べるか?」
「いらない。コーヒーちょうだい」
「えーと、ブラック?」
「ミルクだけ入れて」
「了解」
輝がドリップ式のコーヒーを準備している間に、百枝は勝手にカーテンを開けた。力強い日光が、一気に部屋を照らす。
「薄い方だけでも閉めておいてくれないか、ちょっと、久々に晴れたから眩しくて」
「はいはい」
レースのカーテンだけ閉めて、百枝はソファに座った。肩から下げた小さなバッグを脇に置き、タバコを取り出す。見たことのないものだった。
「どこのタバコだ?」
「イギリス。ベンソン&ヘッジスっての」
百枝は灰皿を手に取ってからそれに火を付けた。
「何度も禁煙しようとしてるんだけどね、やっぱ無理」
「おまえって、酒飲むっけ」
「飲まないわよ、ACだもの。二の舞はごめん」
「AC?」
「アダルド・チルドレンの略よ。そんな事も知らないの?」
「それはすまない」
輝はコーヒーを差し出し、向かいのクッションに腰を下ろした。
「最後に会ったの、いつだっけ?」
「半年前かな? 確か渋谷で」
百枝は大きな目をしていて、化粧をしていなくても睫毛の長さと唇の赤さが目立っていた。髪は伸ばしたものを後ろで無造作に縛っただけだったが、彼女の場合、それが自然だった。
「で、記憶がおかしいってどういう事?」
「そのまんまの意味だよ。ある日起きたら自分の職業が分からなくなってた。翌日は中学時代、それから家族の事、高校時代の事、段々記憶が無くなっていくんだ」
「ふうん。解離性健忘ではなさそうね」
「かいり……なんだって?」
「解離性健忘、精神障害の一種よ。でも段々記憶が無くなるってのならきっと違う」
百枝はタバコの煙を盛大に吐き出しながら続けた。
「で、この一週間どうしてたの?」
「最初は狼狽したさ。でも、とにかく食ってかないといけないと思って、職探しをしようとした。そしたら、自分が望んでない事まで忘れてる事に気付いた。それは正直辛かったよ。だから今は、何でもいいから手がかりが欲しいって感じだ。だからおまえを呼んだ」
「ふうん、分かってんじゃん」
ニヤリと笑って、百枝はタバコを揉み消した。馴染みのない独特の香りが残った。
「問題はそれだけ?」
「え?」
輝が百枝の顔を見遣ると、百枝は更に口角を吊り上げた。
「私に隠し事が通じるとでも思ってんの? まだ何かあるでしょ」
「敵わないな」
タバコに火を付けながら輝は苦笑した。
「妙な映像やら音声が、俺の記憶を侵蝕してる感じなんだ。俺自身の記憶か、他の誰かの記憶か、或いは白昼夢か……分からないけど、妙な映像が見えたりするんだよ」
「映像記憶ねぇ……それって、複数の人間のものなの?」
そう言われて初めて、輝はその可能性に気付いた。そうだ、あの支離滅裂な映像や記憶らしきものは、複数人のものと考えれば納得がいく。
「……分からないけど、そうかもしれない。女が裸で迫ってくる映像もあれば、男の胸に抱かれている時もあった。でも俺自身覚えのある映像もあるんだよ。公園とか、縁日とか」
「自分の記憶も混合してるのかもね。問題は後の記憶が誰のものかって事で」
「実は心当たりが無い訳ではないんだ」
輝は立ち上がって、物置部屋へ向かった。百枝がついてくる。
「こいつかなって思うんだけど」
そう言って扉を開くと、そこには家具と本棚しかなかった。
「こいつ、って?」
百枝が顔を覗き込んでくる。輝は呆然としていた。
「いや、最初に腕があったんだよ! 記憶が無くなった日に! それで毎朝起きると身体のパーツが増えていって、勝手にくっついて……」
「ちょっと、落ち着きなさいよ」
頭を抱える輝の肩に、百枝が手を添える。
「さっきまであったんだ! 本当だよ!」
「分かったから、落ち着いて」
百枝に促されてリヴィングに戻り、輝は右腕から始まった身体の接合について説明した。
「それが本当なら、確かにその人物、男よね? そいつの可能性もあるわね。でも記憶が複数人のものなら、話は違ってくる」
極々冷静に、百枝は言った。
「ちょっと何か食べていいか?」
「好きにして」
輝はキッチンへ向かい、茶碗に白米を盛った。生卵と醤油をかけて掻き混ぜて、立ったまま一気に食べきった。乱暴に茶碗と箸を洗い、マグカップにティーパックを落とす。温かいミルクティーを飲むと、少し冷静になれた。
「そういえば腕だけの時も勝手に消えたり移動したりしてたんだ」
「その身体に、何か覚えはないの? 特徴とか、心当たりは?」
「男の裸体なんて、それこそ記憶に無いよ。色白で、痩せてるけど適度に筋肉はついてる感じで、あとは別に覚えもない」
コーヒーを啜りながら、百枝が頷く。
「顔が無いなら分からないわよね。誰かの死体だとしても、何故そんな奇妙な現れ方をするのか。アンタも厄介な事になってるね」
「まあな」
部屋が少し暗くなる。太陽に雲がかかったのだろう。
「おまえ、俺がどうして実家を出たか知らないか?」
思い切って聞いてみると、百枝は首をひねった。
「うーん、大学の頃に聞いた気がするけど、思い出せないな。大した理由じゃなかったんじゃない?」
「だといいけど、従兄弟が来た時に、思わせぶりな言い方したからさ。それにこの部屋には、実家の住所も何も無いんだ」
「電話番号とかは?」
「覚えてない。携帯にも入ってない」
「謎だらけね」
百枝は苦笑した。
「私が聞いた中で覚えてるのは、小さい頃から読書が好きだった事と、高校時代に彼女が自殺した話と、あとセックスにあんまり興味がないって事くらいかな」
「セックスに興味がない?」
思わず聞き返すと百枝はまた笑った。
「覚えてない? 最初私がホテルに誘った時も物凄く嫌がってさ、勃つものも勃たなくて、私苦労したんだから」
あけすけに言い放つ百枝に、輝は呆れつつも懐かしさを感じた。そうだ、昔からこんな奴だった。
「あんまり興味がないって断言されて、私ビックリしたんだから。そんな男居るのかってね。でもまあ、物足りなかったけど。アンタ下手だったし」
「そりゃ悪かったな」
その時、百枝の鞄から着信を知らせる音楽が鳴った。
「ちょっとごめんね」
そう断ってから百枝は携帯電話を取り出し、英語で話し始めた。随分と流暢で、身振りも大きくなった。三分ほど話した後、最後は叫ぶように何かを言い放った。英語が分からない輝にも『ファッキン』という言葉は聞き取れた。
「何かあったか?」
「今付き合ってるアメ人がさ、これから会わないかって。友達と居るから無理だって言ったら、浮気だ云々言われて」
「やばいなら行けよ。俺もおまえと話せて少しすっきりしたし」
「そう? あいつキレると殴るから、あんまり怒らせたくないんだよね」
「何でそんな奴と付き合うんだよ」
「身体の相性は最高なの」
輝は呆れた。
「また何かあったらいつでも連絡して。深夜以外なら平気だから」
玄関まで見送ると、百枝はそう言って微笑んだ。
「私も何か思い出したら連絡するし」
「ああ、ありがとう」
「じゃあ、また」
ドアが閉まる。輝はしばし玄関に立っていた。
リヴィングに戻って冷めたミルクティーを飲み干す。
カップをテーブルに置いた瞬間、一瞬だけ映像が見えた。
紛れもなく、自分の顔だった。こちらに微笑みかけている。
輝は頭を抱えた。
誰なんだ? 俺はまだ誰かの事を忘れているのか?
いい加減、この不可解な現象から抜け出したかった。
タバコを数本吸い、落ち着いた所で買い出しに行く事にした。
Tシャツ一枚で外に出ると、そこは日光が全てを支配する世界だった。十日間近く降り続いた雨がやみ、雲も少ない。湿度で曖昧になっていた視界は嫌というほどはっきりしていて、近所のスーパーまで歩く間に、輝の背中はじんわりと熱くなった。
冷房の効いた店内に入ると少し落ち着いた。閑散とした店内を歩き、適当に食料を籠に放る。
ふと、菓子類のコーナーを通りかかった。普段、輝は菓子を食べない。食は細いし間食もしない。何より甘い物が苦手だった。だが、通りがかりに目に入ったチョコレートの菓子を見て、何か既視感を感じた。一番手前の物を手に取る。
クロエ、と書かれていて、普通のチョコレートとは食感の違うものらしい。
輝はそれを棚に戻し、隣の調味料のコーナーへと移った。
会計を済ませて店を出ると、途端に日光が襲ってきた。皮膚が焼かれるような感覚がした。太陽は既に傾きかけているというのに、その威力は驚異的ですらあった。
梅雨が明ければ、すぐに夏が来る。
その単純な事実に、輝は気付いた。この所の雨続きであの湿度が一生続くような錯覚すら覚えていたが、時間は確実に流れているのだ。こうして訳の分からない状況に置かれている間も、時間は流れる。そして出来事は記憶として脳に記録される。そうやって二十六年間積み重ねてきた物が、今は滅茶苦茶になっている。
北川は頭に問題があるのではないかと言った。
確かにそうかもしれない。本当に一度脳外科に行った方がいいかもしれないな、と思いながら、輝はアパートに戻った。
階段を昇り部屋の前まで来ると、突然視界が暗くなった。不審に思い空を見上げると、いつの間にか雨雲が太陽を覆い、今にも雨が降り出しそうになっていた。
降ればいい。降って、全部流してしまえばいい。
輝は自嘲的に笑いながらドアを開けた。
そこには、頭と左足の無い死体が転がっていた。
雨が降り始めたのは太陽が完全に沈んでからだった。
最初は遠慮がちに、徐々に乱雑に、雨音が部屋に響いていった。
死体は物置部屋に放置した。もう動いても消えても驚かないように覚悟して。
夕食を終えて洗濯物を整理し、早めに寝ようかとパジャマに着替えた所で、メール受信を知らせるバイブレーションが聞こえた。ジーンズのポケットに入れたままだった携帯電話を取り出すと、百枝からだった。
件名は『行けば?』とあり、本文には東京都町田市云々という住所だけが書かれていた。
輝は一瞬、それが自分の実家の住所だと気付けなかった。
何故分かったのか、と返信すると、『私を甘く見るな』という返答が来た。わざわざ調べてくれたのだろうか? 知る由もなかったが、とりあえず謝辞を述べておいた。
実家。親。家族。
動悸がする。
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