七日目(後篇)「邂逅。高坂輝、酔っ払いと話す事。左足の付け根から膝」

 新宿駅の南口に着いたのは八時十五分前だった。少し早かったな、と思いつつも、輝は自分の鼓動が早い事に気が付いた。

 北川と菖蒲に会うのは一年ぶりだが、何しろその記憶が無い。彼らが今どうやって生計を立てているかすら忘れていた。北川は実家の美容院を継ぎ、菖蒲は女子大を出て保険関係の仕事をしている、と昨夜の電話で聞いたが、ただその事実を受け入れるだけで精一杯で、何の記憶も想起されなかった。

 平日とはいえ人は多かった。輝は少しそれに酔いながら、改札前に突っ立っていた。八時五分前、改札から出てきた背の高い男が笑顔でこちらに手を振ってきた。北川だ。

「よう輝、久しぶり。大丈夫か?」

「まあまあ、かな。おまえの顔は思い出せたよ」

 輝は素直に答えた。北川は相変わらず目が小さく、実物を見ると写真より唇の印象が強い。髪型は美容師らしく、いかにもヘアスタイル雑誌に載っていそうな、今風にセットされたものだった。

「菖蒲は仕事でちょっと遅れるってよ。記憶の方はどうだ? 志津の事は思い出したんだろ?」

「昨日まで忘れてたんだ。ショックだったよ、あいつの事を忘れるなんて」

「病院とか行かなくて平気なのか? 記憶が曖昧っつったら、もしかすると頭に何か問題があるかもしれないだろ?」

 心配そうに言った北川の言葉に、輝は初めて『病』の可能性を覚えた。だが仮に何かの病気だとして、記憶を蝕むあの映像と、何よりあの死体をどう説明する?

「そう、だな。様子見て脳外科にでも行ってみるよ」

 薄く笑って答えると、北川は何とも言えない表情を浮かべた。

「まあ、あんな事件だったしな、おまえが無意識に忘れたいって思っちまうのも無理ないけど」

 忘れたい? 輝は目を見開いた。

 自分がそんな事を望むだろうか。確かに志津の事件は衝撃的だった。今思い出しても胸が痛む。だが、それを『消去』する事を、自分は望むだろうか?

「今日、どこも予約とかしてないけど、適当な店でいいだろ? 平日だし、そんなに混んでないだろうから」

「ああ、構わないよ」

 それから二人は全面禁煙になった駅に対して愚痴を言ったりしつつ、菖蒲を待った。

 程なくして、赤味がかった髪の、スーツ姿の女性が改札を出て駆け寄ってきた。

「おう菖蒲! 久しぶり!」

「準、輝、久しぶり〜! 遅れてごめんね」 

 ショートヘアの菖蒲は、卒業アルバムよりも遙かに垢抜けていた。あどけなさが消え、すっかり大人の女性になっている。

「あ、一応こいつにもおまえの事情は話しといたから」

 北川が言うと、菖蒲は背伸びをしながら輝の顔を覗き込んだ。

「よく分かんないけど、今日の事思い出せて良かったよ。きっと志津も喜んでるって。とりあえずどっか入ろう、私お腹空いちゃって」

 三人で歩き出すと、輝はほんの少し懐かしさを覚えた。そうだ、こうやってこいつらとつるんで居たんだ。志津が居ないだけで。

 南口から少し歩き、結局菖蒲の希望でイタリアンの店に入った。落ち着いた雰囲気の店で、幸い混み合っておらず、すぐに席に着けた。

 着席するなり、店員が水を持ってくるより早く、三人が一斉にタバコを取り出したので笑い合った。北川はJPS、菖蒲はセブンスターだった。

「喫煙者は迫害されすぎだよね、今の時代」

「ホント勘弁して欲しいよな、まあ俺は実家だからあんまり問題無いけどさ」

「全席禁煙の店も増えてるしな」

 笑いながら三人でメニューを見る。オーダーして、料理が来る前に、輝はふと疑問に思った。

「志津はタバコ、吸ってたっけ?」

 北川と菖蒲が顔を見合わせる。

「吸ってたよ。輝と同じ、マルメラ。でも制服の時は絶対吸わなかった。ダサいからって」

「俺もよく言われたよ。学校で吸うなとか、あいついちいちうるさくてさ」

「そうか、そうだった」

 そういえばそんな事を言われたような記憶もある。実際志津の死後、輝は制服でタバコを吸わなくなった。

「輝は相変わらず読書家なの?」

 パスタやピザが運ばれてきたので、各々手をつけながら、菖蒲が言った。

「そうだな。ここんとこは読む暇が無いけど、部屋は本だらけだよ」

「本の虫カップルだったもんな、おまえらは」

 北川が笑う。そう、志津も本が好きだった。海外、主にフランス文学を好む輝とは違い、日本人作家ばかりを読んでいた。志津に勧められて安部公房の「壁」を読んだ時は衝撃を受けたものだ。

 二人と話している間に、志津の事、高校時代の事も少しずつ思い出せてきた。担任の禿げた頭をいつも笑っていた事、北川が飲酒で補導され停学処分を受けた事、菖蒲にストーカーまがいの大学生が居た事等々、話は弾んだ。

 食後のワインを飲みながら、輝は記憶を取り戻せる自分に安堵を感じた。菖蒲は顔を真っ赤にしながら、今付き合っている男性の愚痴をこぼし始めた。北川は二年間付き合った恋人と別れたばかりだと言う。

「輝は? 今彼女居ないの?」

 菖蒲に聞かれ、輝は一瞬言葉に詰まった。

「居ない、と思う」

 少なくとも、今現在交際相手が居るとは思えなかった。

「ちょっとちょっと、彼女の事まで忘れたりしたら振られるよ?」

 少しろれつの怪しくなってきた菖蒲がそう笑う。

「まあまあ、輝だって好きでこんな状態になってるんじゃないからさ、そう言うなよ」

「私達の事だって昨日まで忘れてたんでしょ? 酷くない?」

「おい、やめろよ菖蒲」

 北川がきつく制すると、菖蒲は素直に謝った。どうやら酒に弱いらしく、今度は眠そうな顔つきになってきた。

「でも、こうして三人で会えたんだから、志津も多分許してくれるよね」

 輝もワインに口を付けてはいたが、一向に酔いが回る気配は無かった。自分は酒に強いのだろうか? その割に、自宅にアルコール類は無い。

 そうこうしている内に、閉店時間だと店員が告げてきた。会計は三人で割って、千鳥足の菖蒲をかばいながら店を出る。

 駅までがやたらと遠く感じられた。道は、同じく酔った集団や、これから酔うであろう集団が闊歩している。駅の下の広場では、アコースティックギターを抱えた青年が歌っており、人だかりが出来ていた。派手な格好をした若者や、会社帰りのサラリーマン達がぞろぞろと歩いていた。流れる人々の間を、三人は歩いた。

「菖蒲、おまえ帰れるか?」

「大丈夫、ここから電車一本だから」

「輝は山手線だよな?」

「ああ」

「じゃあここで解散だな。久々に会えて本当に良かった。来年も、絶対三人で会おうな」

「うん、勿論!」

「そうだな」

 改札に入り、手を振り合って別れる。

 輝は充実した気持ちで山手線のホームへ歩を進めた。志津の事や高校時代の事を、全てではないが思い出せた。これは大きな進歩だと、輝は思った。嬉しかった。失われたものが、また自分の手に戻ってきた事が。

 やって来た電車に乗り込み、空いている席に腰を下ろした。日暮里まで二十分程だ。池袋で大量の客が降り、同じくらいの数が乗り込んできた。

 背広を着た中年の男が、輝の右側にどすんと座った。酒の匂いがぷんぷんして、手には缶ビールを持っていた。髪はだらしなく垂れ下がり、大声で何やら独り言を言うので、逆側に座っていた女性が席を離れた。

「……なあ、兄ちゃん?」

 男は突然輝の肩を掴んで、同意を求めるように呼びかけた。

「何がですか?」

「だから言ってんだろ、酔ってないって」

「そうですか」

 やれやれと思いながら、輝は返した。あいにく今は本も何も持っていないし、ここで席を立って男を刺激するのも良策とは思えなかった。

「最近さぁ、俺物忘れが激しくてよ」

 輝の肩に手をかけたまま、男が言った。他の客は見て見ぬふりをしている。

「奇遇ですね、俺もです」

 苦笑しながら輝は言った。嘘は付いていない。

「みんな歳の所為だなんて言うけど、そうでもねえぜ? 兄ちゃん、俺幾つに見える?」

 そう問われて、輝は改めて男の顔を見てみた。少し太り気味で、前髪の生え際はやや後退している。額に皺が三本くっきりと走っていて、目尻にも皺があった。相当飲んだのであろう、耳まで真っ赤になっているので、正確な年齢は読めなかった。

「四十代、くらいですか?」

「お、当たり」

 男は嬉しげに頭を揺らし、輝の耳元で

「ホントは五十過ぎてんだ」

 と呟いた。

「兄ちゃん二十歳くらいだろ? 俺も今年成人の娘が居てさぁ、大学行かずにバイトしちゃあ遊びまくってる」

「俺、そんなに若く見えますか」

 普段は年相応に見られるので輝は少し驚いたが、男は聞いていないようだった。

「俺、田端で降りるからな、寝てたら起こしてくれよ」

「はい」

「兄ちゃんはどこまで?」

「日暮里です」

「そうか」

 段々と乗客が減ってきて、電車は田端駅のホームに走り込んだ。

「ごめんな、兄ちゃん」

 男は立ち上がって、赤い顔のまま言った。

「何がです?」

「いや、何でもねえ。忘れモンすんなよ、ちゃんと家帰れよ」

 そう言い捨てて、男は電車を降りた。彼の方が無事に帰宅出来るか心配だったが、輝の知った事ではなかった。



 閑散とした駅前から、輝は上機嫌で自宅へ向かって歩いた。ワインの所為だろう、少し身体が熱い。風邪をぶり返しても困ると思い、少し歩を早めた。

 風が強くなっていた。中央通りから脇道に入ると、白いビニール袋が物凄いスピードで空へ舞った。ゴミ捨て場から飛んで来たのだろう、コーヒーの空き缶が派手な音を立てて道路を横断した。追い風を感じながら、輝はアパートの階段を昇った。木造のこのアパートは、風が吹くだけでも少し揺れる。

 ドアの前で鍵を取り出した瞬間、輝はそれに気付いた。


『今日の事思い出せて良かったよ。きっと志津も喜んでるって』

『本の虫カップルだったもんな、おまえらは』

『こうして三人で会えたんだから、志津も多分許してくれるよね』

『来年も、絶対三人会おうな』


 ちょっと待て。

 身体の火照りが一気に冷めていくのを感じた。

 あの映像では、確かに北川と菖蒲と輝、そして志津が居た。


 では視線の主はどこだ?


 突風が吹いて、廊下の灯りが消える。

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