九日目「如何にして雲空から逃れるか。左膝から指先。焦りの香り」

 寝返りを打つと何かひんやりとした物に手が触れた。輝がゆっくりと目を開くと、左足の膝から指先までが枕元に置いてあった。飛び上がってそれを払う。鈍い音がして、足はベッドの下に落下した。

 これで。

 輝は目を擦ってから起き上がり、薄くすね毛の生えた足を物置部屋に放った。

 これで、残りは首だけになった訳だ。



 シャワーを浴び、髭を剃って念入りに歯磨きをする。やはり動悸は止まらなかった。脈が速い訳ではない。鼓動一つ一つがやたら全身に響くのだ。俺は緊張しているのか。そう自問しながら、歯を磨く。鏡に映る顔は、やはりいつもと変わりなかった。そろそろ髪を切った方がいいかもしれない。

 歯磨きを終えてキッチンに向かう。食欲は余りなかったが、何か食べておいた方がいいだろう。冷蔵庫を開けると、卵の下の棚に、見慣れない物があった。

 クロエ、と書かれたチョコレート菓子だった。

 昨日スーパーで手に取ったものだ。棚に戻したはずなのに、何故だろう。間違えて籠に入れたのか? だが自分が菓子など食べるか?

 しかしこれくらいの異常事態は、この九日間で充分過ぎる程起きている。今更菓子が一つ増えたくらいで驚いていても仕方ない。輝はそれを放置したままキャベツを取り出し、千切りにした。目玉焼きを作り、ハムと並べる。パンか白米か迷ったが、炊飯器の米が固くなりかけていたので米にした。

 食卓に配膳し、ゆっくりと食べる。時間がかかってもいい、全部食べよう。腹が減っては何とやら、だ。

 二十分程かけて完食し、食器を洗っているとインターホンが鳴った。

 声で桜子と分かったので鍵を開ける。

 珍しくノーメイクで、意外にもジャージ姿だった。靴もいつものミュールではなく、安物のサンダルだった。

 女は化粧で化けるというが、桜子はまさにそうだった。美人だと思っていたが、よく見るとそばかすや吹き出物が目立つし、アイメイクをしていない所為か目も小さく見える。茶色い髪も、根本は黒くなっていた。

「雨、降ってるか?」

「降ってるわね」

「そうか」

 いつも通りソファに腰掛ける桜子に、輝はタオルを投げた。

「悪いけど、俺今から出かけるんだ」

「そう」

 聞いているのかいないのか、桜子はタバコに火を付けた。

「どうした、何かあったか?」

「別に」

「そうか」

 食器を洗い終え、クローゼットから薄手のジャケットを取り出して羽織った。バッグに財布と携帯電話、マルグリット・デュラスの「破壊しに、と彼女は言う」を入れて、出発準備は整った。黙ってタバコを吸い続ける桜子の向かいに座る。

「用事があるんだ。これ吸ったら出かけるからな」

 そう言って、タバコに火を付ける。

「そう」

 桜子の視線は定まっていなかった。普段から妙な女だが、今日は特に違った。

「存在しなかったのよ」

 唐突に、桜子が言う。

「私が愛した彼は、この世に存在してなかったの」

「何の話だ?」

 輝が問うても桜子は答えず、俯いて泣き出した。

「おい」

 ソファに寄って、桜子の肩を掴む。

「何があったか知らないけど、しっかりしろよ。おまえらしくないぞ」

「そうかしら」

「そうだよ」

 声を殺して涙を流しながら、桜子はタバコを吸った。輝は眉間に皺を寄せたままそれを見ていた。

「彼が消えたのかしら。それとも私が消しちゃったのかしら」

 独り言のように、桜子が言う。

「それとも元々存在しなかったのかな。もう分からないわ」

「分からないならそれで終わりにすればいい。きっと次が見つかる」

「ダメよ、それこそ彼女の思う壺だわ。ちゃんと向き合わないと」

 桜子はバッグからハンカチを取り出して涙を拭った。

「前から疑問に思ってたんだけど」

 輝はタバコを消して立ち上がった。桜子には悪いが、自分は行かなくてはならない。

「彼女って誰だ?」



 山手線で新宿まで行き、新宿から小田急小田原線に乗り換える。新宿駅では何度も駅員に場所と乗るべき電車を尋ね、急行の相模大野行きに乗り込んだ。

 車内はそこそこ空いていて、輝は杖を持った老女の隣に腰を下ろした。「破壊しに」を取り出したが、熱中して乗り過ごしても困る。結局輝は、車窓から見える景色を三十分ほど無関心に眺めていた。町田が近付いても思い当たるような風景は無い。

 下車し、改札を出て輝は驚いた。大きな駅ビルがあり、デパートが出来ていた。こんな記憶は無かった。

 驚きながらも、人の波をくぐりぬけてバスセンターへ向かう。町田駅にはバス乗り場が三つあるが、その内の一つだった。携帯電話で行き先を検索しておいて良かった。していなければ確実に迷っていただろう。

 境川団地方面のバスに乗り、立ったまま景色を眺める。やはり覚えはなかった。目的の停留所が近付いたので、ブザーを押した。

 下車して少し歩くと、そこは閑静な住宅街だった。電柱の住所を確認しながら歩き回る。


 ここはどこだ。


 まるで知らない街だった。自分は本当にここで十八年も過ごしたのだろうか。

 公園を見つけたので、何となく足を進める。

 そこで初めて、分かった。

 ブランコに乗っている視線。樹木。

 あの映像は、確かにこの公園だった。

 雨の為か子供達の姿は無かった。


 公園を抜け、目当ての住所を探す。脇道に逸れてみたり比較的広い道路に突き当たってみたりと、小一時間は歩いたのではないか。

 流石に疲れて歩をゆるめ、両脇の家を一軒一軒眺めながら歩いていたその時、右側から声がかかった。

「……輝?」

 はっとして振り向くと、一軒家の庭に、カッパを着た中年の女性が立っていた。両手でプランターを抱えている。

「輝なのね?」

 女性はプランターを脇に置いて道路に飛び出し、輝に抱きついてきた。

 その肩越しに、輝はその家の表札を見る。


『高坂』


 ではこの人が、俺の母親か。

 そっと小柄な肩に手を置き、顔を起こしてみる。成る程、確かに見覚えはあった。輝の記憶の中の母親はもっと背が高く、痩せ型で、芯の強そうなイメージだった。しかし今自分の腕の中にいるのは小柄で少し太り気味で、弱々しい中年の女性だった。

「母さん?」

「もう、帰ってくるなら連絡くらいよこせば良かったのに……」

 涙を拭いながら夏子は言った。

「入りなさい。お父さんは今出たばかりでしばらくは帰ってこないから」

 そう促され、輝は門をくぐった。庭には様々な花が植えられていたが、連日の雨でどれも身を重たそうにしていた。

 玄関で靴を脱ぎ、出されたスリッパに足を入れる。夏子は先に進んで左側の部屋に入ったが、輝は追えなかった。

 全く覚えがない。この八年の間に改築でもしたのだろうか。

「どうしたの、輝。こっちよ」

 夏子の声で我に返り、リヴィングに入る。晴れていればさぞかし日当たりが良いであろうこの部屋は、カウンターを挟んでキッチンがあり、リヴィングボードには酒やグラスが丁寧に置いてあった。テレビの向かいには年季の入った革張りのソファもあった。輝はそれに少し懐かしさを感じた。

「ミルクティーで良いわよね」

「ああ」

 冷静を装って、テーブルにつく。

「お父さん、急な患者さんが入っちゃって、さっき出てった所なのよ」

 出されたミルクティーを一口啜ってから、輝は思い切って尋ねる。

「親父は、医者なのか?」

 向かいに着座した夏子が驚いたような顔をする。

「何言ってるの輝、お父さんは昔からあそこの総合病院に勤めてるじゃない」

「いや、母さん、それなんだけど……」

 輝が言い淀むと、夏子は眉間に皺を寄せ、心配そうに覗き込んでくる。

 これが親か。ここまで自分を思ってくれる存在が親か。

「あの、タバコ吸っていいかな?」

「あら、貴方も吸うの? いいわよ、吸い殻は後で捨てておくから」

 夏子がガラスの灰皿を取って寄越す。輝は鞄からタバコとライターを取り出して火を付けた。

「で、何を言おうとしたの?」

「記憶が無いんだ」

 はっきりと、輝は言った。

「十日くらい前から、記憶がおかしいんだ。色々な事を忘れた。今のアパートにはここの住所も電話番号も無かったから、連絡の取りようがなかったんだよ。住所だけ、昨日友達が教えてくれてね」

「記憶……?」

 夏子が頬に手を当てる。

「正直、何故俺が今日暮里で一人暮らしをしてるかも分からないんだ。俺は、どんな子供だった? どうしてこの家を出たんだ?」

 夏子は黙り込んだ。俯くと二重顎になった。

「そう……帰ってきた訳じゃあないのね」

「ああ、とにかく思い出したくて、何でもいいから思い出したくて、聞きに来たんだ」

「記憶がないって、どういう事?」

「それが分からないから来たんだよ」

 下を向いたまま、夏子は語り始めた。

「貴方は……優秀な子だったわ。言葉を覚えるのも歩くのも早かったし、成績も良かった。小さな頃から本が好きでね、お父さんの書斎に勝手に入っては難しい本ばかり読んでたわ。お父さんもお母さんも将来に期待して、私立の中学に入れたのよ」

「桜坂中学だよね」

 夏子が顔を上げる。

「覚えてるじゃない」

「断片的には、ね」

「中学でも成績は優秀で、原書を読みたいからって英語部で一生懸命勉強してたわ。それから高校に上がって……志津ちゃんの事は覚えてる?」

「二日前に思い出したよ」

「そう……あの事件があってから、口数も減って、益々本ばかり読むようになったの。それで受験期に入って……」

 夏子の視線が泳ぐ。紅茶のカップの縁を指でなぞっている。

「お父さんと、大げんかしたのよ。自分は医者にはならないって。それも覚えてない?」

 輝は目を見開いた。

「親父は、俺に医者になれと?」

「ええ」

 夏子が少し遠い目をした。

「もう、思い出したくないくらい酷い言い合いをしてね……結局貴方は自分で大学を決めて、『もう二度と帰らない』って言い捨てて出て行ったのよ」

 夏子は目に涙を浮かべていた。輝はそれよりも夏子の後ろの壁に貼ってある小さな油絵に気を取られた。

「あの絵は、どうしたの?」

 はっとして夏子が油絵に視線をやり、照れたように笑った。

「最近始めた趣味でね、絵の教室に通ってるの。それより、貴方は今何をしてるの?」

「大学を出てからバイト生活らしい。何でちゃんと就職してないのか自分でも分からないんだ。今は貯金があるからそれで食べてる」

「そう……」

 夏子はリヴィングを見回した。

「お父さんね、貴方に関する物を全部捨ててしまったの。貴方の部屋の本も何も全部ね。私も止めたんだけど、ほら、お父さん一度言い出したら聞かないから……」

 確かにリヴィングボードには写真が何枚か飾られていたが、輝のものは一枚も無かった。

「自分の部屋を見たいんだけど」

「いいわよ」

 夏子は立ち上がり、廊下へ出た。輝が慌てて後を追う。

 他人の家の階段は妙に急に感じられるものだが、その感覚を、輝は今味わっていた。階段を上がった目の前の扉の前で夏子は足を止めた。

「ここが貴方の部屋よ。もう何も無いけど」

 輝はドアノブを握る。扉を開く。

 八畳ほどの部屋には、確かに夏子の言う通り何も、文字通り何も無かった。家具も無ければ学習机も何もない。掃除も頻繁にしてあるのだろう、埃やゴミの類も見当たらなかった。突き当たりに出窓があり、輝はそこまで歩いた。隣家の庭が見えた。

「何か、思い出した?」

 輝は答えられずにいた。

「この部屋は?」

 隣接する扉を指さすと、夏子はまた俯いた。

「本当に覚えてないのね……。ここは元々物置だったじゃない」

 扉を開く。輝の部屋と同じ構造の部屋に、家具や本が散乱していた。


 ここはどこだ? 少なくとも俺の居場所じゃない。

 

 それに記憶の手がかりとなりうるアルバムや書物が無いなら、ここに居る意味なんてあるのか?


「俺、帰るよ」

「輝!」

 夏子が階段を下りてくる。

「お父さんの居ない時でいいから、また帰ってらっしゃい。お父さん、何度も引っ越そう引っ越そうって言ってるの。でも、貴方の帰る場所はここにあるから、引っ越してしまったら貴方が帰る場所がなくなっちゃうから、だから私は……」

 そう言って泣き出す夏子に、輝は言い知れぬ嫌悪感を感じた。

 何だ、この感情は。

「ちょっと待ってね」

 夏子は一度居間に戻り、すぐに玄関に帰ってきた。輝は既に靴を履いている。

「これ、私の携帯の番号。何かあったら、いつでも連絡しなさい」

「ああ」

「お父さんが何と言おうと、貴方は私の大事な一人息子なんだから」

「ありがとう」

 振り向きもせず、輝は玄関のドアを開けた。



 自分は勘当同然で家を飛び出したのか。

 収穫はそれだけだった。曇天の下、バス停でバスを待ちながら、輝は思考に耽った。

 母親も、父親と自分が鉢合わすのを随分と恐れている様子だった。

 しかしあの嫌悪は何だろう。自分はもしかして、母親とも揉めたのか?

 バスがやってくる。乗り込む。


 新宿から山手線に揺られながらも、輝は考え込んでいた。

 窓からは曇った空と乱雑なビル群しか見えなかった。

 雲。雲空。

 母親には悪いが、自分の居場所はあの日暮里のアパートだ。

 あの、訳の分からない町田の住宅地ではない。

 そう結論が出た所で、日暮里に着いた。

 雨は小雨程度だったが、輝は傘を差さなかった。

 アパートに着いて、部屋の扉を開ける。

 真っ先に物置部屋を覗く。

 首無しの死体が、そこにある。

 ふいに、母親の言葉を思い出した。


『貴方は私の大事な一人息子なんだから』


 一人息子だって?

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