三日目「家族の問題。高坂輝、自らの背景を再認? 胴体」

 輝が目を覚ましてベッドから降りようとすると、何か柔らかいものを踏んだ。寝ぼけ眼のまま足下を見て、輝は飛び上がった。

 首と両手両足が切断された男性の胴体が、そこにあった。

 切断面はどす黒い赤で、あの腕と同じく、まるでそれが一つの芸術品かのように、足下に鎮座していた。

 輝は額に手をやって前髪を掻き上げてからその胴体に触れてみた。やはりひんやりとしている。足は付け根ぎりぎりの所で切断されており、残された男性器が滑稽なほど強調されて見えた。抱き起こすように持ち上げると、思ったよりずしりとしていた。そのまま物置部屋の扉を足で蹴り、腕の隣に放り投げた。鈍い音がして、胴体はうつ伏せになった。肋骨と肩胛骨が浮いている。

 とにかく歯磨きだ、と輝は洗面所へ向かった。


 念入りに歯を磨いて髭を剃った後キッチンへ行こうとすると、食卓の上にメモがあった。


『高坂輝、二十六歳。大学を出てからバイト生活、現在無職』

『中学時代は英語部に所属。読書を好む。親しい友人が一人』


 それを忘れていないことに再度安堵を感じ、輝は冷蔵庫を開けた。何だか麺類が食べたい気分だ。冷蔵庫を閉じ、シンクの脇の棚から素麺の束を二束取り出す。鍋に水を入れて火にかけ、沸騰を待つ。

 シンクの赤いマグカップを簡単に洗ってから紅茶パックを落とし、ポットから熱湯を注ぐ。砂糖とミルク。一口啜る頃には湯が沸いていた。素麺をぱらぱらと鍋に入れ、箸で掻き混ぜながら三分ほど待つ。タイミングを見計らって麺をざるに取る。シンクにこぼれた熱湯が真っ白な湯気をたてる。

 その時、また脳裏に映像が浮かんだ。

 綿菓子。視線の主は泣いている。中年の男性が困った顔をして綿菓子をこちらに差し出してきた。縁日? それは夜の風景だった。屋台、浴衣を着た男女。と、狐のお面をした子供に綿菓子を取られた。視線の主はいっそう激しく泣き出した。

 これは、誰の記憶だ?

 ぽたぽたという水音で輝は我に返った。麺を水で冷やして丼に入れ、めんつゆを取り出して二倍に薄める。食卓に配膳して、具も何もない素麺を食べ始めた。



 雨は昨日よりいっそう激しくなっていた。この分では梅雨明けはだいぶ先になりそうだ。

 雨音。

 この木造アパートは屋根に落ちる雨の音がダイレクトに響いてくる。それは耳障りでならなかった。意識を蝕まれる感触だ。乱暴で猥雑で、執拗なその音。

 輝は着替えてからベッドに転がっていた。

 縁日と思われる情景について考えた。見覚えのある場所だった。だが、それが自分の記憶なのか否か、輝には判断がつかなかった。自らが何者なのか、まるで分からないような感覚が続いていた。根無し草、或いは、何かの欠落。

 インターホンが鳴る。

「桜子か?」

 ベッドから起きもせず、輝は問うた。

「そうよ」

「鍵は開いてる」

 桜子は傘についた水をはらうのにしばし時間をかけてから入ってきて、無言でソファに座った。輝はベッドからそれを見て、何か違和感を覚えた。

「おまえ、眉毛片方無いぞ」

 桜子は優しく微笑んで右眉のあるべき場所を撫でた。

「いいの、これで」

「そうなのか?」

「そう」

 セーラムを取り出し、灰皿を引き寄せて火を付ける桜子を眺めながら、輝は言った。

「あのさ、もしおまえ記憶喪失になったらどうする?」

 桜子は革のバッグからアナスイのミラーを取り出して右目のマスカラを確認していた。

「面白いんじゃないかしら」

「どういう意味で?」

「過去の自分が帳消しにされるって事でしょ? 私なら大歓迎だわ。改めて新しい人生を送るでしょうね」

 輝が無言で居ると、桜子は携帯電話を取り出した。

「ねえ見て、彼、凄く優しいの」

 タバコ片手に、桜子は携帯電話のディスプレイに輝の方に向けた。輝は身を起こしもしなかった。

「新しい彼氏か」

「まだ付き合ってはないの。でも時間の問題だと思うわ。彼は家族の事を気にしてるけど、大丈夫、私達ならきっと上手くやれる」

「そうかな」

「そうよ」

 桜子はソファに戻りタバコを消した。

「問題は彼女よ。彼女さえ私の邪魔をしなければ平気、今度こそ、上手くいく」

「そうなるといいな」

「そうね」

 それからしばらく、二人は雨音の響く中沈黙していた。輝はタバコを吸う為ベッドから身を起こし、桜子の向かいのクッションに座った。

「大丈夫、今度こそ、大丈夫」

 桜子が呟いた。至近距離で見ると、右眉はかなり乱暴に剃られたようで、毛穴に血が滲んでいた。アイシャドウは左と同じようにきれいに入れてあるので、酷くアンバランスだった。

「記憶が無くなったら新しい人生を謳歌するのか」

「何の話?」

「もし、記憶喪失になったら」

「そうね、私ならきっとそうするわ。今度こそ、失敗しないように」

 今度こそ? 輝は眉をひそめた。

「帰るわね」

 桜子は足音を立てずに玄関まで向かい、傘を手にとって出て行った。


 確かに一理ある、と輝はまたベッドで考えた。

 これまでの人生が何だというんだ。記憶が無いのは恐怖だが、桜子の言うように、新しい人生を歩むことは出来るはずだ。

 とりあえずは職探しだ。一昨日コンビニエンスストアで預金残高を確認したが、一ヶ月ほどは食べていけるだけの額があった。その間にバイトなり何なりを探して、過去の事は気にせず生活を続けよう。

 輝はベッドから降りて薄いジャケットを羽織った。近所のコンビニに、就職情報誌があるはずだ。

 玄関まで行ってから、輝は何気なく踵を返し、物置部屋のドアを開けた。

 胴体は右腕と接合していた。

 訳が分からない。これは一体何だ。

 その時また、インターホンが鳴った。

 桜子か? 忘れ物でもしたのだろうか。

「輝! 俺や!」

 聞き覚えのない声だった。輝は玄関に向かい、覗き穴から外の様子を伺う。スーツをラフに着崩した茶色い髪の青年が笑顔で立っていた。

「どちら様、ですか?」

 ドア越しに輝が言うと、相手は大声で笑った。

「分からんのも無理ないわぁ、何年ぶりか分からへんもん。月代つきしろの徹や」

 月代。母方の姓だ。徹? 従兄弟の徹か?

「早よ開けてぇな、雨ごっつ降っとるけん」

 輝はドアを開けた。くりっとした眼の青年が満面の笑みで入ってきた。

「ビックリやろ? 仕事で上京したんやけど、時間が出来てな。どうせやし輝んこと驚かそ思うて来たんや」

 言いながら徹は傘を畳み濡れた髪を掻き上げた。

「どしたん? 具合悪いんか?」

 茫洋とそれを見つめていた輝に、徹が言った。

「いや、あんまりビックリしたから。だって、何年ぶりだ?」

 輝は徹を招き入れ、タオルを一枚放ってやった。徹は礼を言って髪と上着を拭いた。

「最後に会うたんはおまえが町田の家におった頃やもんな。もう七、八年か? 早いなぁ」

 徹は嬉しげに笑ったが、対して輝は困惑していた。

 確かに自分には徹という従兄弟が居る。その事実は認識していた。だが、彼とどの程度親しかったのか、彼が今何をしているのか、全く分からなくなっていた。

「そんなに驚いたんか? さっきからずっと呆けとるで、輝」

「あ、悪い。ちょっと、よく思い出せなくて」

「酷いわぁ、小さい頃からあんだけ仲良うしとったのに。灰皿あるけど、吸ってええか?」

「ああ」

 徹は銀色のシガレットケースからタバコを一本取り出し、同じく銀色のジッポで火を付けた。

「輝、今もバイト生活?」

「いや、今は求職中でね」

 キッチンに向かいながらなるべく自然にそう答える。

「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーをブラックで頼むわ。何や最近よう冷えるけん、温かいので」

 輝は自分用のミルクティーとドリップ式のコーヒーを入れて、徹の元へ運んだ。

「おおきに。しかし輝、変わってないなぁ」

 徹がマグカップを受け取り、本だらけの部屋を見渡しながら言った。

「俺が?」

「他に誰がおんねん。昔っから本読んどって、俺が引きずりださんとずっと書斎に籠もっとったやろ。覚えてへん?」

 分からない。幼少期から、自分は本が好きだったのか。

 カップ片手に沈黙する輝を見て、徹は眉間に皺を寄せた。

「輝、ほんまに大丈夫か? 何かあったんか? まずいなら俺帰るで」

「大丈夫、だよ。多分。ちょっと最近記憶がおかしいんだ。こっちこそ、思い出せなくて申し訳ない」

「思い出せんてどういう事?」

 徹はつぶらな瞳で輝を見つめた。悪意も無ければ、単純な好奇心でも無く、純粋に心配してくれているように見えた。

「そのままの意味だよ。二、三日前から自分の記憶が曖昧なんだ。自分が何者なのかすら分からなくなりそうだ」

 輝はソファの向かいに腰を下ろし、タバコを取り出した。

「自分でも分からないんだよ。名前や誕生日、出身地とかは覚えてるんだけど、この二十六年が、糸を切られたみたいにちぐはぐになってる。記憶喪失とまではいかないと思うけど、なんか、妙な感じだ」

 吐き出した煙が天井へ向かう。徹は輝の言葉を噛みしめるように頷いていた。

「よう岡山のウチに来て遊んどったのも覚えてへんのか?」

 輝は首を振った。

「さっきも言うたけど、おまえめっちゃ本好きでな、じいさんの書斎に入り浸って小難しげな本読んでばっかやったわ。俺はおまえと違うてアウトドア派じゃけん、ようおまえ引っ張って山登っとった」

 徹の話す言葉は大阪弁と岡山弁が混じっていた。確かに母方の実家は岡山にある。輝の叔母、徹の母親は大阪出身だったはずだ。

「まあ、今までの事思い出せんのは辛いやろうけど、とりあえず食ってかんといけんからな〜。その辺はどうするん?」

「貯金は少しあるから、すぐバイトを始めるつもりだよ。ああ、ここの家賃が幾らだったかも覚えてないな、後で確認して……」

「夏子叔母さんとは未だに連絡取っとらんのか」

 徹は輝の言葉を遮って、低い声でそう尋ねた。その声音に、輝は何か警戒心に近いものを感じる。夏子は輝の母親だ。母親?

 そうだ、当然だ、自分にも親は居る。

 親?

「もしかして、家族の事も忘れてもうたんか?」

 視線を泳がせ黙り込んだ輝に、徹が問う。輝は少し目を見開いて、徹の瞳を見つめた。徹がタバコの火を消す。雨音が轟音になる。

 家族?

「おまえ、なんで自分が町田の家出たかも覚えてへんの?」

 無意識に、輝の眉間に皺が寄る。危険信号だ。視点が定まらない。タバコを持つ指先が震える。動悸がする。また、何かが輝の意識を浸食する。それは文字列であり映像であり音声でありタバコの煙である。

「おい、大丈夫か?」

 気付くと徹が真横から顔を覗き込んでいた。

「病院行った方がええんちゃうか、真っ青やで」

「い、いや、大丈夫だ」

 輝はタバコの煙を思い切り吸い込んで、吐き出した。

「家の事は思い出しとないのかもしれんな、俺が悪かったわ。無理に思い出すこともないで。自分が誰か、何者か把握して、適当に食うていけりゃあそれでええやん」

 取りなすように徹が言ったが、言葉は輝の左耳から右耳へと流れていった。



 雨は深夜になってもやまなかった。あの雨音が、ベッドに横たわる輝を串刺しにするように降ってくる。

 徹は、輝の家庭事情については何も話さなかった。自分で思い出すべきだ、いつか思い出す時が来るから、と。

 輝は天井を見つめる。

 アパートの家賃を確認するのと同時に、古い契約書も探し出した。契約は八年前の三月、高校を卒業し、大学に進学する直前だった。保証人は母方の祖父になっている。何故両親ではないんだ?

 母親に言及した時の徹のあの声が忘れられなかった。あの後しばらく彼の近況を聞いたり昔話をしたが、徹はよく笑い、活発に話していた。それだけに、あの時の声音がひっかかるのだ。そして、この契約書。俺は親と揉めて家を飛び出しでもしたのだろうか?

 携帯電話の電話帳をもう一度調べたが、実家も、両親の番号も登録されていなかった。年賀状も見直した。手紙の類も調べた。だが、この部屋には町田の両親と輝を繋ぐものは何もなかった。

 しかし、だ。

 輝は目を閉じてやかましい雨音に耳を澄ませた。

 桜子や徹が言った通り、記憶が無くても生活は出来る。目下、無いのは昔の記憶だけで、現在自分が何をしたか健忘するような事はない。働くのに支障は無いだろう。

 明日は仕事を探しに行こう。そう思いながら、輝は眠りに落ちた。

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