二日目(後篇)「高坂輝、老女と会話する事。携帯電話。右肩から肘まで」

 二十分ほど歩いて、輝は目的の住所へと辿り着いた。雨は激しく降っていて、差している傘がバタバタと水音を立てていた。

 コーポ・グランドは、古くはあるものの、なかなかしっかりとした造りのマンションだった。入り口で傘の雨をはらい、郵便ボックスを眺める。304号室に『山本』と書かれていた。年賀状の住所を確認する。間違いない。

 輝は薄暗い階段を昇り、304号室を探した。三階の一番端で、一メートル先にはアパートが隣接していた。

 軽く息を漏らしてから、輝はインターホンを押した。数秒の沈黙。やがて人の気配が近寄ってくるのが分かった。

「どなた?」

 老女特有の、高いがしわがれた声が問うた。

「高坂です、高坂輝。桜坂中学でお世話になった……」

「オゥ、テル?」

 チェーンロックを外す音がして、緑色のドアが開かれた。

 顔を覗かせたのは老眼鏡をした白人の老女で、輝はその眼を見て少し驚いた。右目が茶色、左目は美しいエメラルドグリーンだった。

「久しぶりね、テル。どうしたの一体?」

 慈愛に満ちた笑みを浮かべ、キャシーは輝を室内に招いた。古びたワンルームだったが、インテリアはアンティークを中心とした、北米風のものだった。彼女らしい、と言えればいいのだろうが、輝にはその記憶は無い。

 ソファに腰を下ろし、キャシーが紅茶を煎れてくれるのを待つ。

「びっくりだわ、急に教え子が来てくれるなんて」

 キャシーの日本語はネイティブに遜色ない発音だった。昔からそうだっただろうか? 思い出せない。

「テルは昔からミルクティーが好きよね」

「そうだったんですか?」

 紅茶を運んできたキャシーに思わずそう尋ねると、彼女は不思議そうな顔をした。

「何か、今日の訪問には訳がありそうね」

「ええ、まあ」

 キャシーは窓辺のロッキングチェアに腰掛けた。

「先生に話してごらんなさい。七十過ぎた今でも、一応現役で子供に英語を教えてるのよ?」

 輝は薄く笑って、単刀直入に言った。

「中学時代の記憶が無いんです」

 ブラウンとエメラルドグリーンの瞳がぴくりと動いた。

「それって……Amnesia? 日本語では何て言うのかしら」

「いえ、記憶喪失ではありません、多分」

 輝は出された紅茶を遠慮気味に啜り、そう答えた。

「唯一思い出せたのが、先生の事だけなんです。それ以外のこと、他の教師や友人、部活はしていたのか、どんな生活を送っていたのか、学校外のことも、全く思い出せないんです」

 キャシーは目を伏せてカップを両手に握り、膝の上に置いた。

「とても失礼な話ですが、何故先生と今も年賀状のやりとりをしているかも分からないんです。他の先生や友人とは疎遠なのに……」

「それは貴方が私の秘密を知ったからよ」

 にこやかに言ってキャシーは皺だらけの顔を上げた。虹彩異色症の両目が、輝を見る。

「この眼よ。私、生まれつきこれでね、最近まではこれがコンプレックスだったわ。当時はカラーコンタクトレンズなんて便利なものは無かったし。桜坂で教えていた頃は、右目にグリーンのコンタクトを入れていたの。ブラウンよりガイジンっぽいでしょ?」

 お茶目に笑うキャシーに、輝は素直な好感を抱いた。確かに、この人になら、当時の自分も懐いたかもしれない。

「三年生の時にね、貴方は英語の授業のアシスタントをしていたのよ。ほら、教材を用意したり、私をサポートしてくれる役よ。確か貴方ともう一人居たと思うわ。ある日三人で廊下を歩いていたら、コンタクトがずれてしまってね、私、痛くてその場で取り出すしかなかったの。二人とも驚いていたわ。滅多に見られるものじゃないしね。覚えてないかしら?」

 輝はその情景を想像してみたが、失敗に終わった。そもそも桜坂中学の廊下がどんなものだったか思い出せない。だが、この眼を見れば誰だって最初は驚くだろう。

「今ではほとんど気にしてないんだけどね、あの頃は私もこれを嫌っていたのよ。だから貴方と、もう一人のアシスタントに口止めして、その代わり昼休みや放課後、よく手作りのお菓子を食べさせたわ。クッキーいる?」

「頂きます」

 キャシーは立ち上がってキッチンに向かった。少し左足を引きずっている。

「足、どうかされたんですか?」

「私も歳だもの、色んな所がイカれるわ。『イカれる』って言葉、いいわね。響きが好きよ。私は足が『イカれてる』し、貴方は記憶が『イカれてる』」

 全く嫌みのない物言いに、輝は苦笑した。確かにイカれているとしか言いようが無い状況だ。

 キャシーは今朝焼いたばかりだというチョコチップ付きのクッキーを出してくれた。遠慮無く頂くと、輝は少し、その味を懐かしく感じた。

「このクッキー、昔も俺に?」

「ええ、貴方ももう一人のアシスタント……さっきから名前が出てこないんだけど、その子もこれが大好きでね。プディングなんかよりこれがお好みだったわ。それより最後に会った時の事は覚えてないの? 成人式の後、貴方のクラス会で会ったのが最後だと思うけど」

 六年前か。成人式? クラス会? 俺は成人式に参加したか?

 眉間に皺を寄せて考え込む輝を見て、キャシーは続けた。

「いいのよ、無理に思い出そうとしなくても。それで、貴方の中学時代の話よね? 私が授業を持っていたのは貴方が二年生になってからだったけど、貴方は一年生の時から私が顧問をしてた英語部だったから、よく覚えてるわ。熱心にリーディングして、スピーキングは苦手だったけどリスニングは優秀だったわね。あとよく本を読んでたわ」

 輝は黙ってそれを聞いていた。紅茶が少しずつ冷めていく。激しい雨音が室内に響く。

「歳を取るって嫌ね、さっきからもう一人のアシスタントの子のことがどうしても思い出せないんだけど、貴方、その子と仲良かったわよ。その子は英語部ではなかったけど、よく一緒に帰っていたわね」

「今も、その生徒さんと連絡を?」

「どうだったかしら……。私ほど優秀な教師ともなるとね、教え子とのやりとりも結構な量になるのよ」

 キャシーはおどけてそう言って、戸棚の引き出しから年賀状を取り出した。確かに百枚以上はありそうな分厚さだった。肩をすくめて、今度は住所録を手に取り、ページをめくる。

「名前も忘れてしまったし、今すぐには分からないけど、分かったら連絡した方がいいかしら?」

「ええ、是非」

「じゃあ電話番号を教えてちょうだい。ケイタイでも構わないけど」

 輝は彼女に携帯電話の番号を教え、礼を述べた。

「思い出せなくてもいいから、また遊びに来なさいよ」

 部屋を辞す際、キャシーはそう言った。

「夫に死なれてからこれでも結構孤独なの。英会話レッスンは週に一回だけだしね。貴方もちょっと、今、私と同じ臭いを感じるわ」

「俺が孤独だと?」

 輝は少し驚いて聞き返した。

「貴方がそう感じてないならいいんだけど、私にはそう見えるわ」

孤独。

 確かに、昨日起きてからの現象で、何かが決定的に欠けているような感覚は覚えている。記憶が無い、自分の人生という線が途切れてしまうのはなんだか根無し草になったような気分だ。

「面白い言葉を思い出したわ」

 マンションの入り口まで見送ったくれたキャシーが唐突に言った。

「『メジャーリーグ』っていう映画、あったじゃない?」

「ああ、日本人が出てるハリウッド映画ですよね」

 すんなり答えられた自分に輝は少し呆れた。何故肝心な事は思い出せない?

「その日本人がね、『心の平和』という意味で、『Peace of Brain』という言葉を言うのよ。正しくは『Peace of Mind』、なんだけどね、でも面白いと思わない? 脳の平和」

 輝は二色の瞳を交互に見つめた。

 脳の平和。

 果たして今の輝がその状態にあるか、彼には分からなかった。



 マンションを出ると雨はあがっていたが、どんよりとした雲空が下町を覆っていた。自転車の多い西日暮里から線路沿いに日暮里駅までとぼとぼと歩く。

 英語部、俺は英語が好きだったのか。今はどうだろう?


 今?


 また、映像が見えた。今度は裸の男の胸に抱かれている視点。男は眠っているのか目を閉じていて、視線は男の睫毛に注がれていた。すぐに男は目を開け、こちらの頭を撫でてくる。言い知れぬ多幸感が溢れる。


 これは俺の記憶じゃない!


 輝は頭を振って目を見開き、曇天の空を見上げた。

 後ろから来た自転車が急ブレーキをかけ、乗っていた高校生が輝を睨んで追い越していく。

 これはなんだ? 誰かの記憶かそれとも白昼夢か?

 いずれにせよ昨日から続くこの映像が今の自分の記憶の曖昧さと関係しているのは自明だった。

 では、あの腕は?

 輝は駅前から日暮里繊維街へと歩を進めた。日暮里中央通りから、何十件もの店が布や衣服ばかりを扱う道だ。週末ということもあり、通りはファッションを勉強しているであろう学生が生地を探していたり、中年女性が安物の服を漁っていたりと、そこそこ賑わっていた。毛皮の大安売り。カーテン生地の見本市。

 革を扱う店の角を曲がり、輝は自分のアパートへと戻った。



 アパートの廊下に、桜子が座りこんでいた。泣いて目を擦ったのか、アイシャドウとマスカラが崩れている。

「入れよ」

 輝はそう言ってドアを開け、桜子を招き入れた。

 彼女がいつものようにソファに陣取っている間に、輝はそっと物置部屋の扉を開けた。腕はまだそこにあった。

「私、やっぱり間違ってた」

 桜子は例によって独り言のように呟いた。

「こんな結果になるなら、あんなことしなければ良かった」

「おまえがその時正しいと思ったんなら、後悔しても仕方ない」

「そうかしら」

「そうだよ」

 ブラックのコーヒーを差し出す。輝は自分用に紅茶を煎れた。

「でも彼女の二の舞だけはごめんだわ。これは私の問題なんだから」

「泣いたのか?」

「少しね。でも私の涙に価値なんてないもの。そうでしょ?」

「そうかな」

「そうよ」

 桜子はタバコを取り出し火を付けた。リップグロスがフィルターに付着して、異様な輝きを見せる。

「貴方、今日も変ね」

 輝に見向きもしないまま、桜子が言った。

「昨日からおかしいんだ」

「ふうん。大変ね」

 それから二十分ほど、二人は黙ってタバコを吸っていた。雨がまた強くなってきたのか、木造アパートの天井に重い雨音が響き始めた。

「帰るわね。コーヒー、ありがとう」

「おまえが礼を言うなんて珍しいな」

「そうかしら」

「そうさ」

 玄関まで見送り、桜子が薄いピンク色の傘を忘れないように注意して、輝はドアを閉めた。


 一人になった輝は、自分に降りかかっている現象について改めて考えを巡らせてみた。

 発端はあの映像、ブランコに乗っている視点だ。あの公園には見覚えがあった。

 そして腕。

 お次は裸の女だ。あの嫌悪感は何だ? 続いて同じく裸の男。

 あれは絶対に自分の記憶ではない。では、誰の?

 自分の記憶を侵蝕していく『誰かの』記憶に、輝は少なからず恐怖を覚えた。

 記憶。記憶の糸。それが、何者かによってブツ切りにされている。

 キャシーの事を思い出し、輝は携帯電話を取り出した。電話帳を見れば何か思い出すかもしれない、と思い立ったが、何故今までそれを思いつかなかったのか疑問に思った。

 輝の電話帳はグループ分けなどがされておらず、ひたすら人名と番号、メールアドレスの羅列だった。人数は三十二名。

 高校・大学時代からの友人は分かった。しかし残りの十名近くは、一体どういった関係なのか、友人なのか何なのか、分からなかった。

 それから受信及び送信メールを少し読んでみたが、こちらもよく理解できなかった。

 豪雨は夜中まで続いた。

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