二日目(前篇)「高坂輝、老女と会話する事。携帯電話。右肩から肘まで」

 やはりそれは夢ではなかった。

 今度は裸の女性が、彼女の部屋らしき場所でこちらに迫ってくる映像だった。輝はそれに嫌悪感を感じた。えらく息苦しかった。嫌悪嫌悪嫌悪。女の豊満な乳房はとても醜悪に思えた。

 違う、これは俺の記憶じゃない。

 目を開くと涙が溢れていて、涙は真下に流れて耳に貯まっていた。

 がしがしと目元を擦ってから寝返りを打つと、ベッド脇に異物が見えた。輝は目を疑った。

 腕だ。

 右腕、今度は右肩から肘までが、そこにあった。

 輝はベッドに腰掛けたままそれを拾い上げた。見た目より重かった。二の腕にはしなやかな筋肉がついており、色白だが不健康ではなかった。

 何なんだこれは。

 自分に突如降りかかった現象を理解できずに、それでも冷静さを保とうと、輝は洗面所に向かった。

 彼の歯磨きは念入りで、また気分転換としても活用している。適量の歯磨き粉を歯ブラシに付け、歯茎に対して四十五度の角度で磨く。歯医者でそう教わったからだ。磨く順序も決まっている。上の前歯、左右、下の前歯、左右、上の裏側、下の裏側、特に奥歯は念入りに。

 口をゆすぎ、少しすっきりした所で、輝はキッチンに向かおうとした。

 そして気付いた。

 ベッド脇の腕が、先ほどと違う。

 足早にベッドに向かう。それを見て、輝は息を飲んだ。

 腕は、右肩から指先まで、完全に接合していた。

 輝は昨日投げた腕、肘から先を探した。物置部屋の前に投げたはずだったが見当たらなかった。それから、見事な片腕となったそれを精察した。肘から先は昨日見たものと同じように細い毛と、指の産毛があった。昨日のあれだろうか。

 もう、訳が分からない。

 輝は結構な重さになった片腕を、物置部屋に放り、乱暴にドアを閉めた。



 食卓の上に、昨夜書いたメモがあった。


『高坂輝、二十六歳。大学を出てからバイト生活、現在無職』


 それを忘れていない自分に安堵し、輝は朝食作りを開始した。夜買い出しに行ったのでしばらく食料には困らない。簡単な野菜炒めと味噌汁を作り、昨日の晩炊いておいた米を茶碗に盛る。

 食べながら、今日一日どう過ごそうかと考えた。

 この奇妙な現象を何とか解決する方法はないか。

 そこで、もう一度自分の生い立ちを思い返してみた。

 東京都町田市に生まれ、地元の幼稚園・小学校に通い、教育熱心な両親の元で中学受験をして、私立の中学校に入学……。

 中学?

 回想はそこで止まってしまった。

 いや、高校は?

 そうだ、高校は中学と同じ私立校に通った。成績は悪くなく、図書館に入り浸っていた。待て、本を読むようになったのはいつからだ? 高校一年の時にカミュの「異邦人」を読んで衝撃を受けたのは覚えている。だがそれまでもかなり読んでいたはずだ。だからこそ「異邦人」が新鮮で衝撃だったのだから。

 中学、中学校、中学生の自分。

 瞬間、裸体の女が輝の視界を覆った。乳房も、引き締まったウエストも、豊かな陰毛も尻も、全て醜かった。いや、恐怖だった。吐き気がする。これは何だ? 何故俺の邪魔をする?

 呼吸を荒げながら輝はこぼした味噌汁を布巾で拭き取った。シンクにそれを持って行き、水洗いする。

 布巾を絞って水を止めようとすると、また脳裏に映像が浮かんだ。

 揺れる視界が、教室内から窓の外を眺めている。グラウンドでは他のクラスがサッカーをしていた。見学者の男子が一人、所在なさげに隅っこに座っている。あれは、俺か? 

 視界は忙しなくうつろい、黒板の英単語も前の席の女子の髪の毛も一瞬しか映らない。ようやく教壇に視点が落ち着いた。立っていたのは中年の外国人女性だった。

 キャシー先生。

 弾かれるように輝は思い出した。水道の蛇口をひねり、水を止める。


 輝はデスクの引き出しを開き、昨年の年賀状の束を取り出した。

 学生時代の友人や親戚、その数は二十枚にも満たなかったので、目的の一枚はすぐに見つかった。

 キャシー・ヤマモト。

 輝の中学で英語を教えていた教師だ。住所を確認する。荒川区西日暮里。徒歩で行ける距離だ。こんなに近くに住んでいたのか。表を見ると、きれいな平仮名で、

『ちかくにすんでいるから、こんどあいましょう』

 と書かれていた。

 キャシーの事は思い出せたが、やはり具体的に自分がどういった中学生活を送っていたかは思い出せない。自分がどんな生徒だったか。部活動は? どんな友人が居た? 学外ではどうだった? 何を思って生活していた? 

 幾ら考えても想起されるのは女の裸体ばかりで輝は辟易してしまった。

 そもそもキャシー・ヤマモトは担任だったか? いや、どこの学校にも居る外国人英語教師で、授業数も多かったとは思えない。ならば何故、卒業して十年以上経つのに年賀状のやりとりをしている? 

 輝は試しに他の年賀状も見てみた。教師の類は大学時代のゼミ講師のみで、小中高いずれも他の教師からの年賀状は無かった。

 彼女なら知っている。自分の中学時代のことを。そして、何故今も連絡を取り合っているかも。

 雨は降り続けている。

 素早くシャワーを浴びて身支度をし、輝は年賀状片手に玄関に向かった。傘を手にとってから、輝は靴を脱ぎもう一度物置部屋を覗いた。

 右腕は、まだそこにあった。



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